「えーっと、あとダンボールと、発泡スチロール……それから装飾に使えそうなものをいくつか……」
メモ帳を片手に持った柚流は、キョロキョロと狭い倉庫の中を見回していた。細長い窓枠から差し込む陽光に、粉塵がキラキラと舞っている。
隣には同じように目当ての小道具を探す椿木。彼女の持つカゴにはガムテープやらビニール紐やら、先に集め終わったものが仕舞われている。
「そういえば秋吉くん、頬の怪我だいぶよくなったんだね」
「えっ……ああ、うん。椿木さんのおかげだよ。もうすっかり綺麗になって――」
さらさらと撫でる自分の頬に絆創膏はもうない。
いつ剥がしたんだっけ、せっかく椿木さんがくれたものだから大事につけておきたかったのに。――そう考える柚流の記憶に、碧葉の姿は残っていない。
衝撃の事実を告げられた日から既に1週間。顔を合わせれば思い出すくらいには彼の中で碧葉の存在は定着し始めていたが、それでもまだこの程度。しばらく離れると違和感もなく記憶から消え失せ、何の変哲もない後輩に成り下がってしまう。
「火傷も治ったし、ベッドから転げ落ちたときのコブも治ったしー」
だから当然、碧葉に助けてもらった時のことも忘れている。
「もう超絶元気マックス。椿木さんが心配するようなことはなんもねえから安心してよ」
顔の前で広げたピースを、柚流は蟹のハサミのように動かしながらニッと笑った。毎回言葉はなくとも、気がかりな様子で見つめてくる彼女の杞憂を少しでも減らしてあげたかったのだ。
「ふふ、秋吉くんは元気なのが一番似合ってるね」
「だろ?」
笑顔を見せてくれるのが嬉しい。胸がポカポカとあたたかくなる。
柚流は赤くなりそうな顔を隠すように、端に積まれたダンボールへ手を伸ばした。
「台本、椿木は全部もう覚えた?」
そのまま使えそうなものをいくつか選定しながら尋ねる。
「ううん、まだ見ないで言えるのは最初のほうだけ。話は知ってても、やっぱりセリフ覚えるのって難しくて」
「そうだよな。シンデレラって有名な童話だけど、演じるってなったらまた違うとこあるし」
今日はこの後、初めての演技練習がある。椿木は主演だから、セリフもきっと一番多いだろう。それに身振り手振りや立ち位置なんかも覚える必要があるとなると、その難しさは計り知れなかった。
「オ、オレにできることあったら言えよ。読み合わせとかは…………別に遥人じゃなくてもいいだろ? オレは一場面しか出番ねえし、セリフもそんな多くないからさ」
声がつい上擦ってしまった。なるべく自然に言いたかったのに、彼女と目も合わせられない自分は大ヘタレ野郎だ。
「うん……ありがとう。秋吉くんはいつも優しいね」
「そっ、それは当然――」
「実は桐山くんもね、たくさん練習に付き合うから、私に遠慮しないでよって言ってくれたんだ。困ったことがあったら力になるから、なんでも教えてよって。……私にはシンデレラなんて大役、ちゃんと務まるか不安だったんだけど、それ聞いたら自信出てきてね。今はクラスの皆のためにも頑張りたいし、絶対成功させたいなって思ってるんだ」
背筋をピンと張りながら、晴れやかな笑みを向けてくる椿木は眩しかった。
この胸を突き刺す痛みなんて、ちっぽけで、なんでもないと――思えるほど。
(なんだ……。オレが勇気出してアピールするまでもなかったじゃん)
手に取ったダンボールの側面に爪が食い込んでいた。叶わないと分かっているのに、いつまでも足掻こうとする自分が滑稽で、無様で。
「オレも、応援してる。劇も、……ハルとのことも」
柚流は無理やり口角を釣り上げる。
「相談だっていつでも聞くし。オレにも遠慮しないで言ってくれよ」
「……うん。家族のこと、話せるのも秋吉くんしかいないしね」
正面を向いた椿木の横顔に、哀愁が漂う。遥人を紹介する一年前までは、毎日のように見せていた表情。
「もしかして……またなんかあったのか?」
嫌な予感がした。ざわざわと沸き立つ焦燥感に、柚流は眉をひそめた。
「……大したことじゃないよ。ただ、お父さんの酒癖が最近また悪くなってきて、八つ当たりみたいに私とお母さんにストレスぶつけてくるだけ」
なんでもないことのように話す彼女は、その実なんでもなくはないということを知っている。
「っそれ……すげえ大事な話じゃん! 椿木さんそれで一回怪我しただろ!」
「……でもお母さんが傷つくよりは、マシ……っ、だから」
幅の広い瞳を潤ませた彼女が声をつっかえらせる。唇を噛み、カゴの縁を握りしめる姿は、悔しさを押し殺すようでもある。
椿木姫華の家庭環境は人よりも少し複雑だ。3年前、事業の立ち上げに失敗した父親が多額の借金を背負って以降。穏やかだった彼女の身の周りは一変した。
アルコール依存症に陥った父親と、毎日休む暇もないくらい仕事に明け暮れて、やつれ細ってしまった母親。椿木もバイトをしているが、高校生は遅くまで働けない。帰ってくれば父親から鬱憤をぶつけられ、時折顔を合わせる母親からはごめんなさいと謝られる。かつての団欒を失くした家に、彼女の落ち着ける場所はなかった。
「お父さん、仕事始めたって言ってなかったか?」
「……始めたよ。始めたけど、そこでのストレスが大きいみたい。お酒が手放せなくて、帰ったらずっと飲んだくれてるの。……朝寝坊することも多いし、欠勤することも多くて。会社も多分……そろそろクビになるかも」
丸まった椿木の肩が震えている。泣くまいと懸命に堪えられた目は充血し、分厚い水の膜を張っている。
「なんだよ……それじゃまた、椿木さんがしんどい思いするだけじゃん! せっかく就職したのに、ストレスで娘に当たり散らかすって……そんなの元も子もねえよ……!」
「……うん、そうだね」
「なあ椿木さん。やっぱり先生とか、別の大人にも相談してみた方がいいと思う。だってこのままじゃ――」
「それは絶対駄目!」
珍しく強気な声にバッサリと否定される。
「ごめんね秋吉くん。でも私、お父さんを悪者にしたいわけじゃないの。どんなに最低な人になったとしても、昔優しかったことだけは覚えてるから。お父さんと離れることも望んでないし、下手に相談して可哀そうって目で見られたくもない」
「椿木さん……」
「それにね、今は今ですごく幸せなんだよ。心配してくれる秋吉くんも、寄り添ってくれる桐山くんもいるから。だから私、ずっとこのままでいい」
椿木は静かに微笑んだ。耳の下で結われたヘアゴムの紅玉が、降り注いだ日差しに照らされて、淡く輝いていた。
柚流の視界が一瞬、何かと重なるようにブレる。
――あれ?
感じたのは、強烈な既視感。まるで見たことがあるかのような景色に、軋むような頭痛を覚えた。
(な、んだ? なんか、すげえ、頭……いてえ)
「秋吉くん? どうしたの?」
「っあ……いや、なんでも」
ねえ――と、言いかけて。
突然、激しく地面が揺れ出す。
「え、地震……!?」
「ッきゃあ!」
よろめいた椿木が近くの棚にしがみつく。柚流も急いで身を伏せようとしたが、彼女の頭上で山盛りの発泡スチロールがぐらぐらと揺れているのが目についた。
「椿木さん……ッ!」
持っていたダンボールを落とす。彼女の後ろの棚に手をつく。庇うように腕で覆い、訪れる打撃に目を瞑った。
――ゴンッ。ゴンゴンッ。
箱ごと落ちてきた発泡スチロールの雨に襲われる。
「う……っ」
頭と背中に降り注ぐ軽い衝撃。痛みは少ない。最後に大きな破片が後頭部を叩いたところで、揺れは収まった。
「だ、大丈夫秋吉くん!?」
目を開けると、顔を青くした椿木がこちらを見上げている。
「ごめんね私のせいで……!」
「いやいやっオレは全然平気! 椿木さんこそ、なんか当たったりしなかった?」
柚流はなんでもないとアピールするように腕をぐるぐると回した。
「っ、私は秋吉くんのおかげで全然……」
「ならよかった――」
あ、待って、襟に白い屑かかっちゃってるじゃん。
「椿木さんちょっとここ……ゴミついてる」
形状的に発泡スチロールの欠片だ。なだれ落ちてきたから、その時に粉がかかったんだろう。さすがに全部を防ぐのは無理だったらしい。
払い除けようと伸ばす柚流の指先に、結い目からこぼれた後れ毛と飾りの紅玉が触れる。――瞬間。
「ッ! やめて!」
バッと振り払われた。強張った表情と視線がかち合った。何かを恐れるような懐疑心に満ちたそれから、セクハラまがいなことをしようとしていた自分に気が付く。
「ご、ごめん……! オレマジ無神経だったよな……!?」
「……うっううん、教えてくれてありがとう。でもその……自分で取れる、から」
きまずげに縮こまる椿木に、柚流は足がすくんだ。
親切心とはいえ、普段なら距離が近づくのも躊躇うくらいなのに。どういうわけか平然と立って、彼女の襟元へ手を伸ばしていた事実に慄く。
「あの……私、先に戻ってるね。こっちのカゴは持ってくから、ダンボールとか、重たいものはお願いしてもいいかな?」
「あっ、も、もちろん」
最悪だ。完全にやらかした。
椿木は両手でカゴを抱えると、逃げるようにその場を後にした。最後まで一度も目は合わなかった。
「こ、怖がらせた? オレッ、やっちゃったのか……?」
もう一度扉が開く。
「――先輩」
「ん? あ、あれ。お前……」
頭を抱えていた柚流に、苛立ちを隠そうともしない声が届いた。顎を掴まれる。「まっ、待て!」差し込んだ手のひらにチュ、と音が鳴った。
メモ帳を片手に持った柚流は、キョロキョロと狭い倉庫の中を見回していた。細長い窓枠から差し込む陽光に、粉塵がキラキラと舞っている。
隣には同じように目当ての小道具を探す椿木。彼女の持つカゴにはガムテープやらビニール紐やら、先に集め終わったものが仕舞われている。
「そういえば秋吉くん、頬の怪我だいぶよくなったんだね」
「えっ……ああ、うん。椿木さんのおかげだよ。もうすっかり綺麗になって――」
さらさらと撫でる自分の頬に絆創膏はもうない。
いつ剥がしたんだっけ、せっかく椿木さんがくれたものだから大事につけておきたかったのに。――そう考える柚流の記憶に、碧葉の姿は残っていない。
衝撃の事実を告げられた日から既に1週間。顔を合わせれば思い出すくらいには彼の中で碧葉の存在は定着し始めていたが、それでもまだこの程度。しばらく離れると違和感もなく記憶から消え失せ、何の変哲もない後輩に成り下がってしまう。
「火傷も治ったし、ベッドから転げ落ちたときのコブも治ったしー」
だから当然、碧葉に助けてもらった時のことも忘れている。
「もう超絶元気マックス。椿木さんが心配するようなことはなんもねえから安心してよ」
顔の前で広げたピースを、柚流は蟹のハサミのように動かしながらニッと笑った。毎回言葉はなくとも、気がかりな様子で見つめてくる彼女の杞憂を少しでも減らしてあげたかったのだ。
「ふふ、秋吉くんは元気なのが一番似合ってるね」
「だろ?」
笑顔を見せてくれるのが嬉しい。胸がポカポカとあたたかくなる。
柚流は赤くなりそうな顔を隠すように、端に積まれたダンボールへ手を伸ばした。
「台本、椿木は全部もう覚えた?」
そのまま使えそうなものをいくつか選定しながら尋ねる。
「ううん、まだ見ないで言えるのは最初のほうだけ。話は知ってても、やっぱりセリフ覚えるのって難しくて」
「そうだよな。シンデレラって有名な童話だけど、演じるってなったらまた違うとこあるし」
今日はこの後、初めての演技練習がある。椿木は主演だから、セリフもきっと一番多いだろう。それに身振り手振りや立ち位置なんかも覚える必要があるとなると、その難しさは計り知れなかった。
「オ、オレにできることあったら言えよ。読み合わせとかは…………別に遥人じゃなくてもいいだろ? オレは一場面しか出番ねえし、セリフもそんな多くないからさ」
声がつい上擦ってしまった。なるべく自然に言いたかったのに、彼女と目も合わせられない自分は大ヘタレ野郎だ。
「うん……ありがとう。秋吉くんはいつも優しいね」
「そっ、それは当然――」
「実は桐山くんもね、たくさん練習に付き合うから、私に遠慮しないでよって言ってくれたんだ。困ったことがあったら力になるから、なんでも教えてよって。……私にはシンデレラなんて大役、ちゃんと務まるか不安だったんだけど、それ聞いたら自信出てきてね。今はクラスの皆のためにも頑張りたいし、絶対成功させたいなって思ってるんだ」
背筋をピンと張りながら、晴れやかな笑みを向けてくる椿木は眩しかった。
この胸を突き刺す痛みなんて、ちっぽけで、なんでもないと――思えるほど。
(なんだ……。オレが勇気出してアピールするまでもなかったじゃん)
手に取ったダンボールの側面に爪が食い込んでいた。叶わないと分かっているのに、いつまでも足掻こうとする自分が滑稽で、無様で。
「オレも、応援してる。劇も、……ハルとのことも」
柚流は無理やり口角を釣り上げる。
「相談だっていつでも聞くし。オレにも遠慮しないで言ってくれよ」
「……うん。家族のこと、話せるのも秋吉くんしかいないしね」
正面を向いた椿木の横顔に、哀愁が漂う。遥人を紹介する一年前までは、毎日のように見せていた表情。
「もしかして……またなんかあったのか?」
嫌な予感がした。ざわざわと沸き立つ焦燥感に、柚流は眉をひそめた。
「……大したことじゃないよ。ただ、お父さんの酒癖が最近また悪くなってきて、八つ当たりみたいに私とお母さんにストレスぶつけてくるだけ」
なんでもないことのように話す彼女は、その実なんでもなくはないということを知っている。
「っそれ……すげえ大事な話じゃん! 椿木さんそれで一回怪我しただろ!」
「……でもお母さんが傷つくよりは、マシ……っ、だから」
幅の広い瞳を潤ませた彼女が声をつっかえらせる。唇を噛み、カゴの縁を握りしめる姿は、悔しさを押し殺すようでもある。
椿木姫華の家庭環境は人よりも少し複雑だ。3年前、事業の立ち上げに失敗した父親が多額の借金を背負って以降。穏やかだった彼女の身の周りは一変した。
アルコール依存症に陥った父親と、毎日休む暇もないくらい仕事に明け暮れて、やつれ細ってしまった母親。椿木もバイトをしているが、高校生は遅くまで働けない。帰ってくれば父親から鬱憤をぶつけられ、時折顔を合わせる母親からはごめんなさいと謝られる。かつての団欒を失くした家に、彼女の落ち着ける場所はなかった。
「お父さん、仕事始めたって言ってなかったか?」
「……始めたよ。始めたけど、そこでのストレスが大きいみたい。お酒が手放せなくて、帰ったらずっと飲んだくれてるの。……朝寝坊することも多いし、欠勤することも多くて。会社も多分……そろそろクビになるかも」
丸まった椿木の肩が震えている。泣くまいと懸命に堪えられた目は充血し、分厚い水の膜を張っている。
「なんだよ……それじゃまた、椿木さんがしんどい思いするだけじゃん! せっかく就職したのに、ストレスで娘に当たり散らかすって……そんなの元も子もねえよ……!」
「……うん、そうだね」
「なあ椿木さん。やっぱり先生とか、別の大人にも相談してみた方がいいと思う。だってこのままじゃ――」
「それは絶対駄目!」
珍しく強気な声にバッサリと否定される。
「ごめんね秋吉くん。でも私、お父さんを悪者にしたいわけじゃないの。どんなに最低な人になったとしても、昔優しかったことだけは覚えてるから。お父さんと離れることも望んでないし、下手に相談して可哀そうって目で見られたくもない」
「椿木さん……」
「それにね、今は今ですごく幸せなんだよ。心配してくれる秋吉くんも、寄り添ってくれる桐山くんもいるから。だから私、ずっとこのままでいい」
椿木は静かに微笑んだ。耳の下で結われたヘアゴムの紅玉が、降り注いだ日差しに照らされて、淡く輝いていた。
柚流の視界が一瞬、何かと重なるようにブレる。
――あれ?
感じたのは、強烈な既視感。まるで見たことがあるかのような景色に、軋むような頭痛を覚えた。
(な、んだ? なんか、すげえ、頭……いてえ)
「秋吉くん? どうしたの?」
「っあ……いや、なんでも」
ねえ――と、言いかけて。
突然、激しく地面が揺れ出す。
「え、地震……!?」
「ッきゃあ!」
よろめいた椿木が近くの棚にしがみつく。柚流も急いで身を伏せようとしたが、彼女の頭上で山盛りの発泡スチロールがぐらぐらと揺れているのが目についた。
「椿木さん……ッ!」
持っていたダンボールを落とす。彼女の後ろの棚に手をつく。庇うように腕で覆い、訪れる打撃に目を瞑った。
――ゴンッ。ゴンゴンッ。
箱ごと落ちてきた発泡スチロールの雨に襲われる。
「う……っ」
頭と背中に降り注ぐ軽い衝撃。痛みは少ない。最後に大きな破片が後頭部を叩いたところで、揺れは収まった。
「だ、大丈夫秋吉くん!?」
目を開けると、顔を青くした椿木がこちらを見上げている。
「ごめんね私のせいで……!」
「いやいやっオレは全然平気! 椿木さんこそ、なんか当たったりしなかった?」
柚流はなんでもないとアピールするように腕をぐるぐると回した。
「っ、私は秋吉くんのおかげで全然……」
「ならよかった――」
あ、待って、襟に白い屑かかっちゃってるじゃん。
「椿木さんちょっとここ……ゴミついてる」
形状的に発泡スチロールの欠片だ。なだれ落ちてきたから、その時に粉がかかったんだろう。さすがに全部を防ぐのは無理だったらしい。
払い除けようと伸ばす柚流の指先に、結い目からこぼれた後れ毛と飾りの紅玉が触れる。――瞬間。
「ッ! やめて!」
バッと振り払われた。強張った表情と視線がかち合った。何かを恐れるような懐疑心に満ちたそれから、セクハラまがいなことをしようとしていた自分に気が付く。
「ご、ごめん……! オレマジ無神経だったよな……!?」
「……うっううん、教えてくれてありがとう。でもその……自分で取れる、から」
きまずげに縮こまる椿木に、柚流は足がすくんだ。
親切心とはいえ、普段なら距離が近づくのも躊躇うくらいなのに。どういうわけか平然と立って、彼女の襟元へ手を伸ばしていた事実に慄く。
「あの……私、先に戻ってるね。こっちのカゴは持ってくから、ダンボールとか、重たいものはお願いしてもいいかな?」
「あっ、も、もちろん」
最悪だ。完全にやらかした。
椿木は両手でカゴを抱えると、逃げるようにその場を後にした。最後まで一度も目は合わなかった。
「こ、怖がらせた? オレッ、やっちゃったのか……?」
もう一度扉が開く。
「――先輩」
「ん? あ、あれ。お前……」
頭を抱えていた柚流に、苛立ちを隠そうともしない声が届いた。顎を掴まれる。「まっ、待て!」差し込んだ手のひらにチュ、と音が鳴った。

