宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 透子はその場から動けなかった。

 怖い。確かに怖い人だ。噂はすべて嘘ではないのだろう。人を追い詰めることに、少しのためらいもないように見えた。

 そのはずなのに。

 彼が振り返った瞬間、透子は別のものを見てしまった。

 宵の左手が微かに震えている。白い手袋の指先に、黒い染みのようなものが滲んでいる。

 あれは――穢れだろうか。
 宵はそれを隠すように手を握り、昼間のように笑った。

「覗き見なんて悪趣味なことをする子だったんだ」

 透子は慌てて頭を下げる。

「申し訳ありません」
「夜に歩き回るなって言ったよね」
「部屋から出るつもりはなかったのですが」
「出てるよ」

 宵はゆっくりとした足取りで近づいてきた。
 月のない夜の廊下で、彼の顔だけが妙に白く浮かんでいる。

「花嫁さんは、聞き分けが悪い子だったんだね」
「すみません」
「謝られるの嫌いだって、聞いてたよね?」
「聞いていました」
「じゃあ別のこと言って」

 透子は困った末に、宵の左手を見た。
 白い手袋の下で、黒い色がじわじわと広がっている。痛みの色も、孤独の色も、昼間よりずっと濃い。
 見てはいけないものだと分かってはいても、目を逸らすことはできなかった。

「……痛く、ないのですか」

 宵の表情が止まった。
 ほんの一瞬だった。けれど確かに、何かが揺れた。

「何が?」
「手です。震えています」
「さあ。寒いんじゃない」
「今はそれほど寒くありません」
「君、意外としつこいね」

 宵は笑った。けれど、その瞬間だけ視線がわずかに揺れる。まるで触れられたくない場所へ、うっかり手を伸ばされたみたいに。

「花嫁さん。君は知らないふりをするのが下手だ」
「……申し訳ありません」
「また謝った」

 透子が口を押さえると、宵は小さく息を吐いた。それは笑ったようにも、溜め息のようにも聞こえた。

「今夜は見逃してあげるから、今すぐ部屋に戻って」
「その前に、旦那様の手当てを……」
「必要ないよ」

 ですが、と透子がなおも言い募ろうとした、その時だった。

 宵が一歩踏み出す。
 あっと思った時にはもう、互いの息がかかりそうなほど近くに宵の顔があった。

 透子は思わず息を呑む。

 月明かりの届かない廊下の中で、宵の顔だけが白く浮かび上がって見えた。長い睫毛も、夜を溶かしたような黒髪も、整いすぎた顔も、こんな距離では嫌でも目に入ってしまう。