「疲れた……」
お風呂から上がって、ようやくベッドに倒れ込んだときには深夜を回っていた。
獣人の召使いが案内してくれた山瀬邸のすみれの部屋は、南側の二階だった。
日本家屋ではあるけれど部屋の中は西洋風で、畳の上にふかふかの絨毯が敷かれている。
部屋の右手にはアンティークと思われるドレッサーとチェストがあり、チェストの中を見てみれば、用意周到に実家で使っていたすみれの着物がしまわれていた。ヘッドに細かな意匠が彫られた天蓋付きのベッドは、少女雑誌で見たお姫様の寝床のようだ。
薄いガラスの張られた窓の外は、とうに漆黒に塗りつぶされている。
夫となる相手は、宴会の途中で出て行った。
詳しくは教えられなかったが、仕事で緊急事態が起きたらしい。
今晩は帰れない、と集まった面々に頭を下げていた。
すみれは、ほっとした。
女学校に勤務するすみれにとって、親族以外の男性との関わり合いなどほとんどない。
おまけにそれが荒事に慣れた獣人とあっては、心の休まる間がなかった。
すみれはごろりと体を横たえる。
「旦那様が獣人だなんて……生徒達にどう伝えればいいのかしら」
呟いて、もうその必要はないのだと思い直す。
生徒達の顔を思い浮かべて、急に胸が苦しくなった。
春休みが終わればまた、会えると思っていた。
歳が近いということもあって、彼女達はすみれを姉のように慕ってくれていた。
国語の授業を熱心に受けてくれて、質問をしてくれて、すみれに居場所を与えてくれた。
同僚の先生方は、教師としても人間としても至らないすみれを導き、教師としての仕事の素晴らしさを教えてくれた。
夕日に染まった教室の中から、門庭にある銀杏の木を眺めるのが好きだった。
花壇で見つけた蛹が蝶になって羽ばたいていくのを初めて見つけたのも学校だった。
無邪気に笑う生徒達が、弾むような足取りで帰って行くのを見送るのが日課だった。
でももう、見ることは叶わない。
なにより。
獣人。
結婚の相手が、知よりも力を是とする獣人。
「……『獣人を差別してはいけません。彼らは私達の生活を守るために自分の国を捨て、この国に来ました。悪い人から人間を守って下さるのです。感謝をしましょう』」
教科書に載っていた文章が、すらすらと喉の奥から零れ落ちる。
結婚を知らされて、何度も、何度も暗唱した。
理性では、わかっているのだ。
獣人は悪ではない。
でも。
「彼らは人間ではない……」
純血の大和人ではない。
噂では、知能も人間より劣っているらしい。
よって国を動かす要職には就けず、あくまでも補佐役、警備役としてしかこの国で生きることを許されない。
女学校は主に十八歳以上の女性が通うものだが、卒業を待たずに結婚のため学校を辞める生徒は珍しくなかった。同僚の先生の中にも、結婚で離職する者もいた。
でも、娘を学校に通わせられるような親のもとで、獣人との結婚を公にしている人はほとんどいなかった。
いや、まったくいなかったと言っても過言ではない。
人間の女性ばかりが通う女学校では、獣人などまったく別世界のことだった。
すみれはぐっと眉間に力を込めた。
「わたくしにも、差別する心があったのね……」
獣人とは無縁に生きてきた。
獣人と喋ったことなど一度もない。
自分は獣人を前にしても差別するわけがないと、教壇に立ち、生徒達を目の前にして堂々としていられた。
けれど現実はどうだ。
胸の中に巣食う澱が、自分の体の中を暴れ回る。
結婚相手が獣人。
その事実に、この結婚を心の底から喜べない自分が嫌いだ。
相手は何も悪くない。
悪いのは、戸惑う心を持つ己と、結婚を決めた父にある。
そもそもこの婚姻は、誰が最初に言い出したのだろう。
「裏でお金が動いたのかしら。不愛想で氷姫と呼ばれるわたくしに、高額な値がつくとも思えないけれど……」
金を払ったとすれば、父だろうか、新郎だろうか。
父だとすれば、いつまでも嫁に行かない娘を厄介払いしたかったからか。
ギーだとすれば、獣人社会で有利になるように人間の嫁を迎えたかったからか。
ちっとも楽観的な想像が出来なくて、すみれは眉間に皺を寄せる。
親の反対を振り切って、教師になるために師範学校に通った。
そして、さっさと結婚しろという言葉を無視して女学校の教師になった。
世間ではこれを親不孝者というのだろう。
「わたくしは夢を叶えただけなのに」
すみれは唇を歪めた。
人生で誇る瞬間があるとすれば、生徒達が晴れやかな顔で卒業していく光景を見られたことと。
女学校の教師に任命された際の任命状を父の前に突き付けたときの、あの悔しそうに歪んだ顔を見られたことかもしれない。
父は、不愛想で鉄面皮のすみれが教師になどなれるわけがないと心底思っていたようだったから。
でも。
「……獣人の旦那様は、外れくじを引いたわね」
松葉家はその席を金で買った成金貴族。歴史が重視される上流階級として、その発言権は無きに等しい。
しんとした部屋の中で、訥々と喋り続けていた細い声が途切れた。
見知らぬ屋敷。
見知らぬ部屋。
見知らぬベッドに横たわり、すみれはため息をついた。
「強くなりなさい。強く……」
祖母からの教えを、何度も呟く。
頭を押し付けた枕から、ほのかにラベンダーの香りがした。
