氷姫の旦那様


 翌朝も、すみれは台所に立った。
 昨日は慣れない洗濯物に奮闘した後、屋敷の探索をした。
 部屋の数は十以上あり、埃一つなく綺麗に掃除されているとはいえ、使っていない部屋が大半のようだった。
 嬉しかったのは、図書室があったことだ。
 子供が読む童話から獣人の歴史書、建築学の本から政治論まで様々な本があった。
 本は決して安いものではない。教師でいた頃は、学校の図書館にたまに通っていた。知識を蓄えるのが単純に楽しかったから。

「もう一度、読みたい本もあったのだけど」
 ぽつりと呟きながら、沸騰しかけた味噌汁の火を止める。
 今日食糧庫で見つけたのは、芋だけだった。他に食べられる物はないのかとおそるおそるエンヤに聞くと、「あるだけです」とそっけない返事。
 なければ仕方がないから味噌汁に芋を入れて食べるけれど、そろそろ肉か魚を食べたい。
 ちなみに、夜ご飯はお茶碗一杯のごはんに梅干が添えてあるものが出てきた。
 旅先のような食事だが、あんなにお米が美味しいと思ったのは初めてかもしれない。

「今日は、お肉かお魚を買ってきましょうか。御用聞きに会えたら、お米を頼むのだけど……でも、そういえば旦那様から外に出るなと言われていたわね」
 持参金なら多少はある。自分の給料も手つかずに銀行に預けてある。
 芋しか入っていない味噌汁を、味噌汁椀に注ぐ。
 結婚式の最中、新朗が宴会を抜け出した直後に、「この屋敷から出ないように、とのことです」と彼の部下である獣人が言付けに来た。
 理由はわからないが、新婚の妻として、その言葉は護っておいた方が無難だろう。
 夫となる人は、もう二日も姿を見せないけれど。

 そのとき。
 玄関の引き戸を引く乾いた音がした。
 と、同時に、素晴らしく足早に、大きな足音がこちらに近づいてくる。
 その後ろからばたばたと聞こえる足音は、エンヤとシュウレイだろうか。

 すみれが振り返ったとき、台所の入口に、紺色の制服を着た狼が立っていた。
 鬣は雄々しく、口吻はまっすぐに伸び、耳はぴんと張って、薄暗がりでも琥珀色に光る瞳がまっすぐにすみれを捕えている。
 体の厚みはすみれが今まで見てきた男達の倍はあり、その腕で殴られればきっと、命の保証はない。

 この屋敷の主、山瀬義一郎だ。
 迫力ある大きな獣人の姿に、わずかに心が怯む。

 けれど、すみれはそれを表に出すようなことはしなかった。
「おかえりなさいませ、旦那様」
 丁寧に頭を下げる。
 雄の狼に恐れを抱く心をねじ伏せ、従順な妻を演じる。

「……ああ。ただいま」
 低く、鋼のような力強さを持つ声だ。
 同時に、ギーが戸口から微動だにせず、尋ねる。
「それは、なんだ」
 尋問のような問いかけに、すみれは鍋の中をその身で隠すように体をひねった。
「……朝食です」
 入口と土間の距離は十歩以上。中身が見えるわけでもないのに、何をそんなに険しい顔をしているのだろうか。
「味噌と芋の匂いしかしない、それが?」
 言い当てられて、すみれは目を見開いた。

 ギーが鼻をすんと鳴らす。
 そうか。獣人は鼻が良い。彼の鼻は、味噌汁の中身までわかるのか。

「あの、旦那様、違うのです、あの」
 ギーの後ろで、その大柄な体に隠れるようにして二人の召使いがおろおろと声を上げるのが聞こえた。
「エンヤ、シュウレイ、どうなっている」
 ギーが視線だけを後ろへ向ける。
 ちらりと見えたエンヤの耳は、叱られるのを待つ子供のようにくたりと寝ていた。

「旦那様は明日、お戻りになるはずでは……」
「家の様子が気になって帰ってきた。まずかったか」
「そんな、そんなわけでは」
 しどろもどろに応えるエンヤに、ギーが喉の奥から唸り声を発した。
「すみれさんに朝食も作らず、お前達は何をしていた。彼女はこの屋敷の女主人だ。お前達の役目は、彼女がつつがなく日々の暮らしを送れるように整えることのはずだ」
 声は決して大きくはない。
 しかし、その声音は間違いなく叱責で、ギーの体から発せられているのは怒気だ。
 現に二人の召使いは、肩を落として俯いている。

 すみれはとっさに口を開いていた。
「旦那様は、朝食は召し上がりましたか」
 確かに彼女達は最初からすみれに対してあたりが強かった。
 しかし、すみれも彼女達の言われるままに動き、彼女達に積極的に近づかなかった。
 獣人が怖かったからだ。
 エンヤ達から襲われたり、傷つけられたりすることはなさそうだと思っていても、身近になかった存在に怯んでしまっていた。
 今の境遇をどうにかしたいと思えば、彼女達が歩み寄らない以上、もっと話かけて意思の疎通を図るべきだったのだ。

 土間に下駄をつっかけて立ったまま、すみれは懸命にギーを見つめる。
 ギーがじろりとすみれに視線を向ける。
「朝食は取っていない、が」
「お作りしましょうか。材料さえあれば、わたくしにも何か作れると思うのですが」
 それに、ここでエンヤとシュウレイを叱責しても、現状、朝食はないのだ。
 なければ、自分にできることをするしかない。
 しかし。

 ギーはすみれに向き直ると、喉の奥から恐ろしい唸り声を発した。そして、
「あなたは使用人ではない。俺は食事を作らせるために、あなたと結婚したわけではない」
 重低音の厳しい声。
 びりびりと伝わってくるその場を威圧する空気に、すみれはびくりと身をすくませた。

 恐怖が体を震わせ、思うように息を吸いこめない。
 それが何故かを考える間もなく、すみれは胸に手を置いて深呼吸しようとする。
 けれど、上手くいかない。
 すみれの体がふらりと傾いだ。
 ああ、いけない、と地面を踏みしめ……柔らかな感触に包まれた。
「……すまない」
 見上げると、いつの間に傍に来たのか、ギーがすみれを抱きかかえていた。

 階級章が肩についている制服の、ざらざらした生地が頬にあたる。
 顔を上げれば、狼の毛の一本一本を数えられる距離にギーの顔があった。
 大きく口を開いたら、すみれの頭など一口で食べられてしまいそう。
 琥珀色の目は獲物を狙うが如く、すみれだけを見つめている。
 その視線の強さに、すみれはふるりと身を震わせた。
 獣人とこんなにも近く、顔を付きあわせたことなどない。
 被食者としての本能が、勝手に体をすくませる。

「怖がらせて、すまない」
 もう一度、ギーは謝罪するとそっとすみれから体を離した。
 三角の耳が、蝶の羽ばたきのように素早く震える。
「……いえ、わたくしも、余計なことを」
「いや、気持ちはありがたかった。お前達」
「す、すぐに用意いたします……!」
 エンヤとシュウレイは土間に裸足で降り立ち、ばたばたと朝食の準備を始めた。
 なんと、野菜も米も、継ぎ目が分からないようにできている床下の隠し倉庫から出てきた。見つからないわけだ。

 すみれは邪魔にならないように下駄を脱ぎ、部屋の隅に移動した。
「すみれさん」
 低い声で名を呼ばれ、振り返る。
 戸口に立ったギーが、上目づかいにもごもごと言った。
「我々は、食堂で待ちましょう」
 すみれは頷いた。
 そして大きな獣が待つ方へ、そろりと足を踏み出した。

 翌日からギーは必ず、すみれと共に朝食を取るようになった。