「なあ……ちょっと聞いてくれよ」
終礼後、まっすぐ寮へ帰宅した柚流は、靴を脱ぎながらため息を吐いた。すっかすかのスクールバッグを床に放り、外したネクタイをその上に投げる。
エアコンはまだつけたばかりなのか、夕日に照らされた室内は少し蒸し暑い。
「オレの文化祭、マジで終わったんだけど」
言いながら、冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出して一口飲む。体の中がひんやりと冷めていくのを感じつつ、二段ベッドを背にして座る碧葉の隣へ腰を下ろした。立てた両膝の間に、閉めたペットボトルを置く。
「クラスの出し物で、今年は劇やることになったんだけどさー」
「……先輩、朝のこと覚えてないんですか」
「――題材なんになったと思う? シンデレラだよシンデレラ。オレなんか結構勇気出して王子役に立候補したのに、ハルの方が適任だからって却下されてさ……。姫役は椿木さんになっちゃうし、オレはまさかの魔女……」
しかも魔女って、どっちかって言えばシンデレラを応援する役じゃん。
「これからオレ、あの二人のラブストーリー見なきゃいけねえのか? 今でも十分きついのに、劇の中でも見せられんのは辛すぎるだろ」
ツーンと、鼻の奥に込み上げてくるものがあった。堪えようのないそれは、瞬時に床の木目が滲んで見えた。
(でも、椿木さんすげえ嬉しそうだったな。悔しいけど、オレも思わず、応援したくなっちゃうくらい……)
遥人の相手に椿木が選ばれたとき、彼女は戸惑いながらも笑顔を見せていた。無理やり割り込むこともできないほど、明るく華やいだ笑顔だった。それを壊したくないと願う柚流には、結局役を奪う権利すら与えられなかったのだ。
「オレ、こんなんで本番まで持つのかな」
ペットボトルの蓋に指を置き、グルグルと時計回りに回す。半分以上残っている麦茶がチャプチャプと揺れる。
「……貴方はいっつもそうですよね」
「いつも? ……ああ、オレ、お前に愚痴ばっかこぼしてるもんな。でも他のヤツに話しても揶揄ってくる野郎しかいねえから、お前みたいに無口なヤツがちょうどいいんだよ。別にアドバイスしてほしいわけでもねえし」
ただ胸の内をスッキリさせたいだけだ。この行き場のない苦しみを、ただ吐き出したいだけ。
「……はあ、ほんとにムカつくな」
「だからお前もなんかあったらオレに言って――」
「先輩のこと、本当に嫌いです。どうせ叶わないのに、馬鹿みたいな想いに何度も振り回されて。……だから俺も、おかしくなる」
ペットボトルが音を立てて倒れた。
「ッ!?」
柚流は目を見開く。強制的に横を向かされたことと、唇へ押し当てられた柔らかくて温かいものに。
(コ、コイツ、碧葉!?)
今度は一瞬で状況を把握した。
(オレ……っ、また記憶がなくなって……!)
焦ってドンドンと碧葉の胸を叩く。ここまでくると、正常な記憶を取り戻すのにはキスが必要らしいということも、なんとなく理解できた。
「ッはあ……、あ、碧葉……オレ思い出し――」
「こんなんじゃ全然足りません」
「え?」
しかし、そんなアピールも無駄に終わった。
「んッ!? ん、ふ……っ」
再び合わさる唇の隙間から、ぬるりと熱いものが入り込んでくる。慌てて退こうとする柚流だったが、後ろには二段ベッドの柵。顎もしっかりと掴まれていて、逃げられないことをすぐに悟る。
「ぁ、あお……っ、んッ、はあ」
音を鳴らしながら吸われるのが厭らしかった。何も経験のない柚流にとってはすべてが未知の体験だった。
(や、やべえ……キスって、こんなにきもちいいのか……?)
熱い吐息に脳が焼き切れそうだ。腰骨に走るピリッとした感覚に、背中を震わせる。
相手が碧葉という問題はあったが、ここは健全たる男子高校生。気づけば夢中で絡ませ合っていた。
「……ッ、先輩」
「ん……あ、あれ……終わったのか?」
ぼうっとする頭と、滲んだ視界の中で、目元を赤くさせた後輩と視線が合う。
「……チッ、その顔、俺以外の前で見せたら殺しますからね」
「ころ――、って、は!? 怖っ!?」
「別に、俺以外とキスしなければ済む話なんだから簡単でしょ」
「いやそういう問題じゃ……ってて、いてッ、痛えって!」
碧葉のシャツの袖で、ゴシゴシと唇を拭われた。いつの間にかあふれ出していた唾液をふき取ってくれているようだった。
「っ、もういい……!」
柚流は顔を背ける。今更ながら、とんでもなく破廉恥なことをしてしまったのではないかと頬が熱い。涼しい風を送り込んでくれるエアコンにも負けないくらい、触れられたところが熱を発しているような気がした。
「先輩。もう俺のこと、ちゃんと認識できてますよね」
「あっ、ああ」
碧葉を目線だけで確認すると、落ち着き払った色白の顔色が窺える。
(あれ……さっき一瞬、顔赤く見えたのに)
自分だけじゃないと安心できたあの熱っぽかった表情は、見間違いだったのだろうか。
「――とりあえず、いろいろ説明させてください。この世界について、先輩はまだ理解できてないところが大半だと思うので」
そう言うと碧葉は、倒れていたペットボトルを机の上に置いてくれた。キスの余韻にドギマギしていた柚流も、さっと背筋を伸ばす。あぐらをかいて、自分の足首を握りしめた。
「っそうだ! オレまた忘れてたんだった……!」
碧葉の名前、顔、それから実際に起きた数々の「奇妙な現象」について。
「まず、ここが現実じゃないって俺が推測した理由ですけど、この学校――霞戸高校は、俺の通ってる学校じゃないんです。俺は現実だと、隣町の滝浦高校に通ってる。ここの生徒になってるのがそもそもおかしいんですよ」
「はっ? た、たきうら……って?」
「聞いたことありませんか。けっこう難関進学校で有名なんですけど」
聞いたことがない……というよりも、しょっぱなから話がぶっ飛びすぎだ。受け入れて、完全に飲み込むのに一呼吸も二呼吸もかかる。
「ま、待ってくれ。別の高校に通ってるって、そんなはず……」
「俺にはここじゃないところで生活していた記憶があるんです。学校には家から電車で通ってたし、寮生活もしてた覚えがない。気が付いたらここにいて、霞戸の生徒になってたんです」
信じられないが、きっぱりした口調は嘘を言っているようには思えなかった。それが余計に混乱を生んで、柚流の手のひらに汗をにじませる。掴んだ足首に、ジメリと不快な湿っぽさを感じた。
「じゃっじゃあオレは? オレにはそんな記憶、全くねえんだけど……っ?」
「それは先輩が実際にここの生徒だからじゃないですか?」
「……え? ど、どういうことだ?」
碧葉のまっすぐな視線が突き刺さる。
「これは俺の想像なんですけど、ここは多分……霞戸高校を舞台にした、仮想空間に近い何かだと思うんです」
「か、仮想空間……? なんだそれ。VRみたいなもんか?」
「まあ、近いものだと思いますよ。本来の先輩は、恐らく現実の霞戸高校に通ってる。でも何かがあって、この空間に飛ばされた。それが身体ごとなのか、意識だけなのか、詳しいことはまだ分かってません」
ますますファンタジー染みてきた現実……いや仮想? に、柚流は眉をしかめた。悲鳴を上げるように、こめかみの辺りがズキズキと痛む。
「そしたら……他のヤツらもそうなのか? オレと一緒で気づいてないだけ?」
「いえ、それは――」
碧葉が一瞬、視線を逸らして言いよどむ。
「先輩も覚えてますよね。今日の朝、急に寮から教室へ移動したときのこと」
「あ、ああ……そういや、オレお前と話してたはずなのに、気づいたら周りが変わってて、すげえビックリした。でも誰も気づいてなさそうだったな」
「あれは《時間転移》です。この世界じゃ特別珍しいことでもないですよ」
碧葉は1つ頷くと、立ち上がった。向かいの壁に隣接した勉強机から、一冊のノートを取り出して持ってくる。
「見てくださいこれ」
「なんだ?」
促された通りに柚流はパラッと捲ってみた。が、どれだけ紙を捲ってみても、そこにあるのは白紙のページばかり。
「なんも書かれてねえじゃん」
「……は? どこ見てるんですか。ここに――――が書かれてるだろ」
「えっ」
「俺が――――して、――――たやつなんですよ」
覚えのある不気味な感覚だった。例えばテレビの電波が上手く受信されなくて、映った画面の音声が途切れ途切れになってるような、そんな得も言われぬ奇妙な感覚。
「それ……なんなんだ? なんで時々、オレはお前の声が聞こえなくなるんだ?」
正直時間が飛ぶことよりも、こういう理解しがたい現象の方が何倍も恐ろしい。
「ああ……これは駄目だったか」
碧葉は淡々と呟いた。
「ダメ? お前は何が原因でこうなんのか知ってんの?」
「……そうですね」
柚流の前のめりな問いかけに、彼は白紙のノートを指でなぞりながら答える。まるでそこに書き記したものが、大事な何かだとでも言うかのように。
「一つだけ……確かに言えるのは、『椎崎碧葉』はこの世界にとって、ただの異分子にしか過ぎないということ。元々霞戸の生徒じゃない俺は、ここにいるべき存在じゃない。だから誰も俺を認識しないし、本当の姿を視認できない」
伏せた睫毛の下で、濁りのない瞳が灯火のように揺れている。差し込んだ西日が濃くなった茜色のもと、彼の美しい相貌に影が差す。
「さっき、先輩は他の人も同じなのかって聞いてきましたよね」
「あ、ああ」
「……残念ですけど、俺はそうは思いません。大半の生徒が、この世界を維持するために作り出された虚像なんじゃないかと……そう推測してます。恐らく自我を持てるのは、異分子の俺か、この仮想現実を作り出した張本人だけ」
黒と青の混じる虹彩の中心、見開いた瞳孔がじっと柚流を見つめる。
「でも、俺は貴方が黒幕だとは考えてません。だって貴方が黒幕なら、俺の言葉が聞こえないのはおかしいですから」
「俺の言葉は、この世界にとってはただの邪魔な異物。だから阻害される。世界が万が一にも壊されないように」
「これまで俺は、いろんな人に真実を話そうとしてきましたけど、一度も伝わったことはありませんでした。先輩も一緒です。でも――――で、初めて貴方は俺の顔を見てくれたから。おかげで俺は確信を得られた。先輩も俺と同じ、巻き込まれた側の人間なんだって」
また聞き取れないところがあった。しかし柚流の頭は、既にパンク寸前だった。語られた話の情報量が多すぎて、濃すぎたのだ。
「今の、全部聞こえてました?」
碧葉が首を傾げ、こちらを覗き込んでくる。
「いや……。わっかんねえとこはあった。あったけど、それ以前になんか、分かろうとすればするほど、こ、怖くなってきたっていうか。お、オレたち、もしかしてヤベえことに巻き込まれてるんじゃねえよな……?」
知らず知らずのうちに鳥肌の立っていた腕を擦る。手のひらがカタカタと震えている。
「先輩、落ち着いて」
「だ、だって、オレ以外は虚像って、じゃあハルと椿木さんも? 他のクラスのヤツらだって、全員偽物ってことか? オレ、今日も普通に喋ってたんだぞ……!」
違和感があったとすれば、時間が飛んで柚流が戸惑っていた時に、誰も指摘してこなかったことくらい。
「てかいつから? オレはお前と違って普通に生活してた。なんも不思議に思わなかった。……お前がいなかったら、オレはずっとこのまま、ここにいたってことに――」
「っ、先輩!」
腕を引っ張られた。唇に馴染みのある熱が触れた。
「貴方は一人じゃない。俺がいます」
視界いっぱいに、吸い込まれるような夜の瞳。震える手のひらに、碧葉の骨ばった指先が絡みつく。
「俺と一緒にここから脱出する方法を探しましょう」
「だ、脱出?」
「はい。俺もこんな訳の分からない世界に閉じ込められたままは困るので。二人で協力して、穴を見つけるんです。……きっとそこに、脱出するための糸口はあるはず」
繋がれた手に力が籠められた。震えを止めるように、親指で手の甲を擦られる。
「だからそんなに不安がらないで。俺は柚流先輩には笑っていてほしい。泣いてる顔も、辛そうな顔も、俺はもう見たくない」
慈愛に満ちた眼差しと、揺るぎのない声色に、どうしてだろう。柚流はゆっくりと強張った肩が解けていくような安心感を覚えた。心地よく心臓が耳の奥で鳴る。もう一度柔らかい口づけが降り落ちた。
「なっ、なんでまたキス……!」
「これには早く慣れてください」
「っ、は……、なんで」
「先輩もさすがに気づいてるでしょうけど、俺のことを認識してもらうためには、キスが必要なんです。でも時間が経てば貴方はすぐに忘れてしまう。……だったら回数や時間を重ねることで、記憶の保有率も伸びる――そんな風には思いませんか」
滅茶苦茶な理論……かと思って反対しかけたが、確かに試す価値はあるのかもしれなかった。いちいち碧葉を忘れてしまうのは、これから脱出方法を探る上で非常に厄介だったから。
「素直に受け入れてください先輩。さっきもすごく気持ちよかったでしょ」
けど、なんだか少し不服だ。与えられる初めての快感にドキドキと高鳴る心臓も、目の前で緩やかに微笑む後輩も。
「オレが女だったらよかったのにな」
「……は? どういう意味ですかそれ」
「だって男にするよりは女の子のほうがいいだろ」
そっちのほうが絶対気分も上がるし。
「だから残念だったなって――」
「俺はそもそも柚流先輩じゃなかったら、キスすらしようとは思いませんでした」
「……え?」
「男とか女とか、どうでもいいです。先輩が先輩ならどっちでも。だから余計なことは考えず、俺だけに集中して」
そう言うと、がぶりと噛みつかれた。柚流はまた、抗えようのない熱に支配された。
強引だけど、じわじわと攻め立ててくるそれは、ひどく優しい。まるで自分のことを大切に想ってくれているかのような口づけに、柚流は何故か胸が締めつけられて、泣きそうになった。
終礼後、まっすぐ寮へ帰宅した柚流は、靴を脱ぎながらため息を吐いた。すっかすかのスクールバッグを床に放り、外したネクタイをその上に投げる。
エアコンはまだつけたばかりなのか、夕日に照らされた室内は少し蒸し暑い。
「オレの文化祭、マジで終わったんだけど」
言いながら、冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出して一口飲む。体の中がひんやりと冷めていくのを感じつつ、二段ベッドを背にして座る碧葉の隣へ腰を下ろした。立てた両膝の間に、閉めたペットボトルを置く。
「クラスの出し物で、今年は劇やることになったんだけどさー」
「……先輩、朝のこと覚えてないんですか」
「――題材なんになったと思う? シンデレラだよシンデレラ。オレなんか結構勇気出して王子役に立候補したのに、ハルの方が適任だからって却下されてさ……。姫役は椿木さんになっちゃうし、オレはまさかの魔女……」
しかも魔女って、どっちかって言えばシンデレラを応援する役じゃん。
「これからオレ、あの二人のラブストーリー見なきゃいけねえのか? 今でも十分きついのに、劇の中でも見せられんのは辛すぎるだろ」
ツーンと、鼻の奥に込み上げてくるものがあった。堪えようのないそれは、瞬時に床の木目が滲んで見えた。
(でも、椿木さんすげえ嬉しそうだったな。悔しいけど、オレも思わず、応援したくなっちゃうくらい……)
遥人の相手に椿木が選ばれたとき、彼女は戸惑いながらも笑顔を見せていた。無理やり割り込むこともできないほど、明るく華やいだ笑顔だった。それを壊したくないと願う柚流には、結局役を奪う権利すら与えられなかったのだ。
「オレ、こんなんで本番まで持つのかな」
ペットボトルの蓋に指を置き、グルグルと時計回りに回す。半分以上残っている麦茶がチャプチャプと揺れる。
「……貴方はいっつもそうですよね」
「いつも? ……ああ、オレ、お前に愚痴ばっかこぼしてるもんな。でも他のヤツに話しても揶揄ってくる野郎しかいねえから、お前みたいに無口なヤツがちょうどいいんだよ。別にアドバイスしてほしいわけでもねえし」
ただ胸の内をスッキリさせたいだけだ。この行き場のない苦しみを、ただ吐き出したいだけ。
「……はあ、ほんとにムカつくな」
「だからお前もなんかあったらオレに言って――」
「先輩のこと、本当に嫌いです。どうせ叶わないのに、馬鹿みたいな想いに何度も振り回されて。……だから俺も、おかしくなる」
ペットボトルが音を立てて倒れた。
「ッ!?」
柚流は目を見開く。強制的に横を向かされたことと、唇へ押し当てられた柔らかくて温かいものに。
(コ、コイツ、碧葉!?)
今度は一瞬で状況を把握した。
(オレ……っ、また記憶がなくなって……!)
焦ってドンドンと碧葉の胸を叩く。ここまでくると、正常な記憶を取り戻すのにはキスが必要らしいということも、なんとなく理解できた。
「ッはあ……、あ、碧葉……オレ思い出し――」
「こんなんじゃ全然足りません」
「え?」
しかし、そんなアピールも無駄に終わった。
「んッ!? ん、ふ……っ」
再び合わさる唇の隙間から、ぬるりと熱いものが入り込んでくる。慌てて退こうとする柚流だったが、後ろには二段ベッドの柵。顎もしっかりと掴まれていて、逃げられないことをすぐに悟る。
「ぁ、あお……っ、んッ、はあ」
音を鳴らしながら吸われるのが厭らしかった。何も経験のない柚流にとってはすべてが未知の体験だった。
(や、やべえ……キスって、こんなにきもちいいのか……?)
熱い吐息に脳が焼き切れそうだ。腰骨に走るピリッとした感覚に、背中を震わせる。
相手が碧葉という問題はあったが、ここは健全たる男子高校生。気づけば夢中で絡ませ合っていた。
「……ッ、先輩」
「ん……あ、あれ……終わったのか?」
ぼうっとする頭と、滲んだ視界の中で、目元を赤くさせた後輩と視線が合う。
「……チッ、その顔、俺以外の前で見せたら殺しますからね」
「ころ――、って、は!? 怖っ!?」
「別に、俺以外とキスしなければ済む話なんだから簡単でしょ」
「いやそういう問題じゃ……ってて、いてッ、痛えって!」
碧葉のシャツの袖で、ゴシゴシと唇を拭われた。いつの間にかあふれ出していた唾液をふき取ってくれているようだった。
「っ、もういい……!」
柚流は顔を背ける。今更ながら、とんでもなく破廉恥なことをしてしまったのではないかと頬が熱い。涼しい風を送り込んでくれるエアコンにも負けないくらい、触れられたところが熱を発しているような気がした。
「先輩。もう俺のこと、ちゃんと認識できてますよね」
「あっ、ああ」
碧葉を目線だけで確認すると、落ち着き払った色白の顔色が窺える。
(あれ……さっき一瞬、顔赤く見えたのに)
自分だけじゃないと安心できたあの熱っぽかった表情は、見間違いだったのだろうか。
「――とりあえず、いろいろ説明させてください。この世界について、先輩はまだ理解できてないところが大半だと思うので」
そう言うと碧葉は、倒れていたペットボトルを机の上に置いてくれた。キスの余韻にドギマギしていた柚流も、さっと背筋を伸ばす。あぐらをかいて、自分の足首を握りしめた。
「っそうだ! オレまた忘れてたんだった……!」
碧葉の名前、顔、それから実際に起きた数々の「奇妙な現象」について。
「まず、ここが現実じゃないって俺が推測した理由ですけど、この学校――霞戸高校は、俺の通ってる学校じゃないんです。俺は現実だと、隣町の滝浦高校に通ってる。ここの生徒になってるのがそもそもおかしいんですよ」
「はっ? た、たきうら……って?」
「聞いたことありませんか。けっこう難関進学校で有名なんですけど」
聞いたことがない……というよりも、しょっぱなから話がぶっ飛びすぎだ。受け入れて、完全に飲み込むのに一呼吸も二呼吸もかかる。
「ま、待ってくれ。別の高校に通ってるって、そんなはず……」
「俺にはここじゃないところで生活していた記憶があるんです。学校には家から電車で通ってたし、寮生活もしてた覚えがない。気が付いたらここにいて、霞戸の生徒になってたんです」
信じられないが、きっぱりした口調は嘘を言っているようには思えなかった。それが余計に混乱を生んで、柚流の手のひらに汗をにじませる。掴んだ足首に、ジメリと不快な湿っぽさを感じた。
「じゃっじゃあオレは? オレにはそんな記憶、全くねえんだけど……っ?」
「それは先輩が実際にここの生徒だからじゃないですか?」
「……え? ど、どういうことだ?」
碧葉のまっすぐな視線が突き刺さる。
「これは俺の想像なんですけど、ここは多分……霞戸高校を舞台にした、仮想空間に近い何かだと思うんです」
「か、仮想空間……? なんだそれ。VRみたいなもんか?」
「まあ、近いものだと思いますよ。本来の先輩は、恐らく現実の霞戸高校に通ってる。でも何かがあって、この空間に飛ばされた。それが身体ごとなのか、意識だけなのか、詳しいことはまだ分かってません」
ますますファンタジー染みてきた現実……いや仮想? に、柚流は眉をしかめた。悲鳴を上げるように、こめかみの辺りがズキズキと痛む。
「そしたら……他のヤツらもそうなのか? オレと一緒で気づいてないだけ?」
「いえ、それは――」
碧葉が一瞬、視線を逸らして言いよどむ。
「先輩も覚えてますよね。今日の朝、急に寮から教室へ移動したときのこと」
「あ、ああ……そういや、オレお前と話してたはずなのに、気づいたら周りが変わってて、すげえビックリした。でも誰も気づいてなさそうだったな」
「あれは《時間転移》です。この世界じゃ特別珍しいことでもないですよ」
碧葉は1つ頷くと、立ち上がった。向かいの壁に隣接した勉強机から、一冊のノートを取り出して持ってくる。
「見てくださいこれ」
「なんだ?」
促された通りに柚流はパラッと捲ってみた。が、どれだけ紙を捲ってみても、そこにあるのは白紙のページばかり。
「なんも書かれてねえじゃん」
「……は? どこ見てるんですか。ここに――――が書かれてるだろ」
「えっ」
「俺が――――して、――――たやつなんですよ」
覚えのある不気味な感覚だった。例えばテレビの電波が上手く受信されなくて、映った画面の音声が途切れ途切れになってるような、そんな得も言われぬ奇妙な感覚。
「それ……なんなんだ? なんで時々、オレはお前の声が聞こえなくなるんだ?」
正直時間が飛ぶことよりも、こういう理解しがたい現象の方が何倍も恐ろしい。
「ああ……これは駄目だったか」
碧葉は淡々と呟いた。
「ダメ? お前は何が原因でこうなんのか知ってんの?」
「……そうですね」
柚流の前のめりな問いかけに、彼は白紙のノートを指でなぞりながら答える。まるでそこに書き記したものが、大事な何かだとでも言うかのように。
「一つだけ……確かに言えるのは、『椎崎碧葉』はこの世界にとって、ただの異分子にしか過ぎないということ。元々霞戸の生徒じゃない俺は、ここにいるべき存在じゃない。だから誰も俺を認識しないし、本当の姿を視認できない」
伏せた睫毛の下で、濁りのない瞳が灯火のように揺れている。差し込んだ西日が濃くなった茜色のもと、彼の美しい相貌に影が差す。
「さっき、先輩は他の人も同じなのかって聞いてきましたよね」
「あ、ああ」
「……残念ですけど、俺はそうは思いません。大半の生徒が、この世界を維持するために作り出された虚像なんじゃないかと……そう推測してます。恐らく自我を持てるのは、異分子の俺か、この仮想現実を作り出した張本人だけ」
黒と青の混じる虹彩の中心、見開いた瞳孔がじっと柚流を見つめる。
「でも、俺は貴方が黒幕だとは考えてません。だって貴方が黒幕なら、俺の言葉が聞こえないのはおかしいですから」
「俺の言葉は、この世界にとってはただの邪魔な異物。だから阻害される。世界が万が一にも壊されないように」
「これまで俺は、いろんな人に真実を話そうとしてきましたけど、一度も伝わったことはありませんでした。先輩も一緒です。でも――――で、初めて貴方は俺の顔を見てくれたから。おかげで俺は確信を得られた。先輩も俺と同じ、巻き込まれた側の人間なんだって」
また聞き取れないところがあった。しかし柚流の頭は、既にパンク寸前だった。語られた話の情報量が多すぎて、濃すぎたのだ。
「今の、全部聞こえてました?」
碧葉が首を傾げ、こちらを覗き込んでくる。
「いや……。わっかんねえとこはあった。あったけど、それ以前になんか、分かろうとすればするほど、こ、怖くなってきたっていうか。お、オレたち、もしかしてヤベえことに巻き込まれてるんじゃねえよな……?」
知らず知らずのうちに鳥肌の立っていた腕を擦る。手のひらがカタカタと震えている。
「先輩、落ち着いて」
「だ、だって、オレ以外は虚像って、じゃあハルと椿木さんも? 他のクラスのヤツらだって、全員偽物ってことか? オレ、今日も普通に喋ってたんだぞ……!」
違和感があったとすれば、時間が飛んで柚流が戸惑っていた時に、誰も指摘してこなかったことくらい。
「てかいつから? オレはお前と違って普通に生活してた。なんも不思議に思わなかった。……お前がいなかったら、オレはずっとこのまま、ここにいたってことに――」
「っ、先輩!」
腕を引っ張られた。唇に馴染みのある熱が触れた。
「貴方は一人じゃない。俺がいます」
視界いっぱいに、吸い込まれるような夜の瞳。震える手のひらに、碧葉の骨ばった指先が絡みつく。
「俺と一緒にここから脱出する方法を探しましょう」
「だ、脱出?」
「はい。俺もこんな訳の分からない世界に閉じ込められたままは困るので。二人で協力して、穴を見つけるんです。……きっとそこに、脱出するための糸口はあるはず」
繋がれた手に力が籠められた。震えを止めるように、親指で手の甲を擦られる。
「だからそんなに不安がらないで。俺は柚流先輩には笑っていてほしい。泣いてる顔も、辛そうな顔も、俺はもう見たくない」
慈愛に満ちた眼差しと、揺るぎのない声色に、どうしてだろう。柚流はゆっくりと強張った肩が解けていくような安心感を覚えた。心地よく心臓が耳の奥で鳴る。もう一度柔らかい口づけが降り落ちた。
「なっ、なんでまたキス……!」
「これには早く慣れてください」
「っ、は……、なんで」
「先輩もさすがに気づいてるでしょうけど、俺のことを認識してもらうためには、キスが必要なんです。でも時間が経てば貴方はすぐに忘れてしまう。……だったら回数や時間を重ねることで、記憶の保有率も伸びる――そんな風には思いませんか」
滅茶苦茶な理論……かと思って反対しかけたが、確かに試す価値はあるのかもしれなかった。いちいち碧葉を忘れてしまうのは、これから脱出方法を探る上で非常に厄介だったから。
「素直に受け入れてください先輩。さっきもすごく気持ちよかったでしょ」
けど、なんだか少し不服だ。与えられる初めての快感にドキドキと高鳴る心臓も、目の前で緩やかに微笑む後輩も。
「オレが女だったらよかったのにな」
「……は? どういう意味ですかそれ」
「だって男にするよりは女の子のほうがいいだろ」
そっちのほうが絶対気分も上がるし。
「だから残念だったなって――」
「俺はそもそも柚流先輩じゃなかったら、キスすらしようとは思いませんでした」
「……え?」
「男とか女とか、どうでもいいです。先輩が先輩ならどっちでも。だから余計なことは考えず、俺だけに集中して」
そう言うと、がぶりと噛みつかれた。柚流はまた、抗えようのない熱に支配された。
強引だけど、じわじわと攻め立ててくるそれは、ひどく優しい。まるで自分のことを大切に想ってくれているかのような口づけに、柚流は何故か胸が締めつけられて、泣きそうになった。

