完全に当て馬ポジションの俺。何故か同室の後輩にキスされた上、どうやらここは現実じゃないらしい

 4限の終わりを告げるチャイムが鳴った。委員長の号令に合わせて席を立ち、「ありがとうございました~」とやる気ない声で礼をする柚流は、着席する前に遥人の背中をつついた。
 
「ハル~、オレ先トイレ行ってくるから、席取っといてくんね」
「ああ。じゃあ席の場所スマホに送るから見とけよ」
「あいあーい」

 適当な返事をして彼と教室で分かれる。
 柚流はいつも食堂で昼食を取っているが、一緒に食べるのは大体遥人だ。昼時の食堂は混んでいるため、大勢で行っても席の確保が難しい。高3ともなれば皆でワイワイ食べるよりも、いかに効率よく席を確保して昼飯にありつけるかが重要だった。



「――ふう。スッキリスッキリ」

 トイレで洗った手を自然乾燥させながらタタッと階段を下りる。鏡で見た自分は相変わらず「イケて」なかったが、今更どうすることもできずそのままだ。椿木に既に見られている以上、慌てて整えるのもダサい感じがした。
 それに髪型一つで彼女の心が手に入るなら、これほど長い間片想いもしていない。失恋の痛みに慣れた柚流は、開き直るのも早かった。

「ん? アイツらなにして……」
 
 1階の窓から、6人ほどの女子で群れる集団が視界の端に映る。中庭を突っ切って、どうやら人気のない校舎裏へ向かおうとしているようだ。
 囲まれるようにして中央にいるのは、俯きながら唇を噛みしめる椿木。先頭には釣り目を鋭くした女子生徒の姿があり、ただ事ではない雰囲気が感じ取られる。柚流の頭の中に警笛が鳴った。

「ふッ……ざけんな! またかよ!」

 桐山遙人は学年問わず人気の男だ。だから彼といい感じの椿木は、どうしてもやっかみを受けることが多く、こうして呼び出されるのは何も一度や二度のことじゃなかった。

(この間注意したばっかなのに頭湧いてんのか!? オレも泣いてる椿木さんの顔はもう見たくねえのに!)

 柚流は突き動かされるように渡り廊下へ飛び出す。そして学校指定のサンダルのまま追いかけようとする――が、一瞬目を離した隙にいたのは、女子集団に立ちはだかる遥人の姿。先に食堂へ行ったはずの彼が、どういうわけか椿木を庇って眉を釣り上げている。

「あ……」

 先を越された、と思った。踏み出した足はジャリッと中庭の砂を潰しながら止まる。こんな時でも好きな子の王子様になれない柚流は、静かに息をひそめることしかできない。

「あっ! 危ない……!!」
「――え?」

 そんな時、突然誰かに腕を引っぱられた。誰だ、と声を上げる暇もなかった。物凄いスピードで飛んできたサッカーボールが、背後から顔面すれすれを通っていく。校舎の壁にぶつかり、勢いを殺したボールがトントンッと跳ねる音がした。

「すんませんッ! 大丈夫ッすか!?」
「あ、ああ……」

 振り返ると、一年生らしき男子生徒がいる。冷や汗を垂らしながら立つ彼の後ろには、グラウンドとサッカーゴール、そしてこちらを心配そうに見つめる複数の友人。
 柚流はふっと唇を緩めた。

「大丈夫大丈夫。オレなんも怪我してねえから、そんな焦んなくていいよ」
「マ、マジッすか!?」
「うん。なんか引っ張ってくれたヤツのおかげで当たらなかったし――」

 言いながら隣を見上げる。いまだに力強い腕で肩を抱いてくるコイツは誰なんだろう。

「あれ、お前……」
「大丈夫って何が大丈夫なんですか?」
「え?」
「俺が助けなかったら、貴方の顔は今腫れてるところだったんですよ……っ。そうやって毎回毎回、簡単に許すのはやめてください……」
「な、なんで怒ってんの?」

 低く押し殺したような声に、柚流の瞬きがパチパチと増えた。声の正体は、同じ寮室の見知った後輩だった。

「あ、あの……ほんとすんません」

 気まずそうな1年の謝罪が挟まる。
 
「んっ? ああいやオレは平気だから、コイツのことは気にすんな」
「……は? ちょっと待ってください。俺の言葉ちゃんと聞こえてました?」
「聞こえてた聞こえてた。要するにお前のおかげでオレは怪我しなかったってことだろ? ありがとうな、助かったよ」
 
 柚流は肩に置かれた男の手を数回叩く。「ッ、俺はお礼が聞きたかったわけじゃ――!」

「だからこの手もどかしてくれ。腕ん中暑いわ」
「…………」
「あ、お前も早くボール拾って戻れよ。グラウンドにいる友達がそわそわしてっから」
 
 隣が静かになったことを気にも留めず、柚流は1年の男子にそう促した。「あ、あざっす!」という言葉と共に、ボールを持って遠ざかっていく背中を見送る。まだ離れない肩の手を容赦なく振り払った。

「じゃあな。オレも食堂行くわ」
「……待ってください」
「え、なに、まだなんかあんの?」

 用はもう終わったはずだ。今度は何だとルームメイトを振り返る。輪郭がボヤけて見えるほど、たいして記憶にも残らない凡庸な顔立ちから、硬い声が聞こえた。

「どうせすぐ忘れるでしょうけど、一応伝えておきます。……貴方にはなるべく、怪我してほしくないので」
「お、おお」

 ――ケガって、オレそこまで危なっかしくねえけど。

「いいですか? 貴方はこの後食堂に行きますよね。でもそこで――――して、――するんです。だから絶対、――――を――――でください」
「……はっ?」

 え、いま何て言った?
 聞こえなかったというよりは、むしろそこだけ切り取られているみたいに音がなかった。口ははっきり動いているのに、周りの喧騒も賑やかなままなのに、男の発したある部分だけが途切れ途切れに音を失くしていた。
 
「分かりましたか?」
「あ……うん? もしかしてお前、オレに読唇術でもさせようとしてる?」
「……聞き取れないんですか」
「そりゃ――」

 そう、と言いかける。が、それよりも早く、柚流は誰かから名前を呼び掛けられた。
 
「ユズ!」

 遥人だ。そしてその後ろにいるのは椿木。先ほど険しい顔をしていた女子集団はもういない。

「お前こんなところで一人で突っ立って何してるんだ?」
「え? 一人?」
 
 咄嗟に柚流は後輩がいた場所に視線をやった。白塗りの壁だけが目に入る。

「あれ?」

 風が吹き、中庭の金木犀がザアッと揺れた。何度か辺りを見回してみたが、そこには最初から誰もいなかったかのように、金木犀の甘い香りが漂っているだけだ。
 
「どうしたユズ?」
「……いや、さっきサッカーボールが飛んできて、オレに当たりそうだったんだけど――」
「あ、ほんとだね。秋吉くん、ここに擦り傷できてるよ」
「ええっ、マジ!?」

 椿木が自分の右頬を指さしながら教えてくれる。

「たしかに赤くなってるな」

 顔を寄せてきた遥人にもそう言われた。二人の表情は真剣そのもので、冗談を言っているようにも、嘘を吐いているようにも思えなかった。

(あれ……さっきボール当たったっけ? 頭の横は通ってったけど、アイツが引っ張ってくれたから痛くもなんともなかったのに)

 柚流は指摘された頬をさすってみる。やっぱり吹き出物一つすらない、滑らかな肌触りだ。ヒリヒリすることもない。

「私、絆創膏持ってるから貼ってあげるよ」

 しかし、椿木のその一言に、些細な違和感はすぐに頭の中から消え失せた。

「い、いいの?」

 好きな子に怪我の治療をしてもらう。――それは柚流にとってはこの上ない最高のイベントで、憧れのシチュエーションの内の一つでもあった。

「もちろん。ただちょっと可愛い絆創膏になっちゃうんだけど、大丈夫かな」
「そんなの全然! むしろオレくらいのイケメンだったら、すげえ似合っちゃうと思うし……!」

 テンションが上がりすぎて適当な発言も出る。
 小さく笑う椿木に唇が緩むのも抑えられず、柚流はバクバクと昂る鼓動に唾を飲み込んだ。
 それに、自分はそもそも最初から一人だったような気もする。……いや、気がするんじゃなくて、絶対そうだ。腕も引っぱられなかったし、ボールも頭にぶつかった。
 柚流の脳内へ、サッカーボールが顔面にダイレクトアタックされた映像が流れる。やけにリアルなそれは、記憶が「改竄」されたことにも気づかせない。
 
(うわ、なんか思い出してきたら、顔もヒリヒリしてきた……)

「秋吉くん。じっとしててね」
「う、うん……っ」

 小柄な彼女が手を伸ばして貼ってくれる。
 ――当然そこには赤く染めた頬があるだけで、かすり傷すら見当たらなかったが。