氷姫の旦那様

 小鳥の声が、外から聞こえる。

 すみれは顔をこわばらせながらギーを見上げた。
「義一郎様、良かったのですか」
「いい。昔から、扱いづらい人だったんだ。あれで少しは大人しくなるだろう」
 肩をすくめたギーが、どさりとソファに身を投げだした。
 大きな体を受け止めたソファが揺れ、ぎしりと音を立てた。

 そのままずるずると滑り、床に座ったギーはソファを背もたれにして大きく伸びをした。
「すみれさん、昔話をしても?」
「どうぞ」
 短い問いに頷きを返すと、ギーは大きく息を吐いた。

「俺が十のときに、両親が旅行中の事故で死んだ。山瀬家の直系は俺しかいなくなって、祖父は俺に厳しく当たった。当主の自覚がどうとか言っていたが、祖父は体面ばかり気にして、愛情の欠片もない人だった。泣くことも許されない、頼りになる人もいない、暗黒の時代だった」
 低い声で穏やかに語られる過去。
 その淡々とした口調からは、感情を読み取ることはできない。

 だが、十歳の多感な時期に唐突に両親がいなくなって、庇護してくれる相手からつらく当たられるのはどれだけ悲しいことだっただろう。
 良好な関係とは言えないとはいえ、すみれの両親は健在だ。
 親に対する寂しい気持ちは、ギーが抱いたであろう少年の心とは比較にもならない。

 すみれは指を伸ばしてギーの頭を撫でた。
 子供の頃のギーの心が、少しでも癒えますようにと願いを込めて。

 ぴくりと動いた耳が、もっと撫でろというようにぺたりと寝る。
 ギーの狼の毛は、思ったよりも固く、ごわごわとしていた。
 でも、温かくてもふもふ感もあって。
 何より、いつもは高い位置にある頭を撫でることができるのは特別感がある。

「十三歳の夏祭りで、いじめられていた俺を君が助けてくれた。神社のお社の裏で」
 ギーが上目づかいですみれに笑いかける。
 すみれは目を瞬かせ、少し考える。
 ギーが十三のときだから、すみれも学生だったときのことだろう。
「そんなことも、あった、ような気もします」
 宙を見つめて、懸命に記憶を手繰り寄せる。
 けれど、特にこれと言った過去を思い出せない。
 それがひどく悔しかった。

「無理しなくていい。覚えていないということは、君にとっては当たり前すぎて記憶にとどめておくほどのことではなかったということだろう。それもまた、君の素敵なところだ」
 ふふ、と笑うギーの声が優しくて、すみれの緊張していた心が少しずつほぐれていく。
「『強くなりなさい』と言った君の言葉を、ずっと繰り返し心の支えにして生きてきた。その頃、俺を正面から助けてくれる人は誰もいなかったから、驚きすぎて、礼を言う機会を逸してしまった」
 ぱたりと耳が起き、すみれの手を撫でる。
 すみれはそっと、思っていたよりもずっと柔らかな耳に触れた。
「祖母が生きているとき、幼い私によく言って聞かせてくれた言葉なんです。強くなれば、誰にも自分を傷付けられないからって」

 ギーは体を起こし、正座をしたまますみれに向き直った。
 離れていく頭を名残惜しく感じていると、ギーは両手を太ももに置き、すみれに向かって深く頭を下げた。
「あの頃の俺を救ってくれて、ありがとう」
 予想外のその、言葉に。

 すみれは切れ長の目を大きく見開いた。
 胸の中から、温かな水がとめどなく溢れていく気がする。
 胸がいっぱいになる。
 何も、持っていないと思っていた自分が。
 誰かを救えていたという事実に、体が軽くなってこのまま天まで飛んで行けそうだ。

「君は案外、涙もろいな」
 困ったような笑顔で、ギーがそっとすみれの頬を拭った。
 触れられて、初めて気が付いた。
 自分が泣いていたことを。

「わたくしこそ、見つけてくださって、ありがとうございます」
 すみれはギーの手を両手で握った。
 きっと、見つけ出すのは大変だったことだろう。
 十三歳の記憶で、たった一度会っただけの少女を見つけ出すのは。

「あいにく俺は、嗅覚が優れている獣人なんだ。俺の救世主たる君の香りは、忘れようにも忘れられなかった」
 冗談めかして笑ったギーが、両手ですみれの手を包み込む。
 大きくて、強くて、人間など片腕で伸してしまえる獣人の手。
 でも、すみれには、繊細な宝物を扱うように丁寧に触れてくれる。

 ありがたくて、泣けてくる。
 自分には価値がないと思っていたのに、伴侶となった人はそうではないと教えてくれる。
 人間との結婚に利があるから、という理由ではなく、すみれ自身を選んでくれた。
 娘の幸せなど考えてくれていないと思っていた父を、誤解していた。
 父はギーの情熱に負けたのだ。
 ギーならすみれを幸せにしてくれると思った。
 それはきっと、間違いない。

 獣人と人間。種族は違っても、ギーはこんなにもすみれを想ってくれている。
 十三のときから、ずっと。
「泣かないでくれ。俺はどんな君でも好ましいと思っているが、君が笑っている顔が特に大好きなんだ」

 ギーに見つけてもらえたことが、嬉しくて。
 涙があふれて止まらない。
 でも、他でもないギーがそう言ってくれるのなら。
 すみれは涙を拭って、口角を上げた。

 それはまるで凛と立つ百合が花開き、匂い立つ大輪の花を咲かせるような美しい笑み。
 ギーの尻尾がばたばたと揺れる。
 尻尾が揺れるのは獣人が喜びを感じている証拠。
 ギーはばつが悪そうに尻尾を押さえようとしているけれど、それがまたおかしくて、すみれは「ふふっ」と笑ってしまう。ギーはそれを見て、一緒になって笑った。

 春の陽だまりにいるかのような、心が穏やかで、それでいて世の中すべてに感謝したくなる幸福感が体の中いっぱいに広がる。
 そばに信頼できる人がいる。
 そのことが、こんなにも心躍ることだなんて知らなかった。

「新しい屋敷の話をしよう。何か希望はあるか」
 ひとしきり笑った後、すみれの隣に座ったギーが優しく問いかける。
 ぎこちなくその手がすみれの肩を抱き、すみれも抗うことなくギーの肩に頭を預ける。

「ジンレイさん達、また来てくださるでしょうか」
「奴らが字を覚えるのは大歓迎だ。むしろ、護警所に来て字の読めない護警官達を指導してもらえないか」
「え」
 思わず頭を上げたすみれに、ギーは悪戯っぽく片目を閉じた。
「考えておいてくれ。他には。使用人はどうしようか。新たに人間を雇い直すか」
「エンヤさんとシュウレイさんに一緒に来て貰いたいです」
 間髪入れずに返したすみれを、ギーは驚いたように目を瞬かせる。
「いいのか?」

 ギーは、彼女達がすみれにした仕打ちを知っている。
 気遣わしげなギーの視線に、すみれは頷きを返した。
「最初こそ行き違いがありましたけど、今は仲良しなんですよ。義一郎様が寝坊して、靴ではなく下駄を履いて護警所に出勤された話などをしてくれます」
「そんなことを……」
「叱らないであげてください。わたくしは、いろんな義一郎様を知れてとても嬉しいのです」
 微笑んだすみれの頬は桃の花のように色づいている。

 ギーは苦笑し、肩をすくめた。
「俺は道化に徹しよう」
 おどけるギーの優しさに、すみれはそっとその肩に頭を乗せた。
 逞しく、強く、決してすみれを傷つけない優しい獣人。
「道化だなんて。わたくしの大切な旦那様なのに」
 途端、ギーの尻尾がばたばたと揺れた。
 すみれとギーは顔を見合わせ、やっぱり笑ってしまったのだった。