氷姫の旦那様

「ごめんなさい、ギー。やりすぎたわ。悪気はなかったの。ちょっと彼女を困らせてやりたかっただけ。反省してる。だって、あなたは大切な山瀬家の跡継ぎなんだから、皆が心配してるのよ」
 ミレイは上目づかいに呟きながら、扇子の端をいじっている。
 そこには、許されてきた者特有の傲慢さがあった。
 
 ギーは厳しい口調で断じた。
「その必要はありません。俺は、山瀬の直系ではあるが、山瀬の家を継ぐつもりはありません。因習だらけの差別意識の塊の家など、こちらから願い下げです」
 ギーの特別に低い声が発する、びりびりとした怒りが部屋に満ちる。
 空気が薄くなったような気がして、すみれは何度も深く息を吸った。

 対して、ミレイはかっと目を見開いた。
「それはお前が人間などを選ぶからでしょう!」
「人間など? 好きな人と共に生きて何が悪い!」
 怒鳴り声が重なり、ミレイが立ち上がる。
「ああ、ギー、お願いだから、夢を見るのはやめて。獣人がいかに卑劣な人間に搾取されてきたか、知ってるでしょう!」
 大きく両手を広げ、扇子を突きつけながらミレイが哀れな声を上げた。
 それはまるで、先日見た歌劇のようだ。

 ギーはぴくりとも姿勢を変えずに、ミレイを見上げた。
「知っているが、それがどうした」
「どうしたって……」
 ミレイは引きつった顔でギーを見た。

 ギーは表情を崩さず、目の前に指を立てる。
「一つ。俺は、すみれさんを選んでいる。二つ、叔母上に預けた金が勝手に使われた。三つ、叔母上は護身術も知らないいたいけな人間の女性を誘拐して痛めつけようとしていた。この三つの事実は揺らがず、俺は到底許すことはできない」
「許す、ですって? 私が何年、あなたの身の回りの世話をしてきたと思ってるの! その恩に報いて、ちょっとくらい良い思いをさせてくれたっていいじゃない!」
 ミレイの手にしていた扇子が、みしりと音を立てた。
 激情に毛が逆立ち、尻尾がぴんと立つ。

 ギーは冷静だった。
「言ってくれればその都度、金を出したでしょう。でも、勝手に使うのは道理が通らない。善意の押し売りは迷惑だ。すべて、耳を揃えて返してもらう」
 ギーの低い声は、鼓膜に直接響くほどの力があった。
 鼻筋には皺が寄り、不快であることを表している。
 
 ミレイの体が瘧のように震えた。
 そして次の瞬間、ミレイはすみれに掴みかかった。

「この恥知らず! ギーに取り入って、うちをめちゃくちゃにして!」
 怒鳴り声と共に、悪鬼と呼ぶにふさわしい形相の狼が、すみれの喉笛を喰いやぶろうと牙を鳴らす。
 テーブルを挟んでいるというのに軽々と飛び越えてくる獣人の姿に、すみれは微動だにできなかった。

 テーブルの上のティーカップが床に落ちて割れる。
 目前に、鋭い爪が迫る。
 赤い口が大きく開く。
 目を閉じることさえ、できない。
 
 しかし。
 その爪がすみれに届くことはなかった。

 素早く立ち上がったギーがすみれとミレイの間に体をねじ込み、ミレイを制したからだ。
「めちゃくちゃにしたのは、すみれさんではない。俺の信頼を裏切った、叔母上です」
 ギーに腕を取られ、ミレイがテーブルの上に座り込んで怒りそのままに、ぐるると唸った。

 すみれには、ギーの広く背中しか見えない。
 頼もしいその背中にそっと手を伸ばし、隣に立つ。
 目に映るのは、今にも喉笛を噛みきられそうな激情を抱えた獣人。
 すみれは震えそうになる声を絞り出した。
「わたくしは、義一郎様と共にありたいと、思っています」
 細いけれど凛としたその声は、暴れようとするミレイを拘束するギーの耳にも、荒い息を吐くミレイの耳にも確かに届いた。
 すみれを害しようとするミレイの両腕を掴みながら、ギーが牙をむき出しにして吠えた。

「納得できないと言うのなら、山瀬の直系長子として、山瀬家の解散を役所に届け出る」
 途端、怒りに燃えていたミレイが、動揺したように動きを止めた。
「そんな、そんなこと……」
「届出が認められたら、山瀬の財産は国に没収される。山瀬の名前も一族は使えなくなる。長子に認められた正当な権利だ」

 跡継ぎに認められた莫大な権利。
 家を存続させるのも、廃止するのも直系子息に一任されるのが、大和国の古くからの法律だ。
 家長の命令は絶対であり、それは縦社会の獣人では特に色濃く影響する。
 だからこそ一族は長子を大事にする。
 それがときに多大な干渉を生むことにもなっても。

「それが嫌なら、今後すみれさんに関わるな」
 威嚇の唸り声を発しながら、ギーがミレイを至近距離で睨みつけた。

 ミレイの顔は悔しげに歪んでいた。
 牙をむき出しにし、掴まれた両手はぶるぶると震えている。
 やがて掴まれていた両手を振りほどき、ミレイはテーブルから勢いよく降りた。
 そして、荒々しい足音を立て、部屋から出て行った。

 あとには、静寂だけが残った。