「――なあ、ほんとにここに来るんだよな?」
「疑ってるんですか? 俺のこと」
「いや違えよ。違えけどさ」
中庭に続く渡り廊下。その腰壁の裏で、柚流は座ったまま後ろから抱きしめてくる碧葉に、ここに来てからずっと首をすくませていた。
放課後だというのに周りに人はいない。いまだ咲き誇ったままの金木犀が風に揺れ、葉の擦れ音だけが耳に届く。ふんわりと、奥行きのある甘い香りがした。
「ああもう、くすぐってえんだよ!」
「感じてるんじゃなくて?」
「ッ、はあ!? ふざけんなコイツ! 調子に乗んな!」
昨日は随分盛り上がりすぎてしまった。あの後教室で誘われるがまま、そして戻ってきた寮でもひたすら求め合ってしまったこと。思い返すだけでも落ち着かなくなって、顔が熱くなる。
「……先輩。そんな顔されると、抑えられないんですけど」
「待てッ、待て待て待て! 今からオレたちには重要な任務があるだろ……!」
ぐぐっと後ろから顔を寄せてくる碧葉を、両手で必死にガードする。緊張感の薄い彼は、昨日からずっとこんな調子。片時も離れたくないと言わんばかりに、くっついてこようとする。
朝は《時間転移》も行われなかったため、危うく遅刻しかけた。教室に辿りつく直前まで、碧葉が手を繋いだまま離さなかったからだ。本来なら椿木に近づけない彼が、三年の廊下まで上がって来られたのは、ひとえに”縛り”が弱まってきている証拠ともいえた。
「あ、足音する」
柚流が背後の碧葉と攻防を繰り広げていると、渡り廊下に近づく軽いサンダルの音が聞こえた。
「ハルか?」
椿木は今日、遥人によって放課後の中庭に呼び出される。それを直前で捕まえて、一人でいた彼女から依り代を奪おうというのが今回の作戦なのだが、当然中庭には先に遥人が来る。腰壁の裏で待機する柚流は、椿木がやってくるまで一度やり過ごさなければならなかった。
「碧葉っ、いったん離れろ……!」
「もう来たんですか?」
「もうって、結構時間経ってるだろ!」
こそこそと喋っている間にも、足音は刻一刻と迫っている。
「別にじっとしてたらバレないのに」
「オレがドキドキするから無理なんだ……!」
頼むから、平常心のまま待機くらいさせてくれ――。
柚流の必死さが伝わったのか、微妙な顔つきをした碧葉がため息を吐きながら力を緩めた。
素早く腕の中から這い出る柚流。ほっと一息ついた瞬間。頭上から思いもよらぬ声が掛かった。
「――秋吉くん」
「……えっ?」
腰壁越しに椿木が立っていた。唇の端に、困ったような微笑みを乗せて。
「……やっぱりバレてたんですね」
呟いた碧葉が立ち上がる。
「え、ど、どういうことだ?」
目を白黒させる柚流に、彼は手を貸してくれた。引っ張られるように腰を上げる。小柄な椿木と視線が合った。
「ごめんね、急に驚かせて」
「あ、いや、オレは全然」
「……あの、よかったら中庭で話さない? 秋吉くん……と、そこの彼も」
彼女は柚流と碧葉を交互に見た。穏やかな声で、混じり気のない澄んだ瞳をしていた。
小石を踏み鳴らす三人分の足音。散った金木犀が絨毯のように敷かれ、豊潤な甘い花の香りに包まれる。
先を行く椿木がスカートの裾を翻しながら振り返った。
「――まずは、ごめんなさい。あなたを巻き込んで、この理想郷へ連れて来てしまったこと」
彼女の視線は碧葉を向いている。
「きっと、読んだよね。私の部屋に置いてあったあの本」
「はい。あんなもので自殺を図るなんて、なかなか肝が据わってますね。ただの自殺教唆本でしたよ」
「あちょっ……ちょっと碧葉」
やたらとげとげしい言葉に、柚流は目を剝いた。自分にならいいが、彼女に聞かせるのは少々心苦しかった。
「なんですか。この期に及んでまだこの女を庇うんですか」
「いやっ、そういうわけじゃねえけど……その、もうちょっとこう……マイルドにというか、なんというか」
「無理です。俺、もとからこういう人間なんで。気遣いとかできません」
「ええ……っ」
――開き直りすぎだろ。まさかコイツ、現実でも敵ばっか作ってるんじゃねえだろうな。
「ふふふっ」
椿木が口に手を当て笑う。
「すごく仲良いんだね、二人とも」
「えっ? あ、ま、まあ――」
「当たり前だろ。俺たち付き合ってるんで」
ラブラブなんで、と言う碧葉に肩を抱かれた。
「おっ、おおおおまっ!」
柚流はボッと沸騰した。口がわなわなと震え、体中の穴という穴から汗が滲み出るようだった。
目の前の椿木から、「え……っ」と動揺するような声が聞こえる。
「あ、秋吉くんと……?」
「はい。なんか文句でもありますか」
「うっ、ううん。も、文句じゃないけど……でも、秋吉くんは私の――」
「知ってます。柚流先輩があんたのイマジナリーフレンドだってこと。知った上で、付き合ってるんです。俺は先輩のことが、好きだから」
正々堂々とした告白に、凛とした表情。肩を抱く碧葉の手が強まって、柚流の熱がじわじわと指先まで広がっていく。
――ずりい。こんな風に言われたら、オレもあふれちゃうじゃんか。椿木さんに教えるつもり、なかったのに。
柚流は隣に立つ彼のシャツを握ると、震える唇を開いた。
「……オレも。オレも碧葉のことが好きだから、付き合ってる」
「秋吉くん」
「椿木さんのために生まれた存在なのに、勝手しちゃってごめん。でも、オレ本気で好きになっちゃったんだ。離れたくねえって思うぐらい、オレは本気で――」
優しく目元をやわらげた椿木が、小さく笑っている。
「秋吉くん。私は秋吉くんが決めた選択なら、何も言わないよ」
「椿木さん……」
「応援したい。したいけど、わざわざ二人でここまで来たって言うことは、そういうことだよね」
この理想郷を、終わらせに来たんだよね――。
彼女は諦め混じりに呟いた。自身の黒髪を縛っていたヘアゴムを解き、手のひらにそれを乗せる。夕焼けに反射した紅玉がまばゆく照っている。
「……でも、いいの? これを壊したら、彼とは二度と会えなくなっちゃうよ」
「そっ……れは、」
「あんたには関係ありません。俺たちのことは俺たちで解決するんで。だからそれ、早く渡してください」
碧葉の足元がジャリッと音を立てた。しかし透明な壁にぶつかったように、それ以上進むことはできなかった。
「ごめんね。これは渡せない」
「なに……っ」
「だってこれは、私の大切なものだから。桐山くんが私にくれた、私だけの宝物だから。――だからこれは、私の手で壊すの」
覚悟を持った宣言に、柚流はハッと息を呑んだ。
「それ……、ハルにもらった物だったのか?」
「うん。現実のね。……私、いつも髪を下ろしてたから。リュックのファスナーに髪引っかけちゃった私を桐山くんが助けてくれて、その時妹のお下がりでよかったらどうぞ、ってくれたものなの。……彼にとってはなんでもないことだったかもしれないけど、私はその日からずっと、目が離せなくなっちゃって」
――ああそっか。ハルは現実でも、椿木さんに優しい良いヤツだったんだな。
「だからこれを壊すときは、私が絶対するって決めてたの」
椿木は手の中の依り代を握りしめた。碧葉を見つめ、頭を下げる。
「改めて、本当にごめんなさい。誰かを巻き込んでしまったってことに気づいてから、今日にいたるまで。ループを繰り返す不完全な理想郷だったけど、私はここが幸せすぎて、終わらせることができなかった。関係ないあなたをこんなところに閉じ込めちゃって、本当にごめんなさい」
「……これは、『不完全』だったんですか」
「うん。多分現実の私は生きてるから。死にたかったのに、死にきれなかったの」
あっけらかんと言い放つ彼女に、碧葉はなにか考え込むように黙した。影が差すその表情はどこか危うさを秘め、柚流は言いようのないざわつきに眉をひそめる。理由は分からないが、なんだかあまり、放っておいてはいけないような――。
「じゃあ、終わらせるよ」
しかし、椿木の一言に、柚流の意識は逸らされた。
「秋吉くんもたくさんありがとう」
「……ううん。こちらこそ。椿木さんと一緒に学校生活送れて、楽しかった」
「ふふ、私もだよ。私も大好きな『友達』と通えてうれしかった。本当に本当に、幸せだったよ」
満開の花が咲いたような笑み。椿木は握りしめたこぶしを振り上げると、手の中のそれを思いきり叩き落した。ガラスの割れる音がする。地面が鳴動するように、重い地響きを立て始める。
「先輩……ッ!」
抱きしめてくれる碧葉のぬくもり。足元から這い上がる低い振動。柚流は肌に食い込む勢いで抱きしめ返す――瞬間。
耳を劈く轟音が鳴った。脳が揺れ、全身を襲う爆風にかかとが跳ねた。
甘い甘い濃厚な香り。金木犀の黄金が、空一面に舞っている。
「あ、あお、ば……っ!」
柚流は目の前の体に必死にしがみつく。離れないように。離さないように。
足元が崩れる。世界が崩壊する。
唇に、柔らかい熱が触れた。
「――先輩」
青い瞳に自分だけが映っている。
「俺はずっと、貴方の傍にいますからね」
それは甘美で美しい、愛しい人の色をしていた。
***
揺蕩う。暗く、深い、海のような波に揺られて。
***
瞼に痛いほどの日が差している。髪を撫でる柔らかい手つきが心地いい。
柚流は夢から目覚めるように、睫毛を揺らした。
「……あ、れ?」
真っ白な天井。肌触りのいいシーツ。ふかふかの枕に頭を預ける自分。
「――おはようございます。先輩」
霞んだ視界の端で、椅子に座った青年。深めた笑みがこちらを見ている。
「俺のこと、覚えてますよね?」
「……あ」
覚えている。たしかに。あのよく分からない世界で苦楽を共にした大切な人。
「……あお、ば」
「はい。正解です。貴方の恋人の、椎崎碧葉ですよ」
握られた指先に、チュッと口づけられた。確かめるように一本一本、形をなぞられて、彼の骨張った指と絡み合う。根元を擦られるとこそばゆい。
「っ、ここ……どこだ?」
柚流はなるべく意識しないよう、辺りを見回した。
「ここは病院です」
「病院?」
「はい、戻ってきたんですよ。あの世界から脱出した俺たちは、『現実』の自分たちへ」
――え、現実?
「不思議そうな顔してどうしたんですか? もしかして忘れちゃったんですか?」
「……あれ、オレって――?」
「俺と先輩は、二人とも、あの女の投身自殺に巻き込まれた。要は『通行人』だったんです。先輩の頭にも、何か重いものが降ってきたような、そんな強い衝撃がありましたよね?」
揺るぎない声。柚流の脳内に、言われた通りの記憶が浮かび上がって、染みこんでいく。
あの日。自分はビルの付近を歩いていた。歩いていたら、突然上から降ってきた衝撃に、気を失った。たしか正面にも一人いた気がする。知らない男。あれはきっと、碧葉だったんだ。
「あー、そうだ。そうだったそうだった」
柚流は言い聞かせるように頷く。……なにか、喉に小骨でも刺さっているような、得体の知れない奇妙な違和感があったが、そんなことは別に大したことじゃない。
「よかった。思い出したんですね」
だって碧葉が幸せそうに笑ってくれるから。
「俺は数日前に目が覚めて、もう動けるぐらいまで回復したんです。でも先輩のほうが症状は重かったみたいで」
「あ、マジ? オレ、全然どこも痛くねえんだけど」
「じゃあすっかり治ったんですね。これならすぐ退院できると思いますよ」
「おお、やったな」
最初の内はぼやけていた視界も、今は晴れて清潔な室内を映している。清々しいほどの晴天が眩しい。
「体、起こしますね。喉も渇いたでしょ?」
機械音を立てながら背もたれが上がっていく。水差し取ってきますね、という碧葉が椅子を立ち、このまま行くかと思いきや流れるように唇を寄せてくると、目の前で軽いリップ音。してやったりと言わんばかりに彼は目尻を細めながら、部屋を後にした。
「ア、アイツ……!」
起き抜けに心臓に悪い。耳元で早鐘が鳴っている。
柚流は逸らした視線の先で、リモコンを見つけた。恐らくテレビ用のものだろう。気を紛らわせるように赤い電源ボタンを押す。
『――続いてのニュースです。本日明け方頃、××市内の大型病院で、入院中の患者が屋上から転落し、その後死亡が確認される事故が発生しました。警察によりますと、亡くなったのは滝浦高校に通う男子学生と見られ、患者は以前、別の廃ビルの屋上から転落した女子学生と接触し、頭などを強く打った意識不明の重体となっていました。また、その女子学生についても同病院に入院中でしたが、その後、死――』
「あれ、いつの間にテレビつけたんですか?」
ぶつっと映像が途切れた。なんのことはない。ボタンに指を掛けたままの柚流の上から、戻ってきた碧葉が押しただけだった。ニコリと弓なりに細めた目と、視線が合う。
「水、持ってきましたよ。飲みますよね?」
「あ、ああ……」
コップを渡され、水を注がれる。柚流は上げた視界の中で、見慣れない物に目が吸い寄せられた。
「碧葉……お前、ピアスなんてつけてたっけ」
彼の両耳で光を放つ、昏い夜を宿したような耳飾り。
「……ああ、これはもともと持ってた物なんです。手元にあったんで、つけてみただけですよ」
「へえ~。いいな、似合ってんじゃん」
「ほんとですか?」
パッと明るく輝いた瞳に、心臓が跳ねあがった。柚流は落ち着かせるように水を一気に飲み干した。
「先輩もつけましょう」
「え、オレも?」
「はい。俺のを片方あげますから。ペアでつけるのはどうですか?」
空になったコップを机に置いてくれる。
「うーん、でも穴開けんの痛えだろ」
「俺がやりますよ。痛くないように優しくするんで」
それに、と碧葉が続ける。彼は頬を両手で包み込んでくると、蕩けるような笑みを浮かべた。
「ここを出たら、俺と一緒に暮らしましょう。貴方の好きな場所へ行って、好きな食べ物を食べて、好きな景色を眺めて……デートもたくさんしましょう」
「……それ、あの時言ってたやつだな」
「そうですよ。貴方としたいこと、貴方『に』したいこと、俺はたくさんあるんです」
唇に熱が触れた。甘く絡んでくるそれに、胸の奥がギュッと弾けて、すぐにクラクラする。余計なことは考えられない。コイツとならなんでもいいかって、海へ沈むように溺れてしまう。
「――大好きです。柚流先輩」
緩んだ瞳の奥に、仄暗い執着の影。彼のピアスが爛々と、妖しく光っていた。
「俺は貴方を諦めないし手放さない。……だから俺と一生、一緒にいてくださいね」
――だってここは俺だけの『理想郷』、ですから。
【完】
「疑ってるんですか? 俺のこと」
「いや違えよ。違えけどさ」
中庭に続く渡り廊下。その腰壁の裏で、柚流は座ったまま後ろから抱きしめてくる碧葉に、ここに来てからずっと首をすくませていた。
放課後だというのに周りに人はいない。いまだ咲き誇ったままの金木犀が風に揺れ、葉の擦れ音だけが耳に届く。ふんわりと、奥行きのある甘い香りがした。
「ああもう、くすぐってえんだよ!」
「感じてるんじゃなくて?」
「ッ、はあ!? ふざけんなコイツ! 調子に乗んな!」
昨日は随分盛り上がりすぎてしまった。あの後教室で誘われるがまま、そして戻ってきた寮でもひたすら求め合ってしまったこと。思い返すだけでも落ち着かなくなって、顔が熱くなる。
「……先輩。そんな顔されると、抑えられないんですけど」
「待てッ、待て待て待て! 今からオレたちには重要な任務があるだろ……!」
ぐぐっと後ろから顔を寄せてくる碧葉を、両手で必死にガードする。緊張感の薄い彼は、昨日からずっとこんな調子。片時も離れたくないと言わんばかりに、くっついてこようとする。
朝は《時間転移》も行われなかったため、危うく遅刻しかけた。教室に辿りつく直前まで、碧葉が手を繋いだまま離さなかったからだ。本来なら椿木に近づけない彼が、三年の廊下まで上がって来られたのは、ひとえに”縛り”が弱まってきている証拠ともいえた。
「あ、足音する」
柚流が背後の碧葉と攻防を繰り広げていると、渡り廊下に近づく軽いサンダルの音が聞こえた。
「ハルか?」
椿木は今日、遥人によって放課後の中庭に呼び出される。それを直前で捕まえて、一人でいた彼女から依り代を奪おうというのが今回の作戦なのだが、当然中庭には先に遥人が来る。腰壁の裏で待機する柚流は、椿木がやってくるまで一度やり過ごさなければならなかった。
「碧葉っ、いったん離れろ……!」
「もう来たんですか?」
「もうって、結構時間経ってるだろ!」
こそこそと喋っている間にも、足音は刻一刻と迫っている。
「別にじっとしてたらバレないのに」
「オレがドキドキするから無理なんだ……!」
頼むから、平常心のまま待機くらいさせてくれ――。
柚流の必死さが伝わったのか、微妙な顔つきをした碧葉がため息を吐きながら力を緩めた。
素早く腕の中から這い出る柚流。ほっと一息ついた瞬間。頭上から思いもよらぬ声が掛かった。
「――秋吉くん」
「……えっ?」
腰壁越しに椿木が立っていた。唇の端に、困ったような微笑みを乗せて。
「……やっぱりバレてたんですね」
呟いた碧葉が立ち上がる。
「え、ど、どういうことだ?」
目を白黒させる柚流に、彼は手を貸してくれた。引っ張られるように腰を上げる。小柄な椿木と視線が合った。
「ごめんね、急に驚かせて」
「あ、いや、オレは全然」
「……あの、よかったら中庭で話さない? 秋吉くん……と、そこの彼も」
彼女は柚流と碧葉を交互に見た。穏やかな声で、混じり気のない澄んだ瞳をしていた。
小石を踏み鳴らす三人分の足音。散った金木犀が絨毯のように敷かれ、豊潤な甘い花の香りに包まれる。
先を行く椿木がスカートの裾を翻しながら振り返った。
「――まずは、ごめんなさい。あなたを巻き込んで、この理想郷へ連れて来てしまったこと」
彼女の視線は碧葉を向いている。
「きっと、読んだよね。私の部屋に置いてあったあの本」
「はい。あんなもので自殺を図るなんて、なかなか肝が据わってますね。ただの自殺教唆本でしたよ」
「あちょっ……ちょっと碧葉」
やたらとげとげしい言葉に、柚流は目を剝いた。自分にならいいが、彼女に聞かせるのは少々心苦しかった。
「なんですか。この期に及んでまだこの女を庇うんですか」
「いやっ、そういうわけじゃねえけど……その、もうちょっとこう……マイルドにというか、なんというか」
「無理です。俺、もとからこういう人間なんで。気遣いとかできません」
「ええ……っ」
――開き直りすぎだろ。まさかコイツ、現実でも敵ばっか作ってるんじゃねえだろうな。
「ふふふっ」
椿木が口に手を当て笑う。
「すごく仲良いんだね、二人とも」
「えっ? あ、ま、まあ――」
「当たり前だろ。俺たち付き合ってるんで」
ラブラブなんで、と言う碧葉に肩を抱かれた。
「おっ、おおおおまっ!」
柚流はボッと沸騰した。口がわなわなと震え、体中の穴という穴から汗が滲み出るようだった。
目の前の椿木から、「え……っ」と動揺するような声が聞こえる。
「あ、秋吉くんと……?」
「はい。なんか文句でもありますか」
「うっ、ううん。も、文句じゃないけど……でも、秋吉くんは私の――」
「知ってます。柚流先輩があんたのイマジナリーフレンドだってこと。知った上で、付き合ってるんです。俺は先輩のことが、好きだから」
正々堂々とした告白に、凛とした表情。肩を抱く碧葉の手が強まって、柚流の熱がじわじわと指先まで広がっていく。
――ずりい。こんな風に言われたら、オレもあふれちゃうじゃんか。椿木さんに教えるつもり、なかったのに。
柚流は隣に立つ彼のシャツを握ると、震える唇を開いた。
「……オレも。オレも碧葉のことが好きだから、付き合ってる」
「秋吉くん」
「椿木さんのために生まれた存在なのに、勝手しちゃってごめん。でも、オレ本気で好きになっちゃったんだ。離れたくねえって思うぐらい、オレは本気で――」
優しく目元をやわらげた椿木が、小さく笑っている。
「秋吉くん。私は秋吉くんが決めた選択なら、何も言わないよ」
「椿木さん……」
「応援したい。したいけど、わざわざ二人でここまで来たって言うことは、そういうことだよね」
この理想郷を、終わらせに来たんだよね――。
彼女は諦め混じりに呟いた。自身の黒髪を縛っていたヘアゴムを解き、手のひらにそれを乗せる。夕焼けに反射した紅玉がまばゆく照っている。
「……でも、いいの? これを壊したら、彼とは二度と会えなくなっちゃうよ」
「そっ……れは、」
「あんたには関係ありません。俺たちのことは俺たちで解決するんで。だからそれ、早く渡してください」
碧葉の足元がジャリッと音を立てた。しかし透明な壁にぶつかったように、それ以上進むことはできなかった。
「ごめんね。これは渡せない」
「なに……っ」
「だってこれは、私の大切なものだから。桐山くんが私にくれた、私だけの宝物だから。――だからこれは、私の手で壊すの」
覚悟を持った宣言に、柚流はハッと息を呑んだ。
「それ……、ハルにもらった物だったのか?」
「うん。現実のね。……私、いつも髪を下ろしてたから。リュックのファスナーに髪引っかけちゃった私を桐山くんが助けてくれて、その時妹のお下がりでよかったらどうぞ、ってくれたものなの。……彼にとってはなんでもないことだったかもしれないけど、私はその日からずっと、目が離せなくなっちゃって」
――ああそっか。ハルは現実でも、椿木さんに優しい良いヤツだったんだな。
「だからこれを壊すときは、私が絶対するって決めてたの」
椿木は手の中の依り代を握りしめた。碧葉を見つめ、頭を下げる。
「改めて、本当にごめんなさい。誰かを巻き込んでしまったってことに気づいてから、今日にいたるまで。ループを繰り返す不完全な理想郷だったけど、私はここが幸せすぎて、終わらせることができなかった。関係ないあなたをこんなところに閉じ込めちゃって、本当にごめんなさい」
「……これは、『不完全』だったんですか」
「うん。多分現実の私は生きてるから。死にたかったのに、死にきれなかったの」
あっけらかんと言い放つ彼女に、碧葉はなにか考え込むように黙した。影が差すその表情はどこか危うさを秘め、柚流は言いようのないざわつきに眉をひそめる。理由は分からないが、なんだかあまり、放っておいてはいけないような――。
「じゃあ、終わらせるよ」
しかし、椿木の一言に、柚流の意識は逸らされた。
「秋吉くんもたくさんありがとう」
「……ううん。こちらこそ。椿木さんと一緒に学校生活送れて、楽しかった」
「ふふ、私もだよ。私も大好きな『友達』と通えてうれしかった。本当に本当に、幸せだったよ」
満開の花が咲いたような笑み。椿木は握りしめたこぶしを振り上げると、手の中のそれを思いきり叩き落した。ガラスの割れる音がする。地面が鳴動するように、重い地響きを立て始める。
「先輩……ッ!」
抱きしめてくれる碧葉のぬくもり。足元から這い上がる低い振動。柚流は肌に食い込む勢いで抱きしめ返す――瞬間。
耳を劈く轟音が鳴った。脳が揺れ、全身を襲う爆風にかかとが跳ねた。
甘い甘い濃厚な香り。金木犀の黄金が、空一面に舞っている。
「あ、あお、ば……っ!」
柚流は目の前の体に必死にしがみつく。離れないように。離さないように。
足元が崩れる。世界が崩壊する。
唇に、柔らかい熱が触れた。
「――先輩」
青い瞳に自分だけが映っている。
「俺はずっと、貴方の傍にいますからね」
それは甘美で美しい、愛しい人の色をしていた。
***
揺蕩う。暗く、深い、海のような波に揺られて。
***
瞼に痛いほどの日が差している。髪を撫でる柔らかい手つきが心地いい。
柚流は夢から目覚めるように、睫毛を揺らした。
「……あ、れ?」
真っ白な天井。肌触りのいいシーツ。ふかふかの枕に頭を預ける自分。
「――おはようございます。先輩」
霞んだ視界の端で、椅子に座った青年。深めた笑みがこちらを見ている。
「俺のこと、覚えてますよね?」
「……あ」
覚えている。たしかに。あのよく分からない世界で苦楽を共にした大切な人。
「……あお、ば」
「はい。正解です。貴方の恋人の、椎崎碧葉ですよ」
握られた指先に、チュッと口づけられた。確かめるように一本一本、形をなぞられて、彼の骨張った指と絡み合う。根元を擦られるとこそばゆい。
「っ、ここ……どこだ?」
柚流はなるべく意識しないよう、辺りを見回した。
「ここは病院です」
「病院?」
「はい、戻ってきたんですよ。あの世界から脱出した俺たちは、『現実』の自分たちへ」
――え、現実?
「不思議そうな顔してどうしたんですか? もしかして忘れちゃったんですか?」
「……あれ、オレって――?」
「俺と先輩は、二人とも、あの女の投身自殺に巻き込まれた。要は『通行人』だったんです。先輩の頭にも、何か重いものが降ってきたような、そんな強い衝撃がありましたよね?」
揺るぎない声。柚流の脳内に、言われた通りの記憶が浮かび上がって、染みこんでいく。
あの日。自分はビルの付近を歩いていた。歩いていたら、突然上から降ってきた衝撃に、気を失った。たしか正面にも一人いた気がする。知らない男。あれはきっと、碧葉だったんだ。
「あー、そうだ。そうだったそうだった」
柚流は言い聞かせるように頷く。……なにか、喉に小骨でも刺さっているような、得体の知れない奇妙な違和感があったが、そんなことは別に大したことじゃない。
「よかった。思い出したんですね」
だって碧葉が幸せそうに笑ってくれるから。
「俺は数日前に目が覚めて、もう動けるぐらいまで回復したんです。でも先輩のほうが症状は重かったみたいで」
「あ、マジ? オレ、全然どこも痛くねえんだけど」
「じゃあすっかり治ったんですね。これならすぐ退院できると思いますよ」
「おお、やったな」
最初の内はぼやけていた視界も、今は晴れて清潔な室内を映している。清々しいほどの晴天が眩しい。
「体、起こしますね。喉も渇いたでしょ?」
機械音を立てながら背もたれが上がっていく。水差し取ってきますね、という碧葉が椅子を立ち、このまま行くかと思いきや流れるように唇を寄せてくると、目の前で軽いリップ音。してやったりと言わんばかりに彼は目尻を細めながら、部屋を後にした。
「ア、アイツ……!」
起き抜けに心臓に悪い。耳元で早鐘が鳴っている。
柚流は逸らした視線の先で、リモコンを見つけた。恐らくテレビ用のものだろう。気を紛らわせるように赤い電源ボタンを押す。
『――続いてのニュースです。本日明け方頃、××市内の大型病院で、入院中の患者が屋上から転落し、その後死亡が確認される事故が発生しました。警察によりますと、亡くなったのは滝浦高校に通う男子学生と見られ、患者は以前、別の廃ビルの屋上から転落した女子学生と接触し、頭などを強く打った意識不明の重体となっていました。また、その女子学生についても同病院に入院中でしたが、その後、死――』
「あれ、いつの間にテレビつけたんですか?」
ぶつっと映像が途切れた。なんのことはない。ボタンに指を掛けたままの柚流の上から、戻ってきた碧葉が押しただけだった。ニコリと弓なりに細めた目と、視線が合う。
「水、持ってきましたよ。飲みますよね?」
「あ、ああ……」
コップを渡され、水を注がれる。柚流は上げた視界の中で、見慣れない物に目が吸い寄せられた。
「碧葉……お前、ピアスなんてつけてたっけ」
彼の両耳で光を放つ、昏い夜を宿したような耳飾り。
「……ああ、これはもともと持ってた物なんです。手元にあったんで、つけてみただけですよ」
「へえ~。いいな、似合ってんじゃん」
「ほんとですか?」
パッと明るく輝いた瞳に、心臓が跳ねあがった。柚流は落ち着かせるように水を一気に飲み干した。
「先輩もつけましょう」
「え、オレも?」
「はい。俺のを片方あげますから。ペアでつけるのはどうですか?」
空になったコップを机に置いてくれる。
「うーん、でも穴開けんの痛えだろ」
「俺がやりますよ。痛くないように優しくするんで」
それに、と碧葉が続ける。彼は頬を両手で包み込んでくると、蕩けるような笑みを浮かべた。
「ここを出たら、俺と一緒に暮らしましょう。貴方の好きな場所へ行って、好きな食べ物を食べて、好きな景色を眺めて……デートもたくさんしましょう」
「……それ、あの時言ってたやつだな」
「そうですよ。貴方としたいこと、貴方『に』したいこと、俺はたくさんあるんです」
唇に熱が触れた。甘く絡んでくるそれに、胸の奥がギュッと弾けて、すぐにクラクラする。余計なことは考えられない。コイツとならなんでもいいかって、海へ沈むように溺れてしまう。
「――大好きです。柚流先輩」
緩んだ瞳の奥に、仄暗い執着の影。彼のピアスが爛々と、妖しく光っていた。
「俺は貴方を諦めないし手放さない。……だから俺と一生、一緒にいてくださいね」
――だってここは俺だけの『理想郷』、ですから。
【完】

