完全に当て馬ポジションの俺。何故か同室の後輩にキスされた上、どうやらここは現実じゃないらしい

「あ、碧葉! お前碧葉だろ!?」

 キスする必要はない。顔を見て甦った記憶がある。扇状に広がった睫毛を伏せ、青い炎を奥に閉じ込めたような瞳を持つ男は、たった一人だけ。

「手、どかしてください」
「なんでだよ! オレ思い出したって――」
「関係ないです。ムカついてるだけなんで」

 指を無理やり剥がされた。上からチラ見えする揃った歯先に、鼻の頭をがぶりつかれた。

「い……ってえ!?」

 嘘だろ! 何してんだコイツ!?

「おい碧葉……ッ」
「――抱き締めてみてどうでした?」
「……えっ?」
「想像してたより小さかったですか? 俺とキスする時よりドキドキしましたか?」

 カシャンと音が鳴る。逃げ場を失くすように、両脇を碧葉の腕が囲っていた。

「な、なんの話?」
「とぼけないでください。貴方がここで椿木姫華を抱きしめてたことは知ってますから」

 恨みがましい視線を投げられるが、ますます意味が分からない。何をどうしたらそんな妄想できるんだ。発想が突飛すぎるだろ。

「お前誰かと勘違いしてる? オレが椿木さんにそんなことするわけねえだろ」

 柚流は圧のある目の前の体を、ググッと押し返した。

「……? じゃあなんでそんなに暗い顔をしてたんですか?」
「暗い顔?」
「俺が来た時、うなだれてたじゃないですか。――と全く――ですよ。欲に従った結果、逃げられたんじゃないですか?」

 こんな風に……と、いつの間にか腰を這っていた手に引き寄せられる。風の入らない密室で、ぴったりとくっついた碧葉の体温がやけに高い。

「なっ、なにすんだよ……!」
「先輩、俺相手でもドキドキしてる。これ……あの女にした時よりも心臓速いんじゃないですか? 絶対今の方がドキドキしてますよね?」
「し、知らねえよ! やってもねえのに比べられるわけねえだろ! オレはただっ椿木さんの襟についてたゴミ取ろうとしただけで……だ、抱きしめるとか考えたこともなかったし!」

 いくら普段から碧葉に恋愛事情を話しているとはいえ、そこまで欲に一直線な人間だと思われてたのか。素直に心外だ。
 
「……本当にしてないんですか」

 軽く体を離した彼と目が合う。
 
「してねえ! 椿木さんが出てったのも、オレが何も考えず触ろうとしたから怖がらせちゃっただけだ!」
「……へえ」
「おい、だからもういい加減、信じてくれてもいいんじゃ――」

 柚流は揺するように背中を引っ張ろうとして、思わず目を瞠った。
 右手で顔を覆いながら、ふいっと何もない方向へ逸らす碧葉。黒髪の隙間から覗く耳たぶが赤い。まるで何かを堪えるかのように眉間にしわが寄っている。

「碧葉?」
「先輩が、やっと……。ッ、クソ……想像以上に嬉しいな」

 なにやら喜ばしいことでもあったみたいだ。悪態をつきながらも隠し切れない悦びが滲み出ていた。
 碧葉が深く息を吐く。かかった前髪の隙間から黒眼だけがこちらを向いた。

「信じますよ。先輩のこと」
「おっ、おお」
「本当はその頭の中を俺でいっぱいにしてやりたかったけど……いったん見逃してあげます。ここはあんまり時間ないんで」
 
 不穏な台詞が聞こえた。
 それに、時間がないって――そういえば、彼はたまにそう言う。まるで《時間転移》の行われるタイミングが先に分かっているかのように。
 普通なら知りえない情報だ。脈絡なく飛ぶ時間を先に把握してるなんてありえない。
 でも、碧葉が怪しいと感じないのは、どうしてだろう。
 味方だと言ってくれたから? この世界のおかしさに気づかせてくれた張本人だから?

「柚流先輩。指、怪我してますよね。俺に見せてください」

 ――あ、違う。優しいんだ。いつもオレを気にかけてくれて、オレのことをよく見てくれてるから。それもまっすぐに、余計な濁りなんて一切なく。

「早くしてください先輩」
「あっ、わりい。……てかよく気づいたな。オレが指切ってたの」

 柚流は左手を差し出す。実は椿木に駆け寄る前、ダンボールを滑り落とした拍子に小指の腹を切っていた。あの時は地震に気を取られて気にする余裕もなかったが、冷静になってみるとヒリヒリ痛い。

「分かりますよ。オレはもう――――るから」

 ……あ、今のは聞こえないんでしたっけ。碧葉は続けて言った。柚流のきょとんとした表情を見たからだった。

「お前のそれ……なんとかなんねえのかな。重要な言葉だってことは分かんのに、聞かせねえなんてズルくね」
「……まあ、俺にも一応考えてる方法ならありますよ」
「え、マジ?」

 だったらそれ早く教えてくれよ。

「そんな間抜けな顔でこっち見ないでください。今すぐどうにかしたくなるから」
「っは?」
「俺も頃合い計ってる最中なんです。心配しなくてもこの問題は対処しますよ。するなら時間ある時にしたいだけなんで」

 絆創膏をズボンのポケットから取り出した碧葉が、じっと視線を浴びせてくる。何を考えているのか分からないのに、柚流はそわそわと落ち着かなくなった。
 差し出した左手を取られ、傷のない人差し指から順に撫でられる。付け根からゆっくりと、丸っこい爪の先まで。ぞわぞわして、くすぐったい。

「っ、どんだけ触るんだよ! 絆創膏貼ってくれるんじゃねえのか!?」
「……貼りますよもちろん。今は他にも怪我してないか確認してるだけです」

 本当かよそれ。
 確かめるだけの割にはしつこい彼の指先に、柚流は居ても立ってもいられず、そっぽを向いた。やめろと言うこともできなかった。触れ方がまるで、大事な人を相手しているかのように繊細で、ムズムズと緩みそうになる口角を抑えるのに必死だった。

「――オ、オレ……椿木さんに引かれてたらどーしよ」
 
 だから気を紛らわせるための余計な言葉も出る。

「ゴミついてたからって、女の子の襟触ろうとして……、配慮のねえヤツだって思われたよな、絶対」

 柚流が椿木に惚れてる理由は至極単純だ。決して良いとは言えない家庭環境のもと、悩み苦しんでいる彼女を見ている内、自分の手で守りたいと切望するようになったから。笑ってほしいと願うようになったから。
 それにも関わらず、自ら椿木を怯えさせてしまったことを思い返してまた胸の奥が沈む。

(……でも碧葉の言う通り、オレたちと黒幕以外は偽物なんだとしたら……現実世界の本物の椿木さんはここで起きたことも知らないんだよな)

 だったらまだいいのか? ――思案する柚流の手元で、いつの間にか絆創膏が巻かれ終わっている。

「おっ、サンキュー碧葉」

 丁寧に一巻きされたそれを眺め、彼はニコッと笑った。が、すぐにその唇を引き攣らせた。真顔の刺々しい視線がこちらを見下ろしていた。

「え、どうした? なんかあった?」
「……先輩は俺を苛立たせる天才ですね」

 俺といるのに、あの女のことばっか。呟いた碧葉に左手首を掴まれる。彼が口を開けると、そのまま薬指に噛みつかれた。

「いてえ……ッ!!」
「あ、歯型ついた」
「なっ何してくれてんだお前!?」
 
 かろうじて血は出ていないが、明らかに噛み跡だと分かる赤い線が指の中程についている。

「なんかムカついたからっていちいち噛むなよ……!」
「でもこれ見たら嫌でも俺のこと思い出しますよね。先輩の記憶も安定するし、一石二鳥じゃないですか」

 碧葉は目を細めて微笑んだ。

「~ッ! 開き直んな!」
「じゃあキスしてもいいですか?」
「はっ? なんでそうなる――」

 整った容姿の男が首を傾けながら近づいてくる。左手は掴まれたまま。顎を持ち上げられて、もう何度目になるか分からない接触に柚流は目を瞑った。瞬間。

「ユズ、ボーっとしてどうしたんだ?」
「…………あっ」

 移り変わった風景。わいわいと盛り上がる教室の後方を視野に入れながら、台本片手に固まる自分。

「次ユズの番だぞ」

 遥人の指摘にハッとした。そうだった。今は劇の読み合わせ中だった。
 ごめん、と軽く謝る柚流の前に、口をつぐんだ椿木が立っている。倉庫でのやり取りが尾を引いているのだろうか。その目は何故か怯えたように伏せられていた。
 しかしそれよりも気になることが一つ。柚流は左手を確認する。ついている。小指に絆創膏、隣の薬指には赤い噛み跡が。

(碧葉……。すげえ、まだ覚えてる)

 やり方はどうかと思うが、あながち悪くないのかもしれない。どちらにせよ記憶がなければ、脱出方法を探すことすら不可能なのだから。

「――じゃあ10ページの冒頭から始めるぞ~!」

 プロデューサー気取りの大見が手を叩く。とりあえず自分の出番が終わったら手あたり次第探索しようと企む柚流は、その数分後。この世界の不条理さに直面することになるとは、まだ思いもしていなかった。