氷姫の旦那様


「人間って、やっぱり地味ねえ。あなた、ひょろりと背ばかり高くて華やかさに欠けるわ。着物はもっと明るい色を着なさいよ。ああ、辛気臭い」
 客間の年代物のソファにどさりと座った狼が、山水画の描かれた扇子をびしりとすみれに突き付けた。

 着ている物は大ぶりのポピーの花が描かれた赤いドレスだ。
 獣人は基本的に着物ではなく洋装を好む。体が大きいので帯で体を閉められるのが苦痛だという。もっとも、尻尾を布の隙間から出すのは洋装の方が楽、という隠れた理由があるのだということは公然の秘密だ。

 対面のソファに腰を下ろしたすみれは、ただじっと彼女を見つめていた。
 いきなり屋敷に現れて、すみれを名指しで呼び出した目の前の相手は誰かと考える。
 獣人に対する恐れより、屋敷の女主人よりもそれらしい傍若無人な態度に驚いていた。
 壁際には、彼女をこの部屋まで案内してきたシュウレイが控えている。

 金の瞳を持つ狼は、すみれの視線に気づくと、牙を見せつけるようににやりと笑った。
「私はギーの母親の妹のミレイよ。ギーにとっては叔母ね。この屋敷の所有者で、管理人でもあるの。ギーから聞いていないかしら」
「管理人……申し訳ありません。不勉強で」
 ギーから聞くも何も、結婚式は双方の名前の紹介しかしなかった。この屋敷が借り物だということはシュウレイから聞いていたけれど、それだけだ。

 頭を下げたすみれに、屋敷の家主は声高らかに笑った。
「あら、そう。その程度なのね。ギーはお勤めが忙しいでしょ。家を留守にすることが多いから、家が傷まないように定期的に私が様子を見に来てあげているの」
「使用人の方がお二人、いるようですが」
「たかが使用人が何? この屋敷は、山瀬の住人が使ってこその屋敷なんだから」
 物の通りを知らない子供を諭すように、ミレイがすみれに哀れみの目を向ける。
 その狼の鋭い視線に、すみれはびくりと体を固くした。
 ミレイの瞳がおや、と見開かれ、次いでにやりと細められる。

 そこに、ノックの音がした。
 ミレイが「どうぞ」と上機嫌に応え、お盆を手にしたエンヤが部屋に入ってきた。
「本日は、大陸産の茶葉を使いました華珱茶です。ミレイ様のお口にあいますように」
 写実的なバラが描かれたティーカップとソーサーを、エンヤは音を立てずに黒漆のテーブルに載せる。ソーサーの端には、小さなクッキーがお茶うけに二つ、ついている。それは一応、すみれの前にも用意された。
 透明感のある鉛丹色のお茶は、ゆらゆらと揺れて飲み手を誘っていた。

 ミレイが長い爪の生えた指を、ティーカップの取っ手に引っ掛ける。そして、一口それを口に含んで。
「熱い。作り直して」
 湯気の立つお茶を、エンヤにばしゃりとかけた。
 すみれはとっさに立ち上がった。
 エンヤのエプロンに赤茶色の染みがぱっと広がる。ぽたり、ぽたりと毛皮から雫が滴り落ちる。
 深々と頭を下げたエンヤは短く「申し訳ございませんでした」と言うと、テーブルの上のカップを回収して静々と部屋を出て行った。
 隅に控えていたシュウレイが、エプロンに引っ掛けていた手拭いでさっと床を拭く。
 三人に動揺はなく、これが日常的に行われていることだと知る。

「相変わらず、使用人の教育がなってないわね」
 ミレイは長い舌でぺろりと鼻の頭を舐めた。声は呆れを多分に含んでいる。
 そして、中途半端に腰を浮かしたすみれを見て、眉間に皺を寄せた。
「お座りなさい。いちいち動揺されると鬱陶しいわ。山瀬の名を持つ者は、常に泰然自若としていなければ」
 すみれは無言で再びソファに座った。
 
 視界の端で、シュウレイが立ち上がり元の場所に戻るのが見える。
 ミレイは扇子を開いた。そして、シュウレイにちらりと視線を走らせる。
 すべて心得ているように、さっとミレイの横に立ったシュウレイは扇子を受け取り、ミレイに風を送り始めた。その手には、痛々しいあかぎれが見える。

「山瀬家は獣人の中でも名家中の名家なのよ。ギーにはふさわしい獣人の娘の釣り書きをたくさん送ってきたのに、まさか人間なんかと……反抗期が長すぎて、ちょっと面倒なのよ、あの子」
 ミレイはやれやれとため息をついた。
 その瞳にはやんちゃな子供を慈しむ色があり、すみれに向けられる視線との違いに驚かされる。

 ミレイは送られてくる風に、気持ちよさそうに目を細めた。
「ギーは可哀想な子なのよ。本家の跡取りとして生まれたのに、父親も母親も事故で早くに死んで。当主のおじい様直々に育てられたから、あんなに仕事ばかりで遊びも知らない朴念仁に育ったのよ。せっかく見た目は男の中でも最上級なのに、もったいないったらないわ」
 足を組み、ミレイがため息をついた。
 胸元の飾り毛には幾重にも金の鎖が巻きついていて、動きに合わせてぎらぎらと光る。
 ソファの肘掛に体を預け、しどけなく座る様子は、すみれよりもこの屋敷の主の姿として相応しい。

「まあ、ギーもどうせ仕事で有利なように、人間の貴族の娘と結婚したっていう肩書きが欲しかったんでしょう。人間との結婚は獣人社会ではそれなりのステータスを持つから。それにしても」
 ミレイが行儀悪く、鼻を鳴らした。
「あなた、何も喋らないのね。つまらない女」

 沈黙が室内を満たす。
 春の日差しが入る客間は、極寒の冬のように冷たい空気に満ちていた。
 すみれはひとつ、息を吐いた。
 獣人は怖い。絶対に力では敵わないから。その鋭い爪も、牙も、力の強さも、すみれにはないものだから。
 おまけに、この部屋に、すみれの味方はいない。
 けれど、腹の中に落ちた怒りは、怖さを簡単に凌駕した。

 すみれに冷たい使用人の二人だが、熱い紅茶を頭からかけられなければならないほどの罪を犯してはいない。
 紅茶が熱いなら時間を置いて覚ませばいいだけ。
 使用人に当たるのは、ミレイに使用者としての器がないだけだ。

 すみれはゆっくりと赤い唇を開く。
「あなたはよく喋る方ですね。そろそろ自己紹介をさせてもらっても?」
 その人形のように整った顔は無表情で、黒い瞳は吸い込まれそうに暗い。
 その眼差しは、どこまでも冷ややかだった。

 ミレイはぽかんと口を開けた。
 歓待されるべき自分にはむかう輩がいるなど信じられないと言わんばかりに。

「それから、本日の御用件を、そろそろお伺いしてもよろしいでしょうか」
 言外に、何しに来たんだ、と言うすみれに、ミレイの金の瞳が見開かれた。次の瞬間、
「なっ、なによ、私をバカにしたいの? あんた、氷姫とか呼ばれてたんでしょ。聞いたわよ、愛想のない氷みたいに冷たい女だって!」
 シュウレイの持つ扇子を叩き落とし、立ち上がる。

 人間よりも体の大きな獣人が目の前で身を乗り出すと、かなりの迫力だ。
 女性の獣人は男性の獣人より小柄とはいえ、すみれよりはずっと大きい。
 ぎょろりとした目は獲物を捕らえようとするかのように、ぎらぎらと光っている。

 しかし、すみれは微動だにしなかった。
「旦那様の大切なご親族を敬いこそすれ、バカになどいたしません。だたわたくしは」
 両手を揃えてソファに座り、ミレイをじっと仰ぎ見る。
「山瀬家の者として、常に泰然自若に振る舞いたいと思います。ミレイ様のように」
 先ほど、ミレイがすみれにぶつけた言葉をそのまま、口にする。

 ミレイの全身から怒気が伝わってくる。
 歯を食いしばった喉の奥から低いうなり声が聞こえてきて、握りしめた手には毛の上からでも血管が浮き出ているのが分かった。
 すみれは顎を上げ、金の瞳を真正面から受け止めた。
 喉に食いつかれる自分を想像して、胆が冷える。
 しかし恐れなど微塵も悟らせないように、すみれは奥歯をぎゅっと噛んだ。

 嫌われても構わない。無礼な相手に丁寧な礼を返す道理はない。
 すみれは常々、生徒達に「誇り高くあれ」と教えてきた。
 女は力が弱い。だからといって、意志まで弱くなる必要はない。
 最後に己を護れるのは己だけなのだ。
 誰にバカにされようとも、自分だけは自分のために誇り高く頭を上げて生きていくようにと、願いを込めて教えてきた。
 その教えを、すみれ自身も守らなければならない。

 わずかな沈黙が落ちた。
 それは砂時計の砂が落ちる音が聞こえるほどの、完璧な静寂だった。

「気分が悪い。帰るっ」
 わなわなと震えていたミレイは、憤然と部屋から出て行った。
 シュウレイが慌ててその後を追い、開いたドアの向こうで今にもドアをノックしようとしていたエンヤと危うくぶつかるところだった。
 存在感のある足音が遠くなり、やがて玄関を荒々しく開ける音と共に、屋敷は元の静けさを取り戻した。

 すみれはソファに座ったまま、細い息を吐いた。
 緊張で強張る肩から、なかなか力を抜くことができない。
 窓の外を見る。
 眩しいほどに明るい日差しの下で、白い蝶々がひらひらと飛んでいる。
 蝶はこちらの騒動など、一切気にせず自由に花と戯れていた。

 ミレイがその気になれば、すみれをひと噛みで殺すことも可能だった。
 それをしなかったのは、彼女の良識のおかげだと今頃、気づく。
「生かされた……」
 すみれはそう呟いて、テーブルの上にある自分のための華珱茶を一口、飲んだ。
 華やかな香りの、甘さを含んだ上品なお茶だった。