――1965年 東京
日本は高度経済成長期の真っただ中にあった。
打ち合う竹刀の音が心地よく教練場に響く。
「あぁああああ!!!!」
剣道部副将の沢木慶一郎。
ここ東京栄明高校の2年だ。
筋骨隆々のわりに目元は涼しく、暑苦しい声を上げている本人とは思えないほど太刀筋に無駄がない。
不思議な男だ――と、御塚は、教練場の2階から柵ごしに剣道部活動を眺めていた。
(もう本格的に夏だな…)
そこまで汗ばむわけではないが、開け放たれた教練場の窓から運ばれる草木の香りでわかる。
「…っ危ない…!!」
年頃の男子よりも1トーン高い声が響いたとき、慶一郎は相手選手を抱き込みながら、立ち会っていた場所から滑るように転倒した。
同時に、天井から巨大なライトが根本の金具ごと落下してきた。
凄まじい轟音と、古い教練上自体が軋む音、それに見物の学生たちの騒ぐ声で、騒然となった。
「…沢木…すまない、礼を言う」
「いや、礼なら…」
沢木が2階を見上げると、声の主は既に消えていた。
「御塚はいるか」
1年の教室を尋ねると、彼はすぐに見つかった。
御塚青磁――、教練場にいた人間に聞くと、すぐに彼のこととわかった。
慶一郎のような有名な人間が教室に入ってきたのだから、1年生徒たちは緊張と羨望の面もちになるのも無理はない。
慶一郎は先月、栄明へ編入してきたばかりだ。
以前は小石川の東京立陵高校にいたが、教師を殴って系列校のこちらへ飛ばされてきた。
そんな粗暴者と噂の男だから、御塚が、否、誰であっても関わりたくないと思うのはごく自然だろう。
「…なにかご用ですか、先輩」
窓際に日本人形のように、ちょん、と収まっている御塚は、沢木とは真逆の意味で、学生には見えない。先ほどは教練場の離れた場所から目視しただけだったので、よく見えなかったが、あまりの意外な造形に沢木は一瞬言葉を失ってしまった。
「きみが御塚青磁くんか。さっきは助かったよ、ありがとう」
「…なんのことですか…」
「いや、危ないと言ってくれただろう。おかげで助かった」
「ぼくではないと思います」
「いや、きみの声だ。その特徴的な声を聞き違えるものか」
しまった、と沢木は口を覆った。
女のような…というわけではないが、少し高い御塚の声は、本人にとっては短所かもしれない。
「ぜひ礼がしたいんだ。よかったら今日、うちへ来ないか」
(…この人は、ぼくのことをよく知らないのだろうか…)
数時間後の夕方、御塚は学校から迎えの車で20分ほどの豪邸にいた。
沢木慶一郎の父は、沢木道雄。国会議員としては重鎮だ。そこまでは御塚も、校内の噂として聞いていた。
「お邪魔いたします」
迎え入れる使用人らに頭を下げ、荷物を預けると、応接間へ案内された。
「おや、お客さんか。珍しいな」
沢木道雄は意外にも小柄な佇まいだった。
「彼は御塚青磁くんです。今日、俺は彼に命を…」
「御塚? きみは、松濤の御塚家の…?」
「はい、当主は御塚隆文といいます」
沢木は、父親のこの手の目を見るのは初めてだった。
蛇や虫を見るときに近いが、少し違う、それよりももっと畏怖の色が強い。
「……帰ってくれ……」
「…父さん…?」
「早く帰ってもらいなさい。おおい! 誰か!送りの車を出してやれ!」
押し込められるように車に乗せられた御塚に、沢木はいつまでも「また明日」と声をかけていた。
御塚を送ってから沢木が荒れるのも無理はない。
父親に滅多に抗わない沢木だったが、こればかりは詰め寄った。父も、苦々しい顔をしているが、それでも、悪かったとは言わない。
「御塚はいけない。やめなさい。彼と関わるのは…」
「なにを言うのです。彼は俺の命の恩人ですよ? 彼がいなければ、俺は今ごろ大けがをしていたか死んでいたか…ともかく、来月の帝国剣道大会には出られなかった、それだけは確かでしょう」
「彼はどのようにお前を助けたのだ」
「どのようにって…教練上の天井から照明が落ちてくるのを、危ない、と叫んで教えてくれたんですよ」
「なぜそれが落ちてくると御塚にわかったのだ」
「…それは…ぐらついていたのが見えたんでしょう」
「私もあの学校の卒業生だからわかるが、教練上の照明は洋館のシャンデリアのように吊るしてあるようなものではない、根本の見えない照明が落ちてくるとわかるものか」
「……」
沢木の父は神仏の類は信じない。形だけは節目節目の祈祷など頼むが、やっておかないと気分が悪いから、程度のものだ。
そんな男が、これほど目を震わせ汗を滲ませ、沢木にはこちらのほうが余程怖かった。
「お前は千里眼を知らないのか。大正に世間を騒がせた三船千鶴子が有名だが、御塚もその類だ。御塚の方はさらに昔、平安のころに遡るとも言われている。元は関西の方の神社が重宝していたミツカという巫女が始祖だそうで、その力は時の陰陽師でも敵わないほどだったという」
「…陰陽師だの巫女だの…正気ですか」
「まじないに祈祷はもちろん、時の権力者たちがその巫女の血筋を手放せなかったのは、先読みの力、千里眼を持っていたからだ。維新後の新政府になってからは御塚の姓を名乗るようになった。新政府となってからのいくつかの重大な戦争でも、御塚の女の言葉は絶大な影響力を持っていた。しかし、彼女は先の大東亜戦争で、日本政府を裏切ったのだ」
「…その彼女というのは、御塚青磁の母ですか?」
「おそらくそうだ。私も実際に会ったことはないが、政府を裏切り、そのせいで日本が敗けたと聞いている」
「その話、世間では有名なのですか?」
「いや、政府の中でも一部の者しか知らない。お前にもここまで話すつもりはなかったが…、とにかく曰くのある者だ。もう関わってはならんぞ」
翌日、沢木は眠い目をこすりながら1年の教室へ向かった。
「御塚、昨日はすまなかったな」
「お父様に叱られるのではないですか、関わるなと」
「関わらないわけにはいかない、俺は仁義礼を重んじる男だ」
「これからの日本では流行らなさそうですね」
あはは、と笑う御塚の顔はこれまでの涼しい京芸妓のような風情とは違い、あまりに無垢な子どもだった。
「では週末、映画と食事へ行こう。昼に迎えにいくから住所を教えてくれ」
ひょんなことから沢木と交流が生まれてしまった。
昨日、今日そして週末のことを思い、御塚はころんと寝台の上で寝がえりを打つ。
沢木慶一郎をはじめて目にしたのは、ちょうどひと月前のこんな夜だった。
忘れてしまった課題を取りに、遅い時間に学校を訪れた御塚は、教練場にぼんやり明かりが灯っていることに気づき、覗いてみたのだった。
そこには見慣れない一人の青年。
おおよそ学生には見えない大柄な体躯に、精悍な顔立ち、海でも陸でもどこでも活躍できそうな軍人のような……、つい見入ってしまい、慌ててその場を離れた。
後に彼が、曰くつきの編入生だと知ることになる。
「青磁、入るぞ」
一瞬にして御塚の夢想の旅路はついえた。
訪問者は御塚の義兄、明人(あきと)である。彼は同じ高校の3年で、来年には帝国大学への進学が決まっている。勉強はできるが性格がすこぶる悪いので御塚は嫌っていた。
「兄さん、どうされましたか、こんな時間に」
「おまえの勉強を見てやろうと思ってな」
「…いえ…兄さんもお忙しいでしょうし、ぼくは…」
パン!と頬を張られ、ぐらついた体を整える前にもう一度張られた。
「お前、2年の沢木と話していたらしいな」
「……」
「ずいぶん親しげにしているから、デキているんじゃないかと噂になってたぞ」
「下品なことを言わないでください。あの人は…」
言い訳は許されず、また張られ、しまいには屈辱的な恰好で詫びることを強いられた。
こんなことは日常茶飯事なので慣れているが、なんだかこれまでの中で最も苦痛だと感じる御塚だった。
「はっ、バケモノの息子が」
週末、沢木は約束どおり迎えにきたが、案の定、明人に追い返されてしまった。
2階の自室から引き返す沢木を見下ろし、御塚はあの教練場でのことを思い出していた。
照明が落下する映像が見えた。これまでもあることだった。
しかしそれを予知してしまえば、なぜわかったのかと問い詰められる。
生みの母から禁じられていることだった。
お前は普通の子として生きるのだ、と。
(沢木のことは助けずにはいられなかった…)
特に言葉を交わしたわけでもないのに、なぜあんなに沢木のことを、そして何度か言葉を交わした今は、狂いそうなほど沢木のことを好きになってしまっている。
翌週からは明人が学校でもべったり寄り添ってくるので、沢木と会話できないまま日々が過ぎていった。
沢木が東京学生剣道大会に出場すると聞いていたので、見にいきたかったが、それすら叶わなかった。
沢木が大会で優勝を果たし、その後、剣道部主将になったと聞いたのは、夏季休暇が始まるころだった。
このころになると、沢木が他の学生と一緒に歩いているところをよく見かけるようになり、御塚は内心安堵していた。沢木が自分を気にかけていたのは、きっと、編入してきたばかりで居心地が悪かったからだろう。本来なら交わるような性質の二人ではないのだ。
ある晩、帰宅するなり明人に屈辱的な行為を強いられ、御塚はいっそ舌を噛もうかと考えていた。
明日から夏季休暇だ、これまで以上にいっそう、こういうことができるなと義兄に言われ、あまりのおぞましさに寒気がする。
義兄が部屋を出ていき、ようやく落ち着いたころ、玄関のベルが鳴った。
「…またきみか…、青磁は具合が悪くて寝ている。おそらく夏季休暇の間は外に出られないだろう」
「会わせてもらえませんか、一言、伝えたいことがあって」
「…沢木さん…?」
二階から下りてきた御塚は、たまらず沢木のもとへ駆け寄った。
「沢木さん…っ、沢木さん! お願いです、連れていって」
「バカか、お前、なにを言って」
引きはがそうとする明人に、沢木の大きな手が伸びた。
「…っだめだ…沢木さん」
咄嗟の判断だった。
明人の体は宙に浮き、まるで誰かが腹に一発入れたかのような見えない衝撃が体を襲い、その場に倒れ込んだ。
沢木は3秒ほどそれを見て、ごく、と喉を鳴らしたが、すぐに御塚の手を取り、浚うように車に乗せた。
「沢木さん…車…あの、運転…」
「大丈夫、多少の心得はある。ひとまず上野の知人宅に一泊して、明日朝から出よう」
「出るってどこへ」
「葉山だ。親父から別荘を一つもらった。いや、これはきみの功労だ。御塚のおかげで俺は事故を免れて大会に出られて、主将になった。そうしたら親父から、なにか褒章をやろうと言われていたからな。思い切って葉山の別荘を所望した」
規模の大きな話に言葉が出ない御塚だった。
それにしても、ああして、人に対して力を使ったのは初めてだった。
千里眼ですらない、物体を意のまま操る能力。
これに気づいたのは幼いころだったが、実母にもこんな能力は発現していなかったらしい。
「さっきも助けられたな。あのままじゃ、俺は傷害罪の前科持ちだった」
「前の学校では?」
「ん?…ああ、教師殴ったってやつか、あれは殴ってないぞ。腹いせにいつも生徒を殴るやつだったから、かわしてやったら自分から窓ガラス殴って大けがしたんだ。それがいつの間にか俺が殴ったことになってな、親父の体裁もあるから、仕方なく学校を変わった」
「そうだったんですね」
「…御塚、お前は…その、人の心までは読めないんだよな?」
「……?ええ、さすがにそこまでは」
翌日、電車を乗り継いで葉山の別荘に着いた。
御塚にとっては人生で最も楽しい旅路となった。
旅路だけでこれほど楽しいのに、これからこの別荘で何日か沢木と過ごせると思うと、夢のようだった。
昼は手伝いの人が近くから来てくれて、食事の世話をしてくれる。
夜の分も用意してくれるが、沢木がよく食べるので足りなくなった。
「なにか作りましょうか」
と言って出てきたものはひどく焦げた魚に、怪しげな肉が巻いてある代物だった。
「きみの能力で料理は作れないんだな」
意外と沢木は料理が上手く、あっという間に銀座の人気洋食店顔負けのビーフシチューを拵えた。
車の運転にしろ料理にしろ、沢木はなんでも器用にこなす男なのだとわかる。
ひとしきり料理を楽しみ、御塚がソファに腰掛けると、広いソファだというのに沢木は真横に座ってきた。
「なあ、きみの力は、多くの人のために使えるんじゃないのか」
狙いを定めたように沢木が語りかける。
「きみのお母さん、御塚志津子さんは、多くの人を救ってきたんだろう」
「母はぼくが7歳のときに首を括って死にました。昔は、御塚の力を利用するために周囲の人たちはなんとしても女の子を産めと、歴代の御塚の女当主に言っていたので、御塚の家はいつでも4~5人は娘がいたそうです。でも、政治に力を利用され続け、このままでは人々を助けるどころか、多くの人を死なせてしまうと母は気付いて、自分の代で呪いの血を終わらせようと思ったんです。それでも、なんの因果か一人目も二人目も女の子が生まれて、彼女たちは母によって、生まれた直後に始末されました。その後生まれたぼくを見て、母は心底、安堵したといいます」
「きみの父親はどう思っていたんだ」
「父は御塚の金目当てで入り込んできた男です。母に愛情もなにもなく、外に妾がいて、今では妾が後妻として家にいるんですよ。義兄の明人はその妾の連れ子なんです。だからぼくのことは、ていのいい玩具だと思っている、母子そろってね」
「御塚、きみ、俺の巫女になってくれないか」
「……」
「俺はいずれ、父の跡を継いで議員になる。正しい道を歩みたい。その導火となってくれないか」
「それが目的で、ぼくを…」
御塚はぴったりとくっついていた沢木の肩を避けるように身じろいだ。
「そうだ、俺がこの別荘を褒章として所望したのは、ここにきみを囲うためだ」
「…っ…!」
「なぜ俺を助けてくれた。今までずっと、力は使っていなかったんだろう」
「…それは…」
(だめだ…逃げられない…)
手を握られ、猛禽類の鋭い手爪でがっしりと握りこまれた野うさぎのように御塚は震えた。
「…許してください…あの時間…あの場所から、ずっと…いつも、あなたを見ていたんです。どうして自分の能力に、人の心を操れる力がないのだろうと、浅ましい欲望であなたを汚しました…、だから…あの日、あなたが危険な目に遭うというときに、助けなければと思ったのは、罪滅ぼしです」
「罪滅ぼしだけじゃないだろう、人間なんて身勝手なものだ。俺だってその力があれば、大切な人間を守りたい、自分の欲望のままに贔屓して、愛し尽くしたいと思うよ」
「…あの…」
「ん?」
「…沢木さん…だめ…、離れてください…」
「どうして、なにがだめだ」
「…お願い…ほんとうにぼく…」
「どうした、千里眼でもなんでも使って俺をはねのけてみせろ」
「…っ…」
「いやならそうできるだろう、さっきのきみの力なら」
きみほどの力なら。
唇の上で囁かれ、御塚ははじめて、純粋な欲望の出口を知った。
同時に、この男は「怖い政治家になる」と思った。
「沢木さん…お父さんの跡を継ぐなら、まず最初に…関西の土地を…特に、兵庫あたりを守ってください。大きな災害があっても被害が少なくて済むように」
――30年後 1995年1月
「沢木大臣! 今回の震災の被害についてですが」
「大臣は以前より関西のインフラ整備について強固なものにしなければと数々の政策を」
「沢木大臣一言お願いします!」
会見の様子は全国に中継放送された。
「私は、この国は災害に弱い国だと強い自覚を持ち、なにより優先すべきは防災と――」
後に戦後最良の名総理と謳われる沢木慶一郎が誕生するのは、しばらく先の話である。
日本は高度経済成長期の真っただ中にあった。
打ち合う竹刀の音が心地よく教練場に響く。
「あぁああああ!!!!」
剣道部副将の沢木慶一郎。
ここ東京栄明高校の2年だ。
筋骨隆々のわりに目元は涼しく、暑苦しい声を上げている本人とは思えないほど太刀筋に無駄がない。
不思議な男だ――と、御塚は、教練場の2階から柵ごしに剣道部活動を眺めていた。
(もう本格的に夏だな…)
そこまで汗ばむわけではないが、開け放たれた教練場の窓から運ばれる草木の香りでわかる。
「…っ危ない…!!」
年頃の男子よりも1トーン高い声が響いたとき、慶一郎は相手選手を抱き込みながら、立ち会っていた場所から滑るように転倒した。
同時に、天井から巨大なライトが根本の金具ごと落下してきた。
凄まじい轟音と、古い教練上自体が軋む音、それに見物の学生たちの騒ぐ声で、騒然となった。
「…沢木…すまない、礼を言う」
「いや、礼なら…」
沢木が2階を見上げると、声の主は既に消えていた。
「御塚はいるか」
1年の教室を尋ねると、彼はすぐに見つかった。
御塚青磁――、教練場にいた人間に聞くと、すぐに彼のこととわかった。
慶一郎のような有名な人間が教室に入ってきたのだから、1年生徒たちは緊張と羨望の面もちになるのも無理はない。
慶一郎は先月、栄明へ編入してきたばかりだ。
以前は小石川の東京立陵高校にいたが、教師を殴って系列校のこちらへ飛ばされてきた。
そんな粗暴者と噂の男だから、御塚が、否、誰であっても関わりたくないと思うのはごく自然だろう。
「…なにかご用ですか、先輩」
窓際に日本人形のように、ちょん、と収まっている御塚は、沢木とは真逆の意味で、学生には見えない。先ほどは教練場の離れた場所から目視しただけだったので、よく見えなかったが、あまりの意外な造形に沢木は一瞬言葉を失ってしまった。
「きみが御塚青磁くんか。さっきは助かったよ、ありがとう」
「…なんのことですか…」
「いや、危ないと言ってくれただろう。おかげで助かった」
「ぼくではないと思います」
「いや、きみの声だ。その特徴的な声を聞き違えるものか」
しまった、と沢木は口を覆った。
女のような…というわけではないが、少し高い御塚の声は、本人にとっては短所かもしれない。
「ぜひ礼がしたいんだ。よかったら今日、うちへ来ないか」
(…この人は、ぼくのことをよく知らないのだろうか…)
数時間後の夕方、御塚は学校から迎えの車で20分ほどの豪邸にいた。
沢木慶一郎の父は、沢木道雄。国会議員としては重鎮だ。そこまでは御塚も、校内の噂として聞いていた。
「お邪魔いたします」
迎え入れる使用人らに頭を下げ、荷物を預けると、応接間へ案内された。
「おや、お客さんか。珍しいな」
沢木道雄は意外にも小柄な佇まいだった。
「彼は御塚青磁くんです。今日、俺は彼に命を…」
「御塚? きみは、松濤の御塚家の…?」
「はい、当主は御塚隆文といいます」
沢木は、父親のこの手の目を見るのは初めてだった。
蛇や虫を見るときに近いが、少し違う、それよりももっと畏怖の色が強い。
「……帰ってくれ……」
「…父さん…?」
「早く帰ってもらいなさい。おおい! 誰か!送りの車を出してやれ!」
押し込められるように車に乗せられた御塚に、沢木はいつまでも「また明日」と声をかけていた。
御塚を送ってから沢木が荒れるのも無理はない。
父親に滅多に抗わない沢木だったが、こればかりは詰め寄った。父も、苦々しい顔をしているが、それでも、悪かったとは言わない。
「御塚はいけない。やめなさい。彼と関わるのは…」
「なにを言うのです。彼は俺の命の恩人ですよ? 彼がいなければ、俺は今ごろ大けがをしていたか死んでいたか…ともかく、来月の帝国剣道大会には出られなかった、それだけは確かでしょう」
「彼はどのようにお前を助けたのだ」
「どのようにって…教練上の天井から照明が落ちてくるのを、危ない、と叫んで教えてくれたんですよ」
「なぜそれが落ちてくると御塚にわかったのだ」
「…それは…ぐらついていたのが見えたんでしょう」
「私もあの学校の卒業生だからわかるが、教練上の照明は洋館のシャンデリアのように吊るしてあるようなものではない、根本の見えない照明が落ちてくるとわかるものか」
「……」
沢木の父は神仏の類は信じない。形だけは節目節目の祈祷など頼むが、やっておかないと気分が悪いから、程度のものだ。
そんな男が、これほど目を震わせ汗を滲ませ、沢木にはこちらのほうが余程怖かった。
「お前は千里眼を知らないのか。大正に世間を騒がせた三船千鶴子が有名だが、御塚もその類だ。御塚の方はさらに昔、平安のころに遡るとも言われている。元は関西の方の神社が重宝していたミツカという巫女が始祖だそうで、その力は時の陰陽師でも敵わないほどだったという」
「…陰陽師だの巫女だの…正気ですか」
「まじないに祈祷はもちろん、時の権力者たちがその巫女の血筋を手放せなかったのは、先読みの力、千里眼を持っていたからだ。維新後の新政府になってからは御塚の姓を名乗るようになった。新政府となってからのいくつかの重大な戦争でも、御塚の女の言葉は絶大な影響力を持っていた。しかし、彼女は先の大東亜戦争で、日本政府を裏切ったのだ」
「…その彼女というのは、御塚青磁の母ですか?」
「おそらくそうだ。私も実際に会ったことはないが、政府を裏切り、そのせいで日本が敗けたと聞いている」
「その話、世間では有名なのですか?」
「いや、政府の中でも一部の者しか知らない。お前にもここまで話すつもりはなかったが…、とにかく曰くのある者だ。もう関わってはならんぞ」
翌日、沢木は眠い目をこすりながら1年の教室へ向かった。
「御塚、昨日はすまなかったな」
「お父様に叱られるのではないですか、関わるなと」
「関わらないわけにはいかない、俺は仁義礼を重んじる男だ」
「これからの日本では流行らなさそうですね」
あはは、と笑う御塚の顔はこれまでの涼しい京芸妓のような風情とは違い、あまりに無垢な子どもだった。
「では週末、映画と食事へ行こう。昼に迎えにいくから住所を教えてくれ」
ひょんなことから沢木と交流が生まれてしまった。
昨日、今日そして週末のことを思い、御塚はころんと寝台の上で寝がえりを打つ。
沢木慶一郎をはじめて目にしたのは、ちょうどひと月前のこんな夜だった。
忘れてしまった課題を取りに、遅い時間に学校を訪れた御塚は、教練場にぼんやり明かりが灯っていることに気づき、覗いてみたのだった。
そこには見慣れない一人の青年。
おおよそ学生には見えない大柄な体躯に、精悍な顔立ち、海でも陸でもどこでも活躍できそうな軍人のような……、つい見入ってしまい、慌ててその場を離れた。
後に彼が、曰くつきの編入生だと知ることになる。
「青磁、入るぞ」
一瞬にして御塚の夢想の旅路はついえた。
訪問者は御塚の義兄、明人(あきと)である。彼は同じ高校の3年で、来年には帝国大学への進学が決まっている。勉強はできるが性格がすこぶる悪いので御塚は嫌っていた。
「兄さん、どうされましたか、こんな時間に」
「おまえの勉強を見てやろうと思ってな」
「…いえ…兄さんもお忙しいでしょうし、ぼくは…」
パン!と頬を張られ、ぐらついた体を整える前にもう一度張られた。
「お前、2年の沢木と話していたらしいな」
「……」
「ずいぶん親しげにしているから、デキているんじゃないかと噂になってたぞ」
「下品なことを言わないでください。あの人は…」
言い訳は許されず、また張られ、しまいには屈辱的な恰好で詫びることを強いられた。
こんなことは日常茶飯事なので慣れているが、なんだかこれまでの中で最も苦痛だと感じる御塚だった。
「はっ、バケモノの息子が」
週末、沢木は約束どおり迎えにきたが、案の定、明人に追い返されてしまった。
2階の自室から引き返す沢木を見下ろし、御塚はあの教練場でのことを思い出していた。
照明が落下する映像が見えた。これまでもあることだった。
しかしそれを予知してしまえば、なぜわかったのかと問い詰められる。
生みの母から禁じられていることだった。
お前は普通の子として生きるのだ、と。
(沢木のことは助けずにはいられなかった…)
特に言葉を交わしたわけでもないのに、なぜあんなに沢木のことを、そして何度か言葉を交わした今は、狂いそうなほど沢木のことを好きになってしまっている。
翌週からは明人が学校でもべったり寄り添ってくるので、沢木と会話できないまま日々が過ぎていった。
沢木が東京学生剣道大会に出場すると聞いていたので、見にいきたかったが、それすら叶わなかった。
沢木が大会で優勝を果たし、その後、剣道部主将になったと聞いたのは、夏季休暇が始まるころだった。
このころになると、沢木が他の学生と一緒に歩いているところをよく見かけるようになり、御塚は内心安堵していた。沢木が自分を気にかけていたのは、きっと、編入してきたばかりで居心地が悪かったからだろう。本来なら交わるような性質の二人ではないのだ。
ある晩、帰宅するなり明人に屈辱的な行為を強いられ、御塚はいっそ舌を噛もうかと考えていた。
明日から夏季休暇だ、これまで以上にいっそう、こういうことができるなと義兄に言われ、あまりのおぞましさに寒気がする。
義兄が部屋を出ていき、ようやく落ち着いたころ、玄関のベルが鳴った。
「…またきみか…、青磁は具合が悪くて寝ている。おそらく夏季休暇の間は外に出られないだろう」
「会わせてもらえませんか、一言、伝えたいことがあって」
「…沢木さん…?」
二階から下りてきた御塚は、たまらず沢木のもとへ駆け寄った。
「沢木さん…っ、沢木さん! お願いです、連れていって」
「バカか、お前、なにを言って」
引きはがそうとする明人に、沢木の大きな手が伸びた。
「…っだめだ…沢木さん」
咄嗟の判断だった。
明人の体は宙に浮き、まるで誰かが腹に一発入れたかのような見えない衝撃が体を襲い、その場に倒れ込んだ。
沢木は3秒ほどそれを見て、ごく、と喉を鳴らしたが、すぐに御塚の手を取り、浚うように車に乗せた。
「沢木さん…車…あの、運転…」
「大丈夫、多少の心得はある。ひとまず上野の知人宅に一泊して、明日朝から出よう」
「出るってどこへ」
「葉山だ。親父から別荘を一つもらった。いや、これはきみの功労だ。御塚のおかげで俺は事故を免れて大会に出られて、主将になった。そうしたら親父から、なにか褒章をやろうと言われていたからな。思い切って葉山の別荘を所望した」
規模の大きな話に言葉が出ない御塚だった。
それにしても、ああして、人に対して力を使ったのは初めてだった。
千里眼ですらない、物体を意のまま操る能力。
これに気づいたのは幼いころだったが、実母にもこんな能力は発現していなかったらしい。
「さっきも助けられたな。あのままじゃ、俺は傷害罪の前科持ちだった」
「前の学校では?」
「ん?…ああ、教師殴ったってやつか、あれは殴ってないぞ。腹いせにいつも生徒を殴るやつだったから、かわしてやったら自分から窓ガラス殴って大けがしたんだ。それがいつの間にか俺が殴ったことになってな、親父の体裁もあるから、仕方なく学校を変わった」
「そうだったんですね」
「…御塚、お前は…その、人の心までは読めないんだよな?」
「……?ええ、さすがにそこまでは」
翌日、電車を乗り継いで葉山の別荘に着いた。
御塚にとっては人生で最も楽しい旅路となった。
旅路だけでこれほど楽しいのに、これからこの別荘で何日か沢木と過ごせると思うと、夢のようだった。
昼は手伝いの人が近くから来てくれて、食事の世話をしてくれる。
夜の分も用意してくれるが、沢木がよく食べるので足りなくなった。
「なにか作りましょうか」
と言って出てきたものはひどく焦げた魚に、怪しげな肉が巻いてある代物だった。
「きみの能力で料理は作れないんだな」
意外と沢木は料理が上手く、あっという間に銀座の人気洋食店顔負けのビーフシチューを拵えた。
車の運転にしろ料理にしろ、沢木はなんでも器用にこなす男なのだとわかる。
ひとしきり料理を楽しみ、御塚がソファに腰掛けると、広いソファだというのに沢木は真横に座ってきた。
「なあ、きみの力は、多くの人のために使えるんじゃないのか」
狙いを定めたように沢木が語りかける。
「きみのお母さん、御塚志津子さんは、多くの人を救ってきたんだろう」
「母はぼくが7歳のときに首を括って死にました。昔は、御塚の力を利用するために周囲の人たちはなんとしても女の子を産めと、歴代の御塚の女当主に言っていたので、御塚の家はいつでも4~5人は娘がいたそうです。でも、政治に力を利用され続け、このままでは人々を助けるどころか、多くの人を死なせてしまうと母は気付いて、自分の代で呪いの血を終わらせようと思ったんです。それでも、なんの因果か一人目も二人目も女の子が生まれて、彼女たちは母によって、生まれた直後に始末されました。その後生まれたぼくを見て、母は心底、安堵したといいます」
「きみの父親はどう思っていたんだ」
「父は御塚の金目当てで入り込んできた男です。母に愛情もなにもなく、外に妾がいて、今では妾が後妻として家にいるんですよ。義兄の明人はその妾の連れ子なんです。だからぼくのことは、ていのいい玩具だと思っている、母子そろってね」
「御塚、きみ、俺の巫女になってくれないか」
「……」
「俺はいずれ、父の跡を継いで議員になる。正しい道を歩みたい。その導火となってくれないか」
「それが目的で、ぼくを…」
御塚はぴったりとくっついていた沢木の肩を避けるように身じろいだ。
「そうだ、俺がこの別荘を褒章として所望したのは、ここにきみを囲うためだ」
「…っ…!」
「なぜ俺を助けてくれた。今までずっと、力は使っていなかったんだろう」
「…それは…」
(だめだ…逃げられない…)
手を握られ、猛禽類の鋭い手爪でがっしりと握りこまれた野うさぎのように御塚は震えた。
「…許してください…あの時間…あの場所から、ずっと…いつも、あなたを見ていたんです。どうして自分の能力に、人の心を操れる力がないのだろうと、浅ましい欲望であなたを汚しました…、だから…あの日、あなたが危険な目に遭うというときに、助けなければと思ったのは、罪滅ぼしです」
「罪滅ぼしだけじゃないだろう、人間なんて身勝手なものだ。俺だってその力があれば、大切な人間を守りたい、自分の欲望のままに贔屓して、愛し尽くしたいと思うよ」
「…あの…」
「ん?」
「…沢木さん…だめ…、離れてください…」
「どうして、なにがだめだ」
「…お願い…ほんとうにぼく…」
「どうした、千里眼でもなんでも使って俺をはねのけてみせろ」
「…っ…」
「いやならそうできるだろう、さっきのきみの力なら」
きみほどの力なら。
唇の上で囁かれ、御塚ははじめて、純粋な欲望の出口を知った。
同時に、この男は「怖い政治家になる」と思った。
「沢木さん…お父さんの跡を継ぐなら、まず最初に…関西の土地を…特に、兵庫あたりを守ってください。大きな災害があっても被害が少なくて済むように」
――30年後 1995年1月
「沢木大臣! 今回の震災の被害についてですが」
「大臣は以前より関西のインフラ整備について強固なものにしなければと数々の政策を」
「沢木大臣一言お願いします!」
会見の様子は全国に中継放送された。
「私は、この国は災害に弱い国だと強い自覚を持ち、なにより優先すべきは防災と――」
後に戦後最良の名総理と謳われる沢木慶一郎が誕生するのは、しばらく先の話である。
