二人の御子

第一章「日常と侵食」

 境内の石椅子に人影を見つけるまで、それは、いつもと同じ夜だった。

 日和神社の朝は、祝詞から始まる。
 父が本殿に向かうのは、まだ空が白む前だった。僕はその音で目が覚める。廊下を渡る足音。本殿の扉が開く音。それから、低く続く祝詞の声。物心ついたころからそうだった。目覚ましより確かな音だった。
 起きて、顔を洗って、社務所の掃除をする。参道の砂利をならし、灯籠の油を確認し、本殿の前に榊を供える。それが朝の神事の準備だった。終わると朝飯を作り、父と二人で食べる。

 いつもと同じ、日和神社の、我が家の朝。

 学校に行く。授業を受ける。帰ってくる。夕方の神事の準備をする。父と夕飯を食べる。夜の見回りをして、眠る。
 参拝者は週末に少し増える程度で、平日は閑散としていた。山の斜面に鎮座している小さな社が、年月を重ねながら、ただ在り続けている。
 しかしながら実はただ一つ、普通の神社にはないものがあった。
 封印の間、と父は呼んでいた。
 本殿の奥、普段は誰も入らない場所に、それはある。扉は常に閉じていた。近づくと、空気が変わった。重くなる、というのか——密度が違った。膨らませた風船を手で押したときのような、抵抗のある感触が、こちらを跳ね返す。
「何が入っているんですか」
 小学生のころ、一度だけ訊いたことがあった。
 父は少し間を置いてから、「封じ奉っている御霊がある」と言った。
「悪いものですか」
「悪い、という言い方が正しいかどうかはわからない。ただ——外に出してはいけないものだ」
「なぜうちが封じているんですか」
「代々、そういう役割を仰せつかっている神社だから」
 それ以上は教えてもらえなかったし、僕もまた訊かなかった。
 僕には気とか、そういうものがわかる確たる自覚みたいなものはなかったけれど、それでも――封印の間のあたりは、訊いてはいけない、と思わせる気配で満ちていた。
 高校生になった今も、封印の間の前を通るたびに、その感触がある。何かが、あの扉の向こうから、じっとこちらの様子を窺っている。そう感じる夜が、ある。

 小学生のころ、一度だけ、扉に手を伸ばしかけたことがあった。父がいない夕方だった。何かに呼ばれた、というのではない。ただ、身体が、手が動いた。指先が取っ手に触れる前に気づいた大人がいて、止められた。その方は遠縁の老人で、参拝に来ていた人だった。何かご存じだったのかもしれない。僕の手を取って、何も言わずに、ゆっくり下ろさせた。叱られなかった。叱られなかったことの方が、胸に重く残った。

 その夜、夢を見た。何の夢だったかは、目が覚めると忘れていた。ただ、起きたとき、手のひらが冷たく、冷たいのに汗をかいていた。それは冬の石椅子の冷たさに、似ていた。
 それきり、扉に手を伸ばそうとは思わなくなった。というより、体がそれを拒んだ。恐怖なのか抵抗感なのか両方なのか、が少しずつ強まって、気づいたら好奇心よりもその方が自分の中で大きくなっていた。 

 父は定期的に、本殿の奥を確認しに行き、そして何も言わずに戻ってくる。何を確認しているのかは訊かなかった。訊かなくても、わかっていた。
 ──あの封印に、ほころびがないかを。

 ―

 石椅子の冷たさは、知っていた。

 村にも、似たようなものがあった。儀式の前に座る石の台。冬でも夏でも、同じ温度だった。体温を奪っていくのではなく、はじめから温度がない。石とはそういうものだ。そう、思っていた。

 村のことを、今でも夢に見る。

 緑の多い場所だった。山に囲まれていた。外から人が来ることは少なかった。来ても、すぐに帰った。村の人間が、そうなるように仕向けていた。

 村の南には、神を祀る霊山があった。神籠山(みこもりやま)と呼ばれていた。村の人間以外は立ち入ってはいけない場所だった。儀式は、その山の奥にある特別な場所で行われた。

 俺は特別な子だった。

 そう言われて育った。物心ついたころには、自分がそういう存在だと知っていた。神の御霊的なものに近い、と村の大人たちは言った。感じやすい、触れやすい、と。何に感じやすいのか、何に触れやすいのかは、はっきり教わらなかった。ただ、そういうものだと言われた。

 実際、何かを感じることはあった。

 神籠山の奥に行くと、空気が変わる場所があった。重くなる、というより——密度が違った。酸素が濃い…のとはまた違う、強い風が吹く方向に向かって歩くような抵抗のある感触を、身体全体に感じた。他の子どもには感じられないものらしかったが、俺にはその感覚があった。

 それが何なのかは、わからなかった。

 でも村の大人たちは喜んだ。やはりそうだ、と言った。お前は特別だ、と言った。

 母も喜んでいた。喜んでいた、と思う。あのころの母の顔を、今は正確に思い出せない。

 ―

 村が壊滅したのは、去年の春だった。

 外から人が来た。いつもとは違い、今度は帰らなかった。村の人間を、大勢で暴力を伴って外に追い出した。俺も出された。保護、という名目だった。

 再教育施設に入れられた。

 白い壁の建物だった。指導員と呼ばれる大人が何人かいた。彼らは村での生活を否定した。洗脳されていた、と言った。特別な存在だという認識も、神籠山で感じたものも、全部思い込みだと言った。

 毎日、同じことを繰り返させられた。

 お前は普通の人間だ。特別ではない。感じるものは幻だ。そう言い続けさせられた。言わないと、食事が減った。外に出られなかった。眠らせてもらえなかった。

 黒いものが体の中に沸き起こることがあった。でも、それを何と呼べばいいのかわからなかった。

 半年ほどで、施設からは出された。引き取り手、一般の生活に慣れるためという名目で、知らない大人の家に住むことになった。施設へは月に一度、通うだけになった。

 でも、それで終わりではなかった。

 毎日が同じで、先が見えなかった。自分が何者なのかがわからなくなっていった。村での自分も否定され、でも新しい自分の自由や意思を持つことも認められなかった。

 ただ、磨り減っていくだけだった。

 そういう状態のとき、日和神社を見かけた。「家」に帰る道の途中だった。これまでも何度か前を通ったことはあった。

 でもあの夜は、なぜか足が止まった。

 呼吸して入ってくる空気が、違った。

 神籠山の奥で感じていたものと——似ていた。違いは、霊山のそれは、こちらに何かを問うような感触だった。神社のそれは、ただそこにある──圧力ではなく、密度。

 足が引き寄せられるように自然にそちらへ向かった。

 石段を上がった。境内に入った。石椅子に座った。

 何かがいる気配があった。建物の奥に。封じられているような、それでいて滲み出しているような。

 体の中で、何かが応えた。

 応えた瞬間、何かがこちらを見つけた。そう思った。

 声、と呼んでいいのかわからなかった。でも何かが、俺の中の——施設では消されなかった場所に——触れた。

 恐怖を感じた。

 でも怖さより先に、何かがあった。共感?共鳴?

 名前のつけられない、何か。

 ―

 そこに、人の気配がした。
 建物の窓から、誰かが僕を見ていた。

 社務所の窓から見える境内は、冬の夜にひっそりと沈んでいた。
 参拝者はとっくに途絶え、石畳は霜が降りかけている。砂利を踏む音も、人の気配もない。午後八時を過ぎれば日和神社はそういう場所になる。
 だから、石椅子に人影を見たとき、僕は最初、見間違いだと思った。
 廊下の窓に顔を近づけて、目を凝らす。参道の脇、古い石椅子の上に、たしかに誰かがいる。身じろぎもせず、膝に手を置いて、ただそこに座っている。制服姿の男だった。
 霜の張った境内で、コートも羽織らず、マフラーも巻かずに。
 社務所を出ると、息が白くなった。玉砂利を踏む音を立てないように足を運ぶ。近づくにつれ、輪郭がはっきりしてくる。黒に近い暗褐色の髪。切れ長の目。色の白い肌が、灯籠の明かりに薄く照らされていた。背は高い方だった。座っているのに、長い手足を持て余したような、そういう座り方をしていた。寒そうだった。
 顔を上げなかった。気づいていないのか、気づいていて無視しているのか、判断がつかなかった。
「寒くないですか」
 声をかけると、彼がゆっくり視線を持ち上げた。目が合う。暗い色の瞳が、感情の読めない平坦さで僕を見た。
 近くで見ると、整った顔立ちをしていた。ただ整っているというより、表情が薄い、と感じる整い方だった。喜怒哀楽の何かが、欠落しているような、そういう顔。
「慣れてる」
 抑えた低い声。
「……神社の者です。何かあれば」
「別に」
「そうですか」
 僕は少し迷ってから、となりの石椅子に腰を下ろした。冷たさがすぐ布地を通して伝わってくる。コートも着ずに座っていたのかと思うと、尻のあたりがぞわりと冷えた。
 誰かが境内で時間をつぶしているのは珍しいことではない。地元の老人が夕方に来て縁台に腰かけて帰る、ということもある。だから追い払うつもりはなかった。ただ、夜の八時過ぎに制服の高校生が一人でいるのは、それとはまた話が違う気がした。
 ふと、彼の手元に目が行った。右の手の甲に、痣がある。石畳の灯籠の明かりだけでは細部までは見えないが、形からして古いものではなさそうだった。
「その手、怪我してますよね」
 彼がわずかに手を引いた。隠すように、膝の上に置いたまま角度を変えた。
「たいしたことない」
「冷やすくらいはできます。医者じゃないですけど」
 短い沈黙があった。僕は急かさなかった。彼はしばらく僕の顔を見ていた。何かを測るような目つきだったが、警戒というより、どう対応したらいいかとまどっている様子だった。
 やがて、ゆっくり手を差し出した。
 右手の甲に、痣があった。打撲の跡だった。転んだような擦れ方ではない。何かに強く打ちつけたか、あるいは何かで打たれたか、そのどちらかに見えた。
「中の方が明るいし、ここよりは温かい。湿布なんかもあります。来ませんか?」
 彼は返事をしなかった。でも立ち上がった。

 ―

 社務所の洗い場で、痣を冷やした。彼は声一つ上げなかった。痛いはずの場面で眉一つ動かさないのは、我慢強いというより─その感覚が麻痺しているような、そんな印象だった。
「ちょっと待って」
 湿布を取りに奥の棚まで行く間、彼は洗い場の前に立ったまま動かなかった。戻って、手の甲を確認しながら処置をした。
「きみ、名前は?」
 訊いたのは、何となくだ。沈黙が長くなりすぎていたから。
「篠山」
「下は?」
「紘一」
 こういち、と僕は頭の中で漢字を当てようとして、どういう字を書くんだろうと思って、訊いた。
「どういう字?」
「しのは…竹かんむりの下ににんべんにいち挟んで条みたいな字の。紘が……糸偏に広い。一は数字の一」
 素直に答えるんだ…。少し意外に思いながら、
「篠山紘一くん、か。僕は如月清澄。ここの禰宜の息子」
「きさらぎ」
「二月の古い呼び方。清澄は、清らかな澄んだ、で清澄」
篠山紘一は小さくうなずいた。漢字を頭に入れているのか、それとも別のことを考えているのか、表情からはわからなかった。
「学校どこ?」
「南高」
「僕と同じだ」
 彼がわずかに目を細めた。
「何年?」
「二年」
「僕も。クラスは?」
「四組」
「僕は二組。道理で知らないはずだ」
 湿布を貼り終えて、僕は彼の手から手を離した。彼はその手を見た。手当された手を、少し不思議そうな顔で。何か言いたいことがありそうで、でも言わなかった。
「飯食べた?」
 訊いたのは、また何となくだった。夜の八時過ぎに制服姿で境内の石椅子に座っていた人間が、まともに食事をしているとは思いにくかった。
 彼は答えなかった。
「食べてないの」
「……問題ない」
「食べてないってことじゃん」
 僕は立って、台所の方へ歩いた。今夜の夕飯の残りがあった。豚汁は鍋にまだたっぷり残っている。おにぎりも父が多めに握っていて、ラップに包んだものが二つ残っていた。
「座ってて」
 声をかけると、彼が居間の入り口に立ったまま僕を見ていた。上がっていいのかどうか迷っている様子だった。
「気にしないで入って。」
 彼は少し遅れてから、言われた通りにした。
 豚汁を温め直して、茶碗によそって出す。おにぎりを皿に乗せて添えた。篠山紘一は椅子に座ったまま、しばらくそれを見ていた。
「食べて」
「……もらっていいのか」
「僕が勧めたんだよ」
彼は箸を取った。最初の一口は慎重だったが、食べ始めると箸を動かし続けた。うまい、とも、ありがとう、とも言わなかった。でも椀を両手で持って、豚汁を飲み干したとき、表情が少しだけ緩んだ。一瞬だけ、眉の間の力が抜けた。僕はそれを、気づかないふりをして見ていた。
 箸を置いてから、彼はようやく「ごちそうさまでした」と言った。
「また来ていい?」
 少し意外に感じながら、
「来ていいよ」
 僕は答えた。特に深く考えずに答えた。
「夜中でも?」
「……玄関、ノックして」
 彼がうなずいた。立ち上がろうとするのを見て、僕はふと思いついた。
「来る前に連絡くれたら、こっちも準備できるんだけど。スマホ持ってる?」
 少しの間があった。
「……持ってない」
「そっか」
 それだけ言った。事情を訊かなかった。訊く場面じゃなかった。
「じゃあそのまま来て」
 彼がまたうなずいた。

 ―

 翌朝、父に昨夜のことを話した。同じ学校の生徒で、事情がありそうで、飯を出して帰した、と。父は「そうか」と言っただけだったが、その日から夕飯を少し多めに作るようになった。父はそういう人だった。

 ―

 翌週、僕は学校で彼を探した。
 四組の教室の前を、理由をつけて通った。廊下から教室を見ると、窓際の一番後ろの席に彼がいた。篠山紘一。昼休みに一人で、机の上に何も出さずに外を見ていた。弁当もない。スマホもない。本もない。ただ窓の外を見ていた。
 隣の席は空いていた。前の席も、後ろの席も埋まっているのに、隣だけが空いていた。偶然か、そうでないのか。
 教室の中で誰も彼を気にしていなかった。空気のような存在とはああいう感じかもしれない、と思った。
 僕は廊下を引き返した。
 同じクラスの河合に「四組に篠山って知ってる?」と訊いたのはその日の放課後だった。
「篠山くん?知ってるけど、どうした急に」
「ちょっと縁があって」
「あー……あんま喋らないやつだよね。転校してきたのが一年の秋とかで、最初からひとりだったし」
「そっか」
「事情あるらしいって聞いたことあるけど。詳しくは知らない」
「うん」
「清澄が誰かを気にするの珍しいね」
「そうかな?」
 僕は適当に答えて話を終わらせた。

 翌日も、その翌日も、四組の前を通った。

 理由をつけるのが自分でも面倒になってきたころ、コウが廊下にいた。

 昼休みだった。四組の前の廊下を、コウが一人で歩いていた。弁当も鞄も持っていない。両手を制服のポケットに入れたまま、廊下の窓際を歩いていた。

 向こうも僕に気づいた。

 足を止めなかった。でも視線が、僕に止まった。僕は、そのままコウに近づいた。

「昼、どこか外出てた?」

「……図書室にいた」

 図書室、という答えが少し意外だった。本を読みに?それとも、一人になれる場所として使っているのか。訊こうとして、やめた。

「飯は」

「食べた」

 嘘っぽいな、と思った。

「図書室、この時間も開いてるんだっけ」

「開いてる」

「そっか」

 会話が止まった。廊下を人が通った。コウはさっと壁の方に一歩よけた。自然な動きだった。普段から人に触れられるのに慣れていないのかもしれない、と思った。

「神社、また来るか」

 自分から言ったのは、我ながら唐突だと思った。コウが少し間を置いた。

「……邪魔じゃなければ」

「邪魔じゃないから言ってる」

 コウが僕を見た。廊下の薄い蛍光灯の下で、目の色が読みにくかった。

「今夜も、来ていいか」

「来て」

 コウがうなずいた。それだけで話が終わった。コウは図書室の方向へ歩き始めた。振り返らなかった。僕も自分の教室に戻った。

 それが、学校での最初の会話だった。

 ―

 それからは、廊下で顔が合うことが増えた。

 合うといっても、コウから話しかけてくることはない。視線が合って、どちらかが小さくうなずいて、それで終わることが多かった。四組の前を通ると、教室の中から視線を感じることがあった。窓際の一番後ろの席。コウが外を見ているような顔をしながら、廊下の僕を意識している、という気配があった。

 気のせいかもしれなかった。でも、気のせいじゃない、多分。

 ある日の昼、僕は図書室に行ってみた。コウがいた。

 窓から一番遠い席に座って、本を読んでいた。机の上に本が一冊と、それだけ。文庫本だった。タイトルは見えなかった。

 声をかけようとして、やめた。

 コウは完全に本の中に没頭してた。声をかけると、そこから引き剥がすことになる。

 そう思って、引き返した。

 夜、神社に来たコウに「図書室にいたの見たよ」と言うと、コウは少し間を置いて「見てたのか」と言った。

「声かけようとしたけど、読んでたから」

「……声かけたらよかったのに」

「でも入り込んでた感じだったし」

「まあ、夢中で読んでたけど」

「何読んでたの」

「民俗学の本」

「図書館の?」

「ああ。住んでた村の——宗教的なものと、民俗学が重なる部分がある。知りたいと思って」

 例の村のことを自分から話すのは、珍しかった。コウはそれを気にする様子もなく、箸を持った。

「そういうのをちゃんと調べたい気持ち、あるんだ」

「……あっていいのかどうか、最初はわからなかった。施設では、村での経験は全部否定された。調べることも、良くないって」

「今は?」

「今は」コウが少し考えた。「知りたいと思うことは、自分の中にあって。それを持っていてはいけないってなんだろうなって」

「うん」

「清澄は、神社のことを調べたりするのか」

「する。でもうちの場合は、自分で調べるっていうか父さんから教わる感じ。文字には残されてないんだ」

「口伝、ってやつ?」

「そう。じいちゃんが父さんに伝えて、父さんが僕に伝える。たぶん途中で抜け落ちてる部分もあるんじゃないかな」

 コウが少し考えるような間を置いた。

「抜け落ちたまま、引き継いでるのか」

「うん。抜けてることも含めて、引き継ぐ。わかんないまま続ける、みたいな感じ」

「……それは、しんどかったりしないか」

「そういうものかなって。慣れてる」

 言ってから、コウが自分の口癖だと気づいたかも、と思った瞬間、コウが「慣れてる、ね」と少し大げさな表情を作って繰り返した。

「コウ、慣れてるって自分の口癖だって自覚あるんだ」

「まあね」

「口伝の話はもういいよ。コウはどうなの?なじんできた?色々」

 コウが少し黙った。

「慣れた、というより──慣れるしかない、かな。でもここに来ると、あ、普段俺無理して息してるんだなってわかる」

 普段、無理して息をしている。それが、ここに来ると深く息ができる。
 僕にはそれがどういうことなのか、たぶん全部はわからない。
「じゃあ、ここにいる間くらい、楽にしてれば」
 コウが僕を見た。
「来たいときに来ればいいから」
「……そうか」
「そうだよ」
 コウが箸を動かし始めた。それ以上は言わなかった。でも肩にこもっていた力が、少し抜けた気が、した。

 ―

 学校で見かけるコウは、神社で一緒に過ごすコウとまるで違った。
 同じコウなのに、雰囲気が─違う。
 教室にいるコウは、できるだけ目立たないようにしているみたいだった。誰とも目を合わせない、話さないようにしているように見えた。

 ―

 ある日、体育の着替えで廊下のすれ違いざまに、クラスの別の男子がコウの肩にぶつかった。
 故意ではなさそうだった。でも、ぶつかった瞬間にコウの体が固まったのが、遠くからでもわかった。
 相手の男子は「わりー」と言って行った。コウは何も言わなかった。
 僕はそのとき少し離れた廊下にいて、それを見ていた。コウは僕に気づいていなかった。
 人に触れられることに慣れていないのかも…そう思いながら僕は見ていた。

 ―

 その週の金曜日、移動教室の授業が終わって教室に荷物を取りに戻ると廊下にコウがいて、顔を上げてこちらを見た。
「帰るとこ?」
「……待ってた」
「何で」
「一緒に帰れるかと思って」
「お。じゃあ帰ろうか」

 ―

 駅に向かう途中の道で、コウと並んで歩いた。
「コウ、どっち方向?」
 コウが少し間を置いた。
「神社、通り道なんだ。方向は同じ」
「ふうん。じゃあ行こうか」

 ―

 商店街を抜けるあたりで、コウが言った。
「この道、歩いたことがある」
「ここ?」
「ああ。施設にいたとき、外出が許可された日があって。一人で」
「どうだった」
「買いたいものがあるわけでもなかったし……何したらいいのかわかんなくて、ただぶらぶらしただけ」
「ずっとぶらぶらしてただけ?」
「気がついたら、神社があって」
「あの夜より前の話?」
「うん。実は何度か神社の前を通ってたんだけど。入っていいのかわかんなかったし」
「誰でも入っていいに決まってるじゃん。お参りでも散歩でも」
「そう、なのか」
「あの夜は?」
「あれは、たまたま……」
 あの夜のコウのことを、僕は思い出した。石椅子に座っていた。コートも着ていなかった。

 ―

 雨は、その夜になってから降り出した。
 その日の夕方、社務所に戻ったとき、境内の石椅子に彼がいた。今度はコートを着ていた。
「来たんだ」
「邪魔かな?」
「全然かまわないよ。飯は?もう食った?」
 コウが少し間を置いた。
「……まだ」
「じゃあ食べてけば?中入って」

 ―

 そういうふうにして、篠山紘一は日和神社に来るようになった。
 最初は週に一度か二度。やがてほぼ毎週末。夜に来て、翌朝帰る。コウ、と僕が呼ぶようになったのは自然な流れで、いつ最初にそう呼んだか覚えていない。父も呼ぶようになった。「またコウくん来てるの」と、特別な意味も込めずに。
 コウには引き取り手がいた。血のつながりのない夫婦で、村がなくなったあと、その夫婦の家に預けられて日常生活の送り方を教わっていると、僕は少しずつ周囲の話の断片から知った。
 コウは自分の事情を語らなかった。僕も訊かなかった。
 それが当然の関係として成立していた。

 ―

 ある夜、コウが泊まることになって、僕の部屋に布団を二枚敷いた。
 コウは最初、窓から遠い場所に座っていた。部屋の隅を背にして、出入り口が見える位置に。
 僕が課題をやっている間、コウは何もせずにいた。本を読むでも、スマホを見るでもなく——そもそもスマホを与えられていない——背中を壁につけて、何をするでもなく座っていた。

「何もすることがないって、落ち着かなくない?漫画かなにか読む?」

「……漫画は、あんまり読んだことない」

「マジで」

「ああ」

「じゃあ何か他のは。スマホ……は今ないか。本でもいいし、なんならテレビつけるけど」

「いや、いい」

 コウが少し黙った。

「何もしないでいる、っていうのが、よくわからない」

「わからない?」

「暇な時間が、あんまりなかったから。村でも、施設でも」

 コウがまた少し黙った。

「……でも、何もしないでいる、っていうのも悪くないかも」

 それ以上は言わなかった。僕も続けなかった。シャープペンシルを動かし始めると、コウはまた部屋の一点を見つめた。

 十時を過ぎたころ、「今日も泊まってく?」と訊いた。
「泊まっていいの?」
「布団あるし、父さんに聞いたら多分大丈夫って言う」
「……頼んでいいか」
「うん」
 父に声をかけると、あっさり了承した。「清澄の友達なら」と言いながら、古い座布団を押し入れから出してくれた。友達という言葉の正確さには疑問があったが、訂正しなかった。

 ―

 翌朝、コウは僕より早く起きていた。
 台所に行くと、コウが流し台の前に立って、昨夜使った茶碗と箸を丁寧に洗っていた。
「起こせばよかったのに」
「よく寝てたから」
「ありがとう」
 コウは振り向かなかった。皿を布巾で拭きながら、「また、来てもいいかな?」と言った。
「いいよ、もちろん」
 僕が答えると、コウはほっとしたように息を一つ吐いた。

 ―

 十二月の半ばを過ぎたころ、コウが珍しく夕方に来た。
 いつもは夜の八時か九時で、夕飯を終えたあとの時間に現れる。玄関のチャイムが鳴ったのが五時を少し過ぎたころで、僕は社務所の帳簿を整理していた。
 出てみると、コウが立っていた。制服のままで、鞄を持っていた。学校から直接来たのかな、そう思った。
「早いね」
「……来てよかったか」
「もちろん」
 コウが上がった。台所で湯を沸かしてお茶を出すと、コウは両手で湯飲みを持った。温めているような持ち方だった。手が冷えていたのかもしれない。
 窓の外を見ると、空の色が変わっていた。灰色の、重い色。
「雪になるかも」
 僕が言うと、コウが窓を見た。
「この辺は多いのか」
「山沿いだからそこそこ。積もると翌朝が大変で」
「大変?」
「参道の雪かきがあるから。早起きして」
 コウがそれを聞いて、少し間を置いた。
「手伝う」
「え?」
「雪かき。明日、早起きできる」
 断る理由がなかった。「じゃあお願いしようかな」と言うと、コウは小さくうなずいた。

 ―

 夜になると、雪が降り始めた。
 縁側の雨戸を少し開けて、二人で外を見た。境内の砂利に、白いものが積もり始めていた。灯籠の明かりが、落ちてくる雪を照らしていた。
「きれいだな」
 コウが言った。
「雪、好きなの?」
「嫌いじゃない。村は山の中だったから、冬は雪が多かった」
 村、という言葉が出た。コウが自分から村の話をするのは、珍しかった。僕は雪を見たまま、続きを待った。
「子どものころは、雪が積もると仕事が増えた。でも積もった朝の、音がない感じが好きだった」
「音がない感じ」
「雪が降ると、音が吸われる。知ってるか」
「知ってる。静かになるよね」
「ああ」
 コウが湯飲みを縁側に置いた。雪を見ていた。
「村では、雪の朝に外に出るのが好きだった。誰より先に外に出ると、足跡が自分のだけになる。それだけのことなんだけど」
 それだけのことなんだけど、と言ったきり、コウは黙った。
「これから、いくらでももてるよ、そういう時間」と僕は言った。
 コウが少し僕を見た。
 でも、口元がわずかに緩んだ。笑った?僕は何か言おうとしていたが、コウの笑顔を見て忘れてしまった。

 しばらく二人で、雪を見ていた。

 雪は降り続けていた。コウが少し、僕の方に体を寄せた。肩が触れるほどではなかったが、さっきより距離が縮まっていた。
 僕も気づかないふりをした。

 ―

 その夜、コウはなかなか寝付かれないようだった。
 いつもはすぐに眠るのに、夜の十二時を過ぎても、何度も寝返りを打つ気配がした。僕は気づいていたが、声をかけるタイミングを測っていた。
 やがてコウが静かに起き上がった。
「ごめん、起こしたか」
 コウが小さな声で言った。
「ううん、起きてた」
「そうか」
 コウが膝を抱えて座った。部屋の明かりはつけなかった。カーテンの隙間から、外の薄い光が少しだけ入っていた。
 僕も起き上がって、壁に背中を預けた。二人で暗い部屋の中に座っていた。
「眠れないの、珍しいね」
「……今日、施設で月一の面談があった」
「何か言われた?」
「色々と。進路のこと。これからのこと」
「何か、ひっかかってるの?」
「進路って言われても全然わかんなくて」
 コウが膝の上に顎を乗せた。
「自分がどうしたいのか、って聞かれても。自分で決めていいことが、何もないのに」
「うまくいくとか、いかないとかじゃない。ただ——」
「今はどうしたい?」
 コウが少し黙った。
「今は」
 また間があった。
「……ここにいたい」
 小さな声で、ぽそりとつぶやくように言った。
 僕は黙っていた。暗くて表情はよく見えなかったが、コウが僕を見つめているのは、わかった。
「変なことを言った」
「変じゃない」
「そうか」
「そうだよ」
 コウがまた膝に顎を乗せた。今度は僕の方を向いたまま。暗い部屋で、二人で向き合うような形になった。
 しばらくそのままでいた。
 どのくらい経っただろうか、コウの頭が船をこぎ出した。
「コウ、布団入って」
 小さく言うと、コウがゆっくり動いた。布団に横になった。
 僕も横になった。
 コウの呼吸が、規則正しい音を立てるのが聞こえてきた。
 ここにいたい、とコウが言った。

 ―

 コウは多くを語らなかった。でも、僕に慣れてきた様子は感じられた。
 最初に気づいたのは、距離のこと。
 部屋の隅を背にして出入り口が見える位置に陣取っていたのが、いつの間にか僕の座る場所の近くに来るようになった。一週間ごとに、ほんの少しずつ。僕が気づいたのは、ある夜、課題をやっていて顔を上げたとき、コウの肩が視界の端に入ったからだ。こんなに近くにいたっけ、と思った。猫みたいだ。
 次に気づいたのは、視線のこと。
 コウは基本的に僕を見ない。話しかけるときも、返事をするときも、目を合わせることは少ない。でもある夜、僕が本棚から何かを探していて、振り返ったとき、コウがこちらを見ていた。目が合った瞬間、コウはぱっと視線を逸らした。

 変化はほかにもあった。
 コウは僕が台所に立つと、ついてくるようになった。最初は黙って立っていたが、やがて「何か手伝う」と言うようになった。言い方はいつも同じで、「手伝おうか」でも「手伝うよ」でもなく、「何か手伝う」だった。

 ある夜、コウが食器を洗いながら、僕に話しかけてきたことがあった。
「清澄は、神社を継ぐのか」
 唐突な問いだった。
「たぶん」
「たぶん?」
「継ぐつもりではいるけど、選択の余地がないわけでもない。父さんはそういうのを押し付けない人だから」
 コウは少し考えるような間を置いた。
「……羨ましい」
「何が?」
「選択の余地がある、っていうのが」
 それだけ言って、コウは食器を拭き始めた。でもその一言が、しばらく残った。選択の余地。

 夜が更けてくると、コウの声が低く、柔らかく、ささやくような感じになる。
 僕に対してだけなのか知る由もなかったけど、そうだといいのに、と思っていた。

 ―

 ある夜、コウが眠りについた後も、僕はしばらく天井を見ていた。
 隣の布団の呼吸が、落ち着いている。コウが眠るとき、最初は仰向けでいることが多かった。眠れない夜が多いのかもしれないと思って、一度だけ訊いたことがある。
「眠れてる?」
「寝つくのは得意」
 コウはそう答えただけだった。
 今夜のコウは早く眠った。
 来たとき、少し疲れているように見えた。引き取り先で何かあったのかもしれない。
 コウがここに来る理由を、僕は訊いたことはない。
 ただ、コウの表情がやわらかくなる。声がささやくようになる。よく眠れてる気がする。それを知っているのは、たぶん僕だけだ。

 ―

 ある夜、僕が一人で夜食を作ろうとして台所に行くと、コウがついてきた。流し台の脇に立って、僕が手を動かすのを見ていた。
「手伝う?」
「じゃあ卵割って」
 コウが卵を受け取った。ボウルの縁で割って、中身を落とした。無駄のない動作だった。
「料理できるんだ」
「……最低限は」
「どこで覚えたの」
 少しの間があった。
「村にいたとき、たまに」
 そう答えてから、コウは黙った。
「そっか」
 それだけ言って、フライパンを火にかけた。卵がじゅうじゅう音を立てて広がりはじめると、コウが、ぽつりと「うまそうだ」と言った。
 僕は卵を返しながら、「コウも食べるよな?」と訊いた。
「……うん」
 コウは卵焼きが焼けるのを、じっと見ていた。表情が柔らかかった。そんなコウの顔を、僕はしばらく見ていた。
 卵焼きが焦げ始めて、慌ててフライパンに目を戻した。

 ―


その夜のことを、あとから何度か思い返した。
 台所の明かりの下で、清澄が卵焼きを焼いていた。俺は流し台の脇に立って、それを見ていた。
 清澄の横顔は、整っていた。薄茶の髪が、台所の明かりを受けて少し透けて見えた。目はフライパンに集中していた。卵焼きを返すタイミングを測っていた。少し慎重な手つきで、でも迷いのない動き方で。
 俺はいつのまにか、清澄の顔をじっと見つめていることに気づいた。気づいて、頬のあたりが熱くなり、視線を逸らした。
 窓の外を見た。夜の境内が見えた。砂利が、灯籠の明かりを受けて光っていた。


 さっき目を逸らした清澄の横顔が、まだ消えなかった。

 胸の奥に、熱い何かが鼓動していた。

 「コウも食べるよな?」

 清澄が振り返らずに言った。

 「……うん」

 清澄は卵焼きをフライパンから皿に移し、火を止めた。

 皿を運ぶ清澄の背中を、追って見ていた。

 ―

 飯を食べながら、俺は清澄を見ていた。

 清澄が箸を動かしていた。父さんが明日の神事の準備をしている、と話していた。今日の学校で誰かが廊下ですべった、と話していた。俺は聞きながら、相槌を打ちながら、清澄の口の動きを見ていた。

 清澄が笑った。

 その瞬間、胸の奥がまた鼓動した。

 清澄が「どうした」と言った。

 「別に」

 「見てたじゃん」

 「……見てない」

 「見てた」

 俺は顔を上げた。清澄と目が合った。

 ―

 夜が更けて、二人で部屋に並んで座った。

 俺は教科書を開いた。清澄が課題をやっていた。

 ペンが動く音がした。時々、清澄が消しゴムを使う音がした。静かな部屋の中で、生活の音だけがあった。

 俺は教科書を見ていた。でも文字が頭に入らなかった。

 さっきの台所でのことが、集中するのを邪魔していた。

 清澄の背中が。横顔が。笑い方。

 村にいたころ、人の動きを観察することは習慣だった。外からやってきた人間の動きを見て、何を求めているかを先に読む。村の大人たちの表情を見て、次の指示が来る前に用意する。そういう観察の仕方だった。

 清澄を見るのは、それとは違った。

 何かを読み取ろうとしているわけでも、次の行動を計算しているわけでもなかった。

 見つめていたかった。

 それが何なのかを、今夜の俺はまだ知らなかった。

 「コウ、眠い?」

 清澄が訊いた。

 「眠くない」

 「教科書、ページ変わってないけど」

 「……読んでた」

 「本当に?」

 「……あんまり集中できてないかも」

 清澄が少し笑った。

 「集中できないなら無理するなよ」

 「無理してない」

 「そうか」

 清澄が課題に戻った。

 俺は教科書を閉じた。窓の外を見た。夜の境内があった。石椅子があった。最初の夜に座っていた、あの石椅子が、灯籠の明かりの中にあった。

 最初に声をかけられたとき、清澄の声はフラットで──警戒も、疑いも、何もなかった。

 最近、人の声には何かしら昏い思惑がはりついていて。そのときの清澄の声に、思わず、足が動いた。

 施設で聞く声は、いつも俺から何かを取り出そうとした。答えを求める声、正しい反応を求める声、俺の中の何かを削っていく声。

 清澄の声は、俺から何も取ろうとしなかった。

 来るたびに、清澄の声に潤された。

 胸の奥のなにかが、またドクンと音をたてた。

 清澄の声に共鳴するかのように。

 ―

 夕方の神事を終えて本殿から出ると、コウが参道の脇に立っていた。
 いつ来たのか気づかなかった。石段の下の方に、少し離れた場所で、こちらを向いて立っていた。
「あれ、見てたの?」
「……邪魔だったか」
「邪魔じゃないけど、声かけてくれればよかったのに」
「邪魔しちゃ悪いなって思って。確かそういうのって途中でとめられないって何かで読んだ」
 コウが参道を上がってきた。夕方の境内は、光の角度が変わっていた。西日が石畳を斜めに照らして、砂利が橙色に見えた。
「祝詞、って言うんだっけ」
「うん」
「何を言っていたのか、わからなかった。でも——」
 コウが少し考えるような間を置いた。
「聞いてると、落ち着くな」
 コウにしては珍しい言い方だった。
「祝詞は、鎮めるためのものだから」
「何を鎮めるのか」
「荒れているものを。落ち着かないものを。神様に向けて言葉を届けて、その場の気を整える、みたいな」
「神様が聞いているのか」
「聞いているかどうかはわからない。でも、言葉には形があると思っている。声に出すことで、場所が変わる。気が変わる。それは本当だと思ってる」
 コウが本殿の方を見た。
「この神社には、何が祀られているのか」
 どう言葉にするか、少し考えた。
「表向きは、和魂を祀っている。穏やかな神様。でも——」
「でも?」
「この神社には、もう一つの役割がある。祀るだけじゃなくて、鎮める役割。荒ぶるものを、ここに留めておく」
「留めておく?」
「封じる、と言った方が正確かもしれない」
 コウが本殿の奥を見た。封印の間がある方向を。
「荒ぶるものというのは」
「僕にも全部はわからない。父さんから全部聞いているわけじゃないから。ただ——」
 僕は境内を見渡した。夕暮れの光の中で、砂利が深い色になっていた。
「この神社がここにある理由の、半分くらいは、それだと思ってる」
 コウが黙った。
 しばらく二人で、暮れていく境内を見ていた。

 コウが「祝詞、また聞いてもいいか」と言ったのは、社務所に戻る直前だった。
「聞きたいなら、どうぞ」
「邪魔じゃないか」
「邪魔じゃない。コウが聞いてると、なんか——」
 うまく言えなかった。
「なんか?」
「ちゃんとやりたいなって思う。いい意味で」
 コウが少し僕を見た。何か言おうとして、言わなかった。でも、口元がわずかに緩んだ。
 僕はそれを見た。
 見て、すぐ目を逸らした。逸らさなきゃよかった、と、思った。

 ―

 廊下で父の電話を盗み聞きしたのは、コウが来るようになって一ヶ月ほど経つころだった。
 トイレに行こうとして廊下に出たら、父が座敷の前で声を落として話していた。古い木造の廊下では、落とした声も吸収されない。
「……はい、今のところ落ち着いています。うちに来るときは——ええ、そうです、本人の意志で。強制はしていません」
 僕は廊下の途中で止まった。
「再教育の件は、家庭の方と施設で引き続き担っていただければ。こちらは居場所として機能すればと思っています。……はい。コウくんは、うちの息子と馴染んでいる様子です。友人関係があった方がいいと私も思っていますので」
 電話が終わって、父が振り返った。僕の顔を見て、少し間があった。
「聞いてたか」
「少しだけ」
「そうか」
 父は廊下の壁に背中を預けて、僕を見た。
「コウくんについて、知りたいことがあるか」
「知っておいた方がいいことがあるなら」
 父が少し考えた。
「再教育というのはな」と父は言った。「悪い言葉ではない。でも、受ける方にとってはそれなりに重いものだ。コウくんは生まれ育ったところが、世間の常識と違うものを当然としていた場所だった。それが崩れて、外の世界に出てきた。色々なことを、一から——場合によっては、上書きするかたちで覚え直している」
「それって」
「本人の望む望まないに関わらず、だ」
 僕は黙った。
「だから」と父は続けた。「清澄、お前は友人として付き合えばいい。それだけでいい。コウくんが何を考えているかを理解しようとしなくていい。ただそばにいてやること、それが一番だと思っている」
「……うん」
「何か変だと思ったら、私に言いなさい。一人で抱えるな」
 父はそれだけ言って、座敷に戻っていった。
 僕はしばらく廊下に立っていた。
 再教育。上書き。望む望まないに関わらず。
 その言葉が、しばらく頭の中に残った。コウがたまに見せる、対応の仕方を探すような目の動き。「慣れてる」と言うときの声の平坦さ。痛みへの反応の鈍さ。
 あれは、そういうことだったのかもしれない。

 ―

 その冬、参道の灯籠が、同じ夜に三基続けて消えていたことがあった。
 朝の見回りで気づいた。一基ずつ離れて立っているもので、油の量にもばらつきがある。同じ日に切れることは、それまでなかった。父に言うと、「そうか」とだけ言って、自分で油を継いだ。それ以上は何も言わなかった。
 その夜、コウが来た。いつも通りに石段を上がって、社務所に上がった。本殿の奥の気配が、コウが上がってきたあと、いつもより少し早く静かになった。
 偶然か、そうでないのか。確かめる方法はなかった。
 ただ、僕は次の朝から、灯籠の油をいつもより念入りにチェックするようになった。

 ―

 封印の間の物音に最初に気づいたのは、その少しあとのことだった。
 本殿の奥、普段は鍵のかかっている場所に、うちの神社は封印の間と呼ばれる部屋がある。何が封じられているかを父は教えてくれたことはまだない。「祀るべきものが祀られている」とだけ言った。神事のいくつかは僕も担うようになっていたが、あの部屋だけは父が一人で管理していた。
 その夜、コウが来て、僕の部屋で並んで教科書を広げているとき、廊下の向こうから、かすかな音がした。
 僕には何の音かわからなかった。気流か、木が収縮する音か。古い建物にはそういった音が出る。
 でも、コウは廊下の向こうをじっと見た。
「どうした?」
 コウは僕を見た。一拍おいてから、「何でもない」と言った。
 視線が教科書に戻る。続きを読み始める。
 でもコウが一瞬見せた表情は、確かに何かを聞いた顔だった。

 ―

 コウに惹かれていることに気づいたのは、いつだったか正確には言えない。
 何かきっかけがあったわけじゃない。一緒に時間を過ごす機会が積み重なっていく中で、気がつくと僕はコウのことを考えている時間が増えていた。
 コウが来る夜を楽しみにしていた。玄関のチャイムが鳴ると、胸のあたりがふよふよと落ち着かなくなる。コウが僕の部屋の窓から外を見ているとき、その横顔をどのくらい見ていたか。コウが「うん」と言ったとき。コウが眠そうな目で教科書を閉じたとき。
 これをどう名前づければいいか、うまくわからなかった。
 ただ、コウが帰ったあとの部屋は、あるべきものがなくなったような、そんな広さを感じるようになった。

 ―

 ある日の放課後、昇降口で、コウが男と話しているのを見た。中年の男で、コウの顔を見る目つきが、嫌な感じだった。コウは動かなかった。ただ男の言葉を黙って聞いている様子だった。
 男が立ち去って、コウが振り返った。僕と目が合った。
「知ってる人?」
「……村に関係した人」
「何か言ってた?」
 コウは少し間を置いた。
「母さんが死んだって」
 声に起伏がなかった。表情も変わらなかった。でも目の奥で、何かが揺らめいていた。
「……コウ」
「帰る」
 コウはそう言って歩き出した。僕はどう言葉をかけていいかわからなかった。
 その夜、コウは神社に来なかった。
 翌日も来なかった。

 ―

 三日後に来たコウは、見た目には何も変わらない様子だった。
 でも何かが、違った。表情は動かない。声も抑えている。でも前は何かを堪えているような張り詰め方だったのが、今は何かを決めたあとの、別の種類の平坦さになっていた。
「来てたんだ」
「ああ」
「飯食べた?」
「食べた」
 嘘かもしれないと思いながら、僕は何も言わなかった。台所に行って、残り物をあたためて出した。
 食べ終わってから、コウは僕の部屋に来た。いつもより窓に近い場所に座った。外を見た。山の稜線を、ただ、見ていた。
 僕はコウの横顔を見ていた。
 廊下の向こうから、あの音がまたした。
 今度ははっきりと、コウの目が動いた。廊下の向こうを見た。じっと見た。耳を澄ませているというより——様子を窺うような、そんな目だった。
「コウ」
 コウが僕を見た。
「何か聞こえる?」
 少しの間があった。
「……何も」
 コウはそう答えた。視線が窓の外に戻った。
 僕はその答えを信じなかった。信じたふりをした。

 ―

 その夜も、コウは僕の部屋に泊まった。

 ―

 母のことを考えたのは、久しぶりだった。
 布団の中で目を開けていると、暗い天井の向こうに、母の顔が浮かんだ。正確には、顔というより、母の手だった。白くて、細い手。村での仕事で荒れることのない、守られた手。御子の母の手は、そうでなければならなかった。
 母は穏やかな人だった。
 いつも少し遠いところにいるような人だった。村の人間は母を丁寧に扱った。食事も、住まいも、役割も。御子を産んだ母として、母は村の中で特別な場所に置かれていた。
 その特別さが、母を遠くした。
 俺が幼いころ、母は時折、俺の頭に手を置いた。撫でるというより、確認するような触れ方だった。御子に祈っているのか、それとも俺という子供を慈しんでいる触れ方だったのかはわからない。
 母が俺を見るとき、この顔に自分の息子を見ていたのか。それとも御子を見ていたのか。両方か。
 施設の人間に母のことを訊かれるたびに、俺は答えに詰まった。好きだったか、嫌いだったか。幸せだったか、そうでなかったか。そういう問われ方が、俺には合わなかった。
 ただ、母の手は覚えている。
 一度だけ、その手が俺の頭の上で、少し震えたことがある。何があったのかは覚えていない。ただその震えだけが、母を身近に感じた、数少ない瞬間として残っている。
 あの男が言った。母が死んだ、と。
 本当か嘘なのかは俺には確かめる術がない。
 本当だとしたら——母は最後まで、村の外を知らなかったということになる。御子の母として生きて、御子がいなくなった村で、それでも遠い目をして、死んだということになる。
 ただ、母が死んだとしたら——御子である俺は、何もしなかったということになる。
 御子。その言葉を、再教育の中で否定され続けた。そんなものはない、と。お前は普通の人間だ、と。でも否定されるたびに思った。では俺はなぜ、あの村に生まれたのか。なぜ俺だけが、あの役割を与えられたのか。否定されても、俺の中にいる御子を、どうすればいいのか。
 村が壊滅させられたとき、俺は何もできなかった。
 御子のくせに。
 母を守れなかった。村を守れなかった。外からやってきた力に、ただ流されるだけだった。そして今も、保護という檻の中にいる。スマホも持たされず、行き先も管理され、自分の意志で選べるものが何もない場所に。
 御子だったくせに。何もできないくせに。
 清澄の部屋の天井を見ていた。
 清澄はここにいていいと言った。また来ていいと言った。本心から言ってくれたことだと思う。
 清澄は俺に嘘をついていない。
 でも今夜、その言葉が遠かった。清澄のいる場所と、今の自分のいる場所が、同じ部屋の中なのに、全然違うところにある気がした。
 そこに、声が届いた。
 天井の向こうから。本殿の奥から。
 お前はまだ、御子だ、と。お前には、できることがある、と。
 その声が、体の中で眠っていた強い何かに触れた気がした。
 もともとそこにあったものに。再教育で上書きされても、消えなかった何かに。
 布団を出た。

 ―

 店は隣町にあった。
 あの男が通っているという話を、施設の担当者が同僚らしい他の人間との雑談の中で言っていたのを、俺は聞いていないふりをして聞いていた。そういう癖が、村にいたころからある。
 夜の十一時を過ぎていた。店の前に立って、中を見た。
 カウンターの中に女がいた。三十代くらい。客あしらいのいい笑顔で、常連らしい男たちと話していた。あの男とも親しそうだった。あの男が今夜ここにいるかどうかは、まだわからなかった。
 俺は店に入った。
 カウンターに座ると、女が来た。何にしますか、と言った。俺の顔を見て、少し目が変わった。でも追い払う気配はなかった。
 むしろ、その逆だった。
 俺の顔を、女はもう一度見た。今度はもう少し長く。何かを確かめるような視線だった。気に入った、ということを自分でも確かめているような視線でもあった。
 こういう視線を向けられるようになったのは、いつからだろう、と思った。村にいたころから、外から来た人間が俺を見る目には、似たものが時々あった。御子だから、というのとは違う理由で。
 俺は飲み物を頼んだ。
 女と話した。村にいたころ、外から来た人間を迎えるときの作法というものがあった。相手が求めているものを先に差し出す。笑顔のタイミング。目の合わせ方。そういうことを、体が覚えていた。それを、今夜の女に向けた。
 女は俺を気に入った。
 気に入られることが、今夜必要なことだった。
 どこかで、声が言った。
 ——そうだ。お前はそれができる。
 俺の中の何かが、その声に応えた。俺自身の意思だったのか、応えさせられたのかはわからなかった。でも体は動いた。

 ―

 女があの男に連絡を入れたのは、日付が変わるころだった。
 俺はそれを店の外で待った。川沿いの道。街灯の間隔が広くて、影に隠れるように暗い場所を選んで立っていた。
 体が、いつもと違った。万能感というのだろうか。
 真冬の川沿いで、コートも着ていないのに、寒さが皮膚の上を滑っていくだけだった。今夜はそれとも違う、何かが、俺の外側に張りついているような感覚があった。
 膜のような。
 あるいは手のような。
 声は何も言わなかったが、確かに俺の中にいた。

 ―

 男が来た。
 川沿いの道を歩いてきた。俺を見て、最初は警戒した。でも俺の顔をよく見て、何かを思い出したような顔をした。
「神籠山の」
 男が言った。
 村にいた俺を、覚えていたらしい。
 そのとき、声が——声ではない何かが——俺の中で動いた。
 体が動いていた。
 自分で動かしたのか、動かされたのかが、わからなかった。
 男が声を上げようとした。上げられなかった。
 俺の手が、男の首のあたりにあった。力が出ていた。こんな力が自分にあるとは知らなかった。いや、知っていたかもしれない。村にいたころ、似たような感覚が一度だけあった。あのときも、誰かが俺を中から動かしていた。
 男の目が俺を見ていた。
 俺はその目を見ていた。
 怖いとも、怖くないとも思った。
 声が言った。
 ——お前は正しい。
 それが本当かどうかはわからなかった。でも、手が、止まらなかった。

 ―

 気がついたら、川沿いの道を一人歩いていた。
 男はいなかった。
 どのくらい時間が経ったのかわからなかった。体の感覚が少し遅れて戻ってきた。寒さが、徐々に染みてきた。膜のようなものが、剥がれていくような感覚があった。
 左手が重かった。
 見ると、手の甲が暗く濡れていた。俺のものではない。誰のものか、考えたくなかった。
 川の音だけが聞こえていた。
 声は、もう何も言わなかった。
 それは、満足している様子だった。
 それが一番、怖かった。

 ―

 神社への道を歩きながら、俺は清澄の顔を思っていた。
 なぜかはわからない。ただ、頭の中に浮かんだ。
 台所で卵焼きを焼いていた清澄の横顔。「コウも食べるよな?」と言ったときの、さりげない声。あの声と、今夜の自分が、まったく別の場所にある気がした。
 石段を上がっていくと、境内は静かだった。
 社務所に入って、洗い場で手を洗った。冷たい水で、何度も洗った。手の甲の血は、流れていった。袖口の血は、染みついていてうまく落ちなかった。それ以上落とすのはあきらめた。
 清澄の部屋に戻って、布団に入った。清澄は眠っていた。寝息が聞こえた。
 寝顔が、横を向いていた。薄茶の髪が頬にかかっていた。日に焼けた頬の色と、髪の柔らかい色のあいだに、こちらに向けた首筋の白さが見えた。境内の作業で日に焼けているのに、首だけは焼けていない。神社の作業着の襟が、日差しを防いでいるのかもしれなかった。
 眠っていると、起きているときよりも、清澄は少し幼く見えた。普段の、何かを測るような目が閉じられていて、ただそこにある顔になった。
 俺はその寝息を、しばらく聞いていた。
 声は、何も言わなかった。

 ―

 深夜一時を過ぎたころ、僕は目を覚ました。
 ふと隣を見ると、コウの気配が、ない。
 コウの布団の中は、空だった。
 トイレかな、と思った。コウは寝つきがよく、夜中に起きることはほとんどないのに——とぼんやり考えながら、僕はそのまま、また眠ってしまった。

 ―

 朝、目が覚めたとき、コウは隣の布団で眠っていた。
 昨夜のことが、夢の中の出来事のように曖昧だった。コウは静かに眠っていて、いつも通りだった。
 僕は布団から出て、台所に行った。湯を沸かそうと流し台に立ったとき、洗い場の縁に、何かが目に留まった。
 小さな、暗い染み。乾いている。水道の縁、少し見落としやすい場所に。
 拭きとろうとして、指で触った。
 指先が、わずかに赤くなった。
 僕は手を止め、それ以上深く考えなかった。布巾で拭いて、台所に戻った。
 湯を沸かしながら、コウが起きてくるのを待った。

 ―

 朝食を食べ終わったころ、スマートフォンに通知が入った。ニュースの速報だった。
 隣町で男性が死亡。不審な状況。身元はまだ確認中——という短い報道の中に、捜査関係者からの情報として、「被害者は宗教的施設の閉鎖事件と関係があった人物」という一文があった。
 宗教的施設の閉鎖事件。コウの村のことだろうか、と一瞬思った。
 僕はスマートフォンをテーブルに置いた。
 コウは台所でコップに水を汲んでいた。いつも通りに水を飲む動作を、僕は見ていた。
 ニュースのことは、コウには黙っていた。

 ―

 その朝、コウが帰り際に振り返って「また来ていいか」と言った。
 僕は「いいよ、もちろん」と答えた。
 それ以外の答えを、僕は持っていなかった。

 ―

 


第二章「覚醒と選択」

 その人物が日和神社に訪れたのは、十二月の末だった。

 午後の早い時間で、父は本殿の奥の部屋で作業を、僕は社務所で帳簿の整理をしていた。参拝者が来ればチャイムが鳴る仕組みになっているが、その時チャイムは鳴らなかった。

 ふと気配を感じて顔を上げると、社務所の窓から境内が見えた。参道の真ん中に、その人はいた。

 いつ来たのか、わからなかった。

 一見、若く見える男性だった。年齢は二十代に見えたが、もっと年上のようでもあった。白い薄手の衣をまとっていた。おそらく神社関係者ではない、でも着ているものは神職に近い何かの装束に見えた。髪が長く、後ろで束ねていた。顔の輪郭が細く、澄んだ目をしている。男とも女とも言えないような顔立ち。

 参拝客、といった様子ではなかった。本殿の方を眺めるでもなく、ただこちらを——社務所の窓を、僕を──見ていた。

 外に出て声をかけた。

「すみません、参拝の方でしょうか」

 声をかけると、その男性は僕を見た。目が合う。目の奥、心の奥まで見透かされるような、そんな視線。逸らそうと思っても逸らせなかった。

「日和神社の方ですね」

 声は静かだった。風の音に紛れそうな声量なのに、はっきり聞き取れた。

「はい、禰宜の息子ですが」

「禰宜さんに、お伝えしたいことがあります」

「父に? どういったご用件でしょうか」

「暦が、乱れています」

 静かに言った。それだけ言った。

「……暦、というのは」

「冬尽山から参りました。私は宵月と申します」

 冬尽山。聞いたことがある名前だった。父が一度だけ、ぽつりと言及したことがある。山岳修行の場、と。でもそれ以上のことは聞いていなかった。

「冬尽山の方が、こちらに何を」

「暦が乱れていることをお知らせしに。日和神社の封印に、ひずみが起きています。
 御父上に、冬尽山の宵月が来ている、とお伝えいただければお分かりになると存じます。」

 胸のあたりが、なぜかひんやりとした。

「父を呼んできます」

「はい」

 本殿の方へ歩きながら、背中に、視線を感じた。振り返るのがなぜか怖かった。目には見えない、魂を精査されているような、そんな感触があった。

 父に伝えると、父はすぐに表情を引き締めた。「冬尽山の宵月さん」が訪れることがどういうことなのか、瞬時に察した顔色の変わり方だった。

 ―

 父と宵月さんが話す間、僕は少し離れた縁台に座っていた。

 二人の声は僕には届かなかった。父が質問し、宵月さんが答える。その繰り返しが、低い声のまま続いた。宵月さんの表情は変わらなかった。話しながらも、視線がときどき——境内の、別の場所へ投げられた。

 封印の間の方向だった。

 父が何かを訊いた。宵月さんが短く答えた。父の顔色が、さらに白くなった。

 しばらくして、父が僕を呼んだ。

「清澄、これを」

 父が差し出したのは、小さな白い包みだった。和紙で包まれた、薄い何かだった。

「宵月さんから、預った。本殿の祭壇に置いておくように」

「……なんですか、これ」

「札だ。冬尽山の流派のもの。いざとなれば使えるかもしれない、念のための備えだと」

 いざとなれば、という言葉の重さを、少し飲み込むのに時間がかかった。

「何がいざとなれば、なんですか」

 父が少し間を置いた。

「封印の間のことだ。清澄もわかっているだろうが——今年の冬は、少し様子がおかしい」

 頷いた。わかっていた。父が確認の回数を増やしていたこと。本殿の奥から、時間帯によって気配の密度が変わるような感触があったこと。

「宵月さんは」

 父が宵月さんの方を向いた。宵月さんは縁台の近くに立ったまま、境内を見ていた。本殿を。封印の間のある方向を。

「もう少し聞きたいことがある。席を外してくれるか」

「はい」

 立ち上がって、社務所に向かった。歩きながら、もう一度振り返った。

 宵月さんがこちらを見ていた。

 父でも封印の間でもなく、僕の方を。

 目が合った。宵月さんは何も言わなかった。ただ僕の目を見つめていた。笑ってもいない、咎めてもいない。何かを確かめるようなおだやかな目だった。

 宵月さんの視線を切って、足早に社務所に入った。

 扉を閉めながらまた少し寒気を感じ、自分を抱きしめるように腕をかかえてさすった。

 ―

 一時間ほどして、お茶の用意をしていると父が社務所に戻ってきた。宵月さんの気配は、もうなかった。

「帰られたんですか」

「うん。日帰りで来たらしい」

「冬尽山って、遠いんじゃ」

「遠い。でも、あそこはそういう距離の感覚とは違うところにある山だから」

 父がそれ以上説明するつもりがないことは、声でわかった。

「封印の間、どうなんですか」

 父が座った。

「封印は破られていない。ただ——」

「ただ?」

「内側の…封印を破ろうとしている力が強まっていると。封印の外側に何か増幅させるものがあって、それが引きの力を強めている可能性がある、ということだった」

「外側に、というのは」

「この境内か、近辺か。宵月さんにもまだはっきりとはわからないと言っていた。ただ、共鳴するものが近くにあると、封印への負荷が変わる」

 共鳴するもの。

 頭の中で、何かが引っかかった。

 引っかかったまま、飲み込んだ。

「コウは、今夜来るか」

 父が訊いた。なぜ今コウのことを聞くのか、と違和感はなかった。父もわかっていたのかもしれない。あるいは、単に何かに巻き込んではいけないと心配していただけかもしれない。

「来ると思います」

「そうか」

 父がそれ以上は言わなかった。

 そして夕方になり、コウが来た。

 いつも通り、石段を上がって、参道を歩いて、社務所の玄関に現れた。コートを着ていた。今日は表情がいつもと違う気がした。

「どうした?」

「……何かあったか」

「こっちは少し。コウは?」

「保護先で」と言いかけて、止まった。「……何でもない」

「何でもなくなさそうだけど」

「何でもなくはないかもしれない」

「上がって」

 コウが中に入った。

 今夜は台所で湯を沸かしながら、さっきの宵月さんのことを考えていた。

 共鳴するもの。封印の間に近いもの。この境内か、近辺か。

 コウが、湯飲みを両手で持って、台所の入り口に立っていた。

 僕はコウを見た。コウが僕を見た。

 何も訊かなかった。

 訊けなかった、というより——今夜は訊かないでおこうと思った。

 そういう夜がある。言葉が少なくていい夜。ただそこにいることで足りる夜。

 コウが湯飲みを持ったまま、縁側の方へ向かった。

「縁側、寒いよ」

「少しだけ。来る途中、月が綺麗だったから」

「毛布持っていこうか?」

「……貸してくれるか」

「おっけ」

 毛布を取って、縁側に向かった。

 コウが雨戸を少し開けていた。夜の境内が見えた。石椅子が、灯籠の薄い明かりの中にあった。

「あそこに座ってたんだよね、最初の夜」

「ああ」

「寒そうだった」

「寒かった」

「なんで座ってたの。あそこに」

 コウが少し間を置いた。

「……別に。なんか、引き寄せられた」

 胸の中で、さっきの引っかかりが、また動いた。

「何かって」

「わからない。でも今も——ここにいると、感じる。悪いものじゃない。と思う、何か」

 コウが本殿の方を見た。

 僕は黙っていた。

 毛布をコウの肩にかけた。コウがびく、と肩を揺らした。

「ありがとう」

「うん」

 二人で、夜の境内を見ていた。


 石椅子に、今は誰もいなかった。

 ―

 宵月さんが来た夜から、僕は少しだけ意識するようになった。

 コウが神社に来るとき、封印の間の気配がどう変わるかを。

 確かめるつもりはなかった。でも、気づいてしまったことは、消せなかった。

 コウが来ると、封印の間が——静かになる。

 静かになる、というのが正確かどうかわからない。圧力が落ちる、というより——何かが、満足するような。落ち着くような。

 それが何を意味するのか、僕にはまだわからなかった。

 わからないまま、コウが来るたびに、湯を沸かした。飯を出した。並んで座った。

 コウが「また来ていいか」と言うたびに、「いいよ」と答えた。

 それだけのことが、続いた。

 ―

 椿を一輪、社務所の花瓶に生けた。

 境内の脇に植えられている古い藪椿だった。冬になると、ぽつりぽつりと咲く。亡くなった母が、椿が好きだった、と父が一度だけ言ったことがある。それ以上は聞かなかった。それから、冬の社務所には椿を飾るのが、僕の習慣になっていた。

 コウが、文机の向こうから、花を見つめている。

「コウ、花好き?」

「嫌いじゃない」

「好きな花とかある?」

 なんとなく訊いてみた。

 コウはすぐには答えなかった。少し考えて、

「……シオンの花」

「シオン」

「うん。村のそばに、群生してた。秋になると、薄紫の」

「うん」

「十五夜草っていう、別の名前もあって」

 コウは、そこで一度、口をつぐんだ。

 何か言いかけて、やめた、というふうだった。

「そっちの名前のほうが好き」

「なんで十五夜草っていうんだろう?」

「十五夜の頃─中秋の名月の時期に、満開になるからだって。村で、月見団子とかといっしょによく生けてた」

 僕はそれ以上訊かなかった。村の話を、コウは多くしない。訊いていい話と、そうでない話の境界が、コウの中にある。その境界に触れないことが、僕とコウの間の、無言の約束のようになっていた。

 椿の花弁が、傾いた光の中で、わずかに揺れた。

 ―

 保護先というのは、外から見れば、普通の家だった。

 二階建ての、どこにでもある造りの家。表札があって、門灯があって、夜には窓から明かりが漏れた。家の人間は二人で、木佐貫 剛と絵里子、夫婦二人暮らしだった。子どもはいなかった。地域の児童相談所からの依頼で俺を引き取った、ということだった。

 最初の一週間は穏やかだった。

 夕飯の時間に声をかけられた。洗濯物はどちらに入れるか、光熱費の使い方は、ゴミの日は——そういう生活の規則を、丁寧に説明してくれた。俺が何かをするたびに、「そんなことしなくていいのに」と言われた。手伝おうとすると「気を遣わないで」と言われた。

 気を遣っているわけではなかった。村にいたころ、じっとしていることは許されなかった。何か役割があることが、俺のいる理由だった。

 それを説明する言葉を持っていなかった。だから、言わなかった。

 ―

 二週目の夜、剛が機嫌の悪い顔で帰ってきた。

 何が悪かったのか、わからなかった。夕飯の時、味噌汁を一口飲んで、剛が箸を置いた。

「これ、お前が作ったのか」

「……いえ」

「お母さんが作りました、と言ってみろ」

「奥さんが、作りました」

「他人行儀だな。母さんと言え」

 剛の声は、低くはなかった。むしろ柔らかかった。だから余計に、何かが間違っていることだけがわかった。

「……母さん、が、作りました」

「最初からそう言えばいい」

 それで終わると思った。

 終わらなかった。

 剛が立ち上がって、俺の腕を取った。台所の方へ連れていかれた。絵里子は何も言わなかった。流しの前に立たされて、剛が言った。

「お前は、人の家に入ってきた人間だ。最初の三ヶ月は、見られる側だと思え。次の三ヶ月で、馴染む側になれ。半年経ったら、家族になる。それまでの間、お前は俺たちの言うことを聞く。いいか」

「……はい」

「いつまで他人行儀でいるのか、と聞いている」

 何が答えなのか、わからなかった。

「すみません」

 謝った時に、後頭部を、軽く叩かれた。痛みというより、衝撃だった。

「謝ればいいと思ってるのか」

「いえ」

「いえ、じゃない。考えろ」

 考えても、何が悪かったのかわからなかった。

 ―

 そういうことが、ある夜とない夜があった。

 何かをすれば叱られる、というのではなかった。何もしなくても叱られる夜があり、何かをしても叱られない夜があった。剛だけでなく絵里子もときどき、声を荒げた。

「あなたのためなのよ」とよく言われた。

「直さなきゃいけないところがあるから、ちゃんと教えてあげているの。施設の先生も同じことを言っていたでしょう」

 施設の再教育で言われたことを、ここでも言われた。同じ枠組みの、違うステージだった。

 俺は、村にいた頃の癖で、長時間動かずにいることができた。御子の儀式では、何時間も座っていることがあった。痛みも、空腹も、寒さも、動かずに通り過ぎるのを待つように習った。

 その癖が、ここで役に立った。

 叱られている間、俺は石のように動かなかった。声を出さなかった。表情も変えなかった。それが剛を、もっと苛立たせたことを、後から知った。

「お前は何も感じないのか」

 感じていた。痛みは感じていた。怒りも、たぶん、あった。

 ただ、表し方がわからなかった。

 ―

 担当の大人が月に何度か来た。

 どんな人間かを最初に見た瞬間に、ある程度わかることがある。村でそういうことを覚えた。この人間は何を求めているか。何を差し出せば、こちらの必要なものが得られるか。担当の大人は、俺の「回復」を求めていた。数字と言葉で測られる回復を。

 夫婦は、担当の大人の前では別の顔をした。

 俺の肩に手を置いて、「最近、よく食べるようになったんですよ」と言った。担当の大人は嬉しそうに頷いた。俺はその場で、頷くこともしなかった。否定もしなかった。

 担当の大人が帰ったあと、剛が俺を呼んだ。

「もう少し、嬉しそうな顔をしろ。あれは俺たちの評価にもなるんだ」

「……すみません」

「次は気をつけろ」

 次から、俺は担当の大人の前で、少し笑うようにした。

 施設の再教育で学んだことと、同じだった。正しい答えを出せば、次の段階に進める。次の段階に進めば、自由が増える。自由が増えれば、外に出られる。外に出られれば、神社に行ける。

 だから俺は、正しい答えを出そうと努力し続けた。

 悪いことをしているとは思わなかった。ただ、必要なことをしていた。

 ―

 自分の部屋というものを、与えられた。

 六畳の洋間で、ベッドがあって、小さな机があった。以前は誰かの子ども部屋だったのかもしれなかった。棚の隅に、誰かが残した消しゴムが一つあった。俺はそれをそのままにしていた。捨てる理由がなかった。捨てる権限があるかどうかも、わからなかった。

 夜はよく眠れた。

 眠れるということは、村でもそうだった。横になれば眠れる。眠らないといけない、と思うと眠れる。それは昔からそういう体だった。ただ、この家の夜は——静かすぎた。村では夜も何かしら音があった。風の音、獣の声、誰かの気配。ここは音が少なかった。

 最初の夜、静かさに耳を澄ませた。

 音がなかった。

 音がないということが、こんなに落ち着かないものだとは知らなかった。

 腕の内側に、まだ青いあざが残っていた。先週のものだった。動かすと少し痛んだ。布団の中で、痛む側を上にして寝た。村にいたころと、同じやり方だった。

 ―

 一月の終わりごろ、絵里子が、俺に話しかけてきたことがあった。

 夕飯のあと、台所で皿を洗っていたときだった。「手伝わなくていいのに」と言いながら、隣に立って拭き始めた。しばらく無言で作業をして、それから言った。

「最近、顔色がいいわね」

「そうですか」

「どこかに行くようになったの? 週末とか、帰りが遅くなるから」

「友人の家に」

「友人」と妻は言った。嬉しそうな声だった。それが俺への関心から来るのか、担当の大人への報告材料が増えたことから来るのかは、わからなかった。「それはよかった。どんな子?」

「神社の息子です」

「神社?この辺の?」

「日和神社」

「ああ、山の斜面の。行ったことあるわよ。静かなところね」

「そうですね」

「あんまり遅くならないでね。剛さんが心配するから」

 
 俺は何も言わずに、皿を拭き終えた。台所を出た。部屋に戻って、窓から外を見た。夜の住宅街が見えた。街灯の並ぶ道。どこかの家の明かり。

 山は、見えなかった。

 ―

 木佐貫家の窓から山が見えないことを、俺は意識するようになった。

 意識したのは、神社に行き始めてからだ。神社の裏手に山がある。清澄の部屋の窓からも、縁側からも、山の稜線が見える。夜は黒い輪郭として、昼は緑の重なりとして。

 山のある場所に、俺は長くいた。

 村も山の中だった。施設も山の近くだった。都市に近い場所の空気というのが、俺にはまだよくわからない。開けていて、においがなくて、どこまでも続いている感じがする。それが好きではない、というわけではなかった。ただ——体が、どこかで何かを探している感じがした。

 稜線を探していた。

 境界を。山と空の、あの明確な線を。

 神社に行くと、それがある。

 清澄のいる場所に、山がある。境内に、石椅子がある。本殿の奥から、あの気配が来る。それらが全部揃っている場所が、今の俺には、一番落ち着く場所だった。

 そして、清澄の前では、石のように動かないでいる必要がなかった。

 
 保護先が嫌いなわけではなかった。

 ただ、あそこは、俺の場所ではなかった。

 ―

「コウ、ちょっと手伝って」

 清澄に呼ばれて、社務所の奥の部屋に入った。

 普段、ほとんど使わない部屋だった。壁の高い位置に神棚があった。その神棚の中央に、藁を撚って太くしたしめ縄が、一巻きにして納められていた。

「これ、ご神木のしめ縄なんだ」

「そうなんだ」

「年が明けたから、張り替える。古いやつは、もう外してある。これが新しいやつ」

 清澄が、神棚に手を伸ばして、慎重に縄を取り出した。まだ緑色の新しいそれは、意外と重そうだった。

 縄を扱う清澄の向こう、神棚の奥に小さな包みが置かれていた。

 和紙で包まれた、薄い、平たいもの。手のひらほどの大きさだった。縄の影に隠れて、普段は見えない位置にあった。

 なぜか俺は、それが気になった。

「それは?」

 俺は、神棚の奥を指した。

 清澄が、視線を辿った。

「ああ。お札」

「お札」

「ときどきうちに寄る、修行山の人が、大事なものだからって父さんに置いていったやつ」

「何に使うの?」

 清澄が肩をすくめた。

「いざとなれば使える、らしい。でも、いざ、ってどういう時かは──父さんも詳しく言わなかった」

「ふうん」

 俺は、その包みを、もう一度見た。

 なぜそれが気になったのか、自分でもわからなかった。和紙の白さが、神棚の薄暗がりの中で、わずかに浮いていた。

 手を伸ばそうかと思って、やめた。

「これ、持って。落とさないように」

 清澄が、しめ縄の片端を俺に渡した。

「うん」

 藁の感触が、手のひらに広がった。乾いていて、少しちくちくする。まだ新しい藁の香りがした。

 二人で社務所を出て、ご神木の方へ歩いた。

 ご神木は、境内の奥にある、樹齢の高い欅だった。幹の周囲を、低い柵が囲っている。柵の内側に、古いしめ縄を外した跡が、まだ少し残っていた。

 清澄が柵を越えて、幹の周りを動きながら、しめ縄を張る位置を確かめた。俺はしめ縄の端を持って、清澄の指示に従って動いた。

「そこ、ちょっと押さえてて」

「うん」

 俺は、しめ縄の途中を、両手で押さえた。

 清澄が、反対側で結び目を作った。慣れた手つきだった。

「もう離していいよ」

「うん」

 俺は手を離した。手のひらに、藁のかすが、少しだけついていた。手から青い香りがする。

 ―

 施設での再教育が、まだ続いていた。

 月に一度、施設に戻って、担当のカウンセラーと話す時間があった。同じ部屋で、同じ椅子に座って、同じ問いに答える。

「村のことを、今はどう思っていますか」

「洗脳されていたと思っています」

「あなた自身が特別だという認識は」

「今はそう思っていません」

「山での体験は」

「幻覚の一種だったかもしれないと考えています」

 全部、正しい答えだった。彼らが正しいと思う答えを、俺は知っていた。だから言った。

 でも体の中に、消えないものがあった。

 山の奥で感じた密度。封印の間の気配。夜に来る声。清澄が祝詞を唱えるとき、空気が変わること。あれらを幻覚と呼ぶなら——幻覚は今も続いている。施設の人間に言えば、また別のプログラムが組まれる。だから言わなかった。

 俺は正しい答えを出し続けた。

 そして週末、神社へ行った。

 清澄が「来て」と言った。清澄が飯を出した。清澄が「また来ていいか」という俺の問いに「いいよ」と。

 正しい答えとは全然違う場所で、俺はようやく何かに触れられた気がした。

 それが何なのかは、まだ名前をつけられなかった。

 でも名前がなくても、そこにあることはわかった。

 ―

 清澄が「冬至の祭事の準備してるんだけど、見たい?」というので、ついていくことにした。

 昼前の境内だった。空気は冷たく、参道の石畳が乾いていた。風はなかった。冬の昼にしては、明るい光が境内に落ちていた。

 清澄が前を歩く。今年の祭事の手順書だという紙の束を手に持っていた。親父さんから預かったらしい。

「コウもさ、もし良かったら手伝ってもらえる? 大したことはしないんだけど」

「うん」

「鈴を磨くとか、灯籠の油をさすとか、それくらい」

「やる」

 清澄は真剣な表情で手順書を見ている。

 俺は、その横顔を見ていた。

 それから、清澄の肩越しに、参道を見下ろした。本殿の前から石段に向かって、ゆるい下り坂になっている。両脇に灯籠が並んでいた。古い石の灯籠で、苔がところどころに緑を残していた。冬の光の中に、その影が、参道の石畳の上に落ちていた。

 ——影が、動いた。

 石畳の上に並んでいた灯籠の影のうち、一つだけ。

 参道の中ほどの、左側の灯籠の影が。

 ほんの少し、揺れた。

 風はなかった。隣の灯籠の影は、動いていなかった。木々の葉も、揺れていなかった。

 俺は、はっと息を詰めた。

 清澄を見た。清澄は真剣な顔で紙の束をめくっていて、気づいた様子はなかった。

 もう一度、参道を見た。

 影は、元の位置にあった。動いた跡もなかった。他の影と同じように、石畳の上に、静かに横たわっていた。

「コウ? どうした?」

 清澄が顔を上げて、俺を見た。

「……いや」

「眩しかった?」

「うん。少し」

 清澄は紙の束に視線を戻した。

 俺は、参道の灯籠を、もう一度見た。

 灯籠は、ただの灯籠だった。古い石の、苔の生えた、何の変哲もない灯籠。冬の光の中に立っていた。

 ——以前、この灯籠の油を、清澄が念入りに見るようになったと、本人が話していたことを思い出した。冬の初め、同じ夜に三基続けて消えていたという話。あれは、何の話だったのか。

 訊かなかった。訊かないほうがいいと、なぜか思った。

 清澄が「行こう」と言って、石段の方に歩き始めた。俺もついて行った。

 参道を下りながら、左右の灯籠の影を横目で見たが、影はどれも動かずそこにあった。

 ―

 一月の終わり、木佐貫家から神社へ向かう道を歩いていたとき、声がした。

 体の外からではなかった。体の内側から来る声だった。

 以前は、声がするとき、何かに従わなければならないような感覚があった。でも最近は、少し違う。声がある、という事実だけがある。命令ではなく、確認のような。お前はまだここにいる、という。

 俺もまだここにいる、と思った。

 それが良いことなのかどうかは、わからなかった。

 でも神社の石段が見えて、山の稜線が見えて、灯籠の明かりが見えたとき——体の中のそれが、少し落ち着いた。

 声も、落ち着いた。

 石段を上がりながら、また来ていいかと訊こうと思った。毎回訊いている。清澄は毎回「いいよ」と言う。それがわかっていても、訊かずにいられなかった。

 許可を求めているのではないと、最近は思っている。

 ただ、清澄が「いいよ」と言う声を——聞きたいだけだった。

 ―

 声が最初に「来た」のは、十歳のころだった。

 儀式の夜だった。

 村には季節ごとに儀式があった。春と秋の大きなもの、月ごとの小さなもの。儀式のたびに俺は特別な役割を持った。御子として、中心に置かれた。

 大人たちが言うには、御子は「通り道」だった。

 神的なものと、人の世の間の。

 通り道になるということが具体的に何を意味するのか、子どものころはよくわからなかった。ただ、儀式の間だけ、空気が変わった。普段の村の空気ではなくなった。密度が変わる。水の中にいるような、でも息はできる、そういう感触。それが俺には当たり前だった。

 その夜も儀式があった。

 秋の終わりの、月のない夜だった。山の奥の、特別な場所に連れていかれた。大人たちが円を作って、その中心に俺が立った。松明の明かりだけで、闇が深かった。

 大人たちが唱え始めた。

 言葉の意味はわからなかった。でも音の響きは知っていた。毎回同じだったから、体が覚えていた。

 そのとき、初めて、声が来た。

 外からではなかった。体の、奥から来た。今まで聞いたことのない声だった。人の声ではなかった。声と呼んでいいのかもわからなかった。でも何かが——言葉の形で——俺の中に来た。

 お前がここにいる、と。

 お前のことを知っている、と。

 怖かった。

 でも怖さより先に、別の感覚があった。

 知られている、という感覚。村の大人たちに「特別だ」と言われるときとは違う。あれは俺に向けられた言葉ではなく、御子という役割に向けられた言葉だった。でもあの声は——俺に向かって来た。役割ではなく、俺に。

 その違いを、十歳の俺は言葉にできなかった。

 ただ、泣きそうになった。泣かなかった。御子は泣かない、と教わっていたから。でも泣きそうだったことは、今でも覚えている。

 儀式が終わって、大人たちが俺を見た。

 どうだったか、と長老格の男が訊いた。俺は正直に答えた。声が来た、と。

 大人たちが顔を見合わせた。

 やはりそうだ、と言った。本物だ、と言った。

 母がそこにいた。母の顔は見なかった。見られなかった。でも、大人たちの輪の端に、母の白い手があった。それが小さく、握られるのを見た。

 喜んでいたのか、俺を恐れていたのか。

 今も、わからない。

 ―

 それ以来、声は来るようになった。

 毎回ではなかった。儀式のときが多かったが、そうでないときでも来ることがあった。山の奥の、空気の密度の変わる場所に行くと、来やすかった。

 声は命令しなかった。最初のころは、ただそこにある、という感触だけだった。

 俺はそれを、まわりのこどもには秘密にしていた。

 村の主要な大人たちには話した。でも声の中身は言わなかった。中身があるとも言わなかった。来る、とだけ言った。大人たちはそれで満足した。詳細を知りたがらなかった。御子に声が届く、という事実が、彼らには必要だったのだ。

 声が何を言っているかは、関係なかった。

 その孤独さに気づいたのは、ずっとあとのことだ。

 十歳の俺は、ただ声を聞いていた。命令しない声を。名前を呼ばない声を。でもそこにいることは確かな、何かを。

 
 ―

 夜。

 清澄はスマホでゲームをし、俺は漫画を読んでいた。

「きゅるる……」

 俺の腹が鳴った。清澄がくすっと笑った。

「お腹すいた? 何か作ってこようか。何がいい?」

「いい。何でも」

「うどんでいい?」

「うん」

 清澄は襖を開けて、出ていった。襖が閉まる音、廊下を歩く音、台所の戸を引く音。水道の蛇口をひねる音。鍋を出す、火をつける、まな板を置く——清澄のたてるいつも通りの音が、心地よく響いてくる。

 俺は座ったまま、漫画のページに目を落としていた。

 雨戸の隙間から、夜の境内が少しだけ見えた。灯籠の明かりが薄く揺れている。

 ——風はないはずなのに。

 一瞬気のせいかと思った。

 部屋の中は音もなく、電気ストーブのオレンジ色が、畳の縁を温めていた。

 みしり。

 ——畳が鳴った。

 部屋の入口、襖のすぐ内側の畳を、誰かが踏みしめた音がした。

 俺は振り向かなかった。

 台所からは、清澄が水を切る音、ねぎを刻む音が続いていた。清澄はそこにいない。誰もいないはずだった。

 みしり。

 気のせいではなかった。さっきよりも近い。

 重みのある何かが、ゆっくり、一歩ずつ畳を踏みしめてくる。

 俺は、目を伏せた。

 漫画のイラストが、視界の中で意味をなさなくなっていた。文字も絵も、ただ平らな模様となって目の下を滑る。

 みしり。

 近づいてくる。

 
 みしり。

 止まらない。

 みしり、みしり。

 一歩ずつ、確実に。
 

 立ち止まった。

 畳の縁が、わずかにたわむのが、横目で見えた。

 
 逃げようと思った瞬間、体が動かないのに気づいた。指一本、動かせない。畳の上に座っているだけの自分の体が、急に重く、遠く感じた。
 

 半畳ほど離れた背後から、何かが俺をじっと見つめている。

 脂汗がにじむのがわかった。

 振り返ってはいけない。

 浅くなりそうな息を意識して、深く吸った。

「コウ? そっちに持っていく? こっち来る?」

 台所から、清澄の声がした。

 ——消えた、というより、今のは思い過ごしだったのかと。

 先までの圧が、跡形もなく失せている。

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。

 止めていたつもりはなかった。でも、止まっていた。

「……今、行く」

 声が、自分でも少しかすれていた。

 立ち上がった。襖を開けた。

 廊下には誰もいなかった。

 台所の戸を開けると、清澄がうどんを入れた丼に具を乗せていた。

「よし、食べよか」

 俺は、座った。

 清澄が椀を置き、テーブルに着くと、湯気が顔にかかった。温かい。

「いただきます」

「いただきます」

 うどんを口に運んだ。出汁の味がした。いつもの、清澄が作るうどんの味。今は、それがありがたかった。

 清澄は、何も気づいていない。湯気の向こうで、いつもの清澄が、いつものように箸を動かしていた。

 清澄に気づかれないように息をつき、うどんを食べることに集中した。

 ―

 夕飯の片付けが終わって、部屋にいこうとしたとき、清澄から「顔に赤いのついてる、多分ケチャップ」と言われ、洗面所に向かった。

 清澄が台所で片づけている音がしていた。皿を重ねる音、布巾を絞る音。冷蔵庫を開け閉めする音。

 俺は、洗面所の蛇口を捻った。

 冷たい水が出た。両手で受けて、顔をすすいだ。冬の水は皮膚を刺すような冷たさで、目が覚めた。タオルで顔を拭いて、もう一度、手だけを洗った。

 蛇口を閉めた。

 きゅ、と古いハンドルが軋む音がした。水は止まった。

 ——ぽちゃ、と。

 排水溝で、最後の一滴が落ちる音がした。聞きなれた音だった。蛇口を閉めた直後、洗面台に残った水が、最後にひとしずく流れていく音。

 それが、もう一度した。

 ぽちゃ、と。

「?」

 吐水口を振ってみたが、水が溜まっている様子はない。

 ぽちゃ。

 また、音が、した。

 排水溝の音ではなかった。もっと——離れたところから。洗面所の外、廊下の方から音は聞こえた。

 俺は、振り向かなかった。

 タオルを握ったまま、洗面台の前に立ち尽くす。

 ぽちゃ。

 近い。

 廊下の、手前のあたりから。

 ぽちゃ、・・・ぽちゃ。

 等間隔に水滴の音が、廊下のあたりで鳴っていた。

 近づいてくる。

 ぽちゃ。

 洗面所の入口の、すぐ手前まで。

 俺は、目を伏せた。タオルの白い布が、視界の下にぼんやりと見えていた。布の繊維の、細かい縦線。それを見ていた。

 息を殺した。

 ぽちゃ。

 入口のところで、止まった。

 そこから、それは動かなかった。入口にいる、形のない、何か。ただ水滴の音だけが。

 俺は、振り向かなかった。

「コウ、もうそろそろ帰る時間?」

 ——台所の方から、清澄の声がした。

 その瞬間、はりつめていた空気が軽くなった。

 はじめからそんな音などしなかった、というように洗面所の空気は元に戻っていた。

 俺は、ゆっくりと、息を吐いた。

「うん。そろそろ」

 自分でも声が小さいと思った。清澄に聞こえただろうか。

 タオルを掛け直して、洗面所を出た。廊下を見た。

 誰もいなかった。

 廊下の床は、乾いていた。

 何の跡も、なかった。

 ―

 村が壊滅する前の夜のことは、断片でしか覚えていない。

 外から人が来る、という情報は、数日前から大人たちの間で出ていた。俺は知らないふりをして聞いていた。村の情報は、正面から求めても来ない。聞いていないふりをして、そこにいることが必要だった。

 外から来る人間は、行政の関係者らしかった。施設のことを調べている、と誰かが言った。どういう施設なのかを、外の基準で確認しに来る、と。

 大人たちは対策を話し合っていた。俺には関係のない話だった。俺は御子で、外の人間と話す役割は持っていなかった。

 その夜、俺は山の奥の場所にいた。

 一人で行くことは禁じられていた。でも禁じられているから行かない、という考え方を、俺はその時期には持っていなかった。行きたかったから行った。声が来やすい場所に、声を確かめに行った。

 声は来た。

 いつもと違った。

 落ち着いていなかった。ざわついていた。何かを伝えようとしているのに、言葉の形にならない。普段は静かな声が、その夜は水が溢れるような感触で、俺の中に来た。

 怖かった。

 声が怖いのではなかった。声が何かを怖がっていることが、怖かった。

 山から戻ったとき、村が明るかった。夜中なのに、至る所で明かりが動いていた。懐中電灯の光。誰かが走る音。

 翌朝、外から人が来た。

 今度は帰らなかった。

 俺は部屋に閉じ込められた。窓から外を見ると、知らない大人たちと、村の大人たちが話していた。村の大人たちの顔が、俺の知らない顔になっていた。あんな顔を、俺は見たことがなかった。

 母が部屋に来た。

「コウ」と母が言った。

 俺は母を見た。母は俺を見た。

 何かを言おうとしていた。でも言えなかった。

 母の手が、俺の頭に置かれた。いつもの、確認するような触れ方ではなかった。今度は——抱きしめようとして、でもできなくて、頭に置くことしかできなかった、という触れ方だった。

 手が震えていた。

「行きなさい」と母が言った。「あの人たちと一緒に」

「母さんは」

「後で行く」

 嘘だとわかった。

 わかったのに、何も言えなかった。御子は嘘をつかない、と教わっていた。でも「後で行く」という母の言葉が嘘だとわかっていても、俺は「そうか」と言った。

 それが俺が母についた、最初で最後の嘘だった。

 わかっていて、知らないふりをすること。

 その意味を、今になって考える。母は嘘をついた。俺も知らないふりをした。それが二人の間でできた、最後のやりとりだった。

 外に出ると、知らない大人が俺の肩を抱いた。

 振り返らなかった。

 振り返れなかったのではない。振り返ることが、何かを壊す気がした。だから前だけを向いて歩いた。

 声が、静かになっていた。

 村を出てから、しばらく声は来なかった。

 施設の再教育が始まるまで、声のない時間が続いた。その静けさの中で、俺は初めて、声がないことの寂しさを知った。

 静かすぎる、と思った。

 あの声が、俺の中で唯一、俺に向かってきたものだった。

 再教育が始まって、施設の人間が毎日言った。声は幻だ。お前は普通の人間だ。感じるものは全部思い込みだ。

 俺は正しい答えを出した。

 でも体の中で、声のいた場所が、空のまま残っていた。

 空になった場所が、疼いた。

 その疼きを抱えたまま、俺は保護先に来た。保護先の静かな部屋に、一人でいた。

 そして神社に来た。

 封印の間の気配に触れた夜、空のままだった場所に、何かが来た。

 声とは違った。でも似ていた。御子として覚えた、あの密度に、似ていた。

 怖かった。でも、あの疼きが——少し、止まった。

 そのことだけが確かで、それ以外のことは、今もまだわからない。

 ―

 夜半、目が覚めた。

 明かりはとっくに消していて、雨戸の隙間から、夜の薄い光だけが入っていた。隣で清澄が静かに寝息を立てていた。布団の中、清澄の肩がゆっくりと上下しているのが、視界の端でわかった。

 目が覚めてしばらく、俺は天井の木目のあたりを見ていた。古い板の節が、暗がりの中にぼんやりと並んでいた。

 ——ぱち、と。

 部屋の隅で、何かが鳴った。

 机の上の小さなテレビ。清澄が時々、勉強の合間に古い映画を流していた、ブラウン管の。

 電源の小さなランプが、赤く灯っていた。

 俺は、息を止めた。

 寝る前に、確かに電源を落とした記憶があった。リモコンは机の脇に置かれたままで、誰も触っていない。清澄は寝ている。俺も触っていない。

 ぱち、ぱち、と、ランプが点滅した。

 それから——テレビ画面が、ふっ、と明るくなった。

 画面は砂嵐。放送してない、ノイズの画面。白と黒の粒が、無数に踊っていた。音はない。スピーカーがどうなっているのかはわからない。ただ、画面だけが、暗い部屋の中に四角くぼうっと光っていた。

 清澄は起きない。寝息は変わらなかった。

 俺は、布団の中で、動けなかった。

 砂嵐は続いていたが、しばらくしてから——粒の中に、何かが、見えた気がした。

 最初は、気のせいだと思った。砂嵐の粒のパターンが、たまたま何かの形に見えただけだと。

 でも、それは——動いていた。

 画面の奥の方から、ゆっくりと、近づいてくるように。

 輪郭はぼんやりとしていた。男なのか女なのか、大人なのか子どもなのか、何もわからなかった。ただ、人の形をしていた。頭があって、肩があって、腕のようなものがあった。

 近づいてくる。

 砂嵐の粒は変わらず踊り続けていた。その粒の中で、今やくっきりとした人影だけが、画面のこちら側に、近づいてきていた。

 俺は、目を逸らさなかった。

 人影が、画面いっぱいにひろがり、制止した。

 頭の位置が、画面の上の方にあった。肩の輪郭がうっすらと見えた。顔があるはずの場所には、砂嵐の粒があるだけだった。目も鼻も口もなかった。ただ、そこに、誰かの顔があるべき場所として、空白があった。

 何かかすかに聞こえた気がした。音はなかった。しかし、呼ばれたのがわかった。

 何と呼ばれたのか、わからなかった。名前ではなかったかもしれない。言葉ですらなかったかもしれない。ただ、自分が呼ばれていることだけが、わかった。

 体の中の、ずっと奥のほうで、何かが、応えそうになって——やめた。

 俺は、目だけを動かして、隣の清澄を見た。

 その呼吸を、見ていた。

 清澄の、呼吸を。

 身体の奥のざわめきが少しずつ、潮が引くようにおさまっていく。

 呼びかけに応えていたら、戻れなくなると、なぜかわかっていた。

 砂嵐の人影は、しばらく、こちらを見ていた。

 それから——。

 ふっ、と画面が消えた。

 砂嵐ごと、人影ごと、消えた。

 部屋は、元の暗闇に戻った。電源ランプの赤も、消えていた。

 テレビは机の上に置かれていた。電源を落としたままの、ただの古いテレビとして。

 俺は、せき止められていたかのように荒く息を吐いた。

 布団を握っていた手の力が、ようやく抜けた。指の関節が、こわばったまま少し痛んだ。

 清澄の呼吸が続いているのを、しばらくただ、聞いていた。

 もう、あれはいない。落ち着いたあと、目を閉じて眠ろうとしたが、寝付かれなかった。

 ―

 部屋の中が明るくなり、清澄が目を覚ました。

「あれ、コウ、起きてたの?」

「……」

「もしかして、眠れなかった?」

「……うん」

「目の下くまできてる。コウいつも寝つきいいのに。珍しいね?」

「……」

「水でも飲む? いる?」

 清澄がコップに水を注いでもってきてくれた。

 冷たくて——いつもより美味く感じるそれを飲み干した。

 俺には清澄がいてくれる。それで十分だった。

 ―

「じゃあ、また」

「うん。気をつけて」

 清澄に手を振って、石段を降りた。

 夜だった。境内の灯籠の明かりが、後ろの方で薄く揺れていた。山の冷気が、首筋に流れ込んできた。コートの襟を立てた。

 石段の途中で、一度だけ振り返った。

 本殿の方を、目で確かめた。

 ——一つ、消えていた。

 本殿の前の、向かって左側の灯籠の明かりが、消えていた。隣の灯籠は灯っていた。境内には、他にも明かりが灯っているものがある。消えたのはひとつだけ。

 清澄は気づくだろうか、と思った。

 明日になれば、清澄の親父さんが油を継ぐかもしれない。それで終わりかもしれない。

 俺は、目を逸らして、また石段を降りた。

 下まで降りて、参道の鳥居の下を抜けた。鳥居から少し歩くと、坂道になる。住宅街への下り坂だった。街灯はあるが、間隔が広い。冬の夜の道は、車も通らなかった。

 歩き始めた。

 しばらくして——足音が、した。

 俺の背後で。

 砂利と土の混じった坂道を、誰かが踏みしめる音だった。一定の間隔で、ゆっくりと、ついてくるような歩調で。

 俺は、足を止めなかった。

 振り返らなかった。

 歩く速度を変えなかった。

 足音は、止まらなかった。

 少し速度を上げてみた。足音も、少し速くなった。

 少し落としてみた。足音も、少し落ちた。

 俺の歩調に合わせていた。

 近づきもしない。離れもしない。一定の距離を保って、ついてくる。

 街灯の下を通った。

 自分の影が前に伸びた。

 後ろに歩いているはずの何かの影は、見えなかった。

 俺は、歩き続けた。

 坂道の中ほどで、一度だけ振り返った。

 誰もいなかった。

 街灯の薄い光に照らされた坂道に、人影はなかった。

 それでも、足音は——止まっていた。俺が振り返っている間、何かが動かずに、そこにいる気配があった。

 前を向いた。

 歩き始めた。

 足音も、また始まった。

 坂を下りきって、住宅街の入口に出た。

 そこで一度、神社の方を振り返った。

 坂の上に、鳥居が見えた。境内の灯籠の明かりが、鳥居の向こうでぼんやりと滲んでいた。

 ——足音は、鳥居の少し手前で、消えていた。

 そこから、こちらには、来なかった。

 来られなかった、と思った。

 俺は、しばらくそこに立っていた。

 それから、前を向いて、保護先の方へ歩き出した。

 歩きながら、後ろからの音は、もうしなかった。

 ―

 朝になった。

 父が本殿の確認に行く音がした。廊下を渡る足音。扉が開く音。祝詞の声。

 いつも通りだった。

 父の祝詞を聞きながら、僕は布団の中で目を開けていた。今夜扉に触れたことを、父に話すべきかどうか、考えた。

 話した方がいい、と思った。

 でも同時に——扉の向こうが、こちらを認識したという感触を、まだ誰かに渡したくなかった。あれは僕だけが持っている感触だった。共有した瞬間に、何かが変わる気がした。

 父の祝詞が続いていた。

 低く、一定のリズムで。荒れているものを鎮める言葉。落ち着かないものを、ただそのまま受け取って、場所に収める言葉。

 その声を聞きながら、僕は少し考えた。

 父はずっと、わかっていたのかもしれない。コウのことを。封印の間との関係を。わかっていて、「友人として付き合えばいい」と言った。「ただそこにいてやること」と言った。

 それが本当に、清澄に向けた言葉だったのか。

 あるいは——コウに向けた言葉だったのか。

 起き上がった。

 顔を洗って、社務所に行って、掃除をした。父が本殿から戻ってきて、朝飯を作った。二人で食べた。

 父は何も言わなかった。

 僕も何も言わなかった。

 でも飯を食べながら、窓の外を見たとき——石椅子が見えて、コウがいないことを確認して、それでもそこを見ていた。

 次にコウが来たら、何か訊こうと思った。

 何を訊くかは、まだ決まっていなかった。

 でも何かを、きちんと言葉にして訊かなければならない夜が、近づいている気がした。

 ―

 一月に入ってから、コウがよく笑うようになった。

 笑う、というのは正確ではないかもしれない。口角が上がるわけでも、声を出して笑うわけでもない。ただ目の奥の色が変わる。話しているとき、飯を食べているとき、窓の外を見ているとき。何かのはずみに、眉の力が少し抜けて、顔の全体が一瞬だけ柔らかくなる。その一瞬が、以前よりも増えた。

 増えたのは、悪いことではない。そう思おうとした。

 でも僕は、目の奥を見るようになっていた。柔らかくなった表情の、その奥を。そこに何があるかを確かめようとするように。

 ―

 一月の中旬、コウがいつもの時間に来た。飯を食べて、部屋に並んで座って、いつもと変わらない夜に見えた。

 コウが持ってきた問題集——保護先の人間に渡されたらしい薄い冊子だった——を広げて、鉛筆を動かしていた。僕は隣で課題を終わらせながら、ときどきコウの方を見た。

 コウの鉛筆が、止まった。

 止まって、少し上を向いた。考えているような仕草だったが、問題集ではなく、窓の向こうを見ていた。窓には何もない。山の稜線の暗さと、少し光る星だけだ。

「どうした?」

「……いや」

「いやじゃなくて」

 コウが窓から視線を外した。僕を見た。少し間があった。

「清澄は、誰かに怒ったことがあるか」

「ある。普通に」

「どういうとき」

「理不尽なことをされたとき。嘘をつかれたとき。大事なものを雑に扱われたとき」

 コウがその答えを聞いて、また少し考えた。

「怒ることが、正しいと思うか」

「正しいかどうかより、怒るものは怒るから」

「それだけか」

「怒ることで何かが変わる、ということはあると思う。ちゃんと怒れると、楽になることがある」

 コウが鉛筆を置いた。問題集の上に置いて、手の甲を見た。右の手の甲を。あの夜の傷はもうなかった。でもコウの目が、その手を見るときの目は、何かを確認するような目だった。

「怒れない、というのは」

「怒れない人もいる。それが悪いわけじゃない」

「怒り方がわからない、ということもあるか」

「あると思う」

 コウが手から目を上げた。

「俺は、怒り方がわからない気がする」

「……そうか」

「嫌だと思うことはある。でも、それを怒りと呼んでいいのかどうか」

 急かす必要はなかった。どちらにしても。

「コウが嫌だと思ったことは、嫌だと思っていいんだよ。何言ってるの」

 コウが少し僕を見た。

「……そうなのか」

「そうだよ」

 コウがまた手を見た。少し長く見た。それから問題集に鉛筆を戻した。

「そうか」

 それだけ言って、続きを書き始めた。

 僕は課題に目を戻した。でも頭の中では、コウが言った「怒り方がわからない」という言葉が、まだ動いていた。怒れないことと、怒らないことは違う。怒り方を知らない、というのは——怒ることを許されなかった、ということに近い。

 それ以上は、考えることを止めた。

 ―

 二月の初め、コウがいなくなった夜があった。

 夜の十時を過ぎて、布団に入って——コウはいつも僕より遅く眠るが、今夜は気配がはっきりしていた——それからどのくらい経ったか、夢の縁で目が覚めた。

 部屋の気配が変わっていた。

 起き上がる前からわかった。コウの布団が空だった。

 廊下。玄関の鍵。外。

 先月の夜と同じだった。砂利に足跡があって、石段の下の方へ向かっている。

 今度は追いかけなかった。石椅子にも座らなかった。社務所に戻って、座敷で待った。

 コウが戻ったのは昼前だった。

 表情に変わりはなかった。でも目の奥の色が、一度目の夜のあとと同じだった。満ちているような。落ち着いているような。

 翌朝のニュースを確かめた。隣県で、男性が変死。当初は事故と処理されていたが、状況に不審な点があり捜査中——という短い記事だった。被害者の名前は出ていなかった。でも後から、宗教施設との関与を示す一文が加わった。

 コウが台所に入ってきて、いつもの場所に立った。流し台の脇。僕が動くのを見る場所。

「腹減ってる?」

「……ああ」

「何か作る」

 米を研ぎながら、コウの足音を聞いていた。どこにも行かずにそこにいるコウの気配を。

 頭の中では別のことを考えていた。確信とはまだ言えなかった。でも形になりかけていた。コウが夜に消えること。翌朝のニュース。コウの目の奥の色。

 それらが、繋がりを持ち始めていた。

 繋がりを持たせたくなかった。でもコウを「また来ていいよ」と言って泊まらせながら、そのことを考えている自分がいた。

「今夜も泊まる?」

「……いいか」

「いいよ」

 コウの眉のあたりが、わずかに緩んだ。

 その緩み方を、僕はまだ好きだと思っていた。好きだと思いながら、別のことを考えていた。それが何を意味するのか、今夜はまだ答えを出せなかった。
 ―
 この辺りでは珍しかった。コウが窓の外を見て、「雪だ」と言った。当たり前のことを言った声が、当たり前ではない感じで出た。

 ―

 夕飯のあと、何となく居間に移って、僕がつけていたテレビをコウが見ていた。バラエティ番組だった。タレントが罰ゲームで何かを食べさせられる、他愛もない内容だった。

 コウはテレビを見ていた。真剣な顔で見ていた。真剣すぎて、少し笑えた。

「面白い?」

「……よくわからない」

「そうか」

「あの人たちは、なぜあんなことをするのか」

「仕事だから」

「仕事で、あんな顔をするのか」

「そういう仕事だから」

 コウが少し考えた。

「そういう仕事が、あるのか」

「いっぱいある」

 コウがまたテレビを見た。罰ゲームが終わって、スタジオが笑い声に包まれた。コウが、その笑い声を聞いていた。

「笑い声が、多いな」

「笑わせるのが仕事だから」

「そうか」

 しばらく黙って見ていた。コウの横顔が、テレビの光を受けていた。真剣な顔のまま、でも少しずつ——口元の力が、緩んでいた。

「コウ」

「うん」

「笑っていいんだよ、おかしければ」

 コウがびっくりしたように僕を見た。

「笑ってない」

「笑う手前みたいな顔してる」

 コウが前に向き直った。

「……してない」

「してる」

 コウが何も言わなかった。でもテレビの方を向いたまま、口元が、ほんの少し動いた。

 僕はそれを見た。見て、自分も笑えた。声は出さなかった。

 それだけの夜だった。でも何となく、部屋が少し暖かくなったような気がした。

 スマホが震えた。

「あれ…雪降りますって。」

窓の外を見ると、確かにちらほらと降り始めている。
 

 コウが窓の外を見ていた。雪は大きな粒で、灯籠の明かりの中でゆっくり落ちていた。砂利の上に積もり始めていた。

「散歩しようか」

「今から?」

「雪の境内は、きれいだよ」

 コウが少し僕を見た。

「寒くないか」

「コートを着れば」

 コウがうなずいた。

 二人でコートを着て、縁側から出た。砂利が、足の下で鳴った。雪を踏む音だった。

 境内を歩いた。どこかに行くわけでもなく、ただ歩いた。コウは少し前を歩いた。石椅子の前を通って、本殿の前を通って、石段の上まで行って、また戻ってきた。

 石段の上から、下の街の明かりが見えた。雪の中でぼんやりと光っていた。

「きれいだな」

 コウが言った。感想を言うのが珍しかった。

「うん」

「こういうものを見るのは——いいと思う」

「そうか」

「なんとも言えない感じがする。悪くない感じがする」

「それが、きれいと思うってことじゃないか」

 コウが少し僕を見た。

「そうかもしれない」

 雪が、二人の上に降っていた。コートの肩に積もった。コウの髪に、白いものがついた。

「コウ、髪に雪」

「……そうか」

 コウが頭を払った。払いながら、少し下を向いた。その顔が、街の明かりを受けて、いつもより柔らかく見えた。

 僕はそれを見た。

 見ながら、引き出しの包みのことを考えた。が、それ以上考えるのをやめた。
 今夜は、ただ雪の中に立っていた。それだけでよかった。

 ―

 俺はシャワーを浴びた後、鏡に向かって髪をタオルドライしていた。タオルを首にかけた、髪の濡れた、いつもの顔。目の下に少し疲れがあるくらいで、ほかは何も変わっていなかった。

 あの男のことが新聞に載った日から、一週間ほどが経っていた。保護先の家は、いつもと変わらなかった。テレビでニュースは流れていたが、誰も何も言わなかった。事件は事件として、外側で処理されていた。

 鏡を見たまま、髪をタオルで拭いた。

 タオルで拭いた、そのとき、鏡に映った自分の肩の後ろに何かがさっと隠れた気がした。

 一瞬のことだったしよく見えなかったが、人の形をしていた気がした。

 ゆっくりと振り返ったが、誰もいない。

 洗面所のドアは閉まっていた。タイルの壁、洗濯機、洗剤のボトル、それだけだった。湯気がまだ少し残っていた。

 もう一度、鏡を見た。

 何もいなかった。鏡の中には、俺と、その背後の、いつもの洗面所の風景だけが映っていた。

 ただ——。

 鏡の中の自分の顔が。

 目元、口元、頬の角度。

 何かが、違う気がした。

 具体的にどこが、とは言えなかった。目の位置がずれているわけでもない、表情が変わっているわけでもない。鏡の中の自分は、確かに俺だった。よく知っている顔だった。

 それでも——違う気がした。

 俺の顔ではないような気がした。

 俺は、自分の頬に手を当てた。鏡の中の自分も、同じように頬に手を当てた。動きは合っていた。

 目を逸らした。

 タオルで顔を拭いた。それから、もう一度、鏡を見た。

 普通の俺の顔だった。

 何の違和感もなかった。

 ——さっきの感覚はなんだったのか。

 タオルを置き、呆然と手のひらを見つめる。

 指。爪。よく知っているはずの、自分の手。

 俺は、これから、どうなるんだろう。

 ―

 布団に戻ろうとして、止まった。

 戻ろうとする方向と、別の方向に、体が向きかけていた。

 廊下の向こうから、声がした。声ではなかった。形のないもの。引力に近かった。

 ——来い。

 俺は廊下に出た。

 裸足のままだった。木の床が冷たかった。冷たいと感じたのは、最初の数歩だけだった。歩くうちに、冷たさが薄れた。痛みに鈍くなる夜と同じ感触だった。

 本殿の奥へ向かった。

 封印の間の扉が、夜の中に閉じていた。清澄の父がいつも管理している扉だ。俺は鍵を持っていない。
 それなのに、扉の前に立つと、手が伸びた。

 扉に触れた。

 押した。

 開いた。

 鍵がかかっているはずだった。でも開いた。木が軋む音もなく、ただ、開いた。

 中は暗かった。

 奥に、何かがあった。視覚で捉えるより先に、気配でわかった。部屋の中心に、置かれているもの。

 足が、そちらへ動いた。

 近づくと、輪郭が見えてきた。古い木の箱だった。両手で抱えるほどの大きさ。表面の木目が、長い年月で黒く沈んでいた。

 箱の四面に、札が貼られていた。

 何枚かは数えなかった。数えなくても、多いとわかった。色の褪せた古いものから、まだ墨の濃いものまで、層になって貼られていた。父が代々、貼り重ねてきたものだ。

 声は、もう何も言わなかった。

 ただ、引きがあった。

 俺の右手が、勝手に上がった。指先が、一番手前の札に向かった。

 止めようとした。

 止まらなかった。

 指先が、札の縁に触れた。

 ——ぴり。

 何かが、走った。

 爪の先から、肘の方へ向かって、細い線のような感覚が抜けていった。痺れに似ていたが、痺れではなかった。札の方が、俺の指に応えた、という感触だった。

 指を、戻した。

 指先を見た。何もついていなかった。痛みも、痺れも、もう残っていなかった。

 札を見た。

 縁のあたりに、ごく細い切れ目が入っていた。

 長さは、爪の幅もない。深さもない。和紙の表層が、ほんのわずかに裂けた、それだけの傷だった。

 それだけだった。

 それだけなのに——部屋の中の気配が、少し変わった。

 重さが、ほんの少しだけ、薄くなった。圧力が、ほんの少しだけ、こちらに漏れた。

 俺は、それを体で感じた。

 声が、満ちた。

 言葉ではなかった。ただ、満ちた。落ち着いて、深く、何かを得たような満ち方だった。

 ——よくやった。

 そういう声を、俺は聞いた気がした。聞いた気がしたが、聞こえたのではないのかもしれなかった。

 俺は箱から手を離した。

 後ずさった。

 扉のところまで戻った。出て、扉を閉めた。閉じた扉に触れると、木の感触が、いつもの木の感触に戻っていた。

 廊下を歩いて、清澄の部屋に戻った。

 清澄は眠っていた。寝息が聞こえた。

 布団に入った。

 体が、熱かった。

 熱いのに、寒い気もした。

 俺は何をしたのか、と考えた。考えようとした。でも考えがまとまる前に、声が、また満ちた。今度は何も言わなかった。ただ、満ちた。

 その満ち方を、体が知っていた。

 御子としての役割を果たしたあと、村でも、こうなった。

 布団の中で、目を開けていた。

 天井の木目が、いつもより遠く見えた。

 ―

 次の男のことは、最初の男から聞いた。

 最後の瞬間に言った。不動産の会社の名前と、担当者の名前を。現場に指示を出していた人間だった。村への嫌がらせや追い出しを、業務として動かしていた側の人間だった。最初の男はただ雇われて動いていたが、この男は自分で判断して指示を出していた。

 名前だけでは足りなかった。最初の男の持ち物の中に手帳があった。そこに住所と、よく行く場所が書いてあった。

 会社の住所、最寄り駅、自宅の所在地、そして——よく行く店。

 その店の名前を、俺は声に出さずに、何度も繰り返した。

 声が言った。

 ——そうだ、次はそいつだ。

 でも、急がなかった。

 声も急かさなかった。今度は、時間を使う必要があると、声と俺の体は、どちらも知っていた。

 最初の男のときは、向こうから接触してきた。学校で、昇降口で。だから一晩で済んだ。今度の男は違う。俺がこちらから動かないと、何も起きない。動くなら、向こうに気づかれない動き方で、近づかなければならなかった。

 一週間ほど、間を空けた。

 その間に、店の場所を確かめた。会社員相手のスナックだった。店の周辺を、何度か通った。客の出入りを見た。男たちが連れだって入っていく。深夜近くに、酔った客が出てくる。店の女たちが、客を送り出している。

 よく顔を出している女が、一人いた。三十代後半くらい。店の中では「ミキさん」と呼ばれていた。後ろで一つに束ねた黒髪。化粧の濃い目元。顔つきの中に、少しだけ疲れがあった。

 ミキさんは、ある男と親しそうだった。客のうちの一人。それが、二度目のターゲットだった。手帳に貼ってあった名刺の顔写真と、店の常連客の顔とを、何度か通って照合した。間違いなかった。

 俺は、ミキさんに近づくことにした。

 声は、それを促すように、強くなった。

 ——いける。お前ならいける。

 ある夜、店が閉まる時刻に、ミキさんが一人で出てきた。煙草を吸う場所として、店の脇の路地に出てきていた。

 俺はその脇の路地に、先に立っていた。

 たまたま立っているように見せた。電柱の影、街灯の下から少し外れた場所。コートのポケットに手を入れて、夜の空気を吸っているふりをしていた。

 ミキさんが、俺に気づいた。

 最初は、警戒の目だった。十代の少年が、深夜にこんな場所にいることへの、当然の警戒。

 でも、俺の顔を見て、その目が変わった。

 第一の男のときの店の女と、同じ目の変化だった。少し驚いたあと、何かを確かめるように、もう一度見る。それから——疑問の代わりに、別のものが上がってくる。

「君、何してるの。こんなところで」

 ミキさんが言った。声に、警戒よりも、別のものが混ざっていた。

「家に帰りたくない」

 俺は嘘をついた。嘘というより、嘘の形をした本当だった。家——保護先のことなら、確かに帰りたくはなかった。

「家、どこなの」

「……知らない人と話したい気分じゃないんで」

 矛盾していた。話したくないと言いながら、ここにいる。

 でもミキさんは、それを矛盾とは取らなかった。

「変な子ね」

 笑った。煙草に火をつけた。

 俺はそこに立っていた。立っているだけで、何かが起きるのを待っていた。声が、それでいい、と言っていた。

「冷えるよ。寒くないの」

「寒い」

「コート、薄いね」

「ああ」

 ミキさんが、煙を吐いた。

「お店、もう閉まったの。でも、よかったら——少しなら、お茶でも飲んでく?」

 俺はうなずいた。

 店の中ではなく、ミキさんの行きつけだという別の店に連れて行かれた。深夜営業のバー。客は数人しかいなかった。隅の席に座って、温かいものを飲んだ。

 ミキさんは、よく話した。

 何を話したかは、覚えていない。話す内容より、ミキさんの声の調子と、目の動きを見ていた。村にいたころ、外から来た人間を受け入れる作法を、体が覚えていた。相手が望む反応を、適切なタイミングで返す。それだけのことだった。

 ミキさんは俺を、気に入った。

 気に入られた、ということを、俺は確信した。気に入られたから、次の段階に行ける。次の段階で、ターゲットの男を呼び出してもらう、というところまで、もう、行ける。

 夜が深くなった。

 ミキさんが「うち、来る?」と言った。

 俺はうなずいた。



 翌朝、ミキさんのアパートの、まだ温かい布団の中で、俺は天井を見ていた。

 体に、いくつかの感触が残っていた。それを反芻していたのではなかった。ただ、残っていることを、確かめるように、天井を見ていた。

 ミキさんは隣で眠っていた。

 声が、満ちていた。

 昨夜から、ずっと満ちていた。声が言葉を発したのは、ミキさんに近づく直前の「いける」だけだった。あとは、ただ、満ちていた。満ちて、こうしろ、と直接は言わない。でも、何をすべきかは、俺の体がわかっていた。

 俺は、ミキさんを起こさないように、布団から出た。

 台所で、水を飲んだ。

 冷蔵庫に、メモが貼ってあった。スケジュール表のようなもの。客の名前、曜日、店での予定、個人的な約束。今週の予定の中に、二度目の男の名前があった。「金曜日、9時、〇〇」。〇〇は、何度か顔を出している店の名前だった。

 俺はそのメモを、写真に撮った。

 ミキさんの寝顔を、もう一度見た。

 化粧を落とした顔は、昨夜とは少し違う人に見えた。年齢が、もう少し見えた。疲れが、もう少し見えた。

 声が、満ちたまま、何も言わなかった。



 ミキさんから、男のスケジュールを聞き出した。

 金曜日の夜、9時、店。そのあと、ミキさんと会う約束も、二度目の男にはあった。「うちに来るの。今週も」と、ミキさんは笑いながら言った。「あんたが来てるって知ったら、面白いことになるかもね」

 俺は笑い返した。笑った気がした。

 計画は、声と俺の体で、もう組まれていた。

 ミキさんのアパートまで、男が歩いて来る。途中に川がある。川沿いの道は、人通りが少ない。深夜になれば、ほぼ無人になる。

 俺は、男がミキさんに会いに行く道を、先回りすれば良い。



 その金曜日の夜。

 神社に戻って、清澄と過ごした。普段どおりに接した。それは、もう、それなりに上手くなっていた。

 清澄が眠ったのを確かめてから、布団を出た。音を立てないように廊下を渡った。玄関の鍵は、いつも同じ場所にある。

 外に出ると、空気が冷たかった。二月の夜の空気は、刃物に似ていた。

 声が言った。

 ——まだいる。

 名前も場所も言わなかった。でも体が知っていた。川を渡って、商店街を抜けた先。体の中の、御子と呼ばれていた場所が、そちらを向いた。

 俺は歩いた。

 夜の住宅街に人影はなかった。自分の足音だけがあった。砂利でも、石畳でも、土の上でも、足音の質が変わった。その変化を確かめながら歩いた。

 川沿いに出た。

 水の音がした。冬の川は水量が少なく、音も低かった。欄干に手をついて、下を見た。暗い水面が、街灯を反射していた。

 どこかで、犬が鳴いた。

 声が、少し強くなった。

 もうすぐだ、と言っているような。もうすぐ終わる、と言っているような。

 俺はそれに従った。従いながら、自分が従っていることを知っていた。知っていて、止まれなかった。止まりたいとも、思わなかった。

 この感覚を、何と呼ぶのかわからない。

 清澄に「怒り方がわからない」と言った夜のことを、歩きながら考えた。怒りと呼んでいいのかどうかわからない、と言った。清澄は「コウが嫌だと思ったことは、嫌だと思って正しい」と言った。

 嫌だと思うことは、ある。

 村を壊滅させた側の人間が、今も生きていることが——嫌だと思う。それが怒りかどうかはわからない。でも嫌だと思うことは、確かにある。

 だから動く。

 それが正しいかどうかも、わからない。

 わからないまま、足が動いた。

 ―

「コウ、ちょっとこっち手伝って」

 清澄に呼ばれて、ご神木の方へ歩いた。

 冬の昼下がりだった。境内の砂利の上に、薄い日が差していた。先月、二人で張ったしめ縄が、ご神木の周りに巻かれていた。

「結び目のところ、少し緩んでない?」

 清澄が、柵の内側に入って、しめ縄を指した。確かに、結び目のあたりが、わずかに下がっていた。

「直すから、コウ、反対側を押さえて」

「うん」

 俺は、柵を越えて、ご神木の幹の反対側に回った。

 しめ縄に、手を伸ばす。

 ——びり。

 指先に、何かが走った。

 俺は、反射的に手をひっこめた。

 藁に、触れる直前に何かが指を弾いた。

 (え?)

「コウ?」

 清澄が顔を上げた。

「あ、いや」

 俺は、もう一度、手を伸ばした。

 ゆっくりと、指先を、しめ縄に近づけた。

 ——びり。

 また、痛みが走った。

 (なにこれ)

 前は、普通に触れた。手のひらに藁のかすがついた感触まで、覚えている。あの時は確かに触れた。

 静電気……?と気を取り直して再び手を伸ばすが、やはり指をはじかれる。

「コウ、どした?」

「……あ、静電気が」

 俺は、手を引いた。

「あらら、乾燥してるのかな? じゃあ、俺だけでやるから、コウは見てて」

「うん」

 清澄が、しめ縄の結び目に手を伸ばした。何も起きなかった。藁を握って、緩んだ部分をきゅっと結び直した。手慣れた動きだった。

 何事もなく、結び目が直った。

「これでよし」

 清澄が柵の外に出てきた。手のひらをぱんぱんと払った。

「コウ、寒いよね。中入ろっか」

「うん」

 歩きながら、自分の指先を、見た。

 何も変わっていなかった。痺れも、痛みも、残っていなかった。

 ただ、感覚だけが、まだ残っていた。

 前は、普通に触れた。

 でも今は——

 それが、何を意味するのか、朧げながら俺にはわかっていた。

 ―

 路地の奥に、その男がいた。

 中年の男だった。深夜に一人でいた。酒の臭いがした。俺を見た。俺だとはわからなかった。ただの子どもが、こんな時間にいることを、不思議そうに見ていた。

「何だ、お前」

 答えなかった。

 男が何か言った。聞こえていたが、聞いていなかった。

 体の中の、御子と呼ばれていた場所が、静かに動いた。

 声が、何も言わなかった。言わなくても、やり方は体が知っていた。村で教わったことが、体に残っていた。

 手を伸ばした。

 ―

 終わったとき、空が少し白んでいた。

 体が重かった。疲れていた。でも不思議と、頭は静かだった。声が、満ちていた。落ち着いていた。御子としての役割を果たしたとき、いつもそうなる。

 川に戻って、手を洗った。

 冷たい水が、指の間を流れた。

 清澄のことを考えた。

 今頃、部屋で待っているかもしれなかった。待っていないかもしれなかった。でも——戻る場所がある、ということを、俺は知っていた。

 それが今夜、何かを変えたかどうか、わからなかった。

 でも戻る場所があることを知っていると、夜の川沿いの道が、少しだけ違って見えた。

 俺は、神社の方向へ歩き始めた。

 ―

 社務所の畳の上に、俺は座っていた。

 明かりはついていなかったけれど、暗くは感じなかった。襖の向こうから、青白い光が、薄く差していた。月の光なのか、別の何かなのかは、わからない。

 向かいに、清澄が座っていた。

 正座を崩した、いつもの座り方。Tシャツの襟元が、少しよれている。寝る前に俺が見ていた、そのままの姿だった。

「コウ」

 清澄が、俺の名前を呼んだ。

「ん」

「眠れない?」

「……うん」

 清澄が、こちらに、にじり寄った。

 膝が、畳をひと擦りした。

 距離が縮まった。

 清澄は普段、俺の身体には触れないように配慮している。あるとき、そう気づいた。おそらく俺が人に触られるのが苦手だと察して気を使っているのだと思う。しかし、今目の前の清澄は──俺の膝に、膝を触れている。

「コウ」

 もう一度、呼んだ。

 夜更けの清澄の声……しかしエコーのような響きをもって、届いた。

 俺は、清澄の顔を見た。

 目が、合った。

 ただ、その奥に、見たことのない色があった。

「コウ」

 また、呼ばれた。

「お前さ」

 ——お前。

 そのひとことが耳に違和感を残した。清澄は俺をお前なんて呼ばない。

 清澄が、手を伸ばしてきた。

 俺の頬に、清澄の指先が触れる。

 ひやりとした感触が、頬から、首筋に、降りていった。指の腹が、こちらの皮膚に吸い付くように滑った。

 けして不快では、ない。

 俺の身体が、その手から逃げようとしていない。むしろ自分から頬を寄せていることに気づく。

 清澄の指が、頬から顎の下に下りて、軽く、上を向かされた。

 清澄の顔が、近かった。息が、かかった。

 ——夢を、見ている。

 そのときはじめてそう思った。思ったのに、身体は清澄を避けなかった。

 俺は、清澄の唇が近づいてくるのを目を閉じずに見ていた。

 唇が、触れた。

 柔らかい、人の唇の温度。それが、唇の表面から、胸の奥のほうへ、入り込んでくる。

 息が、止まった。

 胸の奥のなにかが、ドクン、と音をたてた。

 応えてしまう、と、思った。

 そのとき。

「ん……」

 すぐ隣から、寝言が聞こえた。

 布団の中で寝返りを打つ、清澄の声。

 俺の身体の中で、何かが、止まった。

 目の前の清澄を、見た。唇は、まだそこにあった。

 これは、清澄じゃない。

 俺は、後ろに退いた。膝が、畳を擦る。

 社務所の青白い光と、向かいに座っていた清澄の輪郭が、輪郭のまま薄くなって、なくなった。

 ―

 俺は、自分の布団の中にいた。

 天井の木目を、見ていた。古い板の節が、暗がりの中に、いつものように並んでいた。

 隣で、清澄の寝息が、聞こえていた。

 布団の中で、自分の手を、頬に当ててみた。何の感触もない。指先で、唇に触れた。なにも、ない。

 ただ、胸の奥の鼓動だけが、まだ収まらなかった。

 ―

 朝、清澄が起きた。

「コウ、おはよ」

「……ああ」

「あれ、また眠れなかった?」

「……ちょっと」

 清澄は、何も気づいていない。いつものように布団から出て、伸びをして、髪を手櫛で適当に整える。

「お茶いれよっか」

「うん」

 清澄が、台所の方に立っていった。俺は、布団の上に座ったまま、その背中を見ていた。

 清澄のTシャツの襟元が、よれている。寝ているうちにそうなっただけの、なんでもないよれだった。

 その襟元から、清澄の首筋が少し見えた。

 ——夢の中の、唇の温度が、戻りそうになった。

 清澄じゃないと、夢の中で気づいた。今、目の前にいるのは、本物の清澄だ。

 それでも。

 俺の喉が、勝手に動いた。唾を飲み込んだ音が、自分の中で、やけに大きく聞こえた。

 俺は、目を伏せた。布団の上の、自分の手を、見ていた。

 ―

 コウが来ない夜が、続いた。

 二度目の朝から、三日空いた。前は一日空いて翌日には来た。今は違った。

 四日目の夜、玄関の戸が鳴った。

 開けると、コウがいた。学校帰りのままの格好だった。鞄を提げて、夕方の薄暗さの中に立っていた。

「来た」

「うん」

「飯」

「……いい」

 いい、と言うコウは、初めてではなかった。でも今夜の「いい」は、いつもの「いい」とは少し違った。意地を張っているのでも、遠慮しているのでもなかった。食べることに気が向いていない、という方が近かった。

「上がって」

 コウが靴を脱いだ。脱ぎ方が、いつもより慎重だった。揃え方も。

 部屋に上がって、いつもの場所に座った。窓に近い場所。座って、しばらく動かなかった。鞄をそばに置いて、両手を膝の上に置いて。

 僕はその向かいに座った。

 しばらく、二人で何も言わなかった。コウが何かを抱えていることはわかった。でも何を抱えているかは、まだわからなかった。

 僕は、息を一つ吸った。

 ずっと、訊けなかった。気づいていたのに、訊かなかった。コウが言いたくなれば言うだろうと、そう思って、待っていた。でも、もう、待てる時期は終わった気がしていた。

「コウ」

「……うん」

「最近——夜に、どこかへ行ってるよな」

 コウの肩が、ほんの一瞬、止まった。

 止まって、それから、ゆっくりと、僕を見た。

「気づいてた」

 返事ではなく、確認だった。コウは答える前に、僕がどこまで知っているかを確かめようとした。

「気づいてた。一度や二度じゃない」

「……」

「砂利の足跡があった。石段の下に向かう」

「……うん」

「翌朝のニュースが、何度かあった」

 コウの目が、ほんの少し見開いた。

「清澄」

「うん」

「いつから」

「いつから、というのは」

「いつから、気づいていた」

「最初の足跡を見た朝から」

 コウが息を吐いた。長い息だった。吐ききったあと、肩から、何かが少しだけ降りた。

「……そうか」

「コウ」

「うん」

「今夜、訊きたい」

「うん」

「無理なら、無理でいい。でも、訊きたい」

 少しの間があった。

「言える、かどうかわからない」

「そうか」

「ただ」

 コウが膝の上の手を、少し動かした。右の手の甲を、左の手で押さえた。

「清澄に、隠していることがある」

「うん」

「ずっと、隠していた」

「うん」

「全部は、今夜も言えない」

「いいよ」

「でも——」

 コウが視線を畳に落とした。

「俺は、おかしい」

 声が低かった。

「おかしい?」

「うん」

「どんなふうに」

 コウが少し間を置いた。言葉を選んでいた。選ぼうとして、選びきれずに、結局そのまま出した。

「夜に、出ていく」

「うん」

「俺の意志で、と言えば、そうだ。でも——意志だけじゃない、ような気がする」

「……」

「声がする」

 清澄が言葉を返さなかった。返さなかったのは、わかっていたから、ではなかった。返す言葉が、すぐに出てこなかった。

「声?」と僕は短く返した。

「うん。子どもの頃から、ときどき」

「村でも?」

「村でも、聞いたことはある。でもここに来てから、増えた」

「ここに来てから」

「……うん」

 コウが顔を上げて、僕を見た。

「最初は、聞いていないふりをした。でもだんだん、聞かないと、苦しくなった」

「聞くと、どうなる」

「楽になる。一時的に。あとで、別の重さが来る」

「別の重さ」

「うまく言えない。ただ——いま、別の重さの方が、勝ち始めている」

 僕は黙っていた。聞くしかなかった。コウが今夜、ここまで言葉にしようとしていることが、どれほどのことか、わかっていた。

「俺がここに来ると、声は静かになる」

「……」

「清澄が起きているとき、声はほとんど聞こえない。眠ったあとも、清澄が隣で寝てると、来にくいらしい」

「らしい?」

「らしい、としか言えない。声に訊いたわけじゃない。でも体でわかる」

「そうか」

「だから、来てる」

「来てる、というのは」

「清澄のところに、来てる。声から離れたくて」

 僕はその言葉を、しばらく頭の中で動かしていた。コウがそう言うのは初めてだった。来る理由を、コウが言葉にするのは。

「コウ」

「うん」

「俺もそう思ってた」

「そう?」

「コウが来てる理由が、何か別のところにある気がしてた。それが何かは、訊かなかった」

「なぜ」

「コウが言いたくなったら言うと思ってた」

 コウがまた、視線を畳に落とした。

「言いたくなる前に、言わなきゃならない夜が来たのかもしれない」

「うん」

「全部は、まだ言えない。声が、何を言っているかも、夜に何をしてきたかも、全部は——」

「言わなくていい」

「でも」

「いま言えること、だけ言って」

 コウが少し顔を上げた。

「清澄に、迷惑をかけている」

「迷惑だと思ったら、来ていいって言わない」

「……」

「来ていい」

「うん」

「これからも、来ていい」

 コウが小さくうなずいた。うなずいて、それからしばらく動かなかった。

 僕も動かなかった。

 夜の境内が、いつも通り静かだった。封印の間の方から、いつもの気配が、いつも通りそこにあった。

 でも今夜、僕の中で、いつもとは違うものが起き始めていた。

 コウが「声がする」と言った。

 その「声」が何なのかを、僕は——明日、父に訊かなければならない。

 ―

 翌朝、父が朝の祝詞を終えるのを待った。

 本殿の前で、父が振り返った。僕の顔を見て、少し間を置いた。

「何かあったか」

「父さん」

「うん」

「訊きたいことがあります」

 父が砂利の上を歩いて、社務所の縁台に来た。座って、僕にも座るように促した。

 僕は隣に座った。

「封印の間に封じてあるものは、何ですか」

 父が、すぐには答えなかった。

 朝の境内は、明るかった。冬の朝の光が、参道の石畳に当たって、白くなっていた。雀が鳴いていた。普通の朝の音だった。

「いつから訊きたいと思っていた」

「……少し前から」

「コウくんのことか」

「うん」

 父が少し間を置いた。

「禍ツ神(まがつかみ)、と呼んでいる」

 その音が、僕の中に入ってきた。

「まがつかみ」

「うん」

「神様、ですか」

「神、と呼ぶかどうかは難しい。荒ぶるもの、と言えばそれが一番近いかもしれない。土地に根付いていた古い力で、宥めてはあるが消えてはいない。日和神社は、それを封じるために建てられた、というのが一番古い記録だ」

「いつから、ここに」

「神社が建つ前から、と聞いている。何代も前から、宥め続けてきた」

 僕は黙っていた。父が話を続けるのを待った。

「禍ツ神は、ふだんは封印の間の中にいる。境内の外には出られない。鳥居の外にも出られない。それが代々の禰宜が守ってきた境界だ」

「ふだんは」

「うん。ふだんは」

 父の目が、僕を見た。

「だが——媒介がいると、外にも出られる」

「媒介」

「自分の中に通り道を持つ人間。あちらの力を体に通せる人間だ。簡単になれる人間ではない。ふつうの人間は通り道にならない。なれるのは、もともと別の力に開かれていた者だ」

「コウは」

 声に出して言った。言いたくなかったが、出た。

「その媒介とは、コウですか」

 父が、少し間を置いた。

「私も、おそらくお前と同じ過程で、それに気づいた」

「いつから」

「コウくんが来始めて、しばらくしてからだ。本殿の奥の気配が、コウくんの来る夜に変化することに気づいた。最初は確信がなかった。でも回を重ねるうちに、確信に近づいた」

「黙ってましたよね」

「ああ」

「なぜ」

 父が少し考えた。

「コウくんの過去を、お前は知っているだろう。あの子は、村で『御子』として育てられた。御子というのは、神的なものとの通り道のことだ。村が壊滅したあと、再教育で否定され続けたが——体に刻まれたものは、簡単には消えない」

「うん」

「コウくんは、もともと通り道として育てられた人間だ。だから禍ツ神が、コウくんを選んだ。もう少し正確に言えば——コウくんがここに来たとき、禍ツ神はコウくんを認識した。コウくんも、無意識のうちに、それに応えてしまった」

「コウは、わかっているんですか」

「全部はわかっていないだろう。声がすることは、感じているだろうが——それが何なのかを、固有の名前で知っているとは思えない」

「……」

「清澄」

 父が、僕の方を向いた。

「コウくんを責められない。彼は望んでこうなったのではない。村で受けたものと、ここで遭遇したものとが、たまたま噛み合ってしまった」

「わかってます」

「そして——お前にも、責められない」

「俺は」

「お前は、コウくんが来ることを許した。来ていいよ、と言い続けてきた。それは正しかった。お前が許さなければ、コウくんはどこにも行けなかった。誰にも辿り着けなかった」

「でも、結果として」

「結果として、コウくんは禍ツ神と繋がりを深めた。それは事実だ。でも、お前が許さなくても、コウくんは別のところで、別の形で、同じ場所に行きついていた可能性が高い」

 僕は黙っていた。

 何か言いたかったが、言葉が出てこなかった。

 父が立ち上がった。

「答えになっていないかもしれない。でも、これが俺の知っていることだ」

「父さん」

「うん」

「コウから——切り離せますか。禍ツ神を」

 父が、少し間を置いた。

「方法はある。だが、コウくん自身が望まなければ、できない。無理に切り離せば、コウくんの中の、御子として育てられた部分も一緒に削げる可能性がある」

「コウ自身が」

「うん。コウくんが、切り離したい、と思わなければ」

 父が、立ち上がりかけて、止まった。

「清澄」

「うん」

「一つ、確かめておきたい」

「何を」

「封印の間の様子だ。お前と一緒に、見ておきたい」

 僕は父を見上げた。父の声が、いつもより低かった。覚悟をしている、というよりは、覚悟をしていた人が動き出すときの、低さだった。

「俺も、行きます」

「行こう」

 父が先に立った。僕は後ろをついていった。

 境内を横切って、本殿の脇から、奥へ回った。封印の間の扉は、本殿の裏手にあった。普段、僕は近づくことを控えてきた場所だった。

 父が懐から鍵を取り出した。父の鍵だった。代々の禰宜が引き継いできた、ということを、僕はいま初めて、まじまじと見た気がした。

 鍵が、鍵穴に入った。

 回す音が、朝の静けさの中で、はっきりと響いた。

 扉が、開いた。

 中は暗かった。

 父が懐から、和紙に包んだ小さな灯りを取り出して、明かりを灯した。古い灯火だった。電気ではない、ということに、僕はそのとき初めて気づいた。

 明かりを掲げて、父が中に入った。僕も続いた。

 部屋の中心に、古い木の箱があった。

 両手で抱えるほどの大きさ。表面の木目が、長い年月で黒く沈んでいた。

 その箱の四面に、札が貼られていた。

 何枚かは数えなかった。色の褪せた古いものから、まだ墨の濃いものまで、層になって貼られていた。父が、何代もの父たちが、貼り重ねてきたものだった。

 父が、灯りを箱に近づけた。

 僕も近づいた。

 そのとき、目が合った。札の中の、一枚と。

「父さん」

 声が少し詰まった。

「ああ」

 父も、見ていた。

 一番手前の札に、ごく細い切れ目が入っていた。

 長さは、爪の幅もない。深さもない。和紙の表層が、ほんのわずかに裂けた、それだけの傷だった。

 それだけだった。

 それだけなのに、僕は、その傷から目が離せなかった。

「これは」

「ああ」

「いつから」

「わからない。少なくとも、先月の点検のときには、なかった」

「父さん」

「うん」

「コウは——ここに、入れますか」

 父が、灯りをこちらに向けた。父の目が、まっすぐ僕を見た。

「鍵は、私が持っている。普段は私の部屋にある」

「でも」

「うん」

「禍ツ神が呼べば」

 父が少し間を置いた。

「呼べば、扉は開く可能性がある。媒介となる人間がそれに応じれば」

「コウが、応じてしまったら」

「応じてしまえば、入れるかもしれない」

 僕は、その小さな切れ目を、もう一度見た。

 爪の幅もない、ほんのわずかな傷。それなのに、見ていると、胸の奥が冷たくなった。

 これを入れたのは、コウだ。

 たぶん、コウだ。

 そう確信した瞬間、もう一つ、わかったことがあった。

 二度目の夜の翌朝、コウの帰ってきた朝、コウの目の奥の闇が、いつもより深かったこと。あの目は、ただ保護先の家での出来事から来たものではなかった。あの目には、ここに、自分の指で触れた記憶が、含まれていた。

 父が、灯りを下げた。

「父さん」

「うん」

「これを、修復することは」

「できる。でも、根本的な解決にはならない。コウくんが応じている限り、また同じことが起きる」

「コウを——」

 僕は途中で止まった。

「コウくん自身が、応じない、と決めなければならない」

「うん」

「それが、祓い、という形になる」

「うん」

 父が、しばらく、その切れ目を見ていた。それから、ゆっくり、僕の方を向いた。

「冬尽山に、知らせる」

「冬尽山?」

「禍ツ神の祓いは、私一人の手には余る。冬尽山の宵月さん達に、力を借りる必要がある」

「いつ」

「今日中に。連絡する」

 僕はうなずいた。

 父が、扉の方へ戻っていった。僕も続いた。

 扉を出る前に、もう一度、振り返った。

 灯りの届かない奥に、箱がぼんやりと見えた。札の切れ目は、もう見えなかった。でも、そこにあることは、わかっていた。

 父が、扉を閉めた。

 鍵を、回した。

 外に出た。

 朝の光が、まぶしかった。

 ―

 その日、父は冬尽山に連絡を入れた。電話だったのか、別の手段だったのか、僕は確かめなかった。

 禍ツ神、と、もう一度、心の中で言ってみた。

 その音が、コウの目の奥に満ちる色と、繋がった。

 繋がってしまった。

 ―

 その夜は、コウが来ない夜だった。

 朝、父から禍ツ神という名を聞いてから、その日は何をしていてもその音が頭にあった。コウは
 夜になっても、来なかった。

 何かが、重く感じた。

 家の中の空気が、重かった。本殿の奥から来る気配が、いつもより色濃かった。父はすでに眠っていた。神社はいつも通り静かだった。何も変わっていない。変わっていないのに、何かが違った。

 僕は廊下に出た。

 本殿の方へ向かった。

 夜の本殿は、昼間とは別の場所に見える。同じ建物なのに、同じ木の匂いがするのに、夜の本殿は——厚みが違う。空気の層が増えるような感じがする。足音が、昼より低く響く。

 扉の前に立った。

 父に鍵を借りたことは一度もなかった。封印の間の管理は父の役割で、僕は扉の前を通るだけだった。でもその夜、扉の前で足が止まった。止まって、動かなかった。

 行きなさい、とは誰も言っていない。

 でも、ここに来なければならない気がした。

 鍵は父の部屋にある。取りに行くことはできた。でも——扉に手を近づけると、鍵が必要な気がしなかった。それが合理的な判断ではないことはわかっていた。ただ、手が扉に近づいていた。

 触れた。

 木の扉に、手のひらが触れた。

 冷たかった。石椅子と同じ冷たさだった。体温を奪うのではなく、最初からそこに温度がない、という冷たさ。

 向こうで、何かが動いた。

 動いた、という表現が正しいかわからない。気配が、変化した。圧力が上がったのではなく——こちらを認識した、という変化だった。

 怖かった。

 でも怖さより先に、別の感覚があった。

 訊かなければならない、という感覚。

「あなたは」

 声に出た。自分でも驚いた。本殿の中に、自分の声が響いた。

「あなたは——コウを、どうしようとしているんですか」

 返事はなかった。

 でも、扉の向こうの気配が——少し変わった。

 応えている、と言えるほど明確ではなかった。ただ、気配の質が変化した。怒っているのでも、喜んでいるのでもない。ただ、何かが——認識した、という感触。

「コウは、あなたのものじゃない」

 言ってから、言葉の強さに少し驚いた。でも続けた。

「コウは——ここに、いるべきなんだ。あなたに利用されるためではなく、此処に」

 扉の向こうが、静かだった。

 静かさの質が、さっきと変わっていた。圧力が落ちた、というわけではない。でも何かが——聞いていた。

 僕は手を扉から離した。

 手のひらに、温度が戻ってきた。自分の体温が。

 廊下に立って、しばらく動かなかった。

 本殿の木が、かすかに軋んだ。風が来たのかもしれなかった。そうでないのかもしれなかった。

 ―

 部屋に戻ってから、しばらく眠れなかった。

 天井を見ていた。

 宵月さんが言っていた言葉を思い出した。共鳴するものが近くにある。封印への負荷が変わる、と。

 共鳴するもの。

 コウが来ると封印の間が静かになる、と気づいたのは、もう少し前のことだった。でも今夜、扉に触れて——わかったことがあった。

 静かになるのは、封印が弱まるからではない。

 封印の間が——コウを求めているから、だ。

 引力。だから静かになる。近くに来たから。

 それが何を意味するのか、全部はわからなかった。わかりたくない部分もあった。

 コウは御子だった。何かを通す、通り道として育てられた人間だった。そのことは、断片から想像していた。明言されていなくても、コウの体の動き方で、声の質で、封印の間への反応の仕方で、わかってきていた。

 封印の間に封じられているものが、コウを求めている。

 コウの中にあるものが、封印の間に応えている。

 それを知っていて、僕は「来て」と言い続けた。「また来ていいか」という問いに「いいよ」と言い続けた。

 それは正しかったのか。

 正しい、正しくない、という言い方が合っているかどうかもわからなかった。ただ——コウがここに来るとき、コウは少し楽になっていた。それは本当だと思っていた。封印の間のためではなく、コウ自身が。飯を食べて、眠れて、声量が落ちて、少しだけ眉の力が抜ける。あれは、演技ではなかった。

 でも今夜の僕は、コウのためだけに「来て」と言っていたのか、自信がなかった。

 自分のために「来て」と言いたかっただけかもしれない。

 コウがいると、部屋が狭くなる。それが嫌ではない。コウが「うん」と言うとき、それが嬉しい。コウが眠る呼吸を聞いていると、天井が近くなる気がする。あれは僕の気持ちだった。

 でもそれと、封印の間の引力と、どこで分けることができるのか。

 分けられなかった。

 分けようとしなかったのかもしれなかった。

 今夜扉に触れて言った言葉が、頭の中に残っていた。

 コウはあなたのものじゃない、と言った。

 言いながら、それが誰に向けた言葉なのか、本当にわかっていたのか。

 封印の間に向けた言葉だったのか。

 それとも——自分自身に向けた言葉だったのか。

 ―

 父が連絡を入れて、一週間ほど経った日に、冬尽山から使者が来た。

 父の話では、冬尽山の頂には宗派を問わない修行の場がある。そこに集まる僧や学者は「正解を与えない人間たち」だという。力と手段を授けるが、どう使うかは任せる。そういう場所だと聞いていた。修行僧が立ち寄ることが年に何度かある、と父は前から言っていた。今回は、定期の立ち寄りではなく、父の連絡に応じて来てくれた、ということになる。

 来たのは五十代くらいの男で、僧衣を着ていたが、表情に厳しさはなかった。父と長く話していた。僕はその場には呼ばれなかった。

 父が本殿から出てきたとき、手に白い和紙の包みを持っていた。平たい、薄いもの。

「清澄」

 座敷に呼ばれた。向かい合って座ると、父が包みをテーブルに置いた。

「これを受け取ってほしい」

「何ですか」

「札だ。封印の間の様子が、変わっている。お前も気づいていたか」

「……音がすることは、気づいていました」

 父が少し間を置いた。

「清澄。お前に話しておかなければならないことがある。コウくんのことではなく、お前の母親のことだ」

 背筋が、少し変わった。

 母は、僕が幼いころに亡くなっている。病気だったと聞いていた。

「お前の母さんは——」父がゆっくり言葉を選んだ。「荒ぶるものを宥める力を持っていた。お前に備わっているあの力の、出どころだ」

「それは、知っています」

「ただ」

 父の目が、真剣になった。

「あの力は、行使することに意志が要る。受け継いだだけでは使えない。使うかどうか、いつ使うか——それはお前が決めることだ。誰も、お前に使わせることはできない」

「……わかっています」

「本当にわかっているか」

 静かに言った。咎める声ではなかった。確かめる声だった。

「お前が今、コウくんのために何かをしたいと思い始めているとしても——お前自身が選ばなければ、あの力は働かない。義務だと思う必要はない。無理をする必要は、まったくない」

 僕は黙っていた。

「コウくんに何があるか、お前にはわかってきているだろう。俺にも、ある程度は見えている。でも清澄——それを知ることと、それに対して何かをすることは、別のことだ。お前が決めていい」

「……なぜ、今それを」

「札を渡すには、渡す相手が覚悟を持っていなければならない。覚悟、というのは決意じゃない。何をするかを知っている、ということだ」

 父が包みを僕の前に置いた。

「受け取るかどうかも、お前が決めていい」

 包みを見た。

 手を伸ばして、受け取った。

 父が、ゆっくりうなずいた。

 ―

 その夜、コウと縁側に出た。

 冬の空気が鋭く、でも風はなかった。コウが湯飲みを両手で持って、境内の暗さを見ていた。

「冬尽山から人が来てたのか」

「見てた?」

「玄関から出るのが見えた。邪魔をするのも悪いと思って」

「邪魔じゃないよ」

 コウが湯飲みに目を落とした。

「あの人たちは、何をする人間なのか」

「修行者みたいな人たち。宗派は関係なく、山の頂に集まっていろんなことを研究したり修行したりしている」

「正解を教えてくれるのか」

「教えてくれない、らしい」

 コウが少し意外そうな顔をした。意外そうな顔をする、というのが珍しかった。

「教えてくれないのに、なぜ来るのか」

「力と手段を授けるから。どう使うかは、こっちが決める」

 コウが湯飲みを縁側に置いた。

「……それは、正しいのか」

「どっちとも言えない。正解を知っている人間がいたとして、その人間に任せればいいかといえば、そうでもない気がするから」

「自分で決めなければならない、ということか」

「そういうこと」

 コウが暗い境内を見た。

「俺は」

 声量がわずかに落ちた。

「自分で決めてきたことが、あるのかどうか」

「……ある」

「何が」

「ここに来たこと。最初の夜に手当てを受けたこと。飯を食べたこと。また来ていいかと訊いたこと」

 コウが僕を見た。

「それは」

「俺に言われたからじゃない。コウが、そうしたかったからだと思う」

 コウが視線を戻した。境内を見た。しばらく黙っていた。

「そうかもしれない」

 小さく言った。

「そうだよ」

 コウがまた湯飲みを持ち上げた。飲んで、また縁側に置いた。

 しばらく沈黙があった。川の方から、遠い水音がした。

「清澄は」

「うん」

「俺が何かをしていると、思っているか」

 少し間を置いた。

「……何かをしている可能性は、あると思ってる」

「それを聞いて、どうするつもりか」

「まだわからない」

「嘘じゃないか」

「嘘じゃない。本当にわからない」

 コウが僕を見た。じっと見た。確かめるような目だった。

「俺を、追い払うつもりはないのか」

「ない」

 即座に言った。考えるより先に出た。

 コウの目が、少し動いた。何かを決めるように、視線が前に向いた。

「そうか」

 それだけ言って、湯飲みの中身を飲み干した。

「寒いな」

「入ろうか」

「……ああ」
 二人で縁側から引いた。
 追い払うつもりはないか、と訊いたコウ。ない、と答えた自分。
 その「ない」がどこから来たのか、今夜は考えることにした。そこから先は、明日にしようと思った。
 ―
 きっかけは些細なことだった。僕が夕飯の準備をしているとき、コウがいつもの場所——流し台の脇——に立っていて、「何かできるか」と言った。

「卵、割れる?」

「やったことはある」

「じゃあ」

 コウが卵を割った。慣れているかどうかわからない手つきだったが、うまく割れた。殻が入らなかった。

「上手じゃん」

「……そうか」

「村でも料理してた?」

「させられることはあった。でも、うまくなろうと思ったことはなかった」

「今は?」

 コウが少し間を置いた。

「今は——役に立てるなら、役に立ちたいと思う」

 役に立ちたい。その言い方が、コウらしかった。好きだからとか、やりたいからとかではなく、役に立ちたい。

「十分、役に立ってる」

「卵を割っただけだ」

「割れない人もいる」

 コウが少し僕を見た。

「……清澄は、そういうことを言う」

「そういうこと、というのは」

「小さいことを、ちゃんと言う」

「そうかな」

「そうだ」

 コウがまた前を向いた。フライパンの中で卵が焼けていく音がした。

「清澄」

「うん」

「ここに来ると——自分が何かをしている、という感覚がある」

「飯を作るとか?」

「それだけじゃない。ここにいて、清澄がそこにいて——それだけで、何かをしている感覚がある」

「いるだけでいいよ」

「それでいいのか」

「十分だ」

 コウが黙った。フライパンを見ていた。卵の端が焼けて、少し色が変わっていた。

「ひっくり返す?」

「……返してみる」

 コウがフライ返しを持った。少し慎重に、でも迷わずにひっくり返した。うまくいった。

「上手」

「……そうか」

 今度は短く言った。でも口元が、少し動いた。笑う手前の何か。

 僕はそれを見ていた。

 見ながら、これが積み重なっていくものだと思った。テレビを見た夜も、雪の夜も、卵を焼いた夜も。コウとここにいる、ただそれだけの時間が、積み重なっていく。

 その先に何があるかは、まだわからなかった。

 でも今夜は、それでよかった。

 ―

 三人目の男のことは、図書館で調べた。

 二度目の男から名前だけは聞いていた。行政の担当者の部下だという。村の壊滅に関わった側の、体制に近い人間。でも名前だけでは足りなかった。

 保護先から抜け出せる時間を使って、図書館に行った。新聞の縮刷版を引いた。村の壊滅を報じた記事を探した。記事の中に、行政側のコメントがあった。担当部署の名前があった。二度目の男が言った名前と、一致した。

 それだけでは確かめられなかった。でも声が言った。

 ——そいつだ。

 二度目の男のスマホを、まだ持っていた。テーブルに置いて、しばらく席を外してトイレに行って戻ってきたとき、画面が開いていた。連絡先の一覧が表示されていた。その中に、同じ名前があった。

 場所は、図書館の地域資料から割り出した。

 今度の男には、二度目の男と違って「店の女」のような目印になる存在は、すぐには見つからなかった。家庭がある人間だった。妻と、子どもが二人。表向きは普通の家族だった。

 声が言った。

 ——奥さんに近づけ。

 俺はその声に従わなかった。家庭のある男の妻に近づくのは、二度目のときのように長い時間が必要だった。それだけの時間を、ここから抜け出せる時間として捻出するのは難しかった。

 別の経路を、声と俺で組み立てた。

 男の通勤経路に、よく寄るカフェがあることが、地域資料の中の取材記事からわかった。地元紙のインタビューで、男自身が「朝、近所のカフェで本を読むのが習慣」と答えていた。

 俺はそのカフェを、何度か覗いた。

 通勤前の朝、男は確かにそこにいた。一人で。新聞か、本を、開いて。

 カフェの店員は、二十代の女性が一人だった。常連の男と、軽く言葉を交わしていた。

 俺は、その店員に近づくことを、計画した。

 通勤前の時間にカフェに立ち寄って、何度か顔を合わせる。店員が俺の顔を覚える。会話が増える。ターゲットの男が常連だということを、店員から、それとなく聞き出す。それから——もう少し時間をかけて、店員と接近する。最終的に、店員の口を借りて、男と接触する場面を作る。

 それだけの段取りが、頭の中で、声に押されるように、組み立てられた。

 二度目のときと同じやり方だった。同じやり方を、もう一度繰り返す。それが何回目になっても、たぶん、同じやり方で。

 その夜、俺は動くつもりだった。

 声が来ていた。いつもより強かった。二度目の夜より、明確だった。

 ——まだいる。終わっていない。

 体が知っていた。場所も、男の顔も。前の夜に調べていた。今夜がそのときだと、声が言っていた。

 部屋に清澄がいた。課題をやっていた。ペンが動く音がしていた。

 俺は時間を待っていた。清澄が眠るのを待って、それから動くつもりだった。

 でも——清澄のペンが止まった。

「どこ行くの」

 立ち上がっただけだった。まだ何も言っていなかった。それなのに、清澄が言った。顔を上げて、俺を見て、言った。

「行かないで」

 俺は止まった。

 止まったのは、体が言うことを聞いたのではなかった。止まり方がわからなくなった、という感じに近かった。行くための体の動きが、清澄の声を受けて、どこへ向かえばいいか一瞬わからなくなった。

 声が言った。

 ——行け。今夜だ。

 清澄が俺を見ていた。

「行かなきゃならない」と俺は言った。

「なぜ」と清澄が言った。

 答えられなかった。

 答えを持っていないわけではなかった。でも清澄に言える答えを、持っていなかった。

「清澄には関係ない」

「関係ある」

「ない」

「コウのことだから、関係ある」

 清澄の声が、いつもと違った。強かった。強いのに、怒っていなかった。怒っていないのに、引かなかった。

 声が言った。

 ——こいつを置いていけ。お前にはやるべきことがある。

 俺は清澄を見た。

 清澄の目が、俺を見ていた。どこも見ていないのではなく、俺だけを見ていた。

「……今夜は、行かない」

 声が、揺らいだ。

 揺らいだのは声だったのか、俺の中の何かだったのか、わからなかった。でも何かが、少しだけ動いた。声が言っていることと、清澄の目の間で、何かが揺れた。

 元いた場所に戻って、座った。

 声は、まだそこにあった。消えてはいなかった。でも今夜は、それ以上来なかった。清澄がそこにいる間は、来られないのかもしれなかった。

 窓の外を見た。山の稜線の暗さを見た。

 清澄が元の場所に戻って、課題を続けていた。何も訊かなかった。何も言わなかった。ただそこにいた。

 その「ただそこにいる」という清澄のあり方が——俺には、少しわからなかった。

 村にいたころ、「ただそこにいる」人間がいなかった。誰もが役割を持っていた。役割のために動いていた。俺もそうだった。御子として動いていた。

 清澄は、役割としてそこにいるのではない気がした。

 ならなぜいるのか。

 俺のために、と言えば簡単だった。でもそれが正しいかどうか、確かめる方法を俺は知らなかった。

 声が、小さくなった。

 眠くなった、ということかもしれなかった。あるいは清澄がそこにいることで、声が届きにくくなっているのかもしれなかった。どちらかわからなかった。

 窓の外の山が、暗いままそこにあった。

 今夜は動かなかった。

 それが正しいかどうか、わからなかった。でも——今夜の清澄の声が、俺の体の中の、どこかに残っていた。

 行かないで、と言った声が。

 命令でも、懇願でもなかった。ただそう言った声が、残っていた。

 どこに残っているのかは、わからなかった。

 ―

 
 
 ―

 その夜が深くなるにつれ、コウの様子が変わった。

 窓の外を見ていたコウが、少しずつ僕の方に向いてきた。気づいたのは、視線が来る回数が増えたからだ。課題を広げている僕の手元を見ていたり、顔を見ていたり。視線を感じて顔を上げると、コウは目を逸らした。逸らし方がいつもより少し遅かった。

「なに」

「……別に」

「見てたじゃん」

「見てない」

「見てた」

 コウが少し間を置いた。

「……見てた」

 認めた。珍しかった。

「何か言いたいことがある?」

 コウが膝の上に手を置いた。少し考えた。

「清澄は」

「うん」

「俺が、ここに来ることを——重荷だと思ったことは、ないか」

「ない」

「本当に」

「本当に。なんで」

「……自分でも、なぜ来るのかがわからなくなることがある。来ていいのかが、わからなくなる」

「来ていいよ。何度でも言う」

 コウが手の甲を見た。

「来るたびに、清澄の顔を確認したくなる」

 声量が落ちた。夜の深さが増すとき、コウの声はいつもそうなる。でも今夜はその落ち方が、いつもと少し違った。

「確認?」

「変わっていないか。俺を、まだここにいさせてくれるかどうか」

「変わってない。」

「……そうか」

「コウが来るたびに確認するなら、来るたびに答える」
 コウが僕を見た。
 その目に、さっきまであった迷いがなかった。代わりに、別のものがあった。名前をつけるとしたら——僕には、まだうまくつけられなかった。
 コウが少し前に動いた。膝と膝の距離が縮まった。肩が触れるほどではなかったが、さっきより明らかに近かった。

 封印の間の方から、気配がした。

 今夜は重かった。コウが来てから、ずっとそこにあった。コウがいるとき、封印の間の気配が濃くなることは知っていた。でも今夜のそれは、いつもと少し質が違った。

 煽っているような、気配だった。

 コウが手を、自分の膝の上から動かした。畳の上に置いた。僕との距離の、半分くらいのところに。

「清澄」

「うん」

「お前は——俺のことが、怖くないのか」

「怖くない」

「なぜ」

「コウだから」

「それだけか」

「それだけだ」

 コウが手を、また少し動かした。畳の上を、ゆっくりと。こちらに向かって、というより——こちらを確かめるように。

「清澄」

「うん」

「こんなに近くにいて、怖くないのか」

「怖くない」

「……俺は」

 コウの声が、また低くなった。今夜一番低い声だった。

「俺は、お前のそういうところが——」

 封印の間の気配が、波のように来た。

 コウの目が、少し変わった。落ち着いているような、深いような、あの色になった。禍ツ神が近いときの色だった。でも今夜は——コウ自身の色と、混ざっているような気がした。どちらがどちらか、わからなかった。

 コウの手が、僕の手に触れた。

 触れた、というより——触れるかどうかの境界に来た。皮膚と皮膚の間に、紙一枚分ほどの距離があった。

「清澄」

「うん」

「俺は」

 低い声が、ゆっくり言葉を探した。

「お前のことが」

 そこで、廊下の向こうで父の声がした。

「清澄、明日の神事の準備、今夜中にできそうか」

 普通の声だった。深夜の家の中の、ただの問いかけだった。

 でも僕とコウは、同時に止まった。

 コウが引いた。体ごと、元の場所に戻った。下を向いた。

「……父さん、大丈夫です、終わらせます」

 僕は廊下に返事をした。

 部屋に静けさが戻った。

 コウはしばらく下を向いていた。それから窓の外を見た。山の稜線の暗さを見た。

「コウ」

「いい」

「いいって——」

「続きは、いい」

 声が、少し硬くなっていた。

「……そうか」

「ああ」

「今夜は眠れそう?」

 コウが少し間を置いた。

「眠れると思う」

 二人で布団に入った。部屋の明かりを落とした。

 コウの呼吸が、思ったより早く落ち着いた。

 今夜は、止まった。止まったのが自分の言葉だったのか、父の声だったのか、あるいはコウの中の何かだったのか——暗い天井を見ながら、僕にはまだわからなかった。

 コウが言いかけた言葉の続きを、頭の中で補おうとした。でも補えなかった。補えないまま、それを持っていることにした。

 ―

「母さんは洗脳されてる、そうだよな」

 コウが言ったのは、三月に入ったころの夜だった。

 唐突ではなかった。少し前から、コウの話題が母の方向に向きかけていることは感じていた。でも、こういう問い方で来るとは思っていなかった。

「そうだよな、って——」

「清澄は知ってるはずだ。父親が、保護先と話していた。どこかから話が来ているはずだ」

「……コウ」

「違うか。母さんは洗脳されてるんだろう。だから村を出ても、あのままで——」

「コウ」

「答えてくれ」

 コウが僕を見た。まっすぐに見た。

 答えられなかった。

 父から聞いた話は、コウの「洗脳されている」という認識とは、ずれていた。コウの母は、村を壊滅させた側の人間と再婚して、穏やかに暮らしている——父はそう言った。洗脳されているというより、別の人生を、あるいは選ばされて、今はそこにいる。

 その話をコウに言えるかどうか、わからなかった。

「……答えられない」

「なぜ」

「俺が持っている情報が、正確かどうかわからないから」

 嘘ではなかった。でも全部でもなかった。

 コウが目を逸らした。窓の外を見た。

「そうか」

「コウ」

「清澄を責めてるんじゃない」

「わかってる」

「ただ——」

 コウが膝の上に目を落とした。

「母さんのことが、わからなくなった。洗脳されているなら、いつか目が覚めるかもしれない。でも——目が覚めてほしいのかどうかも、俺にはわからない」

「……コウ自身は、どうしたいの」

「会いたい。見たい。でも——」

 コウの手が、膝の上で動いた。握るような、かすかな動き。

「会って、どうすれば正しいのかがわからない」

「正しいかどうかは」

「清澄はそういうことを言う」

 遮られた。怒った声ではなかった。

「それだけが正解じゃないかもしれない、とも思ってる」

 コウが少し僕を見た。

「清澄が好きだから」

 声量が落ちた。

「清澄の言い方が好きだから、信じたい。でも、どうしてもわからないことがある」

「わからないことは、わからないままでいい」

「そうか」

「今すぐ全部わかろうとしなくていい」
「……うん」
 コウが「うん」と言った。
 今夜は、それで止まった。

 ―

 翌朝、父に呼ばれた。

 コウはまだ眠っていた。起こさないように廊下に出て、父の部屋に入った。

 父が封筒を出した。

「昨日届いた。コウくんのお母さんからだ」

 便箋と、もう一枚、何かが入っていた。

 便箋を読んだ。丁寧な字だった。施設壊滅後、行政の支援窓口で担当してくれた男性と再婚したこと。今は穏やかに暮らしていること。できれば紘一にも紹介したい、と。

 封筒の中のもう一枚は、写真だった。

 女性が写っていた。細い人だった。隣に男性がいた。二人とも笑っていた。屋外で撮ったらしく、後ろに花が写っていた。春の光の中の写真だった。

「……コウには」

「まだ伝えていない」

「なぜ」

「タイミングを見ていた」

 父が少し間を置いた。

「この手紙と写真は、いずれコウくんに渡す必要がある。でも——渡し方と、渡すタイミングが肝心だ」

「わかりました」

「清澄、お前が判断しなさい」

 僕は写真をもう一度見た。

 笑っている母親の顔を、見た。

 コウが昨夜言っていた言葉が、頭の中にあった。

 会いたい。見たい。でも——会って、どうすれば正しいのかがわからない。

 この写真を見たとき、コウが何を思うか。

 洗脳されている、という認識が崩れたとき、コウの怒りはどこへ向かうか。

「……父さん」

「うん」

「この男の人は、どういう人か、わかりますか」

 父が少し間を置いた。

「行政の担当者の部下だったらしい。村の壊滅に直接関わったわけではなく、その後の処理を割り振られた人間だと聞いた」

「コウが……」

「コウくんが何を考えるか、お前の方がわかるだろう」

 そうかもしれない、と思った。

「急ぐ必要があるかもしれない」と父が言った。「封印の間の気配が、変わり始めている。コウくんの中にあるものと、向こうが近づいている」

「わかってます」

「渡す前に、コウくんの気持ちが落ち着く必要がある。でも——待ちすぎても、遅い」

 父が封筒を僕に渡した。

「持っていなさい。判断はお前がしなさい」

 封筒を持って、部屋に戻った。

 コウはまだ眠っていた。横になったまま、静かに呼吸していた。

 眠っているときのコウは、年齢より少し幼く見える。かたい顔の力が抜けて、ただそこにいる顔になる。

 引き出しの奥にしまった。白い和紙の包みの隣に。

 コウに渡すタイミングを、まだ決められなかった。決める前に、もう少し、コウのことを見ていたかった。

 ―

 眠れなかった。

 清澄の部屋の天井を、暗い中で見ていた。清澄はすでに眠っていた。呼吸が落ち着いていた。

 俺は眠れなかった。

 写真の中の母の顔を、まだ見ていた。目を閉じても、そこにあった。白くて細い女で、笑っていた。見知らぬ男の隣で、笑っていた。

 母が笑っているのを、あんなふうに見たのは——初めてだった。

 村での母は、笑わなかった。

 笑わない、というのは正確ではないかもしれない。笑い方が、違った。村での母の笑顔は、御子の母としての笑顔だった。役割として微笑む。村人に向けて微笑む。儀式の前後に、穏やかに微笑む。それは知っていた。

 でも写真の母は、別の笑い方をしていた。

 全部ではないが、少し——こちらに向かって来るような笑い方だった。

 ―

 母の記憶で、一番古いものを、今夜は探した。

 最初に覚えているのは、台所だ。

 村の台所は、広くて暗かった。竃の煙が染みついた天井。土間の冷たさ。母がそこに立って、何かを煮ていた。俺は母の後ろに立っていた。小さかったから、母の背中しか見えなかった。

 母が振り返った。

 俺を見た。その顔が、何を思っているのかを、子どものころは読めなかった。今も、読めない。

 ただ、手を伸ばした。母の手が。

 俺の頭に触れた。

 確認するような触れ方だ、と気づいたのは、もっとあとのことだ。あのころは、ただ嬉しかった。母が触れてくれた、それだけが嬉しかった。

 なぜ嬉しかったのか、今になって考える。

 母が俺を触るのは、珍しかったから、だと思う。

 村での母と俺の関係は、近かったが、近づきすぎないようになっていた。御子はある程度、孤立している必要があった。特別である必要があった。だから母も、俺に近づきすぎることを、どこかで制限されていた。あるいは自分で制限していた。

 だから、台所で触れてくれたあの瞬間が——制限の外にいた。

 制限の外の母の手が、俺の頭の上にあった。

 それだけのことで、泣きそうになった記憶がある。泣かなかったが。御子は泣かないから。

 ―

 母が俺に言葉をかけた記憶は、少ない。

 一つ覚えているのは、俺が十二のころだった。

 春の儀式のあとで、俺が一人で山の方を見ていたとき、母が来た。珍しかった。

「何を見ているの」

「山」

「山が好きか」

「……わからない。ただ、見ていたくなる」

 母が俺の隣に立った。しばらく、一緒に山を見た。

「お前は、特別な子だ」

「知ってる」

「知っている、か」

 母が少し笑った。あれも笑い方が違った。村の他の人間に向ける笑い方ではなく、少しだけ——俺に向かって来るような。

「特別だということは、しんどくないか」

「しんどいかどうか、わからない。これしか知らないから」

「そうか」

 母がそれ以上は言わなかった。また山を見た。

 役割ではない母と、役割ではない俺が、ただ山を見ていた。

 それだけの記憶が、今夜、部屋の天井の向こうに来ていた。

 ―

 村を出る朝のことを、また考えた。

 母が「行きなさい」と言った。「後で行く」と言った。

 嘘だとわかっていた。

 でも今夜、写真の母を見て——母が「後で行く」と言ったのが、嘘ではなかった可能性を、初めて考えた。

 本当に、後で行ったのかもしれない。

 ただ——俺のいない場所に。俺とは別の方向に。

 村の外を、母は選んだ。笑える場所を。

 それを嘘と呼ぶのか、本当と呼ぶのか、俺にはわからない。

 ただ、手が震えていたことだけは——覚えている。

 白くて細い手が、俺の頭の上で、少し震えていた。

 それが全部だった。

 向こうで清澄が寝返りを打った。

 俺はその音を聞いていた。

 暗い部屋の中で、今夜の俺だけが、ここにいた。

 それだけが、今夜の確かなことだった。

 ―

「母さんのことが、わからなくなった」という言葉が残った。わからなくなった——ということは、以前はわかっていたということだ。コウが「わかっていた」母の像が、揺らぎ始めている。

 それが何をもたらすのか、今夜の僕には見えなかった。

 ―

 三月の半ばを過ぎて、封印の間の音が変わった。

 音、と呼べるものかどうかも、実は定かではなかった。気流か、木の収縮か、そういうもので説明がつく範囲を、少し超え始めていた。本殿の奥から、夜になると、何かが滲み出すような気配がする。音というより、圧力に近かった。空気が少し重くなる、というような。

 父もそれに気づいていた。

 神事の準備をしながら、父が本殿の奥を見る回数が増えた。見て、何も言わずに作業に戻る。その繰り返しを、僕は何度か見た。

「大丈夫ですか」と訊いたのは、ある朝のことだった。

「大丈夫だ」と父は言った。「ただ、急ぐ必要が出てきたかもしれない」

 急ぐ、という言葉の意味は、もう知っていた。

 封筒は、引き出しの奥にあった。白い和紙の包みのとなりに。

 どちらをいつ、どう使うのか——それを決めるのは、僕だった。

 ―

 ある夜、コウが祝詞を聞きたいと言った。

「今夜、やるのか」

「明日の朝の準備はしてあるから、今夜でもできる」

「聞いていていいか」

「いいよ」

 本殿の前に立って、祝詞を唱えた。コウは参道の脇に立って、聞いていた。

 途中で、封印の間の方から、あの気配がした。

 祝詞を止めなかった。声を途切れさせなかった。でも気配は感じていた。空気が重くなるような、何かが滲み出すような。

 唱え終わって、振り返った。

 コウが立っていた。参道の脇で、ずっとそこにいた。でもその目が——封印の間のある方向を、一瞬だけ見ていた。祝詞が終わった直後の、ほんの一瞬。

「聞こえた?」と僕は訊いた。

「祝詞が、か」

「そうじゃなくて」

 コウが僕を見た。少し間があった。

「……何も」

 同じ答えだった。前に訊いたときと、同じ。

「そうか」

 僕は言った。信じなかった。信じたふりをした。以前と同じように。

 でも以前と違うのは、今の僕には、その先のことを考え始めている、ということだった。

 ―

 夜の本殿の前で、清澄が祝詞を唱えていた。

 俺は参道の脇に立って、聞いていた。聞くつもりで来たわけではない。清澄が「いいよ」と言ったから、そこに立った。それだけだ。

 祝詞の声が、夜の境内に広がった。

 聞いていると、落ち着く。以前からそうだった。清澄の声が場所の気を整える、と父神主は言っていた。本当にそうかどうかはわからないが、体がそれを信じる。

 でも今夜は、落ち着きの下に別のものがあった。

 封印の間の方から、気配がした。

 声ではなかった。声と呼ぶには形がなさすぎた。でも何かがあった。いつもそこにあるものが、今夜は少し大きかった。清澄の祝詞に応えているのか、あるいは反発しているのか、判断がつかなかった。

 ただ——俺の体の中の何かが、その気配に反応した。

 反応、という言葉も正確ではない。呼ばれているような、引かれているような。御子、という言葉が体の奥から浮かんでくるような。再教育で何度も否定された言葉が、それでも消えずに残っている場所から。

 清澄が祝詞を終えた。

 振り返った。

 俺は封印の間の方から目を外した。清澄の方を見た。

「聞こえた?」と清澄が訊いた。

「……何も」

 俺は答えた。

 嘘だった。

 嘘をついたのは初めてではない。でも清澄に嘘をつくとき、今はそれがわかる。体のどこかが、少し軋む。

 清澄が「そうか」と言った。

 その目が、俺を見ていた。信じているのか、信じていないのか。清澄の目は、どちらとも取れる。でも今夜の目は——信じていないかもしれなかった。

 俺は清澄の目から、少し視線を外した。

 声は、今夜は何も言わなかった。ただそこにあった。祝詞の気配と、俺の体の中の何かとの間で、じっと待っているような。

 待っている。

 何かを待っている。

 俺が、何かを決めるのを。

 ―

 三月の終わりに近づいたころ、学校で。

 その日、僕は昼休みに校舎の裏に行った。理由は特になかった。ただ、教室の人の多さが、その日は少しだけ重かった。

 校舎の裏手の目立たない場所に、コウがいた。

 ジャケットの襟を立てて、壁にもたれていた。長身が、壁の影に半分隠れていた。学校でこんなふうに一人でいるコウを、初めて見た気がした。

 コウはクラスの中で目立つ存在だった。本人は気づいていないか、気づいて無視している。同じクラスでなくても、学年で名前が通っていることは、廊下を歩いていればわかった。あいつ、と指す視線が、女子の側からも男子の側からも、向けられていた。それでも、誰かが近づいて声をかける、ということは、あまりなかった。近寄りがたい何かがあった。色の白さと、整った顔立ちと、何を考えているか読めない目。それらが組み合わさって、コウの周りに薄い境界線を作っていた。
 その境界線の中に入ったのは、たぶん、僕だけだった。最初の夜、石椅子で声をかけてから、僕は気づかないままその中に入っていた。気づいたときには、もう、出る理由もなくなっていた。

 コウとは相変わらず別のクラスで、廊下で顔を合わせることが数えるほどあるだけだった。学校でコウと話すのは珍しかった。お互いに、そういう習慣ができていなかった。神社での時間と、学校での時間は、自然に切り分けられていた。

 近づくと、コウが僕に気づいた。

「こんなとこで何してる?」

「……少し、静かな場所が必要だった」

「クラスで何かあった?」

「何もない。ただ」

 コウが校舎の壁に背中を預けた。空を見た。春の空は高く、薄い雲が流れていた。

「人が多いと、疲れる」

「そうか」

「清澄は疲れないのか」

「疲れる。でも神社に帰れば静かだから、見通しがつく」

「見通し」

「疲れたとしても、終わりがあるとわかってるから、耐えられる」

 コウが空から視線を戻した。僕を見た。

「俺には、それがなかった」

「保護先に帰っても、静かじゃないの?」

「……静かかどうかじゃない。終わりがあるかどうかが、わからない」

 その言葉の重さを、どう受け取ればいいか、すぐにはわからなかった。

「今夜、来れる?」

 コウが少し間を置いた。

「……来ていいか」

「いいよ」

 コウの眉のあたりが、屋外にいるのに、ふっと緩んだ。

 ―

 その夜、コウが来て、飯を食べて、部屋に並んで座った。

 コウが珍しく先に話し始めた。

「清澄」

「うん」

「俺は、ここに来るたびに——何かを置けてる気がする」

「何かを」

「うまく言えない。でも、ここに来ると軽くなる。軽くなったまま帰って、また重くなって、またここに来る」

「それで、いいんじゃないの」

「そうか」

「重くなるものがあるなら、軽くできる場所があっていい」

 コウが少し黙った。

「清澄は、俺が来るたびに重いものを持ち込んでいる、と思わないのか」

「思わない」

「なぜ」

「コウが来ると、俺も何かが違う。軽いというより——ちゃんとしなきゃって思う。いい意味で。コウがいると、俺がここにいることに、意味がある気がする」

 言ってから、少し恥ずかしくなった。うまく言えていない気がした。

 コウが僕を見た。

「……それは、俺を必要としている、ということか」

「そういう言い方が一番近いかもしれない」

 コウがまた少し黙った。

「俺も」

 声量が落ちた。

「清澄を——」

 そこで止まった。止まって、少し目を逸らした。

「必要としている、かもしれない」

 言い切る前に逃げたような言い方だった。でもコウが「かもしれない」をつけるとき、それは「そうだ」に限りなく近い。

「そうか」

「ああ」

「じゃあ、お互いさまだ」

 コウが僕を見た。何か言おうとして、言わなかった。でも口元が——縁側で見たときと同じように——笑う手前みたいな何かになった。

 僕はそれを見た。

 今度は、目を逸らさなかった。

 ―


第三章「決断」

 四月に入ってすぐの夜、うちに来たコウは久しぶりにゆっくり時間を過ごせる様子だった。

 飯を食べて、部屋に並んで座った。コウはいつもより言葉少なだった。

 しばらくして、コウが口を開いた。

「清澄」

「うん」

「一つ、頼んでいいか」

「どうぞ」

「母さんのこと——何か聞いてたら、教えてほしい」

 僕は少し間を置いた。

「なんで、今?」

「前に住んでた村の人間が会いに来て、母さんのことを」

 目線で先を促す。

「母さんが、再婚した、って。……死んでなかったんだ、母さん」

 コウの声は平坦だった。それについてどう思っているのか、汲み取れない。

「……聞いてない?」

「少しだけ。……ちょっと待って。見せたいものがある」

 コウが僕を見た。

 立ち上がって、整理棚の引き出しから封筒を取り出す。父から預かっていた、あの封筒を。

「……コウのお母さんから、うちに届いたって。……ごめん、黙ってて」

 コウが僕を見つめて、それから封筒に視線を移した。

「読む、よね?」

「……読む」

 便箋を渡した。コウは時間をかけて読んでいた。表情は変わらないのに、動揺しているのが伝わってきた。

 便箋に挟んでいた写真を、コウは食い入るように見つめていた。

「……笑ってる」

「うん」

「この男、が再婚相手、なんだよな?」

「うん……多分」

 コウが写真をテーブルに置いた。置いてすぐに手をひっこめた。

「自分で決めたのかな。俺に相談もなしで」

「……」

「連れて行かれたとか、洗脳されたのかも」

「コウ」

「封筒、住所書いてあるよな?」

 僕は黙っていた。

「会いに行く。行って、確かめる」

「待って、コウ」

「清澄」

「待ってくれ」

 コウが立ったまま、僕を見た。目が違った。禍ツ神が近いときの、あの深く落ち着いた目だった。

「止めない。ただ、一人にしない」

 コウが少し間を置いて、出ていった。僕はその後ろをついていった。


 ―

 電車は空いていた。

 夜の遅い時間で、座席に人が散らばっている程度だった。コウと並んで座った。コウは窓の外を見ていた。夜の景色が流れていく。街灯と、建物の灯りと、時々暗い水面が光を返す。

 コウは何も言わなかった。

 言わなくていいと思っていた。言わせるべき場面ではなかった。

 コウの手が、膝の上にあった。握られていた。白くなるほどではないが、力が入っていた。それだけが、今のコウの内側を示していた。

 僕はコウの横顔を、少しだけ見た。

 窓の外の流れていく光が、コウの頬に薄く落ちては消えた。コウの目は、何も見ていないようでいて、何かを見ていた。流れていく景色のさらに向こう、母のいる家の方を、たぶん。

 電車が揺れた。

 コウの肩が、わずかにこちらに傾いた。立て直した。

「揺れた」

 何か言う必要があった、というより、コウに声が届くとわかる場所にいたかった。

「……ああ」

 コウが短く答えた。窓の外を見たまま。でも答えた。

 それだけで、十分だった。

 向かいの座席に、酔ったらしい中年の男が座っていた。鞄を膝に置いて、半ば眠っていた。電車が揺れるたびに、男の体も少し揺れた。それ以外、車両の中は静かだった。蛍光灯の音が、低く続いていた。

 僕は天井を見た。蛍光灯の白が、薄く明滅していた。

 コウの中の何かが、今、揺れているのを感じていた。電車の揺れではなく、コウの内側の揺れ。それを言葉にして訊くことは、しなかった。訊いてどうなるものでもなかった。

 駅を二つ過ぎたころ、コウが口を開いた。

「清澄は、なぜ来た」

「止めに行くかもしれないと思ったから」

「止めに来たのか」

「そうじゃないかもしれない。ただ——一人にしたくなかった」

 コウが窓から視線を外した。前を向いた。座席の背に目を向けた。

「俺のために、か」

「コウのために、と言えば、そうだ。でも——俺が嫌だったから、でもある」

「嫌?」

「コウが一人でそこへ行くのが、嫌だった」

 コウが少し間を置いた。

「……そういう言い方を、お前はする」

「そういう言い方、というのは」

「俺のためだけじゃない、と言う。自分のためでもある、と言う」

「そうだよ」

「なぜ」

「そっちの方が、本当だから」

 コウが視線を手元に落とした。握られた手を見た。少し、力が抜けた。

 僕も、自分の手を見た。膝の上に、なんとなく置いていた手。コウの手から、ほんの少しだけ離れた場所にあった。

 電車が次の駅に着いた。扉が開いて、冷たい空気が入った。

「降りる」

「うん」

 ホームに降りた。二人で改札を出た。

 夜の住宅街が、静かだった。

 ―

 住宅街の道は細かった。

 街灯の間隔がまばらで、歩くたびに明暗が入れ替わった。コウは迷わなかった。一度調べた道を、体が覚えているようだった。

「どこで調べたの、場所」

「図書館で。区の住所録がある」

「そうか」

 靴音だけが続いた。コウの靴音と、僕の靴音。二人分。それが、明るい部分と暗い部分を交互に通り抜けていった。

 すれ違う人もいなかった。窓に灯りがついている家もあれば、もう消えている家もあった。一軒、テレビの音がかすかに漏れていた。家族の笑い声らしいものが、何か遠いところの出来事みたいに聞こえた。

 曲がり角を曲がるたびに、コウの肩が少し前に出た。近づいている、ということが体に出ていた。

「コウ」

「うん」

「着いたら、何をするかは決めてるか」

 少しの間があった。

「決めてない」

「そうか」

「声が言っている。どうするかは体が知っている、と」

「声の言う通りにするか」

「……わからない」

「わからない、か」

「わからない。でも——足が動く」

 僕は、コウの足元を見た。一定のリズムで、確かに動いていた。コウの意志なのか、別の何かなのか、見ているだけではわからなかった。

 コウが角を曲がった。その先に、明かりのついた家があった。

 コウが止まった。

 家を見た。窓から光が漏れていた。カーテン越しに、何かが動く気配があった。

 コウの体が、石みたいに固まっていた。動かなかった。動けないのではなく、動き方を決めかねている、という固まり方だった。

 しばらく、二人で立っていた。

 通りには、僕たち以外、誰もいなかった。電柱の影が、僕たちの足元に伸びていた。少し離れたところで、犬が一度だけ鳴いて、すぐに止んだ。

 カーテンの向こうで、影が動いた。

 女性のシルエット。細い人だった。何かを持って移動した。向こうに男のシルエットも見えた。二人が近くにいた。

 コウが息を、ゆっくりと吐いた。

「……笑ってる」

 声が低かった。低くて、平らで、でも底に何かが渦いていた。

「見えた」

「本当に」

「うん」

「笑ってる、あの男と」

「そうだな」

 コウの手が、拳になった。

 封印の間の気配が——ここまで来ていた。コウの体の中から、溢れるように。こんなに外に出てきたことは、今まではなかった。

 距離を超えて、禍ツ神が来ている。コウを媒介として、ここまで。

「コウ」

「……なんだ」

「今夜は帰ろう」

 コウが僕を見た。目が深かった。禍ツ神が混ざっている目だった。でもその奥に——コウ自身もいた。揺れていた。

「……あの男がいる」

「わかってる」

「母さんが笑ってる。あの男と」

「見えた」

「許せない」

「うん」

「なのに——」

 コウの声が詰まった。

「なのに、母さんが笑ってるのを見たら——わからなくなった」

 僕はコウの腕を取った。

 コウが固まった。引かなかった。でも振り払おうともしなかった。

「帰ろう」

 コウが家の明かりをもう一度見た。長く見た。

 カーテンの向こうで、二つのシルエットが重なって見えた。何かを話している。笑っているような動き。

 コウの目が、それを見ていた。

 何かを焼き付けているような見方だった。記憶しているのか、手放そうとしているのか、どちらとも取れた。

 それから、ゆっくりと踵を返した。


 ―

 帰りの電車は、もっと空いていた。

 夜が深まっていた。二人並んで座って、また窓の外を見た。来たときと同じ景色のはずだったが、違って見えた。同じ街灯、同じ建物の灯り、同じ暗い水面。でも見え方が違った。

 コウは何も言わなかった。

 僕も、何も訊かなかった。

 電車の揺れに合わせて、コウの肩がときどきこちらに傾いた。来たときより、揺れに任せる感じが強くなっていた。立て直すのが、少し遅れるようになっていた。

「コウ」

 呼んでから、その先に続ける言葉が出なかった。

「うん」

「……」

「いい」

 コウが短く言った。

「いい?」

「言わなくて、いい」

「うん」

 それでよかった。今夜、言葉にできることは、もう少ない気がした。言葉にしてしまうと、何かが整いすぎる。整わないまま、二人で電車に揺られていたかった。

 外の景色を見ていた。流れていく光と、流れていく暗さ。窓ガラスに自分たちの顔が薄く映っていた。コウの顔も、自分の顔も、流れていく景色に重なって、不確かだった。

 電車が神社のある町の駅に着いた。

 ホームに降りると、夜の冷気が首筋に流れ込んだ。さっきまで電車の中で感じなかった寒さが、急に体に届いた。

「寒い」

「ああ」

「歩こう」

 二人で改札を出た。神社までは歩いて二十分ほどの道だった。

 ―

 神社に戻った。

 境内に入ると、コウが石椅子に座った。最初の夜と同じ場所に。コートも着ていなかった。

「一人にしてくれ」

「一人にしない」

「清澄」

「なんだ」

 コウが手の甲を見た。右の手の甲を。

「俺は、御子だ」

「そうだな」

「御子として、村のために動いてきた。母さんのために、と思っていた部分もあった」

「うん」

「でも母さんは——あの場所から出て、自分の人生を選んだ」

「そう見える」

「俺の知らないところで」

「うん」

 コウが石椅子の端を、指で押さえた。力を入れるような、抑えるような動作だった。

「御子として守ろうとしていたものが、最初からそこにはなかったのかもしれない」

「コウ」

「俺は何のために——」

「御子なら」

 コウが顔を上げた。

「御子として生きてきたなら——お母さんがこれから幸せになることを、祝福してあげられないか」

 沈黙があった。

「守るというのは、一つじゃない。お母さんが選んだ人生を、遠くから見守ることも——御子の仕事じゃないのか」

 コウが僕を見た。

 長い、長い沈黙があった。

 境内の砂利が、風に鳴った。

 コウの目から、少しずつ、禍ツ神の色が引いていった。

「……わからない」

「わからなくていい。今夜は」

「でも——」

 コウが視線を落とした。

「笑ってた」

「うん」

「本当に、笑ってた」

「うん」

「……そうか」

 コウが石椅子に背を預けた。力が抜けていくように。

 よかった、と思った。

 でも気配は引かなかった。封印の間の重さが、まだそこにあった。コウの体の中に。

 ―

 社務所に入って、並んで座った。

 コウはしばらく何も言わなかった。

「泊まっていくか」

「……ああ」

 布団を出した。コウが横になった。

 消灯して、暗い部屋の中で天井を見ていた。

「清澄」

「うん」

「ありがとう」

「何が」

「今夜、来てくれたこと。止めてくれたこと」

「当たり前だ」

「当たり前じゃない」

 コウが少し間を置いた。

「清澄がいなかったら、俺は——今夜、何かをしていたかもしれない」

「いたから、しなかった」

「そうだな」

 暗い部屋の中で、コウの呼吸が聞こえた。

「清澄」

「うん」

「お前のことが——」

 コウが止まった。

「何だ」

「……いや。眠る」

「そうか」

 コウが目を閉じた。

 でも眠れていなかった。気配でわかった。

 封印の間の重さが、まだあった。コウの体の中で、何かが動いていた。

 それが何なのか、この夜の僕には、まだわかっていなかった。


 ―

 目が覚めたとき、部屋の空気が違った。

 重さが違った。

 隣を見た。コウがいた。でも目が、開いていた。

 暗い部屋の中で、こちらを見ていた。

「コウ」

 声をかけようとした瞬間、コウが動いた。

「清澄」

「どうした」

「わからない」

 コウの声が、いつもと違った。低くて、掠れていて、自分のものではないような。

「声が、言ってる」

「何て」

「……お前には何も残っていない、と」

「禍ツ神か」

「村も。役割も。母さんも。何も残っていない。だったら——と言ってる」

 コウが近かった。気づいたときには、すぐそこにいた。

「だったら、せめて——一番近くにいるこいつを——」

 コウの手が、僕の腕に触れた。

「コウ、聞いてくれ」

「聞こえてる」

「今のお前は——」

「わかってる」

「わかってるなら」

「わかってても、止められない」

 コウの顔が近かった。息がかかるほど近かった。

 唇が触れた。一瞬だけ。

 それから、コウの手が僕の背に回った。

 封印の間の気配が、波のように来た。禍ツ神が煽っていた。言葉ではなく、気配として。いいぞ、このまま、と言っているような圧力だった。

「コウ」

 声を出した。

「いいよ」

 コウが止まった。

「コウなら、いいよ」

 完全に、止まった。

「……清澄」

「うん」

「何を——」

「いいと、言った」

 コウが離れた。体ごと、後ろに引いた。壁に背が当たるところまで。

「なんで」

「……わからない。でも——それでも、コウなら。そう思った」

 沈黙があった。長い沈黙があった。

 コウが壁に背をつけたまま、動かなかった。

 封印の間の気配が、静かになっていた。禍ツ神の圧力が、引いていた。

「……清澄」

「うん」

「祓ってくれ」

 静かな声だった。今夜一番、コウの声だった。

「今か」

「今がいい。今じゃないと——また、お前に」

「わかった」

「すまない」

「謝るな」

「でも——」

「止まったんだから」

 コウが少し間を置いた。

「……お前が止めた」

「コウが止まった」

「同じことだ」

「違う」

 暗い部屋の中で、目が合った。禍ツ神の色がなかった。ただのコウの目だった。

「父さんを呼ぶ」

「頼む」

 ―

 父を呼びに行く廊下が、長く感じた。

 裸足の足が、夜の木の床を踏んだ。さっきまでコウの体温があった布団の感触が、まだ手のひらに残っていた。

 父の部屋の襖の前で、声をかけた。

「父さん」

 すぐに返事があった。父はすでに起きていた。

「コウくんか」

「……うん」

「準備する。少し待っていなさい」

 父の声が落ち着いていた。覚悟していた人の声だった。たぶん、父はずっと、この夜が来ることを待っていた。今日来るか、明日来るか、それはわからないままに、いつでも対応できるように。

 僕は社務所に戻った。

 コウは布団に座っていた。体育座りのような姿勢で、両手を膝に置いていた。壁にもたれてはいなかった。背筋がまっすぐだった。

「父さん、来る」

「うん」

 僕はコウの隣に座った。少し離れて、でも声が届く距離で。

「コウ」

「うん」

「怖いか」

 少しの間があった。

「……怖い」

「うん」

「でも、やらないと、もっと怖い」

「うん」

「お前にもう一度、ああいうことを——するかもしれない。今夜じゃなくても」

「そうだな」

「だから、今夜やりたい」

「わかった」

 コウが少しだけ顔を上げた。

「清澄」

「うん」

「お前が止めてくれたんだ」

「いや」

「お前が止めた」

「コウが止まった」

「……同じことを言うな」

「違うんだ。コウが止まった。俺は声をかけただけだ」

 コウが少し笑いそうになって、笑わなかった。

「お前は、いつもそういう言い方をする」

「うん」

「俺のせいにしない」

「コウのせいじゃない、と思ってるからだ」

 コウが何か言おうとして、やめた。

 ふすまの向こうで、父の足音が聞こえた。

 ―

 父が本殿の前に出てきたのは、夜明け前だった。

 コウを見て、静かにうなずいた。

「コウくん。いつでも止められる。清澄が声をかけたら、すぐに止める」

「……わかりました」

「それから」父が少し間を置いた。「お前の中にあるものを、全部消すわけではない。コウくん自身が選んできたものは、残る」

 コウがうなずいた。

「残るものは何かは、終わってみないとわからない。それも含めて、引き受けられるか」

「……はい」

「よろしい」

 父が白い和紙を広げた。水墨で何かが書かれていた。古い字体だった。

「清澄、包みを」

「はい」

 引き出しから取り出してきた包みを開いた。冬尽山から来た札があった。手に持つと、温度がした。父から預かったときと同じ温度。でもそのときより、少し重い気がした。

 僕は札を、両手で持った。

 父が本殿に向いた。

 祝詞が始まった。鎮めるための祝詞ではなかった。切り離すための言葉だった。声の重さが違った。境内の空気が、少しずつ変わっていくような気がした。

 コウが隣に立った。

 封印の間から、気配が来た。引力に近かった。本殿の木が軋んでいた。

 コウの体が、わずかに揺れた。

「コウ」

「……来てる」

「引かれてるか」

「……ああ」

 コウが半歩、封印の間の方向に出た。

「コウ」

 呼んだ。コウが止まった。

 父の祝詞が高まった。

 コウがもう半歩、前に出ようとした。

「コウ」

 また呼んだ。

 コウが振り返った。体の半分が封印の間の方向を向いていた。でも顔だけが、こちらを向いた。

 目が合った。

「清澄」

「ここにいる」

「……声が言ってる。お前はまだ御子だ、と。役割がある、と」

「コウは何と言いたい」

 コウが少し間を置いた。気配が強まった。本殿の梁が軋んだ。境内の砂利が、誰も歩いていないのに、低く鳴った。

 コウが動かなかった。

「……俺が、決める」

 低い声だった。体の奥から来る声だった。

 気配が揺らいだ。

 父の祝詞が一段と高くなった。札が、手の中で熱くなった。熱いが、痛くはなかった。火傷するような熱ではなく、何かを通している熱だった。

「コウ」

「うん」

「今だ」

 コウが動いた。引かれていた体が、こちら側に向かって一歩出た。体の中の何かを、手放すように。

 気配が大きく揺らいだ。

 何かが、コウから抜けた。

 正確には、抜けようとした。でも全部は抜けない。コウの体の中に、残っているものがあった。コウが自分で「これは俺だ」と決めた部分。それは残った。

 抜けたものが、宙に揺らいだ。

 風の形をしていた。色はなかった。でもそこに何かがある、ということが、見えなくてもわかった。

 それが、封印の間の方向へ、ゆっくりと流れていった。

 引かれるように。あるべき場所に戻るように。

 父の祝詞が止んだ。

 長い沈黙の中で、封印の間の圧力が、ゆっくりと引いていった。

 砂利が、もとの静けさに戻った。

 ―

 コウが、ゆっくりと膝をついた。

 近づいた。

「コウ」

 コウが顔を上げた。あの満ちているような色がなかった。ただのコウの目だった。

「聞こえるか」

「……何が」

「声が」

「……ない。静かだ」

「こんなに静かなのは——知らない」

 手を貸した。コウが立った。立ち上がるのが、少し重そうだった。体の中の何かが抜けた直後の、重さなのか軽さなのか、わからない感じ。

 父が近づいてきた。

「お疲れ。よくやった」

 コウが父を見た。何か言おうとして、出てこなかった。うなずいた。

「ゆっくり休みなさい。色々、あとから出てくるかもしれない。それは時間をかけていい」

「……はい」

「コウくん、ここに来ていいぞ。何かあっても、なくても」

 コウの目が、少しだけ揺れた。一瞬だけ、何か熱いものが上がってきそうな揺れだった。でもすぐに、落ち着いた。

「……ありがとうございます」

 声が少し詰まった。

 父が「うん」と言って、本殿の方へ戻っていった。

 二人だけになった。

 朝の光が、境内の砂利を白くしていた。


「コウ」

「うん」

「まだ立っていられるか」

「立っていられる」

 コウが境内を見渡した。石椅子を。石段を。本殿を。

「最初に来た夜のことを、覚えているか」

「覚えてる」

「寒かった」

「コートも着ないで石椅子に座ってた」

「清澄が声をかけてきた。寒くないですか、と」

「びっくりした」

「断ればよかったのかもしれない」

「でも断らなかった」

「……断れなかった。清澄の声が、普通だった。それだけで、来てしまった」

 コウが僕を見た。

「今も、同じだ。清澄の声が、俺には当たり前にある声だ」

「……そうか」

「ありがたい、と思ってる」

「俺もだ」

 コウの口元が動いた。声が出た。かすかだったが、確かに出た。笑い声だった。

 僕も笑えた。

「入ろうか」

「ああ」

 二人で社務所の方へ歩いた。砂利を踏む音が、二人分あった。

 ―

 祓いのあと、コウはしばらく眠った。

 父が「ゆっくり休みなさい」と言って本殿に戻り、境内に朝の光が伸びてきたころ、コウは社務所の布団の中に入って、すぐに眠った。

 深く眠った。

 こんなに深く眠るのを見たことがなかった。いつもは、眠っていても緊張の糸が残っているような眠り方だった。でもあの朝のコウは——眠ったというより、何かが終わって、やっと体が降りた、という眠り方だった。

 僕は社務所で帳簿を広げて、時々コウの方を見ながら、一人で朝を過ごした。

 昼近くに、コウが目を覚ました。

「清澄」

「起きた」

「……何時だ」

「十一時半くらい」

「そんなに」

「眠れてよかったよ」

 コウが体を起こした。少しぼんやりした顔だった。普段のコウとは少し違う、力の抜けた顔。

「頭が、静かだ」

「声は?」

「……ない。ちゃんと、ない」

 声量が落ちた。感情の置き場所を探しているような落ち方だった。

「ご飯食べよう」

「……ああ」

 二人で台所に行って、昼飯を作った。コウが卵を割った。うまく割れた。いつもより少し慎重な手つきだったが、割れた。

「うまくなったね」

「……そうか」

「最初より全然いい」

「最初は、どうだったか」

「殻が入ってた」

 コウが少し眉を上げた。覚えていないようだった。

「入ってたのか」

「一欠片だけ。でも入ってた」

 コウが卵の入ったボウルを見た。

「それが、いつの話だ」

「最初に来るようになって、すぐのころ」

「……長く来ている」

「そうだよ」

 コウが黙った。ボウルを見たまま、少し考えるような間があった。

「清澄」

「うん」

「俺は、ここにいてよかったのか」

「よかったよ」

「迷惑を、かけた」

「かけてない」

「かけた。夜中に来た。飯を食べた。布団を使った。——父さんにも、心配をかけた。封印の間に、負荷をかけた」

「どれも、かけてない」

「なぜそう言えるのか」

「こちらが選んで、続けてきたから」

 コウが顔を上げた。

「選んで?」

「最初の夜、社務所に入れたのは僕だ。飯を出したのも。また来ていいよ、と言ったのも。全部、こちらが先に選んでる」

「……でも」

「コウが来ることを選んだのも、コウだ。どちらも選んで、続けてきた。それが迷惑なら、迷惑はお互いさまだ」

 コウがしばらく黙っていた。

「お互いさま」

「そう」

「そういう言い方を、お前はする」

「言うよ」

 コウの口元が、少し動いた。笑う手前の何か。今の時期のコウには、それが増えていた。

 ―

 祓いから三日ほど経ったころ、コウが図書館に行った。

 一人で、と言った。僕はついていかなかった。ついていくべき場面ではないと思った。

 夕方に帰ってきたコウは、民俗学の本を二冊持っていた。

「何か調べてきたの」

「冬尽山のことを」

「どこかに出てた?」

「少し。修験道の記録の中に、名前があった。山岳修行の拠点として、古い時代から使われていたらしい」

「そっか」

「宵月という人間の名も、別の本に出てきた。冬尽山に代々いる案内役の家系らしかった」

「あの人の苗字?」

「苗字か名前かはわからなかった。でも同じ名前が、百年以上前の記録にも出てきた」

 それをどう受け取ればいいのか、僕にはわからなかった。コウも、わかろうとして調べたのではないような顔をしていた。ただ、知りたかったから調べた、という顔だった。

「行くつもりなの」

 訊いてから、少し後悔した。答えが怖かった。

 でもコウは、少し考えてから答えた。

「……わかってきた、という感じがある」

「何が」

「声がなくなった今、自分に何が残っているか。それを確かめたい場所が——ここ以外にも、あるかもしれない、という感じが」

「ここ以外にも」

「ここがあることは、知ってる」

 コウが僕を見た。

「ここは、ある。でも——御子でも、再教育された人間でもない俺が、どういう人間なのか。それを、別の場所でも確かめてみたい」

「そうか」

「嫌か」

 嫌だった。嫌だったが——

「嫌じゃない」

「嘘じゃないか」

「嘘かもしれない。でも——コウが行くべき場所があるなら、行った方がいい」

 コウが少し僕を見た。

「また来ていいか」

「いいよ。いつかは、だ」

「いつかは」

「出発はいつ?」

「……まだ決まっていない。冬尽山に、連絡が必要だと思っている」

「父さんが知ってるかもしれない。話してみる」

 コウがうなずいた。

 その夜、父に話した。父は少し間を置いてから、「伝えてみる」と言った。

 翌朝、父がコウを呼んだ。

 話が、思ったより早く決まった。

 来週、と父が言った。

 一週間後。


 ―

 一週間が、始まった。

 コウは毎日来た。いつもより少し早い時間に来ることが多かった。夕飯の準備の時間に来て、一緒に作って、食べて、部屋に並んで座った。

 何かを詰め込もうとしているのか、いつも通りにしようとしているのか、どちらとも取れた。

 たぶん、どちらでもあった。

 三日目の夜、コウが突然言った。

「清澄」

「うん」

「お前が卵焼きを焼くのを、初めて見たとき」

「うん」

「胸のあたりに、何か、あった」

「何が」

「名前がなかった。今もない。でも——今夜は、少し近づいた気がする」

「何に」

 コウが少し考えた。

「それが何なのかを、言葉にできるようになるかもしれない、という気持ちに」

「冬尽山で、か」

「わからない。でも——言えるようになったら、言う」

「うん」

「清澄に」

「待ってるよ」

 コウが黙った。少し長く黙った。

「……うん」

 コウが「うん」と言った。今夜も珍しかった。

 五日目の夜は、雨だった。

 縁側には出られなかった。部屋で並んで座って、雨の音を聞いていた。コウが、窓を少し開けた。

「開けるの?」

「雨の音が聞きたい」

「そうか」

 冷たい空気と、雨の音が入ってきた。

「清澄」

「うん」

「お前の祝詞を、また聞きたい」

「今夜?」

「……明日でいい。出発の前に、聞いてから行きたい」

「聞かせる」

 コウがうなずいた。窓から入ってくる雨の音を、聞いていた。

 六日目の夜——出発の前夜——コウは遅くまでいた。

 話が途切れてからも、帰らなかった。窓の外を見ていた。雨は上がっていて、夜の境内が濡れて光っていた。

「泊まっていくか」

「……泊まる」

「そうしろ」

 コウが布団に入った。今夜は早く眠れた。

 僕は眠れなかった。

 天井を見ていた。隣でコウが眠っていた。その呼吸が、落ち着いて続いていた。

 声がなくなったコウの眠りは——静かだった。前より静かだった。前は眠っている間も、何かが体の中で動いている感じがあった。今は、ただ眠っていた。

 それが、よかった。

 よかったと思うことと、明日行くということが、同じ夜の中にあった。

 境内の石椅子が、窓から見えた。

 最初の夜に、あそこにコウがいた。コートも着ていなかった。声をかけると、ゆっくり顔を上げた。

 あれから、この冬が過ぎていた。

 また会えるのか、という問いが、胸の中にあった。

 まだ答えはなかった。

 でも、答えを持っていないまま「また来ていいか」という問いに「いいよ」と答えてきた。それがこの冬の、こちら側の選び方だった。

 明日もそれでいい、と思った。

 春の夜の空気が、窓の隙間から入ってきた。

 しばらくして、僕も眠った。

 ―

 布団の中で、目が覚めた。

 正確には、覚めかけた。

 何かに呼ばれたような気がしたが、すぐにはわからなかった。体が重かった。目を開ける手前で、止まっていた。

 近くで、コウの気配がした。

 すぐ近く。布団の横に、コウが座っている気配。

「……清澄」

 低い声だった。

「……ん」

「眠ってるよな」

「……うん」

「起きるな」

「……うん」

 僕の目はまだ開いていなかった。意識が、夢と目覚めの間に浮かんでいた。コウの声は聞こえていた。でも体が動かなかった。動かそうという意志が、まだ降りてこなかった。

「清澄」

「……」

「また来ていいか」

 問いだった。

 最初の夜から、何度も繰り返してきた問い。冬の間、何十回となく、コウが訊いた。僕は何十回となく答えてきた。

「……いいよ」

「……」

「……もちろん」

 声が、自分の体の奥から出てきた。考えていなかった。考えなくても出てきた。

 それから、軽い重さが、唇に触れた。

 ほんの一瞬だった。一瞬よりも短かったかもしれなかった。気のせいかもしれなかった。

 それから、気配が、遠ざかった。

 布団の横にあったものが、なくなった。

 襖が、開いて、閉まる音。

 足音。

 廊下を歩いていく音。

 僕の意識は、まだ夢の側にあった。

 夢の中で、誰かが何かを言った。

 夢の中で、誰かが何かを言わずに、行った。

 それから、深く、もう一度、眠りに落ちた。

 ―

 朝、目が覚めた。

 部屋が明るかった。

 いつもより、明るかった。

 体を起こした。布団の中で、肩が少しだけ寒かった。窓の外を見た。春の朝の光が、薄いカーテン越しに、白く差していた。

 横を見た。

 コウがいなかった。

 布団は、きちんと畳まれていた。

 枕の上に、何も置かれていなかった。

 部屋の空気が、誰かが直前まで寝ていた部屋の空気ではなかった。もう少し前に出ていった、整理された後の空気。

「……あれは」

 声に出た。

「夢——?」

 唇に、何かが触れた感触が、まだ残っていた気がした。気のせいかもしれなかった。

 布団から出た。

 廊下に出た。

 社務所の縁台に、父がいた。茶を飲んでいた。普段の朝と同じ姿勢で、ただそこにいた。

「父さん」

「ああ」

「コウ、は」

 父が湯飲みを置いた。

「夜明け前に行ったよ」

 僕の体が、一瞬、止まった。

 唇に、指を当てた。

 何かが触れた感触が、まだ、薄く、そこに残っていた。

 夢ではなかった。

 止まって、それから、動いた。

「……清澄?」

 父の声が後ろから聞こえたが、振り返らなかった。

 裸足のまま、玄関に向かった。

 下駄をひっかけた。途中で、片方が脱げかけて、それを直す時間もなかった。そのまま走った。

 境内を駆けた。砂利が足の裏に当たった。痛かったかもしれない。覚えていない。

 参道を走った。本殿を背に。石灯籠の脇を。冬尽山の方角、というのを、頭ではなく体が知っていた。

 鳥居が見えた。

 朱色が、春の朝の光の中に、低く立っていた。

 走った。

 鳥居の前に来た。

 足が、止まった。

 鳥居の向こうに、石段が見えた。下りの石段が、街の方へ続いていた。

 人影はなかった。

 朝の光の中に、石段だけがあった。誰の姿もなかった。

 僕は鳥居の前に立っていた。

 息が切れていた。胸が、上下していた。寒かったのか、走ったからか、わからなかった。

 口を、開いた。

 何かを言おうとした。

 でも、誰もいない場所に向かって言う言葉が、出てこなかった。

「……いいよ」

 声が出た。

 夜中、寝ぼけて言ったのと同じ言葉が、もう一度、出た。

「……もちろん」

 それから、視界がぼやけた。

 ぼやけたまま、しばらく、立っていた。

 鳥居の朱色が、滲んで見えた。

 朝の光が、石段の方を、白くしていた。


 ―

 それから、三ヶ月が過ぎた。

 梅雨が来て、夏になった。コウのいない夜が続いた。コウのいない部屋は広く、慣れるまで、少し時間がかかった。

 封印の間は、静けさを取り戻していた。父が本殿の奥を確認する回数が、元に戻った。いつもの日和神社の、いつもの夏だった。

 それでも、夜になると石椅子を見てしまう。
 彼が——コウが、また座っていたりしないか、と。

 ―

 手紙が来たのは、八月の終わりだった。

 差出人の名前がなかった。消印が読めなかった。封筒を開けると、便箋が一枚入っていた。

 コウの字だと、すぐにわかった。

 清澄、元気か。俺は元気。

 冬尽山は静かな場所だ。配慮されているのかわからないが、あまり人は見ない。それぞれのやり方で何かを研究したり修行したりしているらしい。

 最初の一ヶ月は、静かすぎて落ち着かなかった。

 山の外にはまだ出られてない。これから先も、出られるかわからない。ずっとそういう場所で育ったせいか、こないだまでより今の生活の方が落ち着く。笑えるよな。

 山から見える景色が、日和神社の裏山に少し似てて、見るたび懐かしい気持ちになる。

 清澄が日和神社で暮らしていることを、ときどき考える。それで、十分だ。

 ここでは秋が早い。

 コウ



 便箋を折って、封筒に戻した。もう一度、中を確認した。

 小さな押し花が貼り付けられたしおりが入っていた。薄紫の、シオン。
 コウが好きだって言っていた花。

 ──花言葉は、「きみを忘れない」

 ―

 (第三章・了)