廊下が黄昏色に染まっている。ぎしりと軋む床板が、歩を進めるたびに重く鳴った。
「あの……そういえばこの間はごめんね」
「エっ? この間?」
椿木の謝罪に、柚流は素っ頓狂な声が漏れる。特に謝られるようなことをした覚えはないが、自分は気づかぬうちに何かやらかしてしまっただろうか。
「ほら、倉庫で地震があった時。秋吉くんはついてたゴミを取ろうとしてくれただけなのに、私が過剰に反応しちゃって……」
「あ、ああ!」
言われて記憶がフラッシュバックした。椿木と二人、文化祭の資材集めに駆り出されていた日のこと。あの後起きた碧葉との出来事が強烈過ぎて、すっかり頭の中から抜け落ちていた。
「あれは……オレも配慮足りてなかったとこあるし。椿木さん一人が悪いわけじゃねえから謝んないでよ」
むしろこっちは覚えてすらいなかったというのに。
「ううん。そんなことない。私、ひどい態度取っちゃってたと思う。もし私がその立場だったら、絶対傷つくだろうなって。そう思ったらちゃんと謝りたかったの」
はっきりした物言いの奥に潜む、彼女の優しさ。柚流は息をするように、ふっと口元がほころんだ。
「そっか。まあ実際、ちょろーっとはオレも傷ついたからな」
「え、や、やっぱりそうだよねっ? ごめんねほんとに……!」
「いーよいーよ。さっき謝ってくれたから。それでチャラにしようぜ。……それにオレも、急に襟触ろうとして椿木さんに引かれたんじゃねえかな……って心配してただけだからさ」
だからその不安に比べれば、普通に接してくれるだけで十分だ。
「引くなんて……。私秋吉くんに嫌な気持ち覚えたこと、今まで一度もないよ」
「……あ、マジ?」
「うん。だって秋吉くんは……優しい人だから。私の暗い身の上話も聞いてくれるし、恋愛の相談にも乗ってくれるし、親身な話し相手にもなってくれるし……」
立ち止まった椿木が静かに微笑む。彼女の雪のような肌に、鮮やかな夕焼け色が溶けていた。それを穏やかな心地で見つめる柚流は、綺麗だと感じはしつつも、手を伸ばしたいとは全く思わなかった。
(今ならオレ……心から椿木さんとハルのこと、応援できる気がする)
ただ――奇しくも二人は現在、黒幕候補として疑わなければならない筆頭の人物なのだが。
柚流は複雑な心境に、首をカリカリと掻く。壁に伸びた、細長い影を見た。
「あれ、秋吉くん――」
椿木が立てた人差し指をこちらへ向けてくる。
「首、赤くなってるけどどうかしたの?」
……えっ? 首?
「蚊に刺され?」
純粋に、何の含みもないまっすぐな眼差し。
「あ、そ、そう! 昨日の夜吸われ……いや刺されちゃってたみたいで!」
柚流はうなじを擦る。先ほどの時間で、跡を隠すための絆創膏は剥がしていた。碧葉がつけたそれは、「普通の生徒」には認識されないから。だから別に、隠さなくてもいいかと思って。
(え、ま、待てよ。そしたらなんで……なんで椿木さんは見れて……?)
突然、ゾゾゾッ……と悪寒めいた寒気に襲われる。足が生まれたての小鹿のように震えだして、口の中がカラカラに乾いた。
陽炎のように揺れた影は、次の瞬間。音もなく彼女の背後から姿を消した。
「――あ」
警笛のような耳鳴り。
「わりいッオレ用事思い出した!!」
カバンを握りしめ、床を蹴り上げる。突拍子もない行動は制限されるから、連れ戻されるかと一瞬頭をよぎったが、柚流はそのまま走り去ることができた。これもまた、一種の”縛り”が解除されたということだろうか。
「あの……そういえばこの間はごめんね」
「エっ? この間?」
椿木の謝罪に、柚流は素っ頓狂な声が漏れる。特に謝られるようなことをした覚えはないが、自分は気づかぬうちに何かやらかしてしまっただろうか。
「ほら、倉庫で地震があった時。秋吉くんはついてたゴミを取ろうとしてくれただけなのに、私が過剰に反応しちゃって……」
「あ、ああ!」
言われて記憶がフラッシュバックした。椿木と二人、文化祭の資材集めに駆り出されていた日のこと。あの後起きた碧葉との出来事が強烈過ぎて、すっかり頭の中から抜け落ちていた。
「あれは……オレも配慮足りてなかったとこあるし。椿木さん一人が悪いわけじゃねえから謝んないでよ」
むしろこっちは覚えてすらいなかったというのに。
「ううん。そんなことない。私、ひどい態度取っちゃってたと思う。もし私がその立場だったら、絶対傷つくだろうなって。そう思ったらちゃんと謝りたかったの」
はっきりした物言いの奥に潜む、彼女の優しさ。柚流は息をするように、ふっと口元がほころんだ。
「そっか。まあ実際、ちょろーっとはオレも傷ついたからな」
「え、や、やっぱりそうだよねっ? ごめんねほんとに……!」
「いーよいーよ。さっき謝ってくれたから。それでチャラにしようぜ。……それにオレも、急に襟触ろうとして椿木さんに引かれたんじゃねえかな……って心配してただけだからさ」
だからその不安に比べれば、普通に接してくれるだけで十分だ。
「引くなんて……。私秋吉くんに嫌な気持ち覚えたこと、今まで一度もないよ」
「……あ、マジ?」
「うん。だって秋吉くんは……優しい人だから。私の暗い身の上話も聞いてくれるし、恋愛の相談にも乗ってくれるし、親身な話し相手にもなってくれるし……」
立ち止まった椿木が静かに微笑む。彼女の雪のような肌に、鮮やかな夕焼け色が溶けていた。それを穏やかな心地で見つめる柚流は、綺麗だと感じはしつつも、手を伸ばしたいとは全く思わなかった。
(今ならオレ……心から椿木さんとハルのこと、応援できる気がする)
ただ――奇しくも二人は現在、黒幕候補として疑わなければならない筆頭の人物なのだが。
柚流は複雑な心境に、首をカリカリと掻く。壁に伸びた、細長い影を見た。
「あれ、秋吉くん――」
椿木が立てた人差し指をこちらへ向けてくる。
「首、赤くなってるけどどうかしたの?」
……えっ? 首?
「蚊に刺され?」
純粋に、何の含みもないまっすぐな眼差し。
「あ、そ、そう! 昨日の夜吸われ……いや刺されちゃってたみたいで!」
柚流はうなじを擦る。先ほどの時間で、跡を隠すための絆創膏は剥がしていた。碧葉がつけたそれは、「普通の生徒」には認識されないから。だから別に、隠さなくてもいいかと思って。
(え、ま、待てよ。そしたらなんで……なんで椿木さんは見れて……?)
突然、ゾゾゾッ……と悪寒めいた寒気に襲われる。足が生まれたての小鹿のように震えだして、口の中がカラカラに乾いた。
陽炎のように揺れた影は、次の瞬間。音もなく彼女の背後から姿を消した。
「――あ」
警笛のような耳鳴り。
「わりいッオレ用事思い出した!!」
カバンを握りしめ、床を蹴り上げる。突拍子もない行動は制限されるから、連れ戻されるかと一瞬頭をよぎったが、柚流はそのまま走り去ることができた。これもまた、一種の”縛り”が解除されたということだろうか。

