氷姫の旦那様


「嫌われた……絶対に、嫌われた」
 頭を抱えて俯くギーの肩を、副官であるケイリュウがぽんと叩いた。
「そう、くよくよするなって。嫁さんにすごんだからって、相手が死ぬわけじゃない。むしろ、私のために怒ってくれたのねって感動しているかもしれないだろう」
 二人は県令室の前にある待機室で、県令が客との打ち合わせを終えるのを待っている。

 今日は一週間の警備の報告と、今週末に開かれる新入職員の辞令交付式にかかる警備の打合せで、筆頭隊長自ら県庁舎を訪れていた。
 貴賓を迎える際の準備室にもなる県庁本館のこの部屋には、高級な椅子やテーブル、暖炉が備え付けられていて、まるで高級ホテルの一室のようだ。
 たまに客の出入りがあるけれど、今日はその予定はない。
 窓から差し込む光さえ、分厚いカーテンで遮られている。石造りの壁は厚く、頑丈だ。
 だからこそ、好き放題にお喋りができる。

「死ぬわけではないが、おびえていた。感動? 絶対にありえない。その後の朝食で、彼女はほとんど何も喋らなかった。完全に嫌われてしまった……」
 赤い布張りの椅子に座るギーを、その隣に立ったケイリュウは生暖かい目で見下ろした。
「まあ、獣人の男なんて人間の女からすりゃ未知の存在だろうし、ただでさえ俺達は犯罪者と拳で語る暴力的な一面があるからな。おびえられても仕方ない」
 非情なケイリュウの言葉に、ギーは臓腑の底からため息をついた。

 護警官として、いくらでも危険な犯罪者と対峙してきた。
 護警官筆頭隊長となった今、犯罪者どころか妖怪のような老練な上役達とも対等に渡り合えているつもりだ。
 だが、すみれには今までの経験がまったく役に立たない。
 彼女が何を考え、何を好み、何を嫌うのかを知りたいと思うのに、長年の憧れが目の前にいるというだけで心は満足してしまう。

「もう駄目だ……すみれさんは、とても細くて、軽くて、今この瞬間にも、たんぽぽの綿毛のようにどこかへ遠くへ飛んで行ってしまわないかと心配で」
 辛抱強く上司の相手をするケイリュウの鼻筋に、皺が寄った。
「夢を見るのも大概にしろ。人間は飛ばない」
「比喩だ。察しろ」
 間髪入れずに返ってきた軽口に少しほっとしながら、ケイリュウはふと首を傾げる。

「ん? 細くて軽いって、触ったのか? いや、夫婦なら別に問題は」
 途端、がばりとギーが顔を上げた。
「違う! 倒れそうだったのを支えて差し上げたのだ。あんなに細い体でよく今まで生きて来られたと感動した」

 倒れそうだと思ったときには、足が床を蹴っていた。
 触れたその体は、腕一本で持ち上げられそうなくらいに軽かった。
 ふわりと鼻孔をくすぐったのは、甘やかな花の香り。
 後ろで緩くまとめられた髪からひと房、垂れた黒髪が艶やかで、伏せられた睫毛さえ芸術品のように美しかった。
 同時に、威嚇の声を上げただけで倒れてしまう彼女のか弱さに、戦慄した。
 真綿で包むように大切にしなければならないのだと、二度と彼女の前で声を荒げないと決めた。

「筋肉の塊たる我らからすれば、人間など風が吹けば倒れそうに見えるものなあ。女ならなおさらだ」
 ケイリュウが腕を組んで頷いた。
 ギーも完全同意する。
「それなのにあんなに美しくて、気が利いていて……俺に、『朝食をお作りしましょうか』と言ってくれたんだ。優しい。優しすぎる。彼女はこの世の果てにあると言う宝珠ではないだろうか。俺は彼女の優しさにどう報えばいいのか」
 ギーの尻尾がばたばたと忙しなく上下に振れる。
「尻尾がうるさい。だが、お前のところの召使いは、彼女に使用人の真似事をさせていたんだろう」
「情けないことだ。次は容赦しない」
 ケイリュウの言葉に、ギーの瞳に剣呑な色が宿る。

 護警官の筆頭隊長として県令を守る地位についてからは表向き、紳士的なふるまいを心がけている。
 しかし、獣人の本来の気性は荒く、人間と違って争いを厭わない。
 人間よりもはるかに上下関係に厳しく、弱い物は強い者に従うのが獣人社会の暗黙の了解だ。
 その命令を違えたエンヤとショウレイには正直、失望した。
 解雇も視野に入れていたが、あの後、土下座する勢いで謝られたので、「次はない」と念押しをしておいた。
 すみれの平穏な生活を脅かすものは、徹底的に排除するべきだ。
 
 ふと、ギーの耳が部屋の外の足音を拾った。
 その数秒後にドアがノックされ、県令の秘書官の一人が顔をのぞかせる。
「あと五分で会談が終了します」
「了解した」
 ギーが立ち上がり、ケイリュウがその後ろにつく。

「話は変わるが」
「なんだ」
 重厚なドアへと向かいながら、ギーがちらりと後ろを振り返った。
「三森と竹下はどうなっている」
 ギーが纏う雰囲気は、先ほどまでの隙だらけの様子とはまるで違う。
 一瞬で護警官筆頭隊長へと切り替えた相手に、ケイリュウは顔を引き締めた。
「漉防隊のナンバーツーとスリーは未だ監視の目を潜り抜けて逃亡中だ。だが、護警官の総力を挙げて行方を追っている」
「目星は」
「いまだついていない。申し訳ない」
 視線を下げるケイリュウに、ギーは浅く頷いた。
「危険思想に暴力性が加わった政治犯は、並みの犯罪者よりも危険だ。リーダーの岩永が捕まって、奴ら何をするかわからん。先日の、小茂田邸での爆発事件のようなことは絶対に起こさせてはならない。早急に居場所を特定しろ」
 低く唸るような声は、ギーにしか出せない、相手を威圧する声だ。
 ケイリュウは胸に手を当て頭を下げる恭順の姿勢を取り、護警官筆頭隊長の後に続いた。