氷姫の旦那様

「おいしい……!」
 白い牛皮に包まれた餡子が、口の中でほろほろと溶けていく。甘すぎない上品な味は、いくらでも食べられてしまいそうだ。
「それはよかった。都で修業してきた和菓子職人さんのお菓子なの。お重に和菓子の詰め合わせって今、流行っているのよ」
 重箱を挟んで座る永崎県令の妻、幹江がにこにこと微笑んだ。

 劇場でのお茶の約束は、五月の半ばになってようやく叶えられた。
 千草色の空には、薄く刷毛で撫でたような白い雲が広がっている。
 庭にはサツキの赤や桃色の花が、今を盛りと咲き乱れていた。太陽に向かって腕を広げるタチバナの新芽が、誇らしげに風に揺れている。

 山瀬邸の日本庭園を眺めながら、縁側に座ってお茶やお菓子を広げつつお喋りをする会。
 幹江がそう名付けたからには、決定事項だ。
 すみれはこの日が来るまでずっとそわそわと落ち着かなかった。

「お母様、この串のお団子はもう一本、ないの?」
 幹江の息子、秀隆が前のめりになって重箱の中を覗きこむ。
 今日は白いシャツにサスペンダーで灰色の半ズボンを釣っている。丸い頬は赤く、初めて来た屋敷に興奮気味だ。

「あら、口元がタレでべたべたよ。食べる前に、鏡を見てらっしゃい」
 さりげなく息子の手から串を抜き取り、幹江がため息をつく。
 少年は唇を尖らせた。
「えー、どうせまた汚れるから、いい。いっぺんに洗うよ」
「もう、この子は。口ばっかり達者になって」
 そう言う幹江は、我が子を愛おしそうに見つめている。
「秀隆、行儀よくしないとすみれさんに格好悪いと思われるぞ」
 幹江の隣に座った月本滋が笑いを含ませて言うと、途端に秀隆はぴしりと姿勢を正した。

 玄関に現れた月元家の三人を見て、すみれは呆然としてしまった。
 まさか、永崎県令まで来るとは思わなかったのだ。
 てっきり幹江と秀隆と楽しいお喋りをするだけだと思っていたのだが。
 隣に立ったギーがさりげなく「ようこそ。こちらへどうぞ」と促してくれてよかった。
 大切な客を玄関で待たせてしまうところだった。

 滋は四十代後半の、渋みのある紳士だった。顔立ちは彫りが深く整っていて、何世代か前に大陸の血が入っているのではと思わせる。豊かな髭を蓄えていて、少し腹が出ているが、和装であるならそれは貫録として映る。
 その彼が言う。
「それにしても、この屋敷に住み続けることが決まったって?」
 柔らかでもちもちとした大福を口に運びながら問う県令に、すみれの後ろに控えるギーが頭を下げた。
「はい。家の恥をさらすようですが」
「もらえるものは、もらっておけ。不要ならば処分すればいい」
 呵々と笑う滋に、ギーは「そうですね」と苦笑した。

 ギーとすみれは新たな屋敷に引っ越すはずだった。
 しかし、ミレイの代理人と話し合った結果、彼女の使い込んだ金が大金すぎて、無職の彼女が現金で返済を行うのは難しいという結論に達した。
 よって、今まで住んでいたこの屋敷を、無償でギーに譲り渡すことで決着をつけたのだ。

 幸い、ギーが別に管理している両親からの莫大な遺産と特別手当が振り込まれる通帳は無事で、今後も金銭的に困ることはない。
 新しい屋敷を用意してくれた新山出納官には、ギーと共に頭を下げに行った。柔和な笑顔の老紳士は、ただギーとすみれの幸せだけを喜んでくれて、その他には何も言わなかった。今度また、お菓子を携えて季節の挨拶に行こうと思う。

 幹江はのんびりとお茶をすすり、滋と秀隆が身を乗り出して重箱を覗きこんでいる。
 重箱の周りには、すみれが用意したクッキーや焼き菓子が並んでいる。
 大陸のお菓子は意外と煎茶にも合うのだと、秀隆が目を丸くしていた。
 すみれはギーをちらりと見た。
 彼はあまり手を付けてないようだったから。

 目ざとくその視線を追った滋が、にやりと笑った。
「ギーはいいんだ。こいつは甘い物があまり得意ではないのだ」
「そうなのですか?」
 初めて聞く情報に、すみれは目を見開く。

 滋は唇を尖らせ、首を縦に振った。
「僕がせっかく差し入れたカステラを、苦々しい顔で飲み込んだのを今も覚えているぞ」
 ギーは大げさにため息をつく。
「護警官になった最初の頃のことを、よく覚えていますね」
「まだボケてはいない」
「法律を暗記するのが趣味の方が、何をおっしゃいますか」
 ギーが鼻をふんと鳴らす。
 
 意外にも、守る者と守られる者の関係にあるこの二人は仲が良いらしい。
 身分でいえば、月元家は侯爵の位にある。
 一般人は話かけることもできない相手だ。
 だがギーは平然として、滋と軽口をたたき合っている。

 県令や食堂の店主といい、護警官といい、本当にギーは顔が広い。
 家と学校の往復ばかりだった自分とは雲泥の差だ。
 ギーの人脈は、すみれの生きてきた狭い世界では絶対に得られない物だ。
 そこにギーの努力の陰を見ることができた気がして、すみれは素直に感心する。

 クッキーに手を伸ばしたすみれに、滋が笑いながら話しかけてきた。
「すみれさん、こいつは歴代の筆頭隊長の中でも堅物で頑固者だが、職務を全うする気概はある。少々言葉足らずで面倒なこともあるだろうが、見捨てないでやってくれ」
 頭を下げられ、すみれは慌てて頭を下げ返す。
「無礼講でしょう。堅苦しいのは無しじゃなかったんですか」
 ギーがすみれの体を起こしながら、不満げに言った。

 滋は明るく笑いながら、肩を竦めた。
「お前は僕の命の恩人だ。なんとしても幸せになってもらわないと困る」
「何も困りません。県令は、私的なことに口を出しすぎです」
「出し過ぎなものか。獣人なんてでかいぬいぐるみみたいなものだろう。いつでももふもふが堪能できる生活なんて、羨ましくて仕方ないよ」
「はあ? あんた、お茶で酔っ払ってるんですか」
 呆れたギーのため息に、幹江と秀隆の笑い声が重なった。
 すみれは笑えばいいのか、ギーとともに胡乱げな顔をすればいいのかわからず、目をぱちぱちと瞬かせる。

 そこに。
「奥様」
 広間の入口から、小さな声がかかった。
 振り返るとエンヤが顔をのぞかせている。
「お客様が、お見えです」
「お客様……?」
 ひそめられた声に首を傾げ、ともかくすみれは中座を詫びつつ、席を立った。

 玄関に立つ藤色の着物姿の女性を認めた瞬間、すみれは息を飲んだ。
 白が混じるようになった髪を綺麗に結い上げ、萎れた花のように俯き、所在無げに佇むのは。
「お母様……」
 足音に気が付いて相手が顔を上げるのと、すみれがそっと声をかけるのは同じだった。

 母の目が、すみれを見つけた途端、じわりと潤む。
「すみれさん、元気そうで、良かった。本当に、良かった……」
 腕を伸ばし、目の前に立ったすみれにしがみつくようにして、母は俯いた。
 その声は深い安堵に包まれていて、すみれはずっと母を心配させていたことを知る。

「お母様、ご無沙汰しています。ここに来たこと、お父様には?」
 痩せただろうか。以前はふっくらとしていた頬が、細くなっている気がする。
 驚きつつ問いかけると、母は目尻に浮かんだ涙をさっと払って、首を振った。
「内緒にしているわ。顔を見に来ただけなの。あなたが大変な思いをしてるんじゃないかしらって……」
 込み上げるものを咳払いで誤魔化そうとして。
 でも、その涙が滲む声は、誤魔化せなかった。

 母はすみれの手を取り、握りしめながら己の額に押し当てた。
 その皺の浮いた手は、記憶にあるよりもずっと小さく、ぶるぶると震えていた。

 母は懺悔するように、苦しい胸の内を明かした。
「ごめんなさい。あなたに幸せを用意してあげられなくて。一人娘なのに、まだ年若いあなたに申し訳なくて。わたくし、どうしてあのときお父様の言いなりになってしまったのだろうって、そればかり毎日考えていて」
「お母様」
 血を吐くような言葉を聞いていられなくて、すみれは母の手を握り返した。

 母が今日まで、どれほどの後悔を抱いていたのか。
 思い至らなかった自分が情けなく、同時に、これほど深く愛してくれていたのだと初めて知った。

 いつも父の後ろを一歩下がって歩く人だった。
 父の指示を仰ぎ、父の意向に沿って生きている姿を見て、幸せなのだろうかと疑問に思ったこともある。
 教師の道を選んだのは、無意識のうちに母とは違う女の人生を歩みたかったからかもしれない。

 でも。
 母のことが嫌いではないのだ。
 彼女は彼女にできる精一杯で、すみれを愛してくれていたと知っているから。
 あの結婚式の日の、花嫁衣裳。
 ずっと前から注文していたという黒引き振袖の豪華で繊細な意匠は、母が何度も工房に通って打ち合わせを重ねてできたものだと運んできた呉服商から聞いた。

 一生に一度の娘の晴れ姿だからこそ。
 あれほど素晴らしい着物なら、大勢の人に見てもらいたかっただろう。
 獣人との結婚ということでこぢんまりとした式になってしまって、すみれよりもきっと、母の方が悔しい思いをしたはずだ。
 
 すみれは母を抱きしめた。
 細く熱を失ったその体が、少しでも温かくなるように。
 懐かしい、母の白粉の匂いに胸がいっぱいになる。
「わたくしを義一郎様に嫁がせてくださって、ありがとうございました。わたくし、今、とても幸せよ」
 腕の中の母が身じろぐ。
「幸せ、なの……?」
「はい」
 か細い声に、確信を持って頷く。

 母がすみれから体を離す。
「獣人、なのに」
 すみれの瞳を覗きこみ、大切な娘が嘘をついていないかどうか見極めようと目を眇める。
「獣人でも人よ。義一郎様は、わたくしを大切にしてくださるの」
 微笑む娘に、母は息を飲んだ。
「お母様。ご挨拶にうかがうのが遅くなって、わたくしの方こそ申し訳ありません。近いうち、お父様にも顔を見せに行くわね」
「それは、俺も一緒に行ってもいいものだろうか」
「旦那様!」

 不意に後ろから低い声と共に現れたギーを振り返り、すみれは真剣な顔で頷いた。
 すみれの旦那様は、いつもの凛々しい顔でじっと親子を見つめている。
「一緒に行きましょう。お父様のてのひらの上で転がされていたと思うのは、少々癪ですけれど。一度くらいお父様の驚く顔を見てみたいわ」
 ギーが苦笑して、すみれの肩をぽんぽんと撫でた。
 父はこうなることが分かっていて、すみれをギーに預けたのだと思う。
 すみれの気性をわかっていて、そして未来の幸せを考えてくれたから。

 そして、改めて母に向き直ると、丁寧に頭を下げる。
「義母上、ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。この山瀬義一郎、すみれさんを必ず幸せにすると誓います」
 
 体の大きな獣人だ。
 威圧感は当然あるし、その牙も爪も隠せるようなものではない。
 今まで獣人を近くで見たこともない母は、過剰に怖れるのではないか。
 すみれは少しだけ、それが心配だった。

 しかし、母は目を潤ませ、すみれとギーを交互に見て、小さな声で呟いた。
「幸せなのね」
 かみしめるようなその声は、ただ純粋に、娘の幸せを喜んでいる。

 すみれはギーを見上げた。
 ギーはとろけるような琥珀色の瞳ですみれを見つめ返している。
 それがくすぐったくて、心がきゅっとする。

「今、ちょうど客とお茶をしていたところです。義母上もご一緒しませんか。お茶とお菓子の用意があります」
 ギーの提案に、すみれは大きく頷いた。
「お母様、ぜひいらして。こっち、こっちよ」
 戸惑う母の手を引いて、弾む足取りで先導する。
 そして、春の日差しに溶ける氷のような眩い笑顔で、心を込めて母に告げた。

「わたくし、とても幸せです」

【了】