宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 ほんの刹那だった。けれど男は見逃さない。黒い糸が蛇のように伸び、宵の胸元へ絡みつく。

「旦那様!」

 叫んだ声は、自分でも驚くほど切迫していた。
 透子には宵が何を恐れているのか、分かっていた。
 愛してしまえば失うかもしれないことを。誰かを大切に思うほど、その人を傷つけるのではないかと怯えていることを。
 そばにいてほしいという願いさえ、いつか呪いへ変わるのではないかと疑い続けていることを。

 ──それでも。

「……救えるかじゃない」

 低い声が雨音を裂いた。
 宵は絡みついた黒い糸を左手で掴む。穢れは容赦なくその身へ食い込み、透子の目にも分かるほど黒い侵食が広がっていく。

 それなのに宵は眉ひとつ動かさなかった。
 まっすぐに透子を見ている。まるで他の何も目に入っていないかのように。

「僕が、救いたい」

 その言葉とともに、軍刀が振り下ろされた。
 黒い糸が断ち切られ、儀礼殿の空気が震える。
 宵はその勢いのまま男の懐へ踏み込み、逃げ場を与えない距離で刃を突きつけた。

「返せよ」

 掠れた声だった。けれど、その声音に宿る執着の深さに透子は息を呑む。

「やっと見つけたんだ。やっと、名前を呼べるようになったのに」

 男が何かを言い返そうと口を開く。

「花嫁など、所詮は器――」
「黙れ」

 刃が閃く。影の首筋が裂け、黒い煙が噴き出した。

「次に透子を器呼ばわりしたら、舌から斬る」

 宵は表情ひとつ変えなかった。
 怒鳴るわけでもない。感情を露わにするわけでもない。それなのに、透子には分かった。
 今の宵は誰より怒っている。

「まあ、お前に舌があるならの話だけど」

 男の顔が初めて引きつった。
 宵は軍刀を下ろさない。雨音の中で、その横顔だけが異様なほど静かだった。

「透子は僕のものだ」

 胸が大きく鳴った。
 しかし宵はすぐに目を伏せる。何かを言い直すように、小さく息を吐いてから首を振った。

「……違うな。透子は、透子のものだ」

 その声には迷いがなかった。
 透子を守ろうとする意思と、透子自身を尊重する意思が、どちらも同じだけ込められている。

 だから透子は目を離せなかった。
 宵は男を見据えたまま、冷え切った声で言う。

「だから、お前みたいな怨霊に渡す気はない」