「碧葉……ッ!」
息を切らして開けたドアの先に、碧葉の姿はなかった。
「はあっ……まだ帰ってねえのかよ」
たしか今日の《時間転移》は、19時過ぎに発生する予定だったはず。下手に探しに行って、すれ違いになってしまうよりは、このまま部屋で待っていたほうが賢明だろう。
柚流は手汗で湿ったカバンをずり下ろし、靴を脱いだ。胸の奥がまだ激しい。足を進め、気を紛らわせるようにテレビをつける。
『――今日のマル吉占い~!』
「はっ?」
しかし軽快な音楽と共に始まったのは、朝の占いコーナー。画面の左上に表示された「7時50分」というありえない時刻に、リモコンを滑り落とす。
「今夕方だぞ!?」
もしかして時間が飛んだ? いやそんなはずはない。日も暮れかかっているし、テーブルに置かれたデジタル時計は18時を示している。
――そうだ、チャンネル変えてみよう。
柚流はしゃがみ込んだ。転がって二段ベッドの下に潜り込んだリモコンを掴もうと、腕を伸ばす。その時だ。
『続いてのニュースです。本日午前六時頃、××市の廃ビルで、霞戸高校に通う生徒が屋上から転落し、下を歩いていた通行人と衝突する事故が発生しました』
唐突に切り替わった音声に、顔を上げる。
『……は頭部などを強く打ち、病院へ緊急搬送されましたが、現在も意識不明の重体ということです。現場となったビルは数年前から使われておらず、外壁は劣化が目立つ古い建物。周囲の住民からは不法侵入を心配する声も多く――』
柚流はしばし呆然と映像を眺めた。画面は砂嵐のようにノイズが流れ、文字化けした記号や不可解な漢字がたくさん並んでいる。淡々と告げるアナウンサーの声はどこか現実味がない。耳に入ってもすぐ抜けていく。
『警察は生徒がビルへ立ち入った経緯も含め、事故と事件の両面から詳しく調べています。……続いてのニュースです。本日午前六時頃、××市の廃ビルで、霞戸高校に通う――』
「え、え……なんだよ。なんでまたこのニュース……っ」
終わったかと思いきや、間髪入れず繰り返されるアナウンサーの読み上げ。
得体のしれない不気味さに怖気立った。チャンネルを変えようとボタンを押す。何度も何度も押す。けれど変わらない。永遠に同じ声と、映像が流れ続ける。
呼吸が荒かった。視界がグルグルと回っていた。自分がおかしいのか、地面が揺れているのか、分からなかった。
玄関から鍵の開く音がする。
「――先輩?」
「碧葉……ッ!!」
――ああ、やっと帰ってきた。ずっと待ってたのに、帰ってくるのが遅いんだよ馬鹿野郎。
「ど、どうしたんですか?」
碧葉に駆け寄る。肩に顔を押し当て、ぎゅっと抱きつく。匂いすらしないが、落ちつくあたたかさに息を深く吸って吐いた。
一人じゃない。碧葉がいる。それがこんなにも嬉しくて、心臓が跳ね上がって。熱くなった目頭を堪えるように、彼の肩口へぐりぐりと押し付けた。
「先輩、なにがあったんですか? 大丈夫ですか?」
「……ん」
肌を撫でる優しい声。同じように抱きしめ返されて、震えが収まっていく。
「碧葉……お前、あのニュース見えるか?」
柚流は一息つくと、顔を上げた。体勢はなんとなくくっついたまま、いまだ後方で流れ続けるテレビの映像を指で指した。
「ニュース?」
「ああ。なんか……事故がどうのこうのって」
何回も繰り返されたから、さすがに内容は頭に入っている。ただ、それを理解できるかと言ったら別問題だ。柚流には何の心当たりもなかったし、そのような事故があったことすら知らなかった。
(碧葉だったら、なにか分かんのかな)
じっと見入る彼の横顔を、柚流もぼうっと眺める。相変わらず綺麗な顔をしていて、道端でふいに見かけたら十人中十人が振り返る顔だ。現実だったらすげえモテモテなんだろうな、とたくさん女子に囲まれてる想像が容易につく。胸がモヤッと重たくなった。
(ん? なんで今――)
原因不明の動悸に違和感を持った瞬間。碧葉が崩れるように頭を押さえて俯いた。
「ッ、う……」
「碧葉? おいどうした?」
柚流は顔色を変え、咄嗟に目の前の体を支えた。しかし意識が朦朧としているのか、視線が噛み合わない。まるでここではない、「別の世界」でも見ているかのような瞳の動きに、じりじりと嫌な予感が募る。
「なあ碧葉。しっかりしろ。オレを見ろ……!」
肩を揺すり、呼びかける。顔を両手で包み、目線をしっかり合わせた。
「せん、ぱい」
「ああ。オレはここにいるから。勝手に一人でどっか行くな」
「……ぁ、俺、頭に……なにか、強い衝撃の、ようなものが……あったことを、思い、出して」
途切れ途切れに告げる碧葉の額から、大量の汗が噴き出している。まだ頭痛が止まらないのか、その表情は辛そうだ。
柚流はシャツの袖で汗を拭った。そして、彼の青白い唇へ、自分のものを重ねた。少しでも元気になってほしくて、もらったあたたかさを、一緒に分かち合いたくて。
見開いた碧葉の、青に煌めく瞳と目が合う。
「どうだ。まだ頭いてえか?」
「っ、いえ……。貴方のキスで、全部吹っ飛びました」
「ほんとか!? そりゃよか――」
ったな、と言い切ることはできなかった。感極まったように頬を染める碧葉を目の端に、柚流は窒息しそうなほど深い口づけをくらったからだ。
「んん……っ」
伝わる余裕のなさ。ひたすら熱をぶつけられ、脳がドロドロと蕩けていく。
支えを求め、彼の首へ腕を回すと、ますます勢いが増した。リミッターを外した碧葉に容赦という二文字はない。もはや荒波にさらわれるように、深く深く溺れさせられる。
(あっ……クソ。足に力、入んなくなってきた……)
しばらく与えられるまま熱に浸っていた柚流だが、限界は近かった。もうやめろと碧葉の首根っこを掴むより早く、膝がカクッと抜け落ちる。唇が銀の糸を引いて離れた。
「先輩……!」
「ちょ、ちょっと休憩させろ」
息も絶え絶えにそう伝えると、何故か膝裏を抱え上げられ、横抱きにされていた。いつぞやの保健室であった時と同じ格好だ。
「おい!?」
「安心してください。もう何もしませんから。……それともこのままずっと、玄関で座り込んでる気ですか?」
言葉の割には熱を孕んだ瞳が柚流を見下ろす。血色の戻った唇はぬらぬらと濡れていて、直視するのが難しい。まるで「貴方のせいでこうなったんですよ」――とでも言われてるみたいだ。
「わ、分かった分かった。お前に任せる」
柚流は頷くと、小さく碧葉のシャツを掴んだ。どうして自分からキスしてしまったのか、その理由を知るにはまだ少し勇気が足りなかった。
「――それで、さっきのニュースのことですけど」
言いながら、碧葉がコップにペットボトルのお茶を注いでくれる。コポコポと、水の跳ねる心地の良い音だ。あの不気味なニュースを垂れ流すテレビは、あれから早々に電源を切ったため、今や物言わぬガラクタのようにうんともすんとも言わない。
「俺は断片的に思い出したことがあるんです。先輩はビルの事故について、何か心当たりとか、覚えていたりすることってありますか?」
真剣な眼差しが刺す。コップを受け取った柚流はお礼を言うと、一口飲んで渇いた喉を潤し、首を横に振った。
「正直……オレは全然。そんな事故があったなんて初耳だし、噂すら聞いたことねえ。ほんとのニュースか? ってちょっと疑ってるくらいだよ」
霞戸高校の生徒がビルから転落――これがもし実際に起きた事故なら、今頃学校はその噂で持ちきりになっているはずだ。事情聴取のため、警察が学校に来ていてもおかしくはない。休校になってる可能性だってあっただろう。
「……そうですか。じゃあ俺だけなんですね、なにかを思い出したっていうのは」
「ああ。残念だけど……」
「いえ、俺のは頭に強い衝撃があったっていう、あんまり良くなさそうな記憶なんで。先輩に同じ記憶がなくてむしろよかったですよ」
碧葉が薄く微笑む。
「転落したのが霞戸の生徒なら、柚流先輩だって候補に入ってるわけだし」
「あ……たしかに。そうだよな」
あまりにも現実味がなさすぎて、柚流はうっかり他人事のように考えていた。自分なら足を滑らせて落下、みたいな事故はあるかもしれないが、わざわざ廃ビルへ行くだろうかと考えると、かなり可能性は低いような気がする。
「碧葉の『衝撃があった』ってのもよく分かんねえけど」
「俺は霞戸じゃなくて滝浦高校に通ってますからね。この場合俺が転落したってことにはならないでしょう」
「じゃああのニュースとお前の記憶に、直接の関係はねえのか?」
「いや……一つだけ、これならあり得るってパターンはありますよ」
生え揃った碧葉の睫毛が、間を置くようにゆっくりと一回揺れる。
「――それは俺が通行人だったっていうパターンです」
「つ、通行人?」
「はい。ニュースでも言ってましたよね。転落した生徒が、『下を歩いていた通行人と衝突』……って」
――あ。そうだった。転落事故は他にも被害者がいたんだ。
「詳細は伏せられてましたけど、それが俺の可能性は十分にあり得ます。たとえば現実の俺は意識不明の重体で、ここにいる俺は意識だけの思念体……とかね」
冷静に語る彼の表情は、自分の話だというのにずっと一貫している。涼しげに、淡々と、声に波立つことがない。それはこの世界に来てから身に着けた処世術なのか、それとも元々ある性格によるものなのか。……柚流は半々だろうな、と勝手に推測する。
(だって普通に怖えだろ。現実だと死にかけてるなんてこと分かったら。オレもここにいる以上、その可能性がないわけじゃねえんだし、そうだって考えたら震えるほど怖くて仕方ねえよ……)
強張りそうになるのを堪えるように、頬の内側を噛む。噛み過ぎて鉄の味が広がっても、これは生身の体じゃないんだと言い聞かせれば、痛みすらもなくなっていくような気がした。
「――先輩。そんな顔しないで。怖いなら怖いって教えてください」
碧葉の指先に、ふわりと頬を撫でられる。
「俺は先輩が辛そうにしてると、同じくらい辛くて、胸が張り裂けたように痛くなるんですから……」
物憂げな眼差しがくすぐったかった。まるで大切なものにでも触れるかのような手つきに、力んだ表情がするすると緩んでいく。我ながら単純で、御しやすい性格だ。
「痛えっつっても、本当の体じゃねえのに」
「関係ないですよ。心から貴方に惚れて、恋してる俺には」
「……っ」
――コイツ、よくそんな恥ずかしげもなく……。
「俺言いましたよね。隙があるならつけ込むって。貴方が簡単に隙を見せるから悪いんですよ」
「別に見せてるつもりは……って、ああっ、その顔やめろ! その愛しさ全開……! みたいな顔!!」
「え、俺そんなに顔に出てるんですか?」
「自分で鏡見てみろ!」
なんて無自覚なやつなんだ。こっちの心臓に負担が大きすぎる。胸がいっぱいに詰まってしょうがない。でも普段クールな男がこれでもかってほど甘い顔して囁いてきたら、誰だってドギマギしてしまうだろう。
言い訳がましい柚流の中に、すっかり底冷えするような恐怖は消え失せていた。むしろ火照った体内を静めたくて、一気に麦茶を飲み干す。
「というか、オレも伝えねえといけねえことがあったんだよ」
空になったコップをドンと置く。碧葉がもう一度注いでくれようとしたが、その手首を逆に掴んだ。
「……誰が黒幕かってこと。多分だけど、オレも分かったんだ」
触れる脈が速い。期待混じりの視線に、喉を鳴らす音がする。
そうじゃなければいいと思いつつも、耳にこびりつくほど残った警鐘が、その名前を浮かび上がらせる。
「――椿木さん、だろ?」
告げた瞬間、すとんと腑に落ちたような感じがした。思いのほか穏やかな心地のままでいられることに、柚流はひっそり息をついた。
「先輩はもうちょっと、葛藤するかと思ってました」
「……まあ、だよな。昨日で覚悟決まってたとはいえ、実際分かったらもうちょい悩むかと思ったんだけど――」
それよりも今は、何故こんなことをしてるのかって理由のほうが気になる。椿木が何を思って、この世界を作り出したのか。人を陥れるような子では決してないと、柚流は知っているから。
咄嗟に逃げ帰ってきてしまった時も、戸惑ったような彼女の声が聞こえた。別になにか危害を加えられるわけでもなかったのに。首のことも、ただの親切心で尋ねてきてくれたことが決定打になってしまっただけだ。
冷静になったこの状態で改めて考えると、答えはシンプルだった。
「オレはやっぱ知りてえよ。椿木さんの本当の思惑ってやつが。……知って、納得して、その上でお前とここから、一緒に出たい」
たとえ現実の体は、死にかけの重症かもしれなくても。こんな歪な世界で暮らし続けるよりはきっとマシだろう。
「……そうですね」
呟いた碧葉も柔く目尻を細める。手首を掴んでいた右手が、いつの間にか彼の指先に絡め取られていた。
「俺も、貴方とデートがしてみたい。貴方の好きな場所へ行って、好きな食べ物を食べて、好きな景色を眺めて――コロコロと変わる貴方の表情を一番近くで見ていられたら、それに勝る幸せはないです」
「お、大袈裟すぎだろ……」
「そうですか? だったら早く俺のこと好きになってください。ちなみにこんなのは序の口ですからね」
貴方としたいことも、貴方「に」したいことも、まだまだたくさんあるんです。――握られた手の甲へ、柔らかい口づけが贈られる。一片の隙間もないほど密着した彼の手が、ぴったりとくっついたまま離れない。
(そうだ……碧葉とも、ちゃんと向き合わねえと。逃げてばかりじゃ、いられねえ)
世界のこと、椿木のこと、自分の今ある気持ちのこと――。
考えることはたくさんだ。考えすぎて、普段使わない頭を使いすぎて、知恵熱でも出るかもしれない。だけど、どれもないがしろにはできないくらい、必要で大切なことだった。
柚流は決心するように握り返す。
「お前と一緒に戻って、現実でも会いたい。正直オレが今返せるのってこんくらいだ。でも自分なりにちゃんと考えて、お前に返事する。……これは絶対そうする。今そう決めた」
「俺、返事はイエスしか聞きませんけどね」
「だからそれはずりいんだって」
握られた手のひら越しに見える、碧葉の釣り上がった笑み。緩むのを抑えられないと言わんばかりのそれに、なんだかムズムズと落ち着かなくなる。柚流は視線を彷徨わせながら、赤くなった耳を掻いた。
「――と、とにかく、これでいったん黒幕は分かったわけだから。あとはこっから、どうやって脱出の糸口を探すかってことだけど」
一番手っ取り早いのは椿木に直接聞くこと。こちらから対話の意思を見せれば、危害は加えてこないと信じたい。
「でも俺はあの女に近づけません。先輩一人で対峙させるのも嫌です」
「……あ、そうか。碧葉は無理なのか」
繋いだ手に力が込められる。効率を重視して、一人で強行突破するのは無理そうだ。
となるとまずは、椿木の周辺を探るべきだろうか。碧葉と一緒に行けて、かつ彼女の情報も探れるような、そんな場所があればいいが。
「寮? あ、いやでも流石に、女の子の部屋侵入するのはあれか? アウトか……?」
「……いや、いいんじゃないですか。逆に俺は失念してました。女子寮……というか、女子トイレとかもそうですけど、入っちゃいけない場所っていう当たり前すぎる常識があったんで、そもそも選択肢からも外してましたよ」
盲点だった――と呟く碧葉の顔色は明るい。
「椿木の部屋に行きましょう。きっとそこに手掛かりがあるはずです」
「えっ、でもどうやって? オレらこのまんまじゃ――」
「俺に考えがあります。先輩は俺に任せてついてきてください」
息を切らして開けたドアの先に、碧葉の姿はなかった。
「はあっ……まだ帰ってねえのかよ」
たしか今日の《時間転移》は、19時過ぎに発生する予定だったはず。下手に探しに行って、すれ違いになってしまうよりは、このまま部屋で待っていたほうが賢明だろう。
柚流は手汗で湿ったカバンをずり下ろし、靴を脱いだ。胸の奥がまだ激しい。足を進め、気を紛らわせるようにテレビをつける。
『――今日のマル吉占い~!』
「はっ?」
しかし軽快な音楽と共に始まったのは、朝の占いコーナー。画面の左上に表示された「7時50分」というありえない時刻に、リモコンを滑り落とす。
「今夕方だぞ!?」
もしかして時間が飛んだ? いやそんなはずはない。日も暮れかかっているし、テーブルに置かれたデジタル時計は18時を示している。
――そうだ、チャンネル変えてみよう。
柚流はしゃがみ込んだ。転がって二段ベッドの下に潜り込んだリモコンを掴もうと、腕を伸ばす。その時だ。
『続いてのニュースです。本日午前六時頃、××市の廃ビルで、霞戸高校に通う生徒が屋上から転落し、下を歩いていた通行人と衝突する事故が発生しました』
唐突に切り替わった音声に、顔を上げる。
『……は頭部などを強く打ち、病院へ緊急搬送されましたが、現在も意識不明の重体ということです。現場となったビルは数年前から使われておらず、外壁は劣化が目立つ古い建物。周囲の住民からは不法侵入を心配する声も多く――』
柚流はしばし呆然と映像を眺めた。画面は砂嵐のようにノイズが流れ、文字化けした記号や不可解な漢字がたくさん並んでいる。淡々と告げるアナウンサーの声はどこか現実味がない。耳に入ってもすぐ抜けていく。
『警察は生徒がビルへ立ち入った経緯も含め、事故と事件の両面から詳しく調べています。……続いてのニュースです。本日午前六時頃、××市の廃ビルで、霞戸高校に通う――』
「え、え……なんだよ。なんでまたこのニュース……っ」
終わったかと思いきや、間髪入れず繰り返されるアナウンサーの読み上げ。
得体のしれない不気味さに怖気立った。チャンネルを変えようとボタンを押す。何度も何度も押す。けれど変わらない。永遠に同じ声と、映像が流れ続ける。
呼吸が荒かった。視界がグルグルと回っていた。自分がおかしいのか、地面が揺れているのか、分からなかった。
玄関から鍵の開く音がする。
「――先輩?」
「碧葉……ッ!!」
――ああ、やっと帰ってきた。ずっと待ってたのに、帰ってくるのが遅いんだよ馬鹿野郎。
「ど、どうしたんですか?」
碧葉に駆け寄る。肩に顔を押し当て、ぎゅっと抱きつく。匂いすらしないが、落ちつくあたたかさに息を深く吸って吐いた。
一人じゃない。碧葉がいる。それがこんなにも嬉しくて、心臓が跳ね上がって。熱くなった目頭を堪えるように、彼の肩口へぐりぐりと押し付けた。
「先輩、なにがあったんですか? 大丈夫ですか?」
「……ん」
肌を撫でる優しい声。同じように抱きしめ返されて、震えが収まっていく。
「碧葉……お前、あのニュース見えるか?」
柚流は一息つくと、顔を上げた。体勢はなんとなくくっついたまま、いまだ後方で流れ続けるテレビの映像を指で指した。
「ニュース?」
「ああ。なんか……事故がどうのこうのって」
何回も繰り返されたから、さすがに内容は頭に入っている。ただ、それを理解できるかと言ったら別問題だ。柚流には何の心当たりもなかったし、そのような事故があったことすら知らなかった。
(碧葉だったら、なにか分かんのかな)
じっと見入る彼の横顔を、柚流もぼうっと眺める。相変わらず綺麗な顔をしていて、道端でふいに見かけたら十人中十人が振り返る顔だ。現実だったらすげえモテモテなんだろうな、とたくさん女子に囲まれてる想像が容易につく。胸がモヤッと重たくなった。
(ん? なんで今――)
原因不明の動悸に違和感を持った瞬間。碧葉が崩れるように頭を押さえて俯いた。
「ッ、う……」
「碧葉? おいどうした?」
柚流は顔色を変え、咄嗟に目の前の体を支えた。しかし意識が朦朧としているのか、視線が噛み合わない。まるでここではない、「別の世界」でも見ているかのような瞳の動きに、じりじりと嫌な予感が募る。
「なあ碧葉。しっかりしろ。オレを見ろ……!」
肩を揺すり、呼びかける。顔を両手で包み、目線をしっかり合わせた。
「せん、ぱい」
「ああ。オレはここにいるから。勝手に一人でどっか行くな」
「……ぁ、俺、頭に……なにか、強い衝撃の、ようなものが……あったことを、思い、出して」
途切れ途切れに告げる碧葉の額から、大量の汗が噴き出している。まだ頭痛が止まらないのか、その表情は辛そうだ。
柚流はシャツの袖で汗を拭った。そして、彼の青白い唇へ、自分のものを重ねた。少しでも元気になってほしくて、もらったあたたかさを、一緒に分かち合いたくて。
見開いた碧葉の、青に煌めく瞳と目が合う。
「どうだ。まだ頭いてえか?」
「っ、いえ……。貴方のキスで、全部吹っ飛びました」
「ほんとか!? そりゃよか――」
ったな、と言い切ることはできなかった。感極まったように頬を染める碧葉を目の端に、柚流は窒息しそうなほど深い口づけをくらったからだ。
「んん……っ」
伝わる余裕のなさ。ひたすら熱をぶつけられ、脳がドロドロと蕩けていく。
支えを求め、彼の首へ腕を回すと、ますます勢いが増した。リミッターを外した碧葉に容赦という二文字はない。もはや荒波にさらわれるように、深く深く溺れさせられる。
(あっ……クソ。足に力、入んなくなってきた……)
しばらく与えられるまま熱に浸っていた柚流だが、限界は近かった。もうやめろと碧葉の首根っこを掴むより早く、膝がカクッと抜け落ちる。唇が銀の糸を引いて離れた。
「先輩……!」
「ちょ、ちょっと休憩させろ」
息も絶え絶えにそう伝えると、何故か膝裏を抱え上げられ、横抱きにされていた。いつぞやの保健室であった時と同じ格好だ。
「おい!?」
「安心してください。もう何もしませんから。……それともこのままずっと、玄関で座り込んでる気ですか?」
言葉の割には熱を孕んだ瞳が柚流を見下ろす。血色の戻った唇はぬらぬらと濡れていて、直視するのが難しい。まるで「貴方のせいでこうなったんですよ」――とでも言われてるみたいだ。
「わ、分かった分かった。お前に任せる」
柚流は頷くと、小さく碧葉のシャツを掴んだ。どうして自分からキスしてしまったのか、その理由を知るにはまだ少し勇気が足りなかった。
「――それで、さっきのニュースのことですけど」
言いながら、碧葉がコップにペットボトルのお茶を注いでくれる。コポコポと、水の跳ねる心地の良い音だ。あの不気味なニュースを垂れ流すテレビは、あれから早々に電源を切ったため、今や物言わぬガラクタのようにうんともすんとも言わない。
「俺は断片的に思い出したことがあるんです。先輩はビルの事故について、何か心当たりとか、覚えていたりすることってありますか?」
真剣な眼差しが刺す。コップを受け取った柚流はお礼を言うと、一口飲んで渇いた喉を潤し、首を横に振った。
「正直……オレは全然。そんな事故があったなんて初耳だし、噂すら聞いたことねえ。ほんとのニュースか? ってちょっと疑ってるくらいだよ」
霞戸高校の生徒がビルから転落――これがもし実際に起きた事故なら、今頃学校はその噂で持ちきりになっているはずだ。事情聴取のため、警察が学校に来ていてもおかしくはない。休校になってる可能性だってあっただろう。
「……そうですか。じゃあ俺だけなんですね、なにかを思い出したっていうのは」
「ああ。残念だけど……」
「いえ、俺のは頭に強い衝撃があったっていう、あんまり良くなさそうな記憶なんで。先輩に同じ記憶がなくてむしろよかったですよ」
碧葉が薄く微笑む。
「転落したのが霞戸の生徒なら、柚流先輩だって候補に入ってるわけだし」
「あ……たしかに。そうだよな」
あまりにも現実味がなさすぎて、柚流はうっかり他人事のように考えていた。自分なら足を滑らせて落下、みたいな事故はあるかもしれないが、わざわざ廃ビルへ行くだろうかと考えると、かなり可能性は低いような気がする。
「碧葉の『衝撃があった』ってのもよく分かんねえけど」
「俺は霞戸じゃなくて滝浦高校に通ってますからね。この場合俺が転落したってことにはならないでしょう」
「じゃああのニュースとお前の記憶に、直接の関係はねえのか?」
「いや……一つだけ、これならあり得るってパターンはありますよ」
生え揃った碧葉の睫毛が、間を置くようにゆっくりと一回揺れる。
「――それは俺が通行人だったっていうパターンです」
「つ、通行人?」
「はい。ニュースでも言ってましたよね。転落した生徒が、『下を歩いていた通行人と衝突』……って」
――あ。そうだった。転落事故は他にも被害者がいたんだ。
「詳細は伏せられてましたけど、それが俺の可能性は十分にあり得ます。たとえば現実の俺は意識不明の重体で、ここにいる俺は意識だけの思念体……とかね」
冷静に語る彼の表情は、自分の話だというのにずっと一貫している。涼しげに、淡々と、声に波立つことがない。それはこの世界に来てから身に着けた処世術なのか、それとも元々ある性格によるものなのか。……柚流は半々だろうな、と勝手に推測する。
(だって普通に怖えだろ。現実だと死にかけてるなんてこと分かったら。オレもここにいる以上、その可能性がないわけじゃねえんだし、そうだって考えたら震えるほど怖くて仕方ねえよ……)
強張りそうになるのを堪えるように、頬の内側を噛む。噛み過ぎて鉄の味が広がっても、これは生身の体じゃないんだと言い聞かせれば、痛みすらもなくなっていくような気がした。
「――先輩。そんな顔しないで。怖いなら怖いって教えてください」
碧葉の指先に、ふわりと頬を撫でられる。
「俺は先輩が辛そうにしてると、同じくらい辛くて、胸が張り裂けたように痛くなるんですから……」
物憂げな眼差しがくすぐったかった。まるで大切なものにでも触れるかのような手つきに、力んだ表情がするすると緩んでいく。我ながら単純で、御しやすい性格だ。
「痛えっつっても、本当の体じゃねえのに」
「関係ないですよ。心から貴方に惚れて、恋してる俺には」
「……っ」
――コイツ、よくそんな恥ずかしげもなく……。
「俺言いましたよね。隙があるならつけ込むって。貴方が簡単に隙を見せるから悪いんですよ」
「別に見せてるつもりは……って、ああっ、その顔やめろ! その愛しさ全開……! みたいな顔!!」
「え、俺そんなに顔に出てるんですか?」
「自分で鏡見てみろ!」
なんて無自覚なやつなんだ。こっちの心臓に負担が大きすぎる。胸がいっぱいに詰まってしょうがない。でも普段クールな男がこれでもかってほど甘い顔して囁いてきたら、誰だってドギマギしてしまうだろう。
言い訳がましい柚流の中に、すっかり底冷えするような恐怖は消え失せていた。むしろ火照った体内を静めたくて、一気に麦茶を飲み干す。
「というか、オレも伝えねえといけねえことがあったんだよ」
空になったコップをドンと置く。碧葉がもう一度注いでくれようとしたが、その手首を逆に掴んだ。
「……誰が黒幕かってこと。多分だけど、オレも分かったんだ」
触れる脈が速い。期待混じりの視線に、喉を鳴らす音がする。
そうじゃなければいいと思いつつも、耳にこびりつくほど残った警鐘が、その名前を浮かび上がらせる。
「――椿木さん、だろ?」
告げた瞬間、すとんと腑に落ちたような感じがした。思いのほか穏やかな心地のままでいられることに、柚流はひっそり息をついた。
「先輩はもうちょっと、葛藤するかと思ってました」
「……まあ、だよな。昨日で覚悟決まってたとはいえ、実際分かったらもうちょい悩むかと思ったんだけど――」
それよりも今は、何故こんなことをしてるのかって理由のほうが気になる。椿木が何を思って、この世界を作り出したのか。人を陥れるような子では決してないと、柚流は知っているから。
咄嗟に逃げ帰ってきてしまった時も、戸惑ったような彼女の声が聞こえた。別になにか危害を加えられるわけでもなかったのに。首のことも、ただの親切心で尋ねてきてくれたことが決定打になってしまっただけだ。
冷静になったこの状態で改めて考えると、答えはシンプルだった。
「オレはやっぱ知りてえよ。椿木さんの本当の思惑ってやつが。……知って、納得して、その上でお前とここから、一緒に出たい」
たとえ現実の体は、死にかけの重症かもしれなくても。こんな歪な世界で暮らし続けるよりはきっとマシだろう。
「……そうですね」
呟いた碧葉も柔く目尻を細める。手首を掴んでいた右手が、いつの間にか彼の指先に絡め取られていた。
「俺も、貴方とデートがしてみたい。貴方の好きな場所へ行って、好きな食べ物を食べて、好きな景色を眺めて――コロコロと変わる貴方の表情を一番近くで見ていられたら、それに勝る幸せはないです」
「お、大袈裟すぎだろ……」
「そうですか? だったら早く俺のこと好きになってください。ちなみにこんなのは序の口ですからね」
貴方としたいことも、貴方「に」したいことも、まだまだたくさんあるんです。――握られた手の甲へ、柔らかい口づけが贈られる。一片の隙間もないほど密着した彼の手が、ぴったりとくっついたまま離れない。
(そうだ……碧葉とも、ちゃんと向き合わねえと。逃げてばかりじゃ、いられねえ)
世界のこと、椿木のこと、自分の今ある気持ちのこと――。
考えることはたくさんだ。考えすぎて、普段使わない頭を使いすぎて、知恵熱でも出るかもしれない。だけど、どれもないがしろにはできないくらい、必要で大切なことだった。
柚流は決心するように握り返す。
「お前と一緒に戻って、現実でも会いたい。正直オレが今返せるのってこんくらいだ。でも自分なりにちゃんと考えて、お前に返事する。……これは絶対そうする。今そう決めた」
「俺、返事はイエスしか聞きませんけどね」
「だからそれはずりいんだって」
握られた手のひら越しに見える、碧葉の釣り上がった笑み。緩むのを抑えられないと言わんばかりのそれに、なんだかムズムズと落ち着かなくなる。柚流は視線を彷徨わせながら、赤くなった耳を掻いた。
「――と、とにかく、これでいったん黒幕は分かったわけだから。あとはこっから、どうやって脱出の糸口を探すかってことだけど」
一番手っ取り早いのは椿木に直接聞くこと。こちらから対話の意思を見せれば、危害は加えてこないと信じたい。
「でも俺はあの女に近づけません。先輩一人で対峙させるのも嫌です」
「……あ、そうか。碧葉は無理なのか」
繋いだ手に力が込められる。効率を重視して、一人で強行突破するのは無理そうだ。
となるとまずは、椿木の周辺を探るべきだろうか。碧葉と一緒に行けて、かつ彼女の情報も探れるような、そんな場所があればいいが。
「寮? あ、いやでも流石に、女の子の部屋侵入するのはあれか? アウトか……?」
「……いや、いいんじゃないですか。逆に俺は失念してました。女子寮……というか、女子トイレとかもそうですけど、入っちゃいけない場所っていう当たり前すぎる常識があったんで、そもそも選択肢からも外してましたよ」
盲点だった――と呟く碧葉の顔色は明るい。
「椿木の部屋に行きましょう。きっとそこに手掛かりがあるはずです」
「えっ、でもどうやって? オレらこのまんまじゃ――」
「俺に考えがあります。先輩は俺に任せてついてきてください」

