宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

「僕は苦しかった」

 その瞬間、儀礼殿の空気が揺れた。

「あなたに愛されるのが怖かった。抱きしめられるたびに息が詰まって、名前を呼ばれるたびに逃げ出したくなった」

 篠乃の影が震える。それでも宵は目を逸らさない。

「でも、あなたを嫌いにはなれなかった」

 掠れた声だった。

「あなたが愛されたかったことも、ひとりで泣いていたことも、なかったことにはできない」

 黒い糸がほどけていく。まるで長い冬が終わるように。長い呪いが役目を終えるように。
 宵は静かに息を吸った。

「母上。あなたの名を、あなたに返します」

 簪が白く輝く。
 篠乃は涙を流していた。その涙は悲しみではなく、ようやく名前を呼ばれた人の涙に見えた。
 ありがとう、と――微笑んでいた気がした。

 次の瞬間、金色の簪へ大きな亀裂が走る。
 男の悲鳴が響き渡り、儀礼殿そのものが大きく震えた。
 けれど透子は気づいてしまう。簪が砕けてもなお、その奥に残っているものがあることを。

 それは花嫁たちの悲しみではなかった。誰かを所有しようとする意思。誰かの名前を奪い、自分のものにしようとする欲望。長い年月をかけて育った生きた悪意だった。

 男は筆を握り直す。

「名を返すなど愚かなことを。婚姻は家のもの。女の名など、家に従属してこそ意味がある」

 透子の隣で、宵の気配が静かに冷えていく。

「その腐った考え、まだ喋るの?」

 吐き捨てるような声音だった。
 男が透子へ向かって駆け出す。
 最後の札へ透子の名を書き込もうとしているのだと気づいた時には、宵が前へ出ていた。
 透子を背に庇うように立つその背中は頼もしかった。

 けれど同時に危うかった。穢れはすでに胸元まで達し、呼吸は明らかに乱れている。

「宵様!」
「下がって」
「嫌です」
「透子」
「わたしも一緒に」

 透子は宵の隣へ並んだ。
 宵は苦しそうに眉を寄せる。けれど、もう離れろとは言わなかった。

 透子はそっと、宵の右手を握る。

「宵様は、ひとりではありません」

 ころりと、宵の瞳が揺れる。

「私がいます」

 迫り来る黒い影を見据えながら告げると、宵は諦めたように笑った。
 そして透子の手を握り返す。

「本当に、君は困る。――でも」

 雨に濡れた横顔が微かに緩む。

「もう、困るだけじゃ足りない」

 その瞬間、二人の足元から白い光が広がった。

 透子の名前を呼ぶ宵の声と、宵の名前を呼ぶ透子の声が重なる。
 互いの名を呼び合うその響きは、儀礼殿を満たしていた怨嗟の声とはまるで違っていた。

 名を奪うための言葉ではない。縛るための言葉でもない。その人がその人として在ることを認めるための呼び声だった。

 雨音の向こうで鈴が鳴る。
 ちりん、と。
 その音へ応えるように、二人の足元から広がった白い光が床一面を駆け抜けていく。

 すると宙を漂っていた無数の名前が淡い光を帯び始めた。
 忘れられたはずの名。呼ばれなくなった名。誰にも届かないまま置き去りにされていた名が、ひとつ、またひとつと夜空の星のように輝き出す。

 透子には分かった。
 花嫁たちはずっと待っていたのだ。誰かの家へ嫁ぐためではなく、誰かのものになるためでもなく。

 ただ、自分の名前を呼んでもらうことを。その願いがようやく届いたのだと知った瞬間、簪の奥から眩い光が溢れ出した。

「――縛りを断て」
「――名を返して」

 砕け散った簪の向こうで鈴が鳴る。
 ちりん、と。
 今度の音は悲鳴ではなかった。
 長いあいだ閉じ込められていた誰かが、ようやく自由に息を吐いたような音だった。

 光が儀礼殿を満たしていく。
 花嫁たちの影は微笑むように消えていき、その声だけが風に溶ける。
 ありがとう。
 そんな声が聞こえた気がした。
 そして長い呪いは、ようやく終わりを迎えた。