宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 宵は透子の元へ踏み込んだ。
 黒い糸が幾重にも行く手を阻むたび、刀がそれを断ち、片手で結ばれた印が残滓を縛り上げる。左腕はすでに黒く染まりきり、穢れは胸元へまで達していた。それでも、彼は一度も足を止めなかった。
 透子を縛る糸の中心に手を伸ばしてくる。

「透子」
「はい」
「僕の名前を呼んで」

 透子は息を呑んだ。
 痛い時や、苦しい時に呼んでもいいかと尋ねた夜のことを思い出す。宵は、勝手にすればと言った。拒まなかった。
 だから透子は、ありったけの力でその名を呼んだ。

「宵様!」

 その瞬間、宵の足元に白い光が広がった。
 宵の封じ札が床一面に花のように開き、黒い糸が悲鳴を上げる。宵は左腕を犠牲にするように糸を掴み、透子を縛る中心へ手を伸ばした。

「南雲の名において命じる」

 声が、儀礼殿に響く。

「縛られた名を、あるべき場所へ返せ」

 黒い糸が裂け、透子の腕が自由になる。
 宵がさらに一歩踏み込み、透子の手を掴んだ。
 今度は、離れなかった。

「捕まえた」

 掠れた声だった。
 宵は透子を抱き寄せる。息が乱れていた。濡れた軍服から雨の匂いがして、冷たいはずなのに、その腕の中だけは熱かった。

「……もう嫌だ」

 宵の額が、透子の肩へ落ちる。

「またいなくなるの」

 透子は動けなかった。

「心臓が止まるかと思った」

 その声があまりに幼く、あまりに必死で、透子の胸は痛いほど熱くなる。

「宵様」
「うん」
「でも、もう手放せない」

 掠れたその声は、雨音に紛れそうなほど小さかった。
 けれど透子には、はっきりと聞こえた。宵の腕に包まれながら、透子はそっと目を閉じる。

 遠回りばかりだった。好きになってはいけないと言われて、離婚すると脅されて、そのたびに傷ついて、それでも諦めきれなかった。
 ようやく辿り着いた答えが、今ここにある。

 胸の奥を満たしていた不安がほどけていく。
 雨の冷たさも、戦いの緊張も忘れてしまいそうなほど、宵の腕の温もりだけが確かだった。

 その時だった。
 どこからともなく、鈴の音が響く。
 ちりん、と。
 透き通るような音色に導かれるように、透子は顔を上げた。

 儀礼殿の中央。黒い糸に囚われていた金色の簪が、淡い光を宿している。
 まるで長い眠りから目を覚ますように。あるいは、ずっと待ち続けていたものを見つけたかのように。

 簪は静かに輝きを増していった。
 そして次の瞬間、金色の光が儀礼殿いっぱいに広がり、無数の花嫁たちの声が渦を巻くように響き渡った。