完全に当て馬ポジションの俺。何故か同室の後輩にキスされた上、どうやらここは現実じゃないらしい

 椎崎碧葉はある日突然、得体のしれない不気味な世界へ放り込まれた。
 見知らぬ学校、顔も名前も知らないクラスメイト、親しげに笑いかけてくる存在しないはずのルームメイト。

 始めは夢を見ているのかと思った。突然目の前の景色が様変わりし、時間も場所も飛ぶなんてこと、現実では絶対にありえないからだ。夢だと決めつけるほか、選択肢はなかった。

 適当に過ごしておけばいつかは覚めるだろう。そう考え、周りと同じように学校生活を送っていた碧葉だが、なかなか目は覚めない。
 嫌な胸騒ぎと奇妙な違和感。確実な異変に気がついたのは、おおよそ一月後の11月1日。文化祭が終了したその翌日だった。放課後を迎え、そのまま夜が訪れるか、唐突に翌朝へ飛ばされるか。その瀬戸際の時間。瞬きをした瞬間、碧葉は寮の自室にいた。
 日差しが眩しい。ルームメイトの柚流が食堂から帰ってきて、洗面所へ向かう。
 今日も新しい一日が始まったのだと、碧葉は端的に思った。そこに何の期待も感慨もなかった。ただ昨日の朝は寒かったのに、今日はやけに蒸し暑い。

『――今日のマル吉占い~!』

 テレビから軽快な音楽が流れる。ずんぐりむっくりの丸い鳥が、青い羽をパタパタと動かして説明する朝の占いだ。
 柚流が歯ブラシを口に含みながら戻ってきた。

『ではではっ、本日最も運勢が悪いのは~? ――――ん~残念! 天秤座のキミだよ! 今日は何も上手くいかない一日カモ……。突然襲ってくるアクシデントに気を付けてネ! ラッキーアイテムは赤い――』
「げっ……! 今日の最下位俺かよ……。ツイテねえ~」

 なんでもない日常。だが、妙に聞き覚えのある台詞と光景だった。流し見していた碧葉の視界へ、信じられない数字が飛び込む。

【9月25日(木)】

 テレビの左上に表示された日付。昨日までは犬の日ですねえ、などと画面の中の人たちが談笑していた「11月1日」が――何故か巻き戻って、「9月」などという馬鹿げた日付を示している。
 背中にひやりと汗が滲んだ。

「きょ、今日って何日ですか!?」
「んぐ……ッ」

 歯磨き中の柚流の肩を掴んで、揺さぶる。

「ふぁ、ふぁんだよひゅうに――」
「いいから早く答えろ!」

 彼の口から白い歯磨きの泡が垂れていた。顎を伝って、雫となったそれが床へこぼれ落ちそうになるのと同時。スマホのロック画面が眼前に差し込まれる。

「くがつ、にじゅうご……」

 ゴシック体で表示された、テレビと同じ日付。

「ふんんんん?」
 
 歯ブラシを咥えたまま口を閉じた柚流が覗き込んでくる。眼差しは心配げだが、この状況に違和感を抱いている様子はない。
 碧葉はだらりと腕を下げた。

「……嘘だろ?」

 こんなことって、ありえるのか?
 でも、夢だと思い込むには時間が経ち過ぎていた。事実から目を背け続ける阿呆には、成りきれなかった。

 

 ――とにかく現実へ帰る方法を探さなければ。
 
 碧葉は、原因の追究に乗り出した。学校の外はある程度行くと透明な壁が出現し、進めなくなったが、校舎の中はほとんど探索ができた。
 手あたり次第いろんな人に声も掛けた。もしかしたら自分と同じ境遇の人がいるかもしれないと思って、ほんの僅かな希望でも絶やさないためだった。
 しかし分かったことと言えば三つ。
 一つ目、誰も『椎崎碧葉』という個を認識しないこと。二つ目、自我を持った人間は自分以外に存在しないということ。そして三つ目――脱出方法は、どこにも見つからなかったということ。

 この時点で、既に3ループは終えていただろう。9月25日から始まり、11月1日を過ぎると、必ず時間が戻される。
 1ループ約一ヶ月。土日は強制的にスキップされ、一日の中でも《時間転移》の発生する回数が多かったりする日もあるので、正確な日数はもっと少ないかもしれない。が、出口の見つからない迷路は予想以上に辛いもの。碧葉の精神は、徐々にすり減っていった。

 操り人形のような生徒たちに囲まれ、誰からも名前を呼ばれず、本来の自分を忘れていくような日々。
 ふと、自死を図ろうとした時もある。死ねば現実の自分が、目を覚ましてくれるんじゃないかと期待して。自分の首に縄を掛けた。
 その結果、ただ痛い思いをするだけだったが。

 何度も同じ時を繰り返していると、次第に些細なことが気になり始める。
 例えばそれは――そう、「ルームメイト」から何度も聞かされる、辛い片想いの愚痴であったりとか。

 秋吉柚流。一つ年上の先輩。この世界でのルームメイト。少しお馬鹿で、思ってることが顔に出やすい。報われない片想いをしていて、碧葉をはけ口にいつも一方的に喋りかけてくる。
 最初は鬱陶しくて相手にはしなかった。恋愛感情とかいう不確かなものに振り回されてるなんて馬鹿馬鹿しい。毛ほどの興味も湧かなかったし、若干見下していた節もある。

 しかし、彼はいつも一生懸命だった。意思のない操り人形のくせに、全力で生きているかのような生命力と活力。笑いたいときに笑って、泣きたいときに泣く。陽だまりのような茶色の瞳はどんな時でもキラキラしていた。
 自然と目で追うようになったのは、多分この時くらいから。ループの最終日に、たまたま見かけた柚流の後をついていったのも、なんとなく。まさか彼の好きな人と親友が、想いを通わせ合うシーンを目撃することになるとは思いもせず。瞳に色が無くなって、絶望に染まった柚流の顔を見るのは初めてだった。あんな表情もするのかと、少し動揺した。

「――どうして諦めないんですか」

 どうせ終わりが分かりきった恋なのに。毎回毎回馬鹿みたいに振り回されているのが滑稽で、つい碧葉は尋ねた。何度目かのループの時だった

「う~ん……そんなん考えたこともなかったな」
 
 ポリポリと柚流が頬を掻く。

「そりゃ諦められたら楽かもしんねえけどさ、そうじゃねえじゃん、恋って。気づいたら好きになってるもんだし、コントロールなんかできねえよ。だからやめるのだって簡単じゃねえし」
「……気づいたら? そんなあやふやなもので貴方は毎日一喜一憂してるんですか?」
「ええっ……。あ、あやふや……って言うかさ、心がこう……訴えかけてくるだろ? ギュギュギューって」

 左胸の前でつくった拳を握りしめながら説明される。碧葉は眉をひそめた。

「俺には理解できません。こんな形のないもので必死になるなんて。どう考えても馬鹿らしい」
「……じゃあ、お前はまだそういう人に出会えてないだけなんだよ」
「え?」

 やわらかく目を細めた柚流がこちらを見ていた。心臓の辺りがむず痒くなるような、直視するのが難しい視線だった。
 
「オレはさ、椿木さんが笑ってくれたらオレも一緒に嬉しくなるし、泣いてるとこ見たらオレもおんなじくらい辛くなる。いつでも元気でいてほしいし、叶うならオレの手で守りてえって思う。……でも、それがたとえオレの役目じゃなかったとしても、彼女の幸せがそこにあんなら応援する。それが巡り巡って、オレの幸せに繋がるから。だから諦めようが諦めまいが、オレはどっちしろ幸せになれんなら、そんなん関係なくね? って思うんだよ」

 柚流がカラッと笑う。碧葉は胸の奥深くで、小さな熱が跳ねた――ような気がした。

(なんだよ、それ……)

 恋愛なんて所詮まがい物だ。人の気はすぐに移り変わるし、親は平気で不倫を繰り返す。一度愛し合って将来を誓った仲なのに、今や取り繕うのは外面だけ。「愛してる」と言ったその言葉の裏で、平気で汚いことをする。
 顔だけで言い寄ってくる女も変わらない。碧葉に理想の彼氏像をくっつけて、こっちが言葉のナイフを振りかざせば勝手に落胆する。分かったような顔して近づいてくる女も、冷たい態度のままいればそのうちいなくなった。
 全員恋とか愛だとか、薄っぺらいんだよ。
 柚流のことも嫌いだった。恋愛脳で生きる彼みたいなタイプが、一番嫌いだった。

『そりゃ諦められたら楽かもしんねえけどさ、そうじゃねえじゃん、恋って。気づいたら好きになってるもんだし、コントロールなんかできねえよ』

 それなのに、
 狂いそうになるほど歪なこの世界で、死にたいと思わなくなったのはいつからだろう。

「なあ聞いてくれよ~。今日オレさあ――」
 
 この人の恋の悩みなんてどうでもよかったのに。自ら望んで聞くようになったのはいつからだろう。

「……その話、もう聞き飽きました」
「えー! そんなこと言うなって! オレにとってはシカツ問題なんだ!」

 だんだん「違う意味」で、煩わしくなってきたのは? キラキラ輝く先輩の表情が、自分だけに向いたらいいのに……なんて、願うようになったのは?

 ――この人は、本当に自我のない操り人形なんだろうか?

 
 そして、11月1日。柚流が完全にフラれる日。静かに泣く彼を、衝動に任せて抱きしめた瞬間、体の奥から熱がぶわっと燃え広がった。小さくくすぶっていた炎は、たちまち心臓を包み込んだ。たしかに育ったこの感情に、もう見て見ぬふりはできなかった。