宵の花嫁ー帝都婚姻録ー

 その日、透子は家族の誰からも名前を呼ばれなかった。

「支度は済んだのか」

 父はそう言った。

「南雲家に失礼のないようにね」

 母はそう言った。

「余計なことは言わないほうがいいわ。あなた、黙っていれば問題ないもの」

 姉の彩子は、鏡越しに穏やかに微笑んだ。

 誰も、透子とは呼ばない。けれど、それは今日に始まったことではない。だから透子も、いつものように小さく頷いた。

 娘が嫁ぐ日だというのに、屋敷の中は驚くほど静かだった。
 祝福の言葉も惜しむ声も、涙すらもない。何百年と続く名家らしく、何一つ乱れることなくすべてが整っている。まるで、古くなった調度品をひとつ、ようやく別の家へ運び出すような空気だ。

 透子はそれを責めるつもりはない。自分がこの家で、さほど大切なものではなかったことくらい、ずっと前から知っていた。

 帝がおわす朝廷に仕える家の娘は、家のために役立つことを求められる。美しく、賢く、社交に長け、家と家を結ぶ。父や兄弟の妨げにならず、時には政の駒として静かに差し出されることもある。

 姉の彩子は、それができる人だった。美しく、華やかで、誰からも自然に愛される。
 透子にはそれができなかった。不器量なわけではない。愚かなわけでもない。ただ、いつも少しだけ足りなかった。
 華やかさも、機転も、誰かの心を明るくする力も。
 透子にあるのは、人の胸の奥に沈む孤独の色が見えるという、何の役にも立たない感覚だけだ。

 そんなものは、朝廷では能力とは呼ばれない。何も言わず、邪魔をせず、静かに座っている。そうしているうちに、透子はこの家で少しずつ透明になっていった。

「本当に平気?」

 彩子がふいに尋ねた。その声はやさしかった。やさしくて、どこまでも他人事のようだった。
 透子は一瞬だけ答えに迷い、それから微笑んだ。

「大丈夫です」
「そう。あなたは強いものね」

 強いのではない。ただ、弱いと言える相手がいなかっただけだ。けれど、その言葉も透子は飲み込んだ。
 言ったところで、きっと彩子は困った顔をする。父も母も、何を今さらという目をするだろう。

 ――だって貴女、何も言わないじゃない。
 いつか彩子が言った言葉を、透子は今でも覚えている。
 その通りだった。透子の元婚約者だった男が、彩子と婚約することになった時も、透子は何も言わなかった。

 元婚約者は悪い人ではなかった。軍府に勤める久世家の嫡男で、誰が見ても立派な青年だった。背が高く、爽やかで、まっすぐで、絵に描いたような好青年だ。けれど彼もまた、透子を見なかった。

 ――君なら平気だろう。
 婚約が解消される日、彼は申し訳なさそうにそう言った。
 ――透子は、昔から聞き分けがいいから。
 その時も透子は頷いた。何も言わなかった。だからきっと、彼らは本当に信じているのだ。

 透子は平気なのだと。傷つかず、怒らず、悲しまず、ただ静かに受け入れる娘なのだと。

「では、行って参ります」

 透子は家族に一礼し、屋敷を出た。