昼間から相変わらずの曇天の空だ。水墨画みたいだと感じたのは、空の絵のストラップの影響かもしれない。
一年前の春を思い出す。屋上を見上げてみるけれど、今は誰も居なさそうで安心した。
俺の体調はだいぶ回復していて、安定した足取りで音楽室へ向かう。
「音楽室には、どのような七不思議があるのでしょうか」
夜の学校はやっぱり怖さがあるのか、彼は少し緊張した声色で質問をしてきた。
「数年前、卒業式の合唱でピアノの伴奏をする予定の女子生徒がいた」
七不思議を五十以上巡っている俺は夜の学校に慣れている。我ながら緊張感のない声だ。
「不慮の事故で全身に打撲と裂傷を負い、入院……卒業式前には回復して退院は出来たけれど、完治はしておらずピアノは弾けなかった。彼女の未練は強く残り、今も生き霊がピアノの練習を続けている……人がいない時間にその音色が聞こえるそうだ」
いかにもって感じの話だ。実際にその彼女を知っているという人に会ったことはない。事実か噂か創作か。それでも何人か同じ話を知っていたから、七不思議としての現象は起こるかもしれない。
彼はそこから話題を広げることはなく、別の質問をしてきた。
「七不思議を五十も巡っているというのは本当ですか」
「ああ、そうだよ」
この前の鏡以外全部何も無かったけど。
「僕も色々な人に聞いてみたんです。五十も知っている人は居ませんでした」
「俺は何人もに教えてもらった合計数だから、多くもなる。聞いたら直近で行けそうな日に向かって、教えてくれた奴に報告したり他の奴に別の噂を知らないか聞いたりしてるんだ。面白がってる奴もいるから、噂どころかソイツ個人の創作話を吹き込まれてんのかもな。それでも行くけどさ」
「七不思議六つを巡って屋上に行くと願いが叶う、という話も先生方曰くですが、ここ数年の噂のようです。縁に立ち、願いを言って目を閉じる……飛び降りた感覚がしたら願いが叶う」
あぁ、そういう話だった。先生にも知れ渡っているのか。
「噂って広がるの速いな……」
にしても、やっぱり気まずい。状況の確認と関連事項への質疑応答だ。共通の話題ではあるけど前はもっとこう、何が好きとか、面白かった出来事とか、真面目に考えてることとか、将来的にどうなるとか、……だいたいが平成ヒーローに関することだけど……でも質問と応答だけじゃなくて、もっとお互いに自分の思っていることを話していた気がする。
なんか気まずくて上手くいかない。俺も話題を広げらないし、向こうもそうなんだろう。
音楽室の前まで来た。スマホからは何も反応がないし、俺たち二人は気まずいままだ。
「あ、の、昼間のことですが」
ポン……
ポン……ポロロ……
「しっ、音がする」
音楽室から、ピアノの音が聞こえた。
ポン、ポン、ポンッ
ぴたりと音が止み、少しして再開する。
ポン……
ポン……ポロロ……
航琉くんのほうを見ると、彼も少し驚いたような顔でこちらを見返してきた。俺の幻聴ではなさそうだ。
ポン、ポン、ポンッ
再び音が止み、また少しして再開される。
ポン……
ポン……ポロロ……
「……? やり直しをしてるんでしょうか……」
「さっきのも今のもミスだったんだろうな」
卒業式の定番ソングだ。このあたりの小中学校や高校では誰もが耳にしたことがある。
間違えては、やり直し、間違えては、やり直し、繰り返し、繰り返し……
その音の中で、微かにしゃくり上げるような声が聞こえた。
泣いている。
「あっ、トモ、……ええと」
俺は思わず音楽室に入り、ピアノの側に立った。航琉くんも追いかけてくる。
「余計なお世話かもしれないけどさ、一旦落ち着いてもう少しゆっくりやろうよ。大丈夫、きっと出来る!」
姿は見えないけど、おそらくそこに居るであろう椅子に向かって俺は話しかけた。
ポン……
ポン……ポロロ……
ポン、ポン、ポンッ
……ポン……ポン……ポロロ……
「もしかしたら手が小さくて弾きにくいとかあるかもしれないから、指番とか無視したら……って、このくらいならピアノやる人はわかるよな……」
椅子のほうから特に反応はない。ピアノの音色も変わらず、間違えては止まり、やり直しを繰り返すだけだ。啜り泣く声も続いている。
駄目、なのかな。俺の言葉が聞こえないのか、無視しているのかは分からない。前に中の人が言ったように、幽霊はただ印象に残ったことを繰り返しているだけなのかもしれない。
――なんで、
――なんで……っ
ピアノの音に混ざって、女の子の泣く声が聞こえる。
「大丈夫だって、きっと弾けるようになるから」
そう声を掛けてみるけれど、やっぱり反応はない。それでも。
「大丈夫、次はきっとできる。がんばれ」
〈……なぜ〉
「どうして、応援をしているんですか」
俺の数歩後ろに立ち、航琉くんが聞いてきた。数歩後ろ。さっきからこの距離を保っている。昼に俺が怒ったからだろうなぁ……。これ以上近づいたら嫌がられる、とか思ってそうだ。可哀想になってきた。かといって俺の方から何歩か寄ってやる気にはなれない。今はピアノを弾く霊のほうに意識を向けていたい。
「……なんでだろうな」
俺は霊が居るであろう場所を見ながら、半ば無意識で質問への答えを探していた。
「……助けたかった」
意識は遠くに飛んだり、戻ったりして過去と現在が混ざり合う感覚になる。
「助けたいんだ。時間がほしい……ほしかった」
ポン、ポン、と響く音を聞きながら、がんばれ、と祈る。
「助けるには、時間が要るんだ。助ける方法が、わからない。それを探す時間がほしかった」
啜り泣く声。目を閉じれば、意識は遠い過去に引っ張られそうになる。
「……そんなの、勝手だよな。死ぬくらい苦しい人に、そんな時間は残ってないのに。きっと時間をかけてずっと苦しんで来たのに。待ってくれ、まだ苦しんでいてくれ、なんて言うようなものだ」
目を開く。瞼の裏に描きそうになっていた炎は、ここにはない。
子供の泣く声は聞こえてくるけど、あれは俺じゃない。あれは、誰なんだろう。ずっと、痛みに泣いている。
――いたい
――いたい
――いたい
「わからないんだ。だから、時間があるなら、助けたい。だから……」
俺は自分を"今"に戻す。時々、自分がどこにいるのか、わからなくなるときがある。こういう暗くて輪郭がぼやけそうな日は、特に。
あの日は、過去だ。今はここに居る、はずだ……。ここは、どこだ……?
居る場所の風景を確かめようと振り返ってみれば、彼の姿があって、俺を真っ直ぐに見つめていた。暗闇の中でもどうしてか、それだけはわかる。
居るんだ、ここに。ちゃんと、俺は。
「だからお前は、助かってくれて、ありがとう」
航琉くんが生きていくために必要なら、中の人が俺の体を使ったほうがいいと、俺は思う。中の人なら、人を助けることが出来るんだから。
「トモ……」
雲の切れ間から、微かに月明かりが覗いた。
彼の首元で何かがキラリと光って見えた。なんだろう? なんとなく、気になる。
「それ、何?」
「これですか?」
彼は首元の細いチェーンを指で持った。新しめのネックレスのようだ。くすみなく、わずかな光を反射してキラキラと光る。
俺が頷くと彼はネックレスを外して見せてきた。ネックレスの輪は首が通るくらいには長く、着脱は簡単なようだ。
「いただいた、お守りです」
「あ……!」
俺があげた、厄除けのお守り。
鞄についてなかったから、てっきり気に入らなかったのかと思っていた。
「持ってたのか……」
「? 持っていますよ」
つい、お守りを見に近くに寄ってしまう。
――……
ピアノの音が聞こえにくくなった。啜り泣く声も、子供の声も。
「……試しにこのお守り、一旦遠くに置いてもらえないかな」
「え、なぜっ」
「お寺の入り口とか、境界を敷いてるって言うだろ。悪いものが入らないように。厄除けのお守りは作用が違うとは思うけど、なんて言ったらいいのかな、厄がオバケでお守りがオバケの阻害をしてるなら、お互いに認識がしにくくなってるんじゃねぇのかな……」
「……わかり、ました」
だいぶ嫌々な雰囲気だけど、彼はお守りを鞄に入れて一番遠くの席の上に置いた。
ポン……
ポン……ポロロ……
ポン、ポン、ポンッ
……ポン……ポン……ポロロ……
――なんで、
――なんで……っ
ピアノの音と啜り泣きが、はっきりと聞こえる。俺の声も届くかもしれない。
「あの、さ」
――なんで、
――なんで
――なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないのっ?
「え」
全身を強打したかのような痛みが襲ってきた。手や足の骨が砕け、皮膚が破ける感覚がする。
「――ッ」
痛いなんてもんじゃない、声が、出ない。
――なんで、私、頑張ったのに
――頑張って、練習してたのに
体から血が流れ出るのを感じる。不慮の事故、全身の打撲と裂傷。痛みもつらい、でも目標にしていたものが閉ざされたのは、どれ程悲しく、悔しかったか。
「お、ま、え……!」
呪詛のように唸る、怒りに満ちた声。視界の端で、お守りを手に持ったままの航琉くんが女の子に掴みかかっているのが見えた。
――キャアア、ア、アアア
掴みかかられた女の子は悲鳴を上げ、航琉くんに首を絞められ苦しんでいる。
さっき感じた全身の痛みが引き、俺は顔を上げた。
「駄目だ! 離せ!」
「でも!」
「その子を離して。やっと今、その子のことがわかりそうなんだ」
「こんな奴のことなんてどうだって」
「よくない!!!」
俺の大声に、航琉くんは困惑した様子で動きを止める。
「誰だって……その子だって、一人の人間だ。わからないなら、そこで泣いているのが俺だったらって、考えてくれ」
「……」
航琉くんは意味が良く分からないといった表情だったけれど、そっと女の子から手を離し、一歩引いて近くの机の上にお守りを置いた。
俺はピアノの椅子に向き直る。そこに女の子が居るのが見える。
「悔しい……悲しいよな、俺なんかが、勝手に憶測で語れないけど、う、ッ!」
痛みが、再び波のように襲ってきた。
ぶつかった衝撃、血が流れる、体が動かない、
痛い、痛い、痛い――!
「燈李さんっ!!!」
航琉くんが俺を庇うように目の前に立った。俺の体の痛みは少し柔らいだけど、
「うううっ!!!」
彼の体にアザが出来、服の下から血が滲み出している。
「なんで……、どけ! 危ないから!」
「大丈夫です! 大丈夫、続けて……っ」
――こんなの、意味ないのに
――今更練習したって
航琉くんが俺を庇いながら、何かを想像するように目を閉じる。
「燈李さんが、泣いていたら……助けになりたいと、思うから……! 助けて、あげて、ください……!」
頭からも血を流しながら航琉くんは目を閉じたまま、想像の先の出来事がとても辛いといった顔をしていた。
――こんなの、意味ない
――意味がないって、わかってるのに……っ
「航琉くん」
意味がないとわかっているのに。わかっていても、それでも。
――誰も、待ってなんかいないのに!
「待ってるよ、俺が、……ううん、俺達が待ってる」
君を、助けたい。
〈意味なんか、ないのに?〉
「待ってるから!!!」
――……
……ポン……
ポン……ポロロ……
ポン、ポン、ポン……ポン、ポン、ポン……
「……!」
「今……」
前奏が、滞ることなく流れ、本来歌がある箇所の伴奏へと繋がっていく。
「……」
航琉くんは目を閉じたまま、少ししてその曲の歌詞を歌い始めた。
静かで、穏やかな声。歌唱力がとても高いわけではないけれど、誠実な声色をしている。
合唱曲だ、俺も歌わないと!
俺の場合は天地がひっくり返っても歌唱力があるとは言えない歌声だけど、気にせずピアノを弾いてくれている。
曲の一番が終わり、間奏、二番が終わる頃には名残惜しさもあった。本当に微かに、気のせいかもしれないけれど、二番の途中からもう一人の歌声が混ざったように聞こえた。柔らかい中音域の男性の声だ。肉声とも合成音声ともつかないそれは、俺が歌うのをやめていればもう少ししっかりと聞くことが出来たかもしれない。でも、合唱はみんなで歌ってこそだ。やめる気にはなれなかった。
歌い終わり、後奏が終わり、ピアノの音色が止む。女の子の姿も気配も、消えている。
いつの間にか子供の泣き声もしなくなっていた。泣き声はしないけど気配はある。聞き入ってくれてたのかな。
〈『ありがとう』だってさ〉
中音域の男性の声の合成音声。航琉くんは目を開き、びっくりした顔をしている。
「えーと、ポルターガイスト」
「そうですか」
相変わらず、納得と了承が早いなぁ。
「あっ!!! 怪我! 傷! 大丈夫か!?」
俺を庇ってくれたときの。血が出ていたように思うけど。
俺は思わず航琉くんの腕に触れ、様子を確かめる。血は出てない。顔に見えていたアザも消えている。そういや俺も、痛かったはずの体が痛くない。
冷静になってみれば、さっきの航琉くんは間違ってない。俺たちは傷を負い血を流し、死ぬかもしれなかったんだ。
「さっき、ごめん。止めちゃったけど、航琉くんは間違ってない。俺が自己中だった」
「僕も自己中です。彼女が貴方だったらと思うと悲しいので、良かったと思っています」
航琉くんは自身の体を見回し、腕や手を動かしてみている。
「それに、体も大丈夫です。感覚……なのですが、タマシイ? のようなものが影響を受けて損傷してしまい、その自分のタマシイを見ていたような気がします。タマシイも影響下を抜け出て、心身共に無事のようです」
俺も、そんな感じがする。
良かった、無事だ。
「無事……、良かった……良かった〜〜……はぁ……あははっ」
俺はその場に座り込んでしまった。不安だった分の緊張が解けて、情けない笑いが込み上げる。
航琉くんはそんな俺を見つめ、屈み込んだ。座高はほぼ同じ、視線が真っ直ぐにぶつかり合う。
「貴方が好きです」
……今? 困惑と呆れが不快そうな表情として顔に出たのを自分で感じたけど、暗くて向こうにはよく見えなかったであろうことにも少し安堵してしまうくらいには、彼を傷つけたくないと思った。
「チャンスをくれませんか」
「……もう、断っただろ」
「トモ、……っ、貴方の、嫌がることはしません。誓います。しないように、します。僕には分からないことが沢山あります。沢山、学びます。だから、」
その声は小さく震えていた。かわいそう……に見えちゃうのが、俺の甘いところだよなぁ……。
俺は溜息をついた。自分に対してだ。航琉くんはその溜息に、身構えるようにピクリと体を硬直させた。
「……いいよ、名前、呼ぶくらい」
パッと顔を上げられたのを感じる。
「でも、きっと好きにはならないよ」
「それは、恋愛対象外ということですか?」
「え? えーと」
考えたこともなかった。『恋愛』がそもそも『俺の対象外』だから恋愛の対象外とか内とか、他人事だとばかり。
「燈李さんは恋愛をしない人ですか?」
「いや、遡っていけば幼稚園の頃とかは先生に恋してたんじゃねぇかな……」
「なら、即座に恋愛対象外と思われないということは、対象内ということです」
「恋をする気はないんだけど……」
「その気がなくても人生は、予測のつかないものですよ、燈李さんっ」
前向きだなぁ……。
空も見方をしているのか、曇りだったのが晴れてきている。
「あ」
航琉くんは何かを思い出したかのように一旦止まり、自分の顔をムニムニと揉み始めた。月明かりに照らされたそれは、白いお餅みたいだ。
そして俺の方を向き、柔らかな笑顔を見せる。
「ちゃんと、笑えていますか」
前に俺は航琉くんに表情を動かしたほうがいいと言ったけど、義務みたいになってるとしたら気の毒だ。
「良い笑顔だと思うよ。でも、大変だったら無理しなくていいんだよ。嘘をつかせるみたいにはなりたくない」
「嘘っ、じゃ、ないです! ただ、固いと言うのか……」
『嘘』という言葉に戸惑っているようだ。本当のことを言ってるのに! という焦りが伝わってくる。
「元々、表情筋が動きにくいんです。スポーツが不得手な人と同じような感じだと思います。必要な部分の筋肉を動かすのが苦手で、あまりやらなくて、普段やらないから、更に慣れなくなってしまって……」
「え、でも昼のとき俺の顔に爆笑してたよ」
「スポーツに慣れていない人も、楽しいと思わず動いていることってあると思います。翌日筋肉痛になります」
「ああ……なるほど」
「慣れます。慣れて表情豊かになります」
「おぅ、がんばれ」
「はいっ」
航琉くんはニコリと笑った。今は意識的に、気持ちの表現としてやっているのだろう。でも立ったり歩いたり鉛筆を持ったりを力まずに出来るようになるのと同じで、きっと顔も慣れてくれば自然に動くようになる。
慣れてない、か。人との交流とか、強い感情に慣れてない……ってことだよな。
そんなときに強く感情を震わせちゃったのが俺、もとい俺の中の人なんだろう。
頑張ってる姿を見ると、やっぱり応援したくなっちゃうよなぁ。
