決行は文化祭の前日がいい。その日は遅くまで時間が飛ばないから、という碧葉の助言により、柚流は放課後の練習を終えて早々、校舎を後にした。
教室にはまだ椿木と遥人が残っている。二人は明日の本番に備え、もう少し練習する予定らしい。
椿木とは先日、走り去る形で変な別れ方をしてしまったが、彼女は特に何も気にしていなかった。いつも通り笑って、いつも通り話しかけてくれる。まさか部屋に侵入されるとは微塵も思っていないだろう。少し申し訳ないくらいだった。
「――けど、だからってこれはねえだろ!?」
柚流は耳の横を垂れる長い黒髪を、顔の前で交差させる。少々埃臭いそれは、演劇部から無断で借りてきたウィッグ。そして身に纏うのは、女子用の制服。肌寒い風が、股の間を通り抜けて心許ない。
「文句言わないでください。先輩と女子寮に潜入するには、これしかなかったんです」
「お前は変装してねえのに!?」
「俺は『個』として認識されないんで。このまま行っても、どうせスルーされます」
「えっ……そ、そういうもんなのか?」
「はい。そういうもんなんです」
隣を堂々と歩く碧葉は、どこからどう見ても美しい青年にしか見えない。しかし、彼を『椎崎碧葉』だと認識するまでは、柚流自身もぼやけた印象しか持てなかったことを思い出す。まるでそこにいようがいまいが関係ない、空気のような存在。その感じ方が通常なのであれば、たしかにそのままで行ったとて、女子から非難をくらうことはないだろう。
「先輩、そんなギクシャクした歩き方してたら、逆におかしいですよ」
「……うるせえ!」
最後の灯火を放つ夕日が、夜の闇に侵食されつつある。柚流と碧葉は藍色に滲んだ空の下、女子寮へとたどり着いた。
計画は順調にいった。まずはマスターキーの保管されている寮長室への侵入。柚流は終始ビクビクと肩を揺らしていたが、何のことはなかった。寮長室に寮長はおらず、平然とした態度の碧葉が、あっさりと鍵を入手した。
続いて、二階にある椿木の部屋までの通路。構造は男子寮と瓜二つのため、迷うこともなく簡単だ。最短経路を割り出し、すぐさま向かった。
「あ、花巻……」
しかし途中、柚流は立ち止まった。クラスメイトの花巻がいたからではなく、彼女の様子が変だったからだ。意思のない人形――そう表してもおかしくないほど、瞳に宿る生気が空っぽで。自分と話す時は、もう少し人間らしい表情をしていたのに。
「先輩、早く行きますよ」
「……なあ、碧葉が知ってるこの世界の人間って、皆『ああ』なのか?」
恐る恐る指差す。柚流には正直、「偽物」と「本物」の違いなんて、せいぜい話が通じない程度だと思っていた。この世界への不自然さを説いたところで、何も理解してくれない程度。だから碧葉の言う、柚流が他とは違ったという話も、よく理解しきれていなかった……のだが。
「そうですよ。俺にとってはあれが普通です。話しかければ答えは返ってきますが、どれも意味のない相槌と広がらない会話ばかり。ただ世界観を壊さないためだけにいる操り人形と言っても過言じゃない」
「……マジか。オレとは全然、見てる景色が違えじゃん」
「貴方は椿木と一緒にいる時間が多かったから。あの女の周りにいる人間はそれなりに『人間らしく』あるよう、形成されていたんでしょう」
碧葉はポンポンと背中を叩いて、先に進もう、と促してくる。凛とした切れ長の瞳に、暗く差すような影は一つも見当たらなかった。
(……よかった。碧葉の心がそのまんまで。オレに笑いかけてくれるくらい、今の碧葉の心に元気があってよかった……)
じっと見上げながら、柚流は胸を撫で下ろす。花巻の魂が抜けたような表情も衝撃的だったが、それ以上に碧葉を気に掛けてしまう自分がそこにはいた。
「――着きましたね」
椿木の部屋は2階の一番端にあった。ルームメイトはいないと聞いたことがあるから、恐らくは一人部屋。鍵を差し込んだ碧葉が、躊躇なくドアを開ける。
「おまっ、仮にも女の子の部屋だぞ。もうちょいためらったりとかしねえのかよ」
「ためらい? どうして俺が」
いらないでしょ、と彼はふてぶてしく言い放ちながら中へ入っていった。
「あっ、おい!」
残された柚流も慌てて後を追う。脱出の手掛かりを探すためとはいえ、なんだか悪いことでもしてる気分だ。胸元まであるウィッグをソワソワといじりながら、明かりのついた室内を見回した。
家具の配置は自分たちの部屋とそう大差ない。違うのは二段ベッドがシングルベッドであること。カーペットやカーテンが淡いピンク調のものであること。
(す、すげえ! 女の子らしい部屋だ!)
これは気分も上がる。柚流はガラスのテーブルに並んだファンシーな小物たちに思わず目がいった。が、目を据わらせた男にむんずと顔を掴まれ、頬をなぞる髪の毛が口の中へ入る。
「先輩、真剣に探してください。ここで俺に滅茶苦茶になるほどキスされたいですか」
「ひゅっ、ひゅいまふぇん」
おちょぼ口のまま、首を小刻みに振った。上から突き刺さる視線が氷のように冷たかった。
「はあ……ムカつく」
手を離した碧葉が、今度は親指で撫でてくる。頬に張り付いた髪の毛をどかし、冷たい指先がジンジンと放つ熱を吸収してくれているようだった。
「っ、わりい碧葉……」
「いえ、貴方が単純な人だってこと、忘れてました。俺のはただの嫉妬です。当たっちゃってすみません」
椿木の部屋で、お互いに謝り合う。異様な空気だが、それがやたらとおかしくて、柚流はつい吹き出してしまう。睨みつけてくる碧葉の目元に、仄かな照れが混ざっていた。
「――もういいですよね。とっとと探しますよ」
そう言うと彼が足早に勉強机へと向かっていく。
(オレもしっかりしねえと。テンション上がっちゃったけど、遊びじゃねえんだから。……でもテーブルのアレ、椿木さんの手作りなのかな)
チラッと目線の先に映る、マル吉のぬいぐるみ。手乗りサイズのものが4つ並んで、青い羽がふさふさだ。それぞれに赤い蝶ネクタイやらリボンがつけられているのが可愛らしい。椿木は朝の情報番組のマスコットキャラクター、マル吉の大ファンだった。
柚流はそれを尻目に、白い本棚へと足を進める。見知らぬタイトルしかなく、とりあえず一冊取り出して読んでみる。小説のようだ。表紙には綺麗な女性と聡明そうなカッコいい男性が描かれており、ラブストーリーものであることが窺えた。
「椿木さん、こういうのも好きなんだな」
他にもいくつか漁ってみるが、どれも似たような絵柄の小説ばかり。
ここに目当てのものはないかもしれない――そう思い、表紙だけを確認しながら本を抜き差ししていると、初めて絵のない本が見つかった。真っ白な装丁に、血のように濃い黒文字で一言。『理想郷の作り方』、とだけ書かれている。
「なんだこれ……理想郷?」
明らかに他と雰囲気が違う。手に取り、厚い表紙を捲った。目次はない。いきなり本文が始まっている。
「この本を、手に取ったアナタへ……。アナタに、理想はありますか。ままならない現実の、鬱屈とした自分の生に、嫌気は差していませんか」
――この本は、そんなアナタの人生をアッと素晴らしいものへと変える、人生の指南書です。
「……っは? んだこれ、うさんくさすぎるだろ!」
「先輩? なにかあったんですか?」
声を上げた柚流に、碧葉が駆け寄ってくる。
「いや、なんかよく分かんねえんだけど、すげえ怪しい本見つけた」
「怪しい本?」
「ああ。これ……『理想郷の作り方』ってやつ」
渡す手のひらが、いつの間にかか細く震えていた。碧葉が顔色を変える。持ってきた手帳とアルバムらしきものを床に置くと、柚流から本を受け取った。
険しい顔つきのまま、パラパラと読み進める。しばらく、互いの息遣いだけが響く。
「これは……」
手汗が滲んで、借りてきたスカートに染み込んできた頃。碧葉がふいに口を開いた。
「先輩。大当たりですよ」
「え……な、なんて書かれてあった!?」
「最初のほうは、陳腐な人生論がつらつらと書かれているだけです。……ただ、ここから」
見開いたページを彼が指でなぞる。
【理想郷へ続く扉の開き方】
――――――――――――――――――――――─
さあさあここまで読み込んできたアナタなら方法は簡単!
アナタの願いを依り代へ込めながら、空へ向かって身を投げるのです!
羽ばたくのです! 自然を感じるのです! 神を信じるのです!
もちろんその際は、この経典もお忘れなく!
さすればきっと、アナタが望む、アナタだけの理想郷が開かれることでしょう!
―――――――――――――――――――――――
「――な、なん……ッ」
柚流は絶句した。おおよそ人道とは思えない内容に、逆流した胃酸が込み上げてきた。喉の奥が熱い。全身が、理解するのを拒んでいる。
(空へ向かって身投げ……って。こんなの、こんなの……!)
「ただの自殺教唆だろ」
「――ッ!!」
忌々しそうに吐き捨てる碧葉の言葉に、息を呑んだ。本を握る彼の爪先が、今すぐ破り捨てようとするほどの勢いで白んでいた。
柚流の脳内で、点と点が線となって繋がり始める。事故のニュース。怪しげな本。――そして、自分に任された本当の「役目」を。
紐解くように導き出された結論は、一滴の涙となって零れ落ちた。
「……ビルから……飛び降りたんだ。椿木さんは、自分の意志で、命を……投げ打ったんだ」
――まさしく自分だけの理想郷を、頭に思い描きながら。
「……椿木姫華は、家庭環境に問題を抱えていた。そして、現実の学校では……いじめを受けていた。――そうですよね、先輩」
碧葉のすべてを見通すような視線が突き刺さる。彼が先ほど床に置いた手帳。あれはきっと、日記帳だった。
柚流は力なく頷く。
「……ああ」
顔を濡らす雫は、止まることをしらない。
「そうだよ。オレはずっと、彼女から相談を受けてきた。……でも、どうすることもできなかった」
だって、オレは。
「現実には存在しねえ、椿木さんの――『イマジナリーフレンド』、だから」
***
椿木姫華の心には、いつも絶対的な味方がいた。
辛いときに寄り添ってくれて、泣きたいときに一緒に泣いてくれて、笑いたいときに元気づけてくれる。――名前は、秋吉柚流。いつの間にか、彼自身がそう名乗っていた。
明確に現れ始めたのは高校一年生の頃。
背負った借金、アルコール依存症に陥った父親、仕事で困憊し、日に日にやつれ細っていく母親。
酔った父親から、毎日暴言を吐かれるのが辛かった。時たま顔を合わせる母親から、不自由な思いをさせてごめんねと謝られるのが苦しかった。
学校へ行っても、無視されるのが当たり前。いないもののように扱われて、時折「汚い」「臭い」と心無い言葉を浴びせられて、皆から除け者にされる。
どこにも居場所がなかった。吐き出せる相手もいなかった。彼女はいつも、一人だった。
だから、友達を作った。心の中に、ひっそりと。
初めは語り掛けるだけ。返事はなかった。それでも誰かが聞いてくれてるんだと思ったら嬉しかった。
「――椿木さん、大丈夫?」
そして、ある日突然。いつも通り話しかけていたら、「声」がした。
聞き慣れない男の子の声。でも自分を心配してくれる、情にあふれた声。
彼は、少女漫画に出てくる王子様のように、格好良かった。素直で、明るくて、ちょっと抜けてるところもあるけど、そういうところが親しみやすかった。辛い現実を一緒に支えてくれる、大好きな「友達」になるまでは、あっという間だった。
***
柚流はすべて思い出した。自分の生まれた理由。自分の存在意義。自分に与えられた本当の役割を。
「わりい。騙してたわけじゃ、ねえんだけど」
この椿木が作り上げた理想郷で、柚流は「生きて」いた。霞戸高校3年。桐山遥人の親友で、椿木姫華に恋をしている。クラスメイトからはいじられやすい立ち位置だけど、愛嬌のある顔立ちと持ち前の明るさから皆に好かれている。そんな、普通の男子高校生として、自分は生きていた。
「あー、でもすっかり、忘れてた……な」
顔を上げられない。ぽろぽろとあふれ出るしょっぱい液体が、皺の寄ったスカートを濡らす。
椿木が自分で「死」を選んだこと。そして、自分はもう碧葉と一緒に、現実へは帰れないということ。
「……だから、貴方の顔がどこにも映ってなかったんですね。この、集合写真に」
滲んだ視界の真ん中で、碧葉が長い睫毛を伏せている。手にはアルバムから取り出したクラス写真のようなものを持っていた。
「貴方には俺と違う点が多すぎる。だからここに来れば、手掛かりの一つや二つ、得られるんじゃないかと期待してたんですが……まさか、現実に存在すらしてなかったとは」
「…………」
「でも、返事はちゃんと聞かせてくれるんですよね」
「――えっ?」
ぐしゃぐしゃの目元を、そっと拭われる。丁寧に、優しく、まるで壊れ物にでも触れるかのように。
「貴方が言ったんですよ。自分の気持ちをちゃんと考えて、俺に返事するって」
「あっ……け、けど、オレが返事したところで、お前とはもう――」
「もちろん俺は現実に帰ります。でも貴方からの返事も聞きます」
「……はっ? お前、オレにだけ言わせて帰る気かよ!?」
「先輩」
瞼に柔く口づけされた。
「俺は貴方を諦めるつもりはありません」
そしてもう片方の瞼にも口づけが贈られる。涙でひりついた熱が奪われていくようだ。こちらを貫こうとする強烈な視線の奥で、深まった青が鮮やかに輝いていた。
「あ、諦めねえって、なんだよ……。そんなんぜってえ、無理に決まって――」
「無理じゃないです。諦めるって言葉、俺の中にはないんです。だから貴方は早く、俺に返事をください」
吸い込まれそうなほど引力のある瞳。イエスと答えるまで放してくれない彼の強引さ。
「わ、分かった! 分かったけど……ちょっと待ってくれ! オレもいろいろ思い出したばっかで、いっぱいいっぱいなんだよ!」
柚流は観念した。心臓がうるさい。目をギュッと閉じる。
「期限は明後日までです。それを過ぎたらループしてしまいますから。先輩の記憶が残ってるうちに、教えてください」
「……ああ」
頷くのと同時に、唇にリップ音が鳴った。
「碧葉ッ!」
「なんですか。貴方から目を閉じたんじゃないですか」
「はッ!? お前のためじゃねえよ!」
こんなん言わなくても分かるだろ。――そう口にしかけたが、できなかった。
口の端を緩めた碧葉が、愛おしそうにこちらを見つめていたから。瞳に焼き付けるように。甘く絡めとってきたから。
柚流の正体を知ってもなお、彼は何も変わらなかった。
(どうして、お前は動じずにいられるんだよ。オレのことも諦めねえって……意味、分かんねえし)
「――先輩」
真剣な声が割って入る。
「先輩は椿木が依り代にしそうなものって何か知ってますか」
「依り代?」
「はい。ここに書いてあるじゃないですか」
碧葉が本の一節を指で示す。さっき読んだ、悪趣味な文章の後に続く言葉だ。
『ただし、巻き込み事故にはくれぐれもお気を付けて。用意した依り代を破壊されれば、たちまちアナタの理想郷は消え去ってしまいますからね』
「巻き込み事故……消え去る……」
「はい。恐らく俺は、椿木の投身自殺に巻き込まれた。……でも、依り代ってものを壊せば、どうやらこの理想郷も無くなるようです。つまり、俺も現実に帰れるってことですよ」
「……あ、」
柚流は唇を引き結んだ。理想郷が無くなれば、自分も一緒に消えてしまう。こんな簡単な事実、賢い碧葉が察してないわけないのに、あふれた胸のジクジクを咄嗟に飲み込んだ。
「…………」
目を細め、含みを持たせた彼の眼差しに気づかない。
「よ、依り代か。依り代……っていうと、なんだ。大事なもんにしそうだよな」
「……はい。特に俺みたいな部外者が入り込んできた時を考えて、肌身離さず持てる物にするでしょうね。指輪とかピアス……アクセサリー類は全部怪しいです。あとはポケットに収まるような小物とか――」
碧葉は指折り数え、候補になる物を上げていく。柚流も聞きながら、思い当たる物がないか熟考した。
(椿木さんがよく持ってる物……身につけてる物……。アクセ系はつけねえしなあ。他になんか……)
「――あ」
「何かありました?」
そして電球がピコンと光るように、ひらめいた。
「ヘアゴム……かも」
彼女の黒髪を、いつもサイドでまとめているヘアゴム。紅い玉がついていて、黒によく映えるそれ。
「この前さ、倉庫で椿木さんの襟についてたゴミ取ろうとした、ってオレ言っただろ?」
「引かれたかもって余計な心配してたやつですよね」
「あ、ああ……まあそうだけど。……でもそん時さ、やけにビクッとしてて。あんま気にしてなかったんだけど、今思えばオレの手が椿木さんのヘアゴムに触れそうになってたからかも」
彼女にしてはやけに怖がっていた。恐れるようでもあったし、過剰反応と言ってもいいほどだった。しかしそれが依り代であるヘアゴムに起因していることなら、かなり納得がいく。
「……なるほど」
碧葉は口元に手を当て、数秒考え込んだ。そして再び顔を上げると――。
「それでいきましょう」
「……ん? それでいくって?」
「椿木姫華のヘアゴムを奪うんですよ。最終日、貴方がいつも失恋する、あの中庭で」
宣言する彼は勇ましく、一筋のブレも見えないほどまっすぐな目をしていた。
教室にはまだ椿木と遥人が残っている。二人は明日の本番に備え、もう少し練習する予定らしい。
椿木とは先日、走り去る形で変な別れ方をしてしまったが、彼女は特に何も気にしていなかった。いつも通り笑って、いつも通り話しかけてくれる。まさか部屋に侵入されるとは微塵も思っていないだろう。少し申し訳ないくらいだった。
「――けど、だからってこれはねえだろ!?」
柚流は耳の横を垂れる長い黒髪を、顔の前で交差させる。少々埃臭いそれは、演劇部から無断で借りてきたウィッグ。そして身に纏うのは、女子用の制服。肌寒い風が、股の間を通り抜けて心許ない。
「文句言わないでください。先輩と女子寮に潜入するには、これしかなかったんです」
「お前は変装してねえのに!?」
「俺は『個』として認識されないんで。このまま行っても、どうせスルーされます」
「えっ……そ、そういうもんなのか?」
「はい。そういうもんなんです」
隣を堂々と歩く碧葉は、どこからどう見ても美しい青年にしか見えない。しかし、彼を『椎崎碧葉』だと認識するまでは、柚流自身もぼやけた印象しか持てなかったことを思い出す。まるでそこにいようがいまいが関係ない、空気のような存在。その感じ方が通常なのであれば、たしかにそのままで行ったとて、女子から非難をくらうことはないだろう。
「先輩、そんなギクシャクした歩き方してたら、逆におかしいですよ」
「……うるせえ!」
最後の灯火を放つ夕日が、夜の闇に侵食されつつある。柚流と碧葉は藍色に滲んだ空の下、女子寮へとたどり着いた。
計画は順調にいった。まずはマスターキーの保管されている寮長室への侵入。柚流は終始ビクビクと肩を揺らしていたが、何のことはなかった。寮長室に寮長はおらず、平然とした態度の碧葉が、あっさりと鍵を入手した。
続いて、二階にある椿木の部屋までの通路。構造は男子寮と瓜二つのため、迷うこともなく簡単だ。最短経路を割り出し、すぐさま向かった。
「あ、花巻……」
しかし途中、柚流は立ち止まった。クラスメイトの花巻がいたからではなく、彼女の様子が変だったからだ。意思のない人形――そう表してもおかしくないほど、瞳に宿る生気が空っぽで。自分と話す時は、もう少し人間らしい表情をしていたのに。
「先輩、早く行きますよ」
「……なあ、碧葉が知ってるこの世界の人間って、皆『ああ』なのか?」
恐る恐る指差す。柚流には正直、「偽物」と「本物」の違いなんて、せいぜい話が通じない程度だと思っていた。この世界への不自然さを説いたところで、何も理解してくれない程度。だから碧葉の言う、柚流が他とは違ったという話も、よく理解しきれていなかった……のだが。
「そうですよ。俺にとってはあれが普通です。話しかければ答えは返ってきますが、どれも意味のない相槌と広がらない会話ばかり。ただ世界観を壊さないためだけにいる操り人形と言っても過言じゃない」
「……マジか。オレとは全然、見てる景色が違えじゃん」
「貴方は椿木と一緒にいる時間が多かったから。あの女の周りにいる人間はそれなりに『人間らしく』あるよう、形成されていたんでしょう」
碧葉はポンポンと背中を叩いて、先に進もう、と促してくる。凛とした切れ長の瞳に、暗く差すような影は一つも見当たらなかった。
(……よかった。碧葉の心がそのまんまで。オレに笑いかけてくれるくらい、今の碧葉の心に元気があってよかった……)
じっと見上げながら、柚流は胸を撫で下ろす。花巻の魂が抜けたような表情も衝撃的だったが、それ以上に碧葉を気に掛けてしまう自分がそこにはいた。
「――着きましたね」
椿木の部屋は2階の一番端にあった。ルームメイトはいないと聞いたことがあるから、恐らくは一人部屋。鍵を差し込んだ碧葉が、躊躇なくドアを開ける。
「おまっ、仮にも女の子の部屋だぞ。もうちょいためらったりとかしねえのかよ」
「ためらい? どうして俺が」
いらないでしょ、と彼はふてぶてしく言い放ちながら中へ入っていった。
「あっ、おい!」
残された柚流も慌てて後を追う。脱出の手掛かりを探すためとはいえ、なんだか悪いことでもしてる気分だ。胸元まであるウィッグをソワソワといじりながら、明かりのついた室内を見回した。
家具の配置は自分たちの部屋とそう大差ない。違うのは二段ベッドがシングルベッドであること。カーペットやカーテンが淡いピンク調のものであること。
(す、すげえ! 女の子らしい部屋だ!)
これは気分も上がる。柚流はガラスのテーブルに並んだファンシーな小物たちに思わず目がいった。が、目を据わらせた男にむんずと顔を掴まれ、頬をなぞる髪の毛が口の中へ入る。
「先輩、真剣に探してください。ここで俺に滅茶苦茶になるほどキスされたいですか」
「ひゅっ、ひゅいまふぇん」
おちょぼ口のまま、首を小刻みに振った。上から突き刺さる視線が氷のように冷たかった。
「はあ……ムカつく」
手を離した碧葉が、今度は親指で撫でてくる。頬に張り付いた髪の毛をどかし、冷たい指先がジンジンと放つ熱を吸収してくれているようだった。
「っ、わりい碧葉……」
「いえ、貴方が単純な人だってこと、忘れてました。俺のはただの嫉妬です。当たっちゃってすみません」
椿木の部屋で、お互いに謝り合う。異様な空気だが、それがやたらとおかしくて、柚流はつい吹き出してしまう。睨みつけてくる碧葉の目元に、仄かな照れが混ざっていた。
「――もういいですよね。とっとと探しますよ」
そう言うと彼が足早に勉強机へと向かっていく。
(オレもしっかりしねえと。テンション上がっちゃったけど、遊びじゃねえんだから。……でもテーブルのアレ、椿木さんの手作りなのかな)
チラッと目線の先に映る、マル吉のぬいぐるみ。手乗りサイズのものが4つ並んで、青い羽がふさふさだ。それぞれに赤い蝶ネクタイやらリボンがつけられているのが可愛らしい。椿木は朝の情報番組のマスコットキャラクター、マル吉の大ファンだった。
柚流はそれを尻目に、白い本棚へと足を進める。見知らぬタイトルしかなく、とりあえず一冊取り出して読んでみる。小説のようだ。表紙には綺麗な女性と聡明そうなカッコいい男性が描かれており、ラブストーリーものであることが窺えた。
「椿木さん、こういうのも好きなんだな」
他にもいくつか漁ってみるが、どれも似たような絵柄の小説ばかり。
ここに目当てのものはないかもしれない――そう思い、表紙だけを確認しながら本を抜き差ししていると、初めて絵のない本が見つかった。真っ白な装丁に、血のように濃い黒文字で一言。『理想郷の作り方』、とだけ書かれている。
「なんだこれ……理想郷?」
明らかに他と雰囲気が違う。手に取り、厚い表紙を捲った。目次はない。いきなり本文が始まっている。
「この本を、手に取ったアナタへ……。アナタに、理想はありますか。ままならない現実の、鬱屈とした自分の生に、嫌気は差していませんか」
――この本は、そんなアナタの人生をアッと素晴らしいものへと変える、人生の指南書です。
「……っは? んだこれ、うさんくさすぎるだろ!」
「先輩? なにかあったんですか?」
声を上げた柚流に、碧葉が駆け寄ってくる。
「いや、なんかよく分かんねえんだけど、すげえ怪しい本見つけた」
「怪しい本?」
「ああ。これ……『理想郷の作り方』ってやつ」
渡す手のひらが、いつの間にかか細く震えていた。碧葉が顔色を変える。持ってきた手帳とアルバムらしきものを床に置くと、柚流から本を受け取った。
険しい顔つきのまま、パラパラと読み進める。しばらく、互いの息遣いだけが響く。
「これは……」
手汗が滲んで、借りてきたスカートに染み込んできた頃。碧葉がふいに口を開いた。
「先輩。大当たりですよ」
「え……な、なんて書かれてあった!?」
「最初のほうは、陳腐な人生論がつらつらと書かれているだけです。……ただ、ここから」
見開いたページを彼が指でなぞる。
【理想郷へ続く扉の開き方】
――――――――――――――――――――――─
さあさあここまで読み込んできたアナタなら方法は簡単!
アナタの願いを依り代へ込めながら、空へ向かって身を投げるのです!
羽ばたくのです! 自然を感じるのです! 神を信じるのです!
もちろんその際は、この経典もお忘れなく!
さすればきっと、アナタが望む、アナタだけの理想郷が開かれることでしょう!
―――――――――――――――――――――――
「――な、なん……ッ」
柚流は絶句した。おおよそ人道とは思えない内容に、逆流した胃酸が込み上げてきた。喉の奥が熱い。全身が、理解するのを拒んでいる。
(空へ向かって身投げ……って。こんなの、こんなの……!)
「ただの自殺教唆だろ」
「――ッ!!」
忌々しそうに吐き捨てる碧葉の言葉に、息を呑んだ。本を握る彼の爪先が、今すぐ破り捨てようとするほどの勢いで白んでいた。
柚流の脳内で、点と点が線となって繋がり始める。事故のニュース。怪しげな本。――そして、自分に任された本当の「役目」を。
紐解くように導き出された結論は、一滴の涙となって零れ落ちた。
「……ビルから……飛び降りたんだ。椿木さんは、自分の意志で、命を……投げ打ったんだ」
――まさしく自分だけの理想郷を、頭に思い描きながら。
「……椿木姫華は、家庭環境に問題を抱えていた。そして、現実の学校では……いじめを受けていた。――そうですよね、先輩」
碧葉のすべてを見通すような視線が突き刺さる。彼が先ほど床に置いた手帳。あれはきっと、日記帳だった。
柚流は力なく頷く。
「……ああ」
顔を濡らす雫は、止まることをしらない。
「そうだよ。オレはずっと、彼女から相談を受けてきた。……でも、どうすることもできなかった」
だって、オレは。
「現実には存在しねえ、椿木さんの――『イマジナリーフレンド』、だから」
***
椿木姫華の心には、いつも絶対的な味方がいた。
辛いときに寄り添ってくれて、泣きたいときに一緒に泣いてくれて、笑いたいときに元気づけてくれる。――名前は、秋吉柚流。いつの間にか、彼自身がそう名乗っていた。
明確に現れ始めたのは高校一年生の頃。
背負った借金、アルコール依存症に陥った父親、仕事で困憊し、日に日にやつれ細っていく母親。
酔った父親から、毎日暴言を吐かれるのが辛かった。時たま顔を合わせる母親から、不自由な思いをさせてごめんねと謝られるのが苦しかった。
学校へ行っても、無視されるのが当たり前。いないもののように扱われて、時折「汚い」「臭い」と心無い言葉を浴びせられて、皆から除け者にされる。
どこにも居場所がなかった。吐き出せる相手もいなかった。彼女はいつも、一人だった。
だから、友達を作った。心の中に、ひっそりと。
初めは語り掛けるだけ。返事はなかった。それでも誰かが聞いてくれてるんだと思ったら嬉しかった。
「――椿木さん、大丈夫?」
そして、ある日突然。いつも通り話しかけていたら、「声」がした。
聞き慣れない男の子の声。でも自分を心配してくれる、情にあふれた声。
彼は、少女漫画に出てくる王子様のように、格好良かった。素直で、明るくて、ちょっと抜けてるところもあるけど、そういうところが親しみやすかった。辛い現実を一緒に支えてくれる、大好きな「友達」になるまでは、あっという間だった。
***
柚流はすべて思い出した。自分の生まれた理由。自分の存在意義。自分に与えられた本当の役割を。
「わりい。騙してたわけじゃ、ねえんだけど」
この椿木が作り上げた理想郷で、柚流は「生きて」いた。霞戸高校3年。桐山遥人の親友で、椿木姫華に恋をしている。クラスメイトからはいじられやすい立ち位置だけど、愛嬌のある顔立ちと持ち前の明るさから皆に好かれている。そんな、普通の男子高校生として、自分は生きていた。
「あー、でもすっかり、忘れてた……な」
顔を上げられない。ぽろぽろとあふれ出るしょっぱい液体が、皺の寄ったスカートを濡らす。
椿木が自分で「死」を選んだこと。そして、自分はもう碧葉と一緒に、現実へは帰れないということ。
「……だから、貴方の顔がどこにも映ってなかったんですね。この、集合写真に」
滲んだ視界の真ん中で、碧葉が長い睫毛を伏せている。手にはアルバムから取り出したクラス写真のようなものを持っていた。
「貴方には俺と違う点が多すぎる。だからここに来れば、手掛かりの一つや二つ、得られるんじゃないかと期待してたんですが……まさか、現実に存在すらしてなかったとは」
「…………」
「でも、返事はちゃんと聞かせてくれるんですよね」
「――えっ?」
ぐしゃぐしゃの目元を、そっと拭われる。丁寧に、優しく、まるで壊れ物にでも触れるかのように。
「貴方が言ったんですよ。自分の気持ちをちゃんと考えて、俺に返事するって」
「あっ……け、けど、オレが返事したところで、お前とはもう――」
「もちろん俺は現実に帰ります。でも貴方からの返事も聞きます」
「……はっ? お前、オレにだけ言わせて帰る気かよ!?」
「先輩」
瞼に柔く口づけされた。
「俺は貴方を諦めるつもりはありません」
そしてもう片方の瞼にも口づけが贈られる。涙でひりついた熱が奪われていくようだ。こちらを貫こうとする強烈な視線の奥で、深まった青が鮮やかに輝いていた。
「あ、諦めねえって、なんだよ……。そんなんぜってえ、無理に決まって――」
「無理じゃないです。諦めるって言葉、俺の中にはないんです。だから貴方は早く、俺に返事をください」
吸い込まれそうなほど引力のある瞳。イエスと答えるまで放してくれない彼の強引さ。
「わ、分かった! 分かったけど……ちょっと待ってくれ! オレもいろいろ思い出したばっかで、いっぱいいっぱいなんだよ!」
柚流は観念した。心臓がうるさい。目をギュッと閉じる。
「期限は明後日までです。それを過ぎたらループしてしまいますから。先輩の記憶が残ってるうちに、教えてください」
「……ああ」
頷くのと同時に、唇にリップ音が鳴った。
「碧葉ッ!」
「なんですか。貴方から目を閉じたんじゃないですか」
「はッ!? お前のためじゃねえよ!」
こんなん言わなくても分かるだろ。――そう口にしかけたが、できなかった。
口の端を緩めた碧葉が、愛おしそうにこちらを見つめていたから。瞳に焼き付けるように。甘く絡めとってきたから。
柚流の正体を知ってもなお、彼は何も変わらなかった。
(どうして、お前は動じずにいられるんだよ。オレのことも諦めねえって……意味、分かんねえし)
「――先輩」
真剣な声が割って入る。
「先輩は椿木が依り代にしそうなものって何か知ってますか」
「依り代?」
「はい。ここに書いてあるじゃないですか」
碧葉が本の一節を指で示す。さっき読んだ、悪趣味な文章の後に続く言葉だ。
『ただし、巻き込み事故にはくれぐれもお気を付けて。用意した依り代を破壊されれば、たちまちアナタの理想郷は消え去ってしまいますからね』
「巻き込み事故……消え去る……」
「はい。恐らく俺は、椿木の投身自殺に巻き込まれた。……でも、依り代ってものを壊せば、どうやらこの理想郷も無くなるようです。つまり、俺も現実に帰れるってことですよ」
「……あ、」
柚流は唇を引き結んだ。理想郷が無くなれば、自分も一緒に消えてしまう。こんな簡単な事実、賢い碧葉が察してないわけないのに、あふれた胸のジクジクを咄嗟に飲み込んだ。
「…………」
目を細め、含みを持たせた彼の眼差しに気づかない。
「よ、依り代か。依り代……っていうと、なんだ。大事なもんにしそうだよな」
「……はい。特に俺みたいな部外者が入り込んできた時を考えて、肌身離さず持てる物にするでしょうね。指輪とかピアス……アクセサリー類は全部怪しいです。あとはポケットに収まるような小物とか――」
碧葉は指折り数え、候補になる物を上げていく。柚流も聞きながら、思い当たる物がないか熟考した。
(椿木さんがよく持ってる物……身につけてる物……。アクセ系はつけねえしなあ。他になんか……)
「――あ」
「何かありました?」
そして電球がピコンと光るように、ひらめいた。
「ヘアゴム……かも」
彼女の黒髪を、いつもサイドでまとめているヘアゴム。紅い玉がついていて、黒によく映えるそれ。
「この前さ、倉庫で椿木さんの襟についてたゴミ取ろうとした、ってオレ言っただろ?」
「引かれたかもって余計な心配してたやつですよね」
「あ、ああ……まあそうだけど。……でもそん時さ、やけにビクッとしてて。あんま気にしてなかったんだけど、今思えばオレの手が椿木さんのヘアゴムに触れそうになってたからかも」
彼女にしてはやけに怖がっていた。恐れるようでもあったし、過剰反応と言ってもいいほどだった。しかしそれが依り代であるヘアゴムに起因していることなら、かなり納得がいく。
「……なるほど」
碧葉は口元に手を当て、数秒考え込んだ。そして再び顔を上げると――。
「それでいきましょう」
「……ん? それでいくって?」
「椿木姫華のヘアゴムを奪うんですよ。最終日、貴方がいつも失恋する、あの中庭で」
宣言する彼は勇ましく、一筋のブレも見えないほどまっすぐな目をしていた。

