――名を返して。
――私を呼んで。
――愛されたかった。
宵は透子の肩を抱いたまま、静かに視線を上げる。
「透子」
透子は簪を見た。
怖い。けれど、もう一人ではない。
「聞こえます」
透子は涙を拭った。
「花嫁たちの名前が」
「僕が繋ぎを断つ。君は名を呼んで」
「はい」
透子は金色の簪へ向き直った。
無数の名が、耳の奥に流れ込んでくる。古い名、忘れられた名、誰にも呼ばれなくなった名。透子はひとつずつ、声に出した。
透子が名前を呼ぶたび、白無垢の影は光へ溶けていった。
長いあいだ儀礼殿を満たしていた泣き声も、絡まり合った糸がほどけるように静まっていく。
宵は印を結び続けながら、簪へ絡みつく黒い糸を断っていた。
左腕はすでに穢れに侵されている。黒は袖の奥から肩口へと広がり、その痛みは透子の想像を超えるものなのだろう。
それでも宵は止まらなかった。透子もまた足を止めることなく、ひとつひとつの名前を丁寧に呼び続ける。
彼女たちは花嫁である前に、一人の人間だった。誰かの娘として生まれ、誰かと笑い合い、愛されたいと願いながら生きていた人たちだった。
だから透子は呼ぶ。
忘れられた名前、置き去りにされた名前を、本来あるべき場所へ返すために。
やがて最後の名前が透子の耳へ届いた。
その瞬間、隣に立つ宵の指先が震えた気がした。
透子はゆっくりと顔を上げる。
宵の横顔は驚くほど白く、今にも倒れてしまいそうに見える。
けれど、その眼差しだけは揺らいでいなかった。
「宵様」
呼びかけると、宵は小さく頷き、そして目を閉じた。
儀礼殿を満たしていた声が遠ざかり、雨音だけが静かに響く。その沈黙の中で、宵はゆっくりと瞼を開いた。
「母上の名は、僕が呼ぶ」
簪の奥で光が揺れる。その光の中から現れたのは、透子が肖像で見たことのある女性だった。
若い日の篠乃が、そこに立っている。
泣いていた。けれど恨んでいるわけではなさそうだ。怒りでも憎しみでもなく、長いあいだ誰にも届かなかった寂しさだけを抱えながら、静かにそこへ佇んでいた。
宵は一歩前へ進む。
「母上」
呼びかける声は震えていた。
「──南雲篠乃」
影が顔を上げる。その眼差しは真っ直ぐに息子を見つめていた。
宵は唇を噛み締める。長いあいだ胸の奥へ押し込めてきたものを吐き出すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
――私を呼んで。
――愛されたかった。
宵は透子の肩を抱いたまま、静かに視線を上げる。
「透子」
透子は簪を見た。
怖い。けれど、もう一人ではない。
「聞こえます」
透子は涙を拭った。
「花嫁たちの名前が」
「僕が繋ぎを断つ。君は名を呼んで」
「はい」
透子は金色の簪へ向き直った。
無数の名が、耳の奥に流れ込んでくる。古い名、忘れられた名、誰にも呼ばれなくなった名。透子はひとつずつ、声に出した。
透子が名前を呼ぶたび、白無垢の影は光へ溶けていった。
長いあいだ儀礼殿を満たしていた泣き声も、絡まり合った糸がほどけるように静まっていく。
宵は印を結び続けながら、簪へ絡みつく黒い糸を断っていた。
左腕はすでに穢れに侵されている。黒は袖の奥から肩口へと広がり、その痛みは透子の想像を超えるものなのだろう。
それでも宵は止まらなかった。透子もまた足を止めることなく、ひとつひとつの名前を丁寧に呼び続ける。
彼女たちは花嫁である前に、一人の人間だった。誰かの娘として生まれ、誰かと笑い合い、愛されたいと願いながら生きていた人たちだった。
だから透子は呼ぶ。
忘れられた名前、置き去りにされた名前を、本来あるべき場所へ返すために。
やがて最後の名前が透子の耳へ届いた。
その瞬間、隣に立つ宵の指先が震えた気がした。
透子はゆっくりと顔を上げる。
宵の横顔は驚くほど白く、今にも倒れてしまいそうに見える。
けれど、その眼差しだけは揺らいでいなかった。
「宵様」
呼びかけると、宵は小さく頷き、そして目を閉じた。
儀礼殿を満たしていた声が遠ざかり、雨音だけが静かに響く。その沈黙の中で、宵はゆっくりと瞼を開いた。
「母上の名は、僕が呼ぶ」
簪の奥で光が揺れる。その光の中から現れたのは、透子が肖像で見たことのある女性だった。
若い日の篠乃が、そこに立っている。
泣いていた。けれど恨んでいるわけではなさそうだ。怒りでも憎しみでもなく、長いあいだ誰にも届かなかった寂しさだけを抱えながら、静かにそこへ佇んでいた。
宵は一歩前へ進む。
「母上」
呼びかける声は震えていた。
「──南雲篠乃」
影が顔を上げる。その眼差しは真っ直ぐに息子を見つめていた。
宵は唇を噛み締める。長いあいだ胸の奥へ押し込めてきたものを吐き出すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


