完全に当て馬ポジションの俺。何故か同室の後輩にキスされた上、どうやらここは現実じゃないらしい

 ――ジリリリリリリッッッッ!!!

 けたたましい目覚ましの音で柚流は目を覚ます。叩くように止めて、もぞもぞと枕に顔をこすりつける。閉じた青いカーテンの隙間から覗く日差しが眩しい。まだまだ微睡みに浸っていたいところだが、重い瞼をなんとかこじ開けた。表示されている時刻は、朝の7時40分。

「はあ……ッ!? 寝坊した……ッ!」

 本来なら朝ご飯を食べ終えて、食堂から帰ってくる時間だ。柚流は二段ベッドの上で跳ね起きた。

「ヤッ……ベえ!」

 慌ててシーツを剥ぐと、ガンガンに効かせた冷房が少し肌寒い。Tシャツから覗く腕には鳥肌が立っていたが、気にせず梯子に足を掛けた。――が、まさかの一歩目で踏み外す。

「うわッ!」

 勢いが良すぎた。そのままダイブするように空中へ放り出された。
 高低差がそこまであるわけじゃない。それでも衝撃に備えて、ぎゅっと目を瞑った。

「――ッ、危なっかしい人だな!」

 触れたのは無機質な硬い床……ではなく、迎えるように包み込んでくれた温かい胸板。
 
「ん……?」
「大丈夫ですか先輩」
「おお……わりいわりい」

 ――昨日に続いて今度は打ち身なんてシャレになんねえぞ。

「マッジで助かった。サンキュー」
 
 意外と逞しいんだな、と感心する柚流の目に、碧葉は平凡な後輩として映る。
 保健室でのやり取りは、完全に別の記憶へと「修正」されていた。
 
「……先輩?」
「いや~、オレ、実は昨日火傷しちゃってさ。保健室行っても先生はいねえし、保冷剤は見つかんねえしで、まだちょっと痛いのがピリピリ残ってんだよ。これ以上怪我してたら満身創痍になるとこだったわ」

 だからマジでありがと――と、柚流はニッコリ笑う。碧葉の背をポンポンと叩いて離れた。

「せん、」
『オハヨウ! オハヨウ! 7時45分! 7時45分! 今日も一日ガンバロウ~!』

 テレビから軽快なキャラクターの声が流れる。羽を広げて画面の中で飛び立つそれは、丸いフォルムが可愛いと女子に評判の、鳥を模した番組の公式マスコット。名前はマル吉。
 普段なら癒されるところだが、柚流は顔色を変えて叫んだ。

「ヤベえ! 食堂閉まる!」

 朝は8時までの営業だから、残り15分。こんなところで道草食ってたら、またぼさぼさの頭で登校することになる。

「待ってせんぱ――」

 碧葉の言葉は届かなかった。思いきり寝起きの格好のまま部屋を飛び出す柚流の後で、パタンと閉じるドアの音だけが残る。

「クソ……やっぱあの程度じゃ駄目なのか」

 彼が出ていった先を見つめる碧葉の瞳には、悔しげな色。そして、何かを決心するような硬い決意が宿っていた。


***


 今日も今日とて勢い良く朝飯をかきこんだ柚流は、部屋に戻った瞬間、碧葉に押し迫られた。抗議する隙もくれないほど、素早く顔を寄せられる。

「ん……っ! ふっ……」

 両腕をしっかり壁に固定されているせいで、身じろぎもできない。自分の存在を教え込むみたいに、ひたすら熱をぶつけられて一瞬でクラクラし始める。
 
(い、いきなりなんでこんなこと……!)

 唐突な混乱に陥る中。柚流は息を吸うのもやっとの状況で、霧が晴れるように昨日の出来事を思い出す。そしてまた記憶が塗り替えられていたことに、血の気が引いた。どうしてあんな強烈なやり取りを忘れていられたのだろうかと、自分で自分が信じられない。
 リップ音を鳴らしながら離れた碧葉の、透き通った瞳に見つめられる。

「……先輩。俺の名前、分かります?」

 今ははっきりと認識できる、整った顔立ちの後輩。

「あ、あお、ば……だ、っけ」
「はい」

 碧葉がうっすら微笑む。近寄りがたいクールな印象とは打って変わって、笑うとけっこう心臓に悪い。

「どうしたんですか。そんなに瞬きなんかして」
「いっいや……お前の顔面が強すぎて、思わず……」
「ああ、よく言われます」

 え、よく言われるんだ。

「それよりも……ここの時間は短いんです。昨日はどこまで話聞こえてました?」

 壁に腕を縫い付けられたまま、話を続けられる。この状態でいる必要はあるのかと柚流は不思議だったが、それ以上に聞きたいことが山ほどあった。
 自分の記憶はどうなってるのか。結局碧葉は何者なのか。そしてどうしていちいち、キスをしてくるのか――。

「げ、現実じゃないってところまで。……てか、この世界がまがい物って……い、意味分かんねえよ!」

 それでも一番確かめたかったのは、全てを覆すようなこの言葉だった。

「そこまで聞こえてたんですね。じゃあ俺が――も、――――ってことも?」
「……え? 今なんて」
「俺は――――る。これは聞こえませんか」

 また、そこだけ切り取られているかのように音が無くなっていた。
 そういえば昨日の中庭でも同じことがあった。でもあの時は小首を傾げるだけで全然疑問を覚えなかった。読唇術でもさせられているのかと思ったくらいだ。

「なあ、やっぱオレ、どっかおかしい――」

 のか、と言いかけて。
 突然、目の前の景色が様変わりする。

「――じゃあ俺たちのクラスは劇やるってことで! 題材はシンデレラにけってーい!!」

 クラス委員長の大見が教壇に立っていた。黒板に書かれた『シンデレラ』という文字に、赤いチョークでグルグルと丸をつけている。他にも『コスプレ喫茶』や、『お化け屋敷』、『クイズ大会』と続く羅列。

「……文化祭?」

 柚流は一番上にでかでかと書かれたテーマを読み上げた。

「今年は劇だって。今まで飲食系しかやってこなかったから新鮮だな」

 前に座る遥人が振り返って言う。

「ユズも初めてだろ?」
「えっ……え?」

 柚流はキョロキョロと辺りを見回した。日差しを遮るために引かれた薄いカーテン。テンション高めに話すクラスメイトたち。――15時を示す、壁時計。

「去年は確かたこ焼き作ったよな。俺がクソ下手で、ユズが案外上手くてさ」
「ま、待ってハル。オレ、さっきまで寮にいたんだ。ア、アイツ、アイツと一緒に――」
「あ、そういや椿木が俺に教えてくれたんだったっけ。ほら、ユズが上手い子知ってるって紹介してくれてさ」
 
 あれから椿木と話すようになったんだよな、としみじみ呟く遥人は、ふっと唇を緩め、目尻を垂らした。

「……もしかして、私の話してる?」

 彼の隣に座る椿木が、恐る恐る顔をこちらへ向けてくる。

「あっ、聞こえちゃった?」
「そりゃあ……こんなに近くにいたら、どうしても耳に入っちゃうよ」
 
 そう言う彼女の頬は、淡い桃色に染まっていた。どこか落ち着きのない雰囲気が漂い始め、それと反比例するように柚流の心は重く沈み出す。
 約一年前、椿木と遥人の関係が進展するようなきっかけを作ったのは、紛れもなく自分だった。
 
(オレは、椿木さんに少しでも元気になってもらいたかったから……)

「――じゃあ今から劇の配役決めまーす!」

 拳を握りしめる柚流の記憶に、碧葉の姿はもうない。あるのは行き場のない苦しみと、どうすることもできない歯がゆさだけ。

「まずは姫と王子役から!」

 たとえ物語の中だったとしても、好きな子と結ばれる王子様になれたらよかったのに。

 ――って、なにセンチメンタルになってんだオレ! そんなの他人任せに願うんじゃねえ! オレからなったらいいだけの話だろ!

 自分にしては少しクヨクヨしすぎた。もっと楽観的に、前向きに物事を捉えるのが「秋吉柚流」なんだ。

「はい! オレ王子やりたい!」

 席を立ちながら右手を大きく挙げる。
 しかしその夢も、定められた運命の前ではあっけなく散ってしまうのだが。



「だああーーーッ!! なんでオレじゃなくてハルなんだよおお!!」
「まあまあ、やっぱ正統派王子っつったら遥人っしょ」

 先ほどまで教壇で皆を仕切っていた大見が肩を叩いてくる。
 6限が終わり、今は掃除の時間。柚流は箒を片手に、教室の窓から叫んでいた。

「まあでも、相手が椿木ちゃんになるとは思わなかったけどねえ」

 のんびりした口調でそう話すのは、箒の長い柄に両手を乗せた花巻。マスカラでしっかり伸ばした睫毛が、今日もバシバシ上を向いている。

「ほっ、ほんとにほんとに。まさかくじで椿木になるなんて思わねえじゃん!」
 
 王子役は残念ながら満場一致で遥人に決定したが、姫役は逆に立候補する人が誰もいなかった。相手が高レベルすぎると、皆遠慮してしまうらしい。最終的にくじ引きという運に頼った結果、見事当選したのが椿木だった。
 
「とりま柚流は魔女役おめでとー!」
「うっ、うぜえ!」
「カボチャの馬車は俺たちに任せろよ! 立派なもん作ってやるから!」
「あ、衣装は私たち被服部ねえ。希望あったら聞くけどなんかある~?」

 次から次へとうっとうしい。このクラスメイトたちは、揶揄うのがよっぽど好きなようだ。

「お前が普通じゃ面白くねえなんて言うから、オレが魔女やる羽目になったんだぞ……」

 恨めし気に大見を見る。

「いやあ、それはクラス委員長たる俺の特権だよな」
「クソッ、誰だよこんないい加減な奴に委員長の座を渡したのは!」
「それは春の自分に言ってくれ~」

 ひらひらとちりとりを振りながら、背高の彼がごみを集めにいった。
 開けた窓から髪を撫でる風はまだ生温い。これが肌寒く感じる頃に文化祭が開催されるのかと思うと、冬なんて一生来ないでくれ――と、願わずにはいられなかった。