氷姫の旦那様


「朝食? 台所に材料がありますから、ご自分でご用意ください」
「私達はすませましたから」
 目が醒めて階下に降りていくと、黒いワンピースに白いエプロンをつけた使用人二人が姿を現した。二人とも獣人の女性だ。

 朝日の中で見る屋敷は、たいそう贅を凝らした趣向の建物だった。
 欄間や階段の手すり一つに至るまで、すべてに職人の細かな装飾がほどこされ、床に敷かれた絨毯は部屋ごとに毛足が長いもの、短いもの、異国のものと様々だ。家具も古美術と呼ぶのにふさわしく、豪華で上等なものばかりだった。
 二階の廊下の突き当たりにあった桜の花が描かれたステンドグラスは、太陽の光を受けて鮮やかに輝いていた。
 すべての部屋を回ったわけではないからまだきっと、隠れたお宝が眠っていそうだが……今は空腹をどうにかしたい。

 玄関近くの廊下で二人に立ち塞がれ、すみれは目を瞬かせた。
 昨日は結婚式でほとんど何も食べられなかった。食べる気になれなかった、という方が正しいかもしれないが。
「か、簡単な物で、良いのだけれど」
 予想外の冷たい反応に、すみれはもう一度、おそるおそる話しかける。
 体の大きな獣人に見下ろされると、本能的に体が竦む。
 噛みつかれるのではと勝手に心が委縮する。
 
 右耳に真珠のイヤリングを付けていて緑色の瞳をしているのがエンヤ、左腕に金の腕輪をはめていて栗色の瞳をしているのがシュウレイだ。
 姉妹ではないようだが、どちらも紅茶色の毛並をしていて、装飾品がなければ見分けがつかない。
 昨夜、この屋敷に来たときにギーの隣で頭を下げ、自己紹介をしてくれた。「わからないことや困ったことがあれば、何でもお申し付けください」とにこやかに言ってくれたのではなかったか。

 エンヤがつんと顔を逸らした。
「簡単な物が何か、わかりかねます。あいにく、私達は人間の方の食事のお世話をしたことがありませんので」
「女学校では、料理の仕方は習わないのでしょうか」
 シュウレイは気の毒そうに、顎に手を当ててすみれの顔を覗き込む。
 間近に獣人と接したことのないすみれは、びくりと肩を震わせた。
 ぎょろりとした目と鋭い牙の並んだ狼の大きな頭は、そこにあるだけで迫力だ。

 もちろん、女学校では良き妻、良き母になるために、一般的な教養科目以外に、料理も裁縫も華道も礼儀作法も教えている。
 すみれも師範の腕前を持つ。
 だが。
 使用人がいる家の女主人は、日常的なことは使用人に命じるのが常だ。すみれも実家では女主人の娘として、それを見て育ってきた。
 だから、使用人である彼女達がすみれの言葉に従順でないことに、少なからず衝撃を受ける。

 沈黙が、その場に落ちる。
 それをどう取ったのか、エンヤとシュウレイは大きな目を眇め、三角の耳をぱたぱたとさせた。そして、エプロンの端をわざとらしく叩いて、半眼ですみれを見た。
「私達、家事で忙しいんです。そこ、どいてもらえます?」
「洗濯に使う水は、母屋を出て左です。ご自分の物くらいご自分で洗ってください。石鹸は使いすぎないようにしてくださいね」
 二人はそう言うと、すみれの横をすり抜けて去って行った。

 温もりを失った心が、さらに冷たく凍りつくような気がする。
 彼女達に追いすがるべきか。
 でも、振り向きざまに牙をむかれたら。
 そんなわけないと思っていても、想像してしまって足を踏み出すことはできなかった。
「……仕方がないわね」
 すみれは、詰めていた息を吐いた。

 歓迎されていない。その事実を今はただ、確認しただけ。
 早々に、二人の気持ちがわかって良かったと思うしかない。
 もとより、結婚式から一人だ。
 一人で、この屋敷で、誰の邪魔もせずに生きていけばいいのだ。
 結婚式を中座する獣人の旦那様など、はなから当てにしていない。

「洗濯は後回し。とりあえず、まずはご飯にしましょう」
 学生達に様々なことを教えてきた。
 その師たる立場の者として、人生の逆境にいちいちへこたれている姿を見せるわけにはいかない……今、ここには一人の学生もいないけれど。

 通常、嫁いだ先では夫の母から、その家のしきたりなどを学ぶものだ。
 しかし、この家にはギーの両親となる人の姿はない。
 両親がどこで何をしているのか、なぜ結婚式に親族らしき者達がいなかったのか。
 不思議に思ったけれど、それを口に出せる状況ではなかった。
 横に座った旦那様はずっと口が重く、すみれの両親は親族のおもりで忙しかったから。

 台所は土間が一緒になった、冷え冷えとした板間だった。
 使用人は通常、ここで食事を採るのだろう。部屋の隅に箱膳と座布団が重ねられている。

 すみれは土間の右手にある食糧庫で、菜っ葉と味噌の甕を見つけた。
「できるのは、お味噌汁と……お米は……」
 部屋の隅々まで探すけれど、米びつの中にも棚の中にも、米は見当たらなかった。
 仕方なく、主食になる物を探しに再び食糧庫を探し、やせ細った芋を二つ手に取った。
「ないよりかは、マシね」
 すみれはそう呟いて、包丁を手に取った。

 料理は嫌いではない。手を動かしている間は、心が無になる。
 教師になる前の師範学校では「あなたは大雑把な性格ですね」とため息をつかれた味付けも、自分一人の分なら気楽だ。
 最先端のガスが引いてあるのもありがたかった。ガスでの調理は師範学校で一度行っただけだったけれど、なんとか火がついてくれた。炎の揺らめきを見ると、少しだけ心が落ち着く。
 来客用の食器が見当たらなかったので、棚の中にある洋風の食器を拝借した。
 勝手に使うなと、エンヤかシュウレイには文句を言われるかもしれないが、他にないのだから仕方がない。

 湯気の立つ味噌汁を前に、手を合わせ、寂しい食事に手を伸ばす。
 実家では、朝は洋食と決まっていた。目玉焼きか、スクランブルエッグか。ベーコンはその日の気分で一枚だったり、二枚だったり。野菜は少しでも痛みのある物は皿から下げられ、デザートには果物が必ずあった。もちろん、パンは焼き立てだ。
松葉家には専任の料理人がいて、彼はよく、雇い主とその家族の好みを把握していた。

「今頃、生徒達はどうしているのかしら……」
 呟き、それが意味のないことだと気づいて、すみれは緩く首を振った。
 瞼の裏に浮かぶ、稚い笑顔の女学生達を思い出して唇を噛む。

 食器を片づけて、まずは屋敷の中を探検することにした。
 自分の現在地が分からなくては、行動のしようがないと思ったのだ。
 しかし、すみれが台所から出ようとした、そのとき。
 遠くから「こんにちは」と間延びした声が聞こえた。
 来客だろうか。
 女主人として、客なら迎え入れなければならない。
 すみれは、ぐっと顎を上げた。
 どんな客かはわからないが、夫の不利益にならないよう、せめて堂々としなければ。