氷姫の旦那様

「そんなの、絶対に納得いかないわ!」
 ミレイが大理石のテーブルを叩いた。ティーカップが、かしゃんと音を立てる。
 テーブルが割れるかというほどに激しい音と共に、ぐるる、と威嚇を込めた唸り声が聞こえ、すみれは無意識に体を固くした。

 明るい日差しが差し込む山瀬邸の客間で、すみれはギーと共にソファに座っている。
 テーブルを挟んだ向かいに座っているのは、黄金色のドレスを身にまとったミレイだ。
 ギーに呼び出されたことを喜び、屋敷に来たときはとても上機嫌だったのに。

 対するギーの声は落ち着いていた。
「既に新しい屋敷は決めてあります。一か月後にこの屋敷を出て、すみれさんとそちらに住む予定です。それに合わせて、今まで預けていた俺の通帳、証券、すべて返してもらいます。長い間、世話になりました」
 ギーが軽く頭を下げた。

 血走った目で、ミレイはギーの隣に座るすみれを睨みつけた。
「その人間がギーに余計なことを吹きこんでいるのね」
「それは違います」
 ギーは即座に否定した。
 しかし、ミレイの耳には入っていない。

 獲物を狙う肉食獣の目ですみれを睨みつけたミレイは、次いでギーに哀れっぽい口調で話しかけた。
「ギー、前から言ってるけど、その人間と別れなさい。今までの釣り書きが気に入らないのなら、あなたの条件に合う獣人の女の子を見繕ってあげるから」
 猫なで声のミレイに、ギーは首を振った。
「俺は既に結婚しています。釣り書きは不要です」
「ギー、駄々っ子のように、私を困らせないで」
 今度はくうん、と喉を鳴らし、ミレイが上目づかいにギーを見る。

 すみれは膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
 自分に対して敵意を持つ獣人を前に、怯えて震えないようにするのが精一杯だ。
 話し合いに同席させてほしいと願ったのは、自分だ。
 これはギーとすみれのこと。当事者として話を聞くのは当然だと思った。

 ギーは静かに鞄の中から書類を取り出した。
「叔母上。これは感情論ではない。証拠がある以上、俺は判断せざるを得ない」
 その白い紙は、ミレイの顔色を変えさせるには十分の効果があった。
 中には帳簿らしき線と数字が細かな字で書かれている。

「預けていた金を自分の遊興費に使い込んでいましたね。俺が別の屋敷を探していると聞きつけて、この屋敷の家賃収入も、俺の金も、自由にできなくなるとさぞ焦ったことでしょう」
「ち、違うわ!」
「それに、すみれさんに対する嫌がらせや暴言を、俺はこれ以上放置できない」

 端正な筆文字で書かれた書類の題字は、「山瀬ミレイに関する調査報告」。
 いつの間に、調べていたのか。
 驚くと共に、自分のことを見ていてくれたギーに感謝しかない。
 すみれがギーの横顔を見上げると、ギーの三角形の耳がぱたたと揺れた。すみれの視線に気づいていると、わざわざ合図してくれたのだ。
 存在を忘れられていない。そのことに、ほっとする。

 ミレイは両手をわなわなと震わせた。
「そんなの、誤解よ。私はその人間に、山瀬家の嫁としての立場をわからせてあげてただけ」
「領収書の偽造をしてまで?」
「あれは、あれは、冗談だったのよ。まさか、本気にするとは思わないじゃない」
「あなたのやったことは、有印文書偽造罪。犯罪行為です。法を順守する護警官たる俺には、許しがたい行為です」
 ギーがミレイを睨みつける。

 彼女はまさかギーが領収書を知るところになるとは思わなかっただろう。
 なぜなら、最近のギーとすみれは、一切の接触を絶っていたから。
 獣人と人間。
 やはりうまくいかないのだ、とほくそ笑んでいたのではないだろうか。

 ミレイはわざとらしく、ため息をついた。
「ギーを困らせるつもりはなかったのよ。部を弁えないその人間が悪いの。身の程知らずに山瀬家の門をくぐったりするから」
「彼女は人間ですが、すみれさんという名前がります。名を、呼んでください」
 ギーが生真面目に訂正する。しかし、気分を損ねたように窓の外を向いたミレイは横目ですみれを見るとぐる、と唸った。
「人間(・・)、こっちを見ないでちょうだい。その仏頂面、吐き気がするわ」
 すみれの肩が強張る。
 存在しているだけで、その存在を否定されることがあるなど、考えたこともなかった。

「叔母上」
 押し殺したギーの声は、さっきの何倍も低かった。
「吐き気がするのはこちらの方だ。あなたはすみれさんを誘拐して、害そうとしましたね」
 横を向いたままのミレイの耳が、ぴくりと動く。

 風がびゅうと吹き、白いカーテンを大きく膨らませた。
 テーブルの上には白磁に青の染付がなされたティーカップが置かれており、香り高い紅茶が注がれている。
 しかしこの場にいる誰も、口を付けていない。
 湯気はいつの間にか消えていた。

「すみれさんは暴漢に捕まって馬車に押し込められそうになったとき、持っていた懐紙を丸めて馬車の中に放り込んだらしい。いざというときの証拠とするために」
 ギーは大きく息を吐いた。

 とっさの判断だった。
 そのまま押し込められて、また別の場所に連れて行かれる可能性は十分にあった。
 だったら、ただ連れ去られるのではなく、一矢報いる仕掛けをしておきたかった。
 あのときは必死だったのだ。

「その懐紙の匂いを辿って行くと、叔母上の屋敷にたどり着きました。報告を聞いたときは驚きましたよ」
 ギーの琥珀色の瞳が、ぎらぎらと輝いている。
 ミレイは半眼でちらりと笑った。
「馬車に落ちてた懐紙? きっと私のものよ。馬車の中で、ゴミでも拾ったかしらね」
「では、何の匂いの懐紙でしたか。自分の物なら、匂いくらいわかるでしょう」
 冷静なギーの指摘に、ミレイはぐっと詰まった。
 
 あれは、鶴亀デパートで買った、藤の花の匂いの懐紙。
 ギーがすみれに贈ってくれた、大切な物だ。

 ミレイは思案するように、視線を天井に向けた。
 しかし、その口が新たな言葉を紡ぐ前に、ギーは言い切った。
「答えられないはずです。彼女の懐紙は、俺が買った物。俺と彼女しか知らない匂いです。それに、暴漢の男二人は既に捕まえてあります」

 何の匂いかを教えないのは、教える価値もないと思っているからだろうか。
 わずかな沈黙が室内に落ちた。
 部屋の外から軽やかな小鳥の囀りが聞こえる。
 窓の外に広がるのは立派な日本庭園だが、来客もないこの屋敷では見る者がない寂しささえ感じてしまう。

 歯を食いしばっていたミレイが、やがて口を開いた。