完全に当て馬ポジションの俺。何故か同室の後輩にキスされた上、どうやらここは現実じゃないらしい

 柚流は食堂の入り口で、ニコニコと上機嫌に笑っていた。頬にはピンクの花柄の絆創膏を貼り、頭からも浮かれた花びらが舞っているようだ。

「今日は何にする?」

 遥人がメニューの表示されたモニターを見ながら、そう尋ねてくる。流れで一緒に食べることになった椿木も、彼と挟みこむ形で間にいた。

「私はA定食にしようかな。桐山くんは?」
「俺は肉食いたいからBだな」

 A定食とB定食――日替わりで提供される今日の定食メニューは、Aが焼き魚で、Bがハンバーグだ。

「秋吉くんは決まった?」
「あー……オレは……」

 柚流もいつも通りなら遥人と同じB定食を選ぶ。が、今日はなんだか胸がいっぱいでお腹もあまり空いていなかった。
 なるべく軽いものが良い。そう思いながらモニターを隅々まで見ると、目に入ったのは大きな油揚げの乗ったきつねそば。

「オレこれにするわ」
「へえ、珍しいな。ユズが麺いくの」
「まあ……たまにはいいだろ。ハンバーグって気分でもねえし」
「後で欲しいっつってもやらねえぞ」
「なッ、オレもそこまで子供じゃねえよ!」

 目が合った遥人の口元から、揶揄い混じりの笑い声が漏れていた。彼は「食券買いに行こうぜ」と言うと、券売機のレーンの方へと遠ざかっていく。

「あ、秋吉くん、私たちも行こ!」

 慌てて遥人の背を追う椿木に、柚流は待ってと声をかけることもできず、モニターの前で取り残される。
 絆創膏に浮かれていられるのも一瞬で、現実は所詮こんなものだ。柚流は自身の茶髪を掻きむしると、駆け足で後を追った。


 
 食堂の中は案の定多くの生徒で溢れ返っていた。もう昼休みも中頃だから、席に着いて食べている人が大半だ。近くに空いている席はチラホラとあるが、どれも一つや二つで、三人が座れそうなところは窓際の遠くの方にあった。

「あそこにするか」

 遥人がトレーを持ったまま、目線で示して教えてくれる。道を切り開くように歩く彼を先頭に、椿木、柚流と続いた。
 席と席の間にある細い道を縫うように進む。

(そばの汁、なみなみに注いでくれたなあ。ちょっとぶつかったらこぼれそー……)

 トレーを強く握る柚流は、いつもより慎重に運んでいた。目的のテーブルに辿りつくまで、湯気の立つ器をチラチラと確認しながら歩いて目指す。
 しかし、それがよくなかったのだろうか。

「じゃあ早く教室戻って準備しないと――」

 突然立ち上がった女子生徒が、進行方向の通路を塞いだことに、柚流は気づくのが遅れた。

「うわ……っ!!」
 
 女の子に火傷をさせるわけにはいかない。
 咄嗟にそう判断した彼は、器から飛び出るスープが彼女のもとへいかないよう、トレーごと自分の方に傾けた。腹に刺すような痛みが迸る。「……ッ!」思わず顔を歪めてしまうほど強烈な熱さ。それがじわじわとシャツに染み込み、肌を刺激していく。

「あ、ご、ごめんなさい……っ!」

 顔を青くした彼女に、柚流は無理やり唇を釣り上げた。

「い、いやっ、大丈夫」

 左手でトレーを持ちながら、半分以上こぼれて軽くなった器をなんとか元に戻す。トレーからもあふれたスープとそばが床を汚していたが、そこまで気遣えるほど彼に余裕はなかった。

「――秋吉くんどうしたの!?」「ハル大丈夫か!?」

 血相を変えた椿木と遥人が駆け寄ってくる。二人の手にあったトレーは既になく、どうやら先にテーブルについて置いてきたようだ。

「あー、ごめん。ちょっとやらかしたわ」
「なに言ってるの!? 全然ちょっとなんかじゃ……っ、お腹、火傷してないっ?」

 椿木はまるで自分のことのように、出汁色に染まった柚流のシャツを見て狼狽していた。切り揃えられた前髪の下で、つぶらな瞳に涙が浮かんでいる。
 彼女はスカートのポケットから桜色のハンカチを取り出すと、柚流の腹部に押し当てた。

「つ、椿木さん! そんなんしたら汚れちゃうって……!」

 ――しかも匂いもついちゃうし!

「こんなの洗えば取れるから!」
「ッ、でも」
「あっ、あと冷やさないといけないよね。火傷したら早く冷やさないと。……跡が残ったら大変なんだから」
「え?」
 ボソッと呟く低い声に驚くのも束の間。
「――うわッ!?」

 突然、近くにあったコップをわし掴んだ彼女に、水をぶっかけられた。よく冷えているそれは、ジンジンと熱を持つ患部にもよく効く……が、持ち主にも確認しないで随分と大胆すぎやしないか。
 
「ちょっと椿木さ……っ」
「落ち着け椿木!」

 今度は別の人のコップを取ろうとする椿木を、遥人が止めた。

「これ以上やってもユズがびしょ濡れになるだけだ。心配なのは分かるけど、いったん落ち着け」
「あっ……」

 取り乱していた視線が柚流のシャツに固定される。
 
「ご、ごめん、ごめんね秋吉くん。私なんてこと――」
「いいっていいって。オレのためにしてくれたんだろ? たしかにビックリしたけど、さっきよりはマシになったから気にすんな」

 それに柚流には心当たりがあった。なぜ彼女が我を忘れるほど、ここまで動揺してしまったのかってことに。
 
「ユズ、ここは俺が片づけておくから保健室行ってこい」
「……ああ。ありがと」

 あふれたスープでべたついたトレーを遥人が持ってくれる。椿木は不安そうに唇を引き結んだまま、制服の裾を握りしめていた。本当は柚流が傍にいてやりたいところだが、チクチクと皮膚を蝕む痛みにそうも言っていられない。後ろ髪を引かれる思いで足を一歩引くと、野次馬を蹴散らして食堂を後にした。――その背に眉を寄せ、苦し気に見つめる男がいたことには気づかない。

「だから言っただろ。もう貴方には、傷ついてほしくなかったのに」


***


 保健室には誰もいなかった。扉の取っ手に掛けられていたのは、『外出中』という薄っぺらい看板だけ。せめて何時に戻るか、書き残しておいてくれたらよかったのに。

「氷嚢とか……どっかねえかな」

 柚流はシンと静まり返った室内を見渡す。消毒液のような匂いに包まれた保健室の中は、意外とあまり来たことがない。そのせいで何がどこにあるのかも分からない。
 年中健康体の彼にとっては、一番縁のない場所と言っても過言ではなかった。

「はあ……飯食う時間もねえし、もう早退してえ……」

 朝からダサい姿を好きな子に見られ、食堂へ向かう途中ではサッカーボールが直撃し、やっと食事にありつけるかと思いきや火傷を負う始末。身も心も災難続きだ。
 これで帰らせてくれと言って、文句を言う奴がいるだろうか。もしいるならお前も体験してみろと言ってやりたい。

「いや……とりあえず冷やすもん探すか」

 一人で勝手に頭に血を上らせてしまったが、架空の人物に腹立ててる場合ではなかった。
 正直今は、すぐ横になりたい。実はここまで腹を両腕で庇いながら歩いてくるほど、空気に触れるだけで皮膚の痛みが増していたのだ。
 我に返った柚流は、一番近くの戸棚に足を向ける。
 背後でガラッと、扉の開く音がした。
 
「あ、先生――」

 保険医が帰ってきたのだと振り向く柚流の目に、長身の男子生徒の姿が映る。

「ん……? お前」

 同室の後輩だった。なんでここに、と声を掛けようとするよりも先に、膝裏と背中に回った手によって、柚流は勢いよく抱え上げられた。

「はっ!? なに!?」
「じっとしててください」
「いやッ、いやいやいや! なんで急にお姫様抱っこ!? 流石に抵抗あるんですけど!?」

 しかも自分より年下の男にされるって。

「ちょっと下ろせ……ッ」
「チッ、うるさいな。本当は蹲りたいくらい痛いくせに、虚勢張るなよ」
「――えっ」
「俺が貴方をベッドまで運びます。ゆっくり歩くんで、こっちに体預けてください」

 後輩の腕の力がますます強くなった。引き寄せられて、じんわりと染み込むような温もりに包まれる。

「……オ、オレ重いだろ!」
「そうですね。このままだといつ滑り落とすか分からないので、もっとくっついてきたらどうですか」

 言いながら、勝手に歩き始められた。文句を言う間もなかった。

(コイツ、こんなに自分勝手なヤツだったっけ……)

 柚流は渋々観念した。右手でジクジクと痛む腹を押さえ、左手を彼の肩に回す。今まで意識したことはなかったが、触れてみると存外ガタイがいい。
 守られているような安心感に、口から無意識に息を吐いていた。

「てか……なんで分かったんだよ。オレが我慢してるって」
「ずっと見てましたから」
「見てた? ……ああ、お前も食堂で食ってたのか」

 プチ騒動を起こした柚流たちを、周りは好奇の目で見つめていた。きっとその中にこの後輩もいたのだろう。

「じゃあなんでお前は保健室に来たんだ? どっか痛えのか?」

 しっかりした足取りは、どこも怪我なんてしてなさそうだが。

「言わないと分かりませんか」
「は……? なんだよその言い方」
 
 いつの間にかたどり着いていたベッドに体を下ろされる。さらさらなシーツが指に触れる。冷ややかな口調の割には、手つきはこれ以上ないってほど優しい。

「あ、ありがと――」
 
 するっと後輩の腕が抜かれる直前で。
 柚流の唇に、感じたことのない柔らかなものが当たった。深い青を溶かしたような黒い瞳と、視線がかち合う。

「俺は貴方を追いかけてきたんですよ」

 そう言って離れる後輩は、呆気に取られる柚流を置いて戸棚のほうへと歩いていった。目的のものがどこにあるのか分かっているような、迷いのない足つきだった。

「え……? い、いま、なに……?」

 柚流は自分の口元に指で触れる。

(オ、オレ……今……キス、された?)

 衝撃過ぎて、しばらく声が出なかった。

「いつまで呆けてる気ですか」
「そっ、そりゃ……っ、お前がオレに、変なことするから――!」
「変なことって?」
「……あっ……え? てか、お前……だれ」

 戻ってきた後輩を見上げると、そこには知らない美形の男。すっきりした目鼻立ちに、艶のある繊細な黒髪。そういえば間近で見た瞳の色も綺麗だった。
 どうして何の特徴もない男だと認識していたのか分からないくらい、いつの間にか完璧な美青年が立っている。

「冷やせるもの持ってきました。とりあえずこれ当ててください」

 隣に座られて、ベッドのスプリングが軋む。

「いやっ……んなことより、お前の顔……!」
 
 白いタオルにくるまれた大きめの保冷剤を渡されるが、柚流は受け取れなかった。
 だって、どう考えてもおかしい。自分が今まで接してきたあの後輩はどこへいったんだ。

「説明は後でしますから。いったん火傷を冷やしてください」
「あっ、ちょ……っ」

 無理やり腹部に押し当ててくるひやりとした感覚に、肩がぶるっと震えた。

「どうですか? 冷たすぎるならタオルもう一枚巻きますけど」
「ああいや、ちょうどいい……」
「ならよかったです」
 
 涼しげな切れ長の瞳が細まる。

「じゃあこれもついでに剥がしますね」
「え、なに――」
 
 頬に手が伸びてきた。かと思うと、ベリッと音がするほど一気に絆創膏を剥がされた。

「い……ッてえ!?」

 と、突然何してくれてんだコイツは!!

「傷もないのに絆創膏なんておかしいでしょ。さっきボール当たる前に俺が助けたのに」
「ふっ、ふざけんな! せっかく椿木さんが貼ってくれたもんなんだぞ!」

 まさに泣きっ面に蜂。ヒリつく頬に合わせて、心もシクシクと泣いているようだ。

「……先輩。思い出してください。あの時貴方の顔にサッカーボールは当たりませんでしたよね」
「はあ? 何言って……」

 後輩の指先で、弄ぶようにひらひらと花柄の絆創膏が揺られていた。それに気を取られた柚流は、近づく影にも気づかなかった。再び合わさる唇に、吐いた息が吸い込まれる。

「おまッ――ん、ぅッ……!」

 今度は後頭部を押さえ込まれ、簡単には逃がしてくれない。必死に目の前の胸を叩いて抗議するが、それも意味なかった。
 まさかファーストキスだけじゃなく、セカンドキスまで男に奪われるなんて。

(しかもコイツ、しつけえッ!)

 腹部を冷やす保冷剤とは対照的に、柚流の頭の中が沸騰するように熱くなっていく。息もままならない。目尻に涙が滲んできた。

(なんで、オレに、こんなこと――)
 
 至極真っ当な疑問が浮上してきたその時。
 柚流の脳内で、「作り変えられていた」記憶が音を立てるように崩壊した。サッカーボールが飛んできて、避けられず顔面に直撃した記憶。それが見るも無惨に、ガラガラと崩れていくのだ。

「ッ、……ッ?」

 キスが止む。頭の内側を誰かにかき回されているみたいに気持ちが悪くなる。
 愕然と目を見開く柚流のもとへ、真剣な眼差しが降り注ぐ。

「思い出しましたか」
「な、なんだ、これ」
「ゆっくりで大丈夫です。気分が悪いなら、俺に凭れて」

 背中を擦ってくれる手のひらが温かかった。乱れた息を落ち着かせ、不安を煽るような鼓動音に胸元を握りしめる。
 あの時、自分は確かに後輩に助けられたはずだった。ボールは顔に当たらなかった。――けれど、それがまるで「上書き」されていたかのように、何故か別の記憶へと変わっていた。
 柚流の背筋に、得体の知れない悪寒がゾッと走る。全身の産毛が戦くように総毛立つ。

「お前っ、マジで何者なんだよ……!」

 ほとんど八つ当たりに近かった。何が起きているのか全く理解できなくて、背中を擦ってくれる手を振り払った。

「ア、アイツ……っ。オレの知ってる後輩は、どこにいっちゃって――」

 あれ? そ、そもそも、名前……なんだっけ。
 え、なんで思い出せないんだ? 1年以上一緒に暮らしてきて、後輩の名前が分からないなんて、あり得ないのに。まさか、知らないまま何の疑問も抱かなかったのか? オレが? この、オレ自身が?

「――うッ」

 強烈な吐き気に襲われて、口元を押さえる。

「先輩……!」
「さっ、触んな!!」

 怖い。何も信じられなくて、怖い。正しいと思っていたことが正しくなくて、当たり前だと思っていたことが当たり前じゃなくて。

「……すみません、ここまで混乱させるつもりじゃなかったんです。でもこれだけは信じてください。俺は絶対貴方に危害を加えない。貴方の味方です」

 思わず頷きたくなるような、誠実な声。

「……俺、碧葉って言います。フルネームは、椎埼碧葉」

 ――しいさき、あおば?

「本当はもう少しゆっくり話したかったんですが、ここは時間がなさそうです。多分……もうすぐ飛ぶ」

 碧葉は一度視線を逸らした。その先にあるのは、ローチェストの上に置かれたデジタル時計。
 
「柚流先輩。説明はしますから、これだけは伝えさせて」
 
 夜を閉じ込めたような瞳と目が合う。

「この世界は、現実じゃない。全部まがい物だ。実際、俺はこの世界を――」
 
 続く言葉は聞こえなかった。意識が落ちるのは、一瞬だった。