何歩か歩き、航琉くんは口を開いた。
「また、マロちゃんの話になりますが、いいですか。僕はマロちゃんを家族だと思っていますが、彼女は犬です。意味のわからない話になるかもしれません」
〈構わない〉
久々に耳にした『家族』という単語に嫌悪感が走る。皮膚が強張って痺れるような不快感。俺の感覚じゃない。ヤミポンが抱いているものだ。
外に出られているのに察知してしまったのは、それ程までに強い感情なのか、それとも俺が理解しやすい感情だからなのか。
俺が気付いていることに、ヤミポンが気付いているかはわからない。肌の接触と違って、この嫌悪感は身体に反応が出てこないものだ。言葉の間合いや、輪郭の態度も全く不自然さがない。
慣れているんだ。俺が父親という単語に遭遇するときと似てる。俺の場合嫌悪感はないけど、何かが引っかかるような見たくないような気持ちで、見ないふりをする。会話では適当に流したり、適当な嘘をついたりするようになった。
可哀想に思われたら楽しい話には戻りにくい。気を遣わせて居心地が悪くなるのも嫌だった。ただ、差異を感じる。人にとっての幸せな話題が自分にとってはそうではない。
簡単に嘘をつけるようになった。本心を出す方法がわからなくなる程に。
……これは俺の気持ちなのか、ヤミポンの感情を受け取って思っていることなのか、曖昧だ。
素直なほうだと、自分では思う。ある程度バレない演技も出来るけど。
話題に対する感覚なんて食べ物の好き嫌いと同じだ。誰にだってあるはずだから、特別扱いするとこも、深く考える必要もない。
だけどたまに、自分がわからなくなるときがある。
父さんへの気持ちも、引っかかって引きずっているものが何なのか、わからないままだ。
「僕らは、命の長さが違います」
航琉くんの、声が聞こえた。
静かで、穏やかな声。好きな声だ。
過去じゃなくて、ここに居たい。ここで、耳を傾けていたい。
「マロちゃんは……とても元気ですが、犬としてはもうおばあちゃんの年齢です」
土手から住宅街へ向かう坂を降りる。マロちゃんは名残惜しいのか、立ち止まって歩こうとしない。
航琉くんはマロちゃんの側で屈み、
「帰ろう。お腹が空いちゃうよ」
と、背中を撫でながら話しかけた。
たぶん、犬に人間の言葉全ては伝わらない。話しかけられた内容は、どのくらい伝わっているのだろう。
マロちゃんを撫でながら、航琉くんは話を続ける。
「……いつか、必ず別れがきます。健康に気をつけていても、病気や、犬にも加齢による物忘れがあると聞きます」
〈人間と同じだな〉
「はい」
風が、草と土の香りを運ぶ。マロちゃんは顔を上げ、目を閉じてその香りを楽んでいる様子だ。
「記憶を保てなくても、感情は残るそうです。病気で苦しい思いをするかもしれない。痛みや、体が動かなくて悲しい気持ちになるかもしれない。つらいことは、出来れば忘れて、幸せな気持ちを沢山持っていてほしい」
撫でているその体がいつか動かなくなることを、航琉くんが想像しているのがわかった。
「いつか死んでしまうときに、全部忘れていい。つらいことも、怖かったことも、トイレの場所も、僕のことも、だけど」
航琉くんの手が止まり、もっと撫でてほしいと言わんばかりにマロちゃんはゴロンと転がってお腹を見せる。
航琉くんは息を漏らし僅かに微笑んで、マロちゃんのお腹を撫でた。
「僕がマロちゃんを好きだということは、忘れないで……」
目を閉じ、形を確かめるように。いつか失い、ここに居なくなる命の形を覚えていようとするように。
「あの世があるとしたら、それだけは、持って行ってほしい。ないとして、死ぬときに全て消えてしまうとしても、好かれて幸せだと、思っていてほしい」
〈……消えるなら、与えることに意味がないとは考えないのか〉
「考えません。考えられません」
航琉くんはマロちゃんの名前を呼び、抱き上げた。
「マロちゃん」
抱きしめて、繰り返す。
文字の羅列としては個体の識別の意味しかない名前は、好き、忘れないで、幸せでいてと、気持ちが届くことを願う、祈りの言葉のようだった。
航琉くんの目から涙が流れる。綺麗だと、思った。
〈……過去に、押し付けがましい救世主野郎がいた。こちらの拡大解釈の被害妄想だ。だがあの頃はそうとしか受け取れなかった。大嫌いだった。ソイツも、ソイツを好きになったアイツのことも。キミは似てない。さっきのは八つ当たりだ。大人げないことをした〉
「大人げって……歳そんなに変わんないんじゃない?」
〈どうだかな〉
スマホに抵抗がなかったり、現代的な格好が出来たりするところを見るに、結構年齢は近いと思っている。普段から大人げないから、大人じゃないだろうし。
〈キミの言うところのトモダチとやらも、彼の言う『マロちゃん』と同じ意味なのだろう〉
『トモダチ』を皮肉っぽく強調されたけど、『家族』のような嫌悪感はなかった。
そして俺は、俺の言う友達がマロちゃんと同じ意味ではないことに、気付いてしまった。
純粋な、幸せへの祈りだけじゃない。頼ってくれれば、必要とされれば、……そうすれば側に居てくれると思った。
俺がそう思っていることくらい、ヤミポンならわかるだろう。マロちゃんと同じということにして、言わせないように、したのかもしれない。
ここに居てほしい。
そう、思っていることを。
きっと聞きたくないんだ。
言うべきじゃない。それはずっと前から、わかってる。
別れなくちゃいけない。航琉くんがマロちゃんとのいつか来る別れを受け入れているように、俺もちゃんと、ヤミポンとの別れを受け入れなきゃいけない。
「行きましょう」
「えっ!! わ、な、で、だい、どう、えっと、なんか、ダメだ塩飴しかない! 食べる……?」
航琉くんがボタボタと涙を流しながら歩き出そうとしたため、俺は焦ってしまい、しどろもどろだ。
言おうとしたり思ったりしたことを翻訳すると、『航琉くん、涙、出てる、大丈夫? って聞いたら大丈夫って言われそう、どうしよう、なんかあるかな、塩飴しか持ってない』だ。
ーー……ふっ、
空気じゃない何かが揺れた気がして、横を見る。
陽の落ちた薄暗闇の中、輪郭が、口元を押さえて震えているように見えて……
「え」
一瞬、
「今……」
笑顔が、見えた。
塩飴を受け取ろうとした航琉くんも、俺と同じ場所を見ている。
透明な輪郭は、航琉くんの視線に気付いてたじろいだ。さっきのはほんの一瞬で、今はまた輪郭しかわからない。
「そこに、居るんですね」
穏やかな微笑みを浮かべてそう言った航琉くんから逃れるように、輪郭は一歩横に移動する。航琉くんの視線はそれを追わない。もう見えていないみたいだ。
ヤミポンは航琉くんの腕の中のマロちゃんに手を伸ばし、頭を撫でる仕草をした。マロちゃんが嬉しそうにその手に擦り寄ろうとして……もしくはただ、目を細めて顔を動かしただけかもしれないけど……ヤミポンの手を透ける。
〈……さぁな〉
航琉くんへの返事としてそう告げたヤミポンは俺を振り返り、煙が空気に溶けるみたいに姿を消した。
その消え方、嫌だって知ってるくせに……。そっちがその気ならこっちだって頼まれてもないことやってやる。
航琉くんは俺の隣を見つめ続けている。よく見ればまた見えるんじゃないかと思っている顔だ。
「ヤミポン、今外にはいない。引っ込んじゃった」
俺もマロちゃんの頭を撫でてみる。マロちゃんは航琉くんの腕の中でご満悦の様子だ。
「帰りましょうか」
そんなマロちゃんのことをわかっているのだろう、航琉くんは抱っこしたままそう言った。
「うん」
俺は頷いて、振り返る。
「帰ろう」
子供の霊に、呼びかける。輪郭はやっぱりヤミポンよりも曖昧で、いまだ会話らしい会話は出来ていない。隠れるみたいに姿が全く見えないこともある。でも今はここにいる。
数秒遅れて、俺に声を掛けられたことに気付いたのか、顔を上げてこちらを見た……ように見える。そこに居る、それだけしかわからないけど、居ることをわかっていると伝えたかった。
――かえろう
言ったことをそのまま繰り返されるのは、同意だと思っていいのかな。高く、幼い子供の声だ。
手を差し伸べてみたけど、こちらには来ず離れた場所からついてくる。
声を掛けなくても、手を伸ばさなくても、その子がついてくるのは同じだったとは思う。
だからって、無意味だとは思わない。
「また、マロちゃんの話になりますが、いいですか。僕はマロちゃんを家族だと思っていますが、彼女は犬です。意味のわからない話になるかもしれません」
〈構わない〉
久々に耳にした『家族』という単語に嫌悪感が走る。皮膚が強張って痺れるような不快感。俺の感覚じゃない。ヤミポンが抱いているものだ。
外に出られているのに察知してしまったのは、それ程までに強い感情なのか、それとも俺が理解しやすい感情だからなのか。
俺が気付いていることに、ヤミポンが気付いているかはわからない。肌の接触と違って、この嫌悪感は身体に反応が出てこないものだ。言葉の間合いや、輪郭の態度も全く不自然さがない。
慣れているんだ。俺が父親という単語に遭遇するときと似てる。俺の場合嫌悪感はないけど、何かが引っかかるような見たくないような気持ちで、見ないふりをする。会話では適当に流したり、適当な嘘をついたりするようになった。
可哀想に思われたら楽しい話には戻りにくい。気を遣わせて居心地が悪くなるのも嫌だった。ただ、差異を感じる。人にとっての幸せな話題が自分にとってはそうではない。
簡単に嘘をつけるようになった。本心を出す方法がわからなくなる程に。
……これは俺の気持ちなのか、ヤミポンの感情を受け取って思っていることなのか、曖昧だ。
素直なほうだと、自分では思う。ある程度バレない演技も出来るけど。
話題に対する感覚なんて食べ物の好き嫌いと同じだ。誰にだってあるはずだから、特別扱いするとこも、深く考える必要もない。
だけどたまに、自分がわからなくなるときがある。
父さんへの気持ちも、引っかかって引きずっているものが何なのか、わからないままだ。
「僕らは、命の長さが違います」
航琉くんの、声が聞こえた。
静かで、穏やかな声。好きな声だ。
過去じゃなくて、ここに居たい。ここで、耳を傾けていたい。
「マロちゃんは……とても元気ですが、犬としてはもうおばあちゃんの年齢です」
土手から住宅街へ向かう坂を降りる。マロちゃんは名残惜しいのか、立ち止まって歩こうとしない。
航琉くんはマロちゃんの側で屈み、
「帰ろう。お腹が空いちゃうよ」
と、背中を撫でながら話しかけた。
たぶん、犬に人間の言葉全ては伝わらない。話しかけられた内容は、どのくらい伝わっているのだろう。
マロちゃんを撫でながら、航琉くんは話を続ける。
「……いつか、必ず別れがきます。健康に気をつけていても、病気や、犬にも加齢による物忘れがあると聞きます」
〈人間と同じだな〉
「はい」
風が、草と土の香りを運ぶ。マロちゃんは顔を上げ、目を閉じてその香りを楽んでいる様子だ。
「記憶を保てなくても、感情は残るそうです。病気で苦しい思いをするかもしれない。痛みや、体が動かなくて悲しい気持ちになるかもしれない。つらいことは、出来れば忘れて、幸せな気持ちを沢山持っていてほしい」
撫でているその体がいつか動かなくなることを、航琉くんが想像しているのがわかった。
「いつか死んでしまうときに、全部忘れていい。つらいことも、怖かったことも、トイレの場所も、僕のことも、だけど」
航琉くんの手が止まり、もっと撫でてほしいと言わんばかりにマロちゃんはゴロンと転がってお腹を見せる。
航琉くんは息を漏らし僅かに微笑んで、マロちゃんのお腹を撫でた。
「僕がマロちゃんを好きだということは、忘れないで……」
目を閉じ、形を確かめるように。いつか失い、ここに居なくなる命の形を覚えていようとするように。
「あの世があるとしたら、それだけは、持って行ってほしい。ないとして、死ぬときに全て消えてしまうとしても、好かれて幸せだと、思っていてほしい」
〈……消えるなら、与えることに意味がないとは考えないのか〉
「考えません。考えられません」
航琉くんはマロちゃんの名前を呼び、抱き上げた。
「マロちゃん」
抱きしめて、繰り返す。
文字の羅列としては個体の識別の意味しかない名前は、好き、忘れないで、幸せでいてと、気持ちが届くことを願う、祈りの言葉のようだった。
航琉くんの目から涙が流れる。綺麗だと、思った。
〈……過去に、押し付けがましい救世主野郎がいた。こちらの拡大解釈の被害妄想だ。だがあの頃はそうとしか受け取れなかった。大嫌いだった。ソイツも、ソイツを好きになったアイツのことも。キミは似てない。さっきのは八つ当たりだ。大人げないことをした〉
「大人げって……歳そんなに変わんないんじゃない?」
〈どうだかな〉
スマホに抵抗がなかったり、現代的な格好が出来たりするところを見るに、結構年齢は近いと思っている。普段から大人げないから、大人じゃないだろうし。
〈キミの言うところのトモダチとやらも、彼の言う『マロちゃん』と同じ意味なのだろう〉
『トモダチ』を皮肉っぽく強調されたけど、『家族』のような嫌悪感はなかった。
そして俺は、俺の言う友達がマロちゃんと同じ意味ではないことに、気付いてしまった。
純粋な、幸せへの祈りだけじゃない。頼ってくれれば、必要とされれば、……そうすれば側に居てくれると思った。
俺がそう思っていることくらい、ヤミポンならわかるだろう。マロちゃんと同じということにして、言わせないように、したのかもしれない。
ここに居てほしい。
そう、思っていることを。
きっと聞きたくないんだ。
言うべきじゃない。それはずっと前から、わかってる。
別れなくちゃいけない。航琉くんがマロちゃんとのいつか来る別れを受け入れているように、俺もちゃんと、ヤミポンとの別れを受け入れなきゃいけない。
「行きましょう」
「えっ!! わ、な、で、だい、どう、えっと、なんか、ダメだ塩飴しかない! 食べる……?」
航琉くんがボタボタと涙を流しながら歩き出そうとしたため、俺は焦ってしまい、しどろもどろだ。
言おうとしたり思ったりしたことを翻訳すると、『航琉くん、涙、出てる、大丈夫? って聞いたら大丈夫って言われそう、どうしよう、なんかあるかな、塩飴しか持ってない』だ。
ーー……ふっ、
空気じゃない何かが揺れた気がして、横を見る。
陽の落ちた薄暗闇の中、輪郭が、口元を押さえて震えているように見えて……
「え」
一瞬、
「今……」
笑顔が、見えた。
塩飴を受け取ろうとした航琉くんも、俺と同じ場所を見ている。
透明な輪郭は、航琉くんの視線に気付いてたじろいだ。さっきのはほんの一瞬で、今はまた輪郭しかわからない。
「そこに、居るんですね」
穏やかな微笑みを浮かべてそう言った航琉くんから逃れるように、輪郭は一歩横に移動する。航琉くんの視線はそれを追わない。もう見えていないみたいだ。
ヤミポンは航琉くんの腕の中のマロちゃんに手を伸ばし、頭を撫でる仕草をした。マロちゃんが嬉しそうにその手に擦り寄ろうとして……もしくはただ、目を細めて顔を動かしただけかもしれないけど……ヤミポンの手を透ける。
〈……さぁな〉
航琉くんへの返事としてそう告げたヤミポンは俺を振り返り、煙が空気に溶けるみたいに姿を消した。
その消え方、嫌だって知ってるくせに……。そっちがその気ならこっちだって頼まれてもないことやってやる。
航琉くんは俺の隣を見つめ続けている。よく見ればまた見えるんじゃないかと思っている顔だ。
「ヤミポン、今外にはいない。引っ込んじゃった」
俺もマロちゃんの頭を撫でてみる。マロちゃんは航琉くんの腕の中でご満悦の様子だ。
「帰りましょうか」
そんなマロちゃんのことをわかっているのだろう、航琉くんは抱っこしたままそう言った。
「うん」
俺は頷いて、振り返る。
「帰ろう」
子供の霊に、呼びかける。輪郭はやっぱりヤミポンよりも曖昧で、いまだ会話らしい会話は出来ていない。隠れるみたいに姿が全く見えないこともある。でも今はここにいる。
数秒遅れて、俺に声を掛けられたことに気付いたのか、顔を上げてこちらを見た……ように見える。そこに居る、それだけしかわからないけど、居ることをわかっていると伝えたかった。
――かえろう
言ったことをそのまま繰り返されるのは、同意だと思っていいのかな。高く、幼い子供の声だ。
手を差し伸べてみたけど、こちらには来ず離れた場所からついてくる。
声を掛けなくても、手を伸ばさなくても、その子がついてくるのは同じだったとは思う。
だからって、無意味だとは思わない。
