荊棘―おどろ―


 ………………。

 ……ない。

 指先に触れるのは、机の内側の冷たい板だけだった。

 え。ない。そんなはずは。

 今度は顔を近づけ、引き出しの中を覗き込む。
 やっぱりない。スマホがない。

 最後にどこへ置いたのか、記憶を手繰ろうとしてもはっきりしない。時計の針は午後八時をとっくに過ぎていた。

 誰もいない教室の真ん中に、僕だけが立っている。

 開け放した扉の向こうには、廊下の闇が詰まっていた。
 そこから細い腕が伸びてくる想像をしてしまい、慌てて首を振る。

 こんな時に限って、嫌な想像力ばかりが働く。
 だがここまで来て、今さらスマホを見つけずに帰るわけにはいかない。

 思い出せ。
 最後にどこに置いた。

 頭を抱えたくなった、その時だった。

 ピリピリ、と。

 真横から音がした。

 痛いほどに心臓が跳ねる。

 なんてことだ。来た。噂は本当だったのだと、危うく思い込みかけた。
 けれど、次の瞬間、僕はその音の正体に気づく。

 着信音だ。

 窓際に並ぶロッカーの一つ。その中から、ピリピリと単調な音が鳴っている。

 そうだ。
 帰る前、ここでスマホを弄って、そのまま置き忘れた。

 よかった。これで解決だ。帰れる。

 そう思って、ロッカーの扉に手を掛けた時。

 昼間の噂の続きが、遅れて脳裏に浮かんだ。

 忘れ物を取りに戻った生徒は、暗い教室を探し回り、最後にロッカーを開けると。
 そこには、髪の長い女が──、

 蒼白の顔に笑みを浮かべた女が、生徒の腕を掴み、ロッカーの奥へと引きずり込む。

 話は、そこで終わっていた。

 状況が似すぎている。
 音だけが、扉の向こうで鳴り続けている。

 噂なんて、どうせ誰かの勘違いだ。伝言ゲームみたいに尾ひれがついた、よくある怪談に決まっている。

 そう自分に言い聞かせ、大きく息を吸う。

 スマホを取ったら、すぐ帰る。何を見ても、何も見なくても、全力で走る。

 もう迷わない。

 僕はロッカーの扉を豪快に開け放った。