氷姫の旦那様

 予想外の言葉に、すみれは目を瞬かせた。
 その沈黙をどう取ったのか、三森は唇を歪める。
「毒見だよ。あんたは人間だが、姑息な獣人が何か罠を仕掛けているかもしれんからな」
 猜疑心に溢れた声は、すみれが拒否すればただちに暴力に訴える気満々だ。

 すみれは腹に力を込めた。
 初対面の男に刃物を突きつけられている。
 しかもその相手は人を殺すことを厭わない。
 でも。
 不思議と怖くなかった。

 すみれには、ギーがついている。
 あの大きく強い狼が、すみれのことを大切に思ってくれている。
 彼の役に立ちたい。
 すみれはその一心で、ゆるりと視線を上げた。

「どれでも良いですか」
「握り飯だ。握り飯を、食べろ」
 箸などない。
 すみれは重箱ににじり寄り、指先で米粒を少し摘まんで、口元に運ぶ。
「……美味しいと思いますが」
 米を咀嚼し、赤い唇を押さえてすみれが三森を見た。

「毒はないのか」
「わたくしが今、倒れていないのが証拠です」
「きんぴらはどうだ」
「……こちらも、味が染みていて美味しいです」
 汚れた指先を懐紙で拭う。
 この弁当は護警所の食堂で作られたものだ。きちんとした料理人が作っているのだから、美味しいのも道理である。

 三森は左手で短刀をすみれにつきつけながら、右手を重箱の中に突っ込んだ。
 おにぎりを手にし、ばくり、ばくりと噛みついていく。
 そのあまりの勢いに呆気にとられながら、すみれはつい聞いていた。
「喉がつまるでしょう。お茶を用意しましょうか」
「いらん。毒を入れられたらかなわんからな」
 口の中を米粒で一杯にして、三森がじろりとすみれを睨む。

 たいした警戒心だ。
 相手は腹を空かせたただの人。
 腹に爆弾を巻いているところは普通の人間ではないが、食事に集中している今なら、爆薬に火をつける暇はないだろう。
 そう思うと幾分、体が軽くなる。

「短刀を、お持ちしましょうか。片手では食べづらいでしょう」
 勇気を出して、そう言ってみる。
 里芋の煮つけをつまんでいた三森が、眉間に深い皺を寄せた。
「そんなことを言って、俺を刺す気だな」
「わたくしの細腕で、果たしてあなたを殺せるでしょうか」
「……それは、確かに……」
 静かな返しに、思わず、といったように目を瞬かせる三森。

 しばらく手の中で里芋を転がしながら、すみれをしげしげと見つめ、やがてぼそりと呟いた。
「お前、変な女だな」
「それは初めて言われました」
 にこりともせず応えると、ぷっと三森が吹き出した。
「俺が怖くないのか」
「怖いです。でも、わたくし、怖いものは他にあるので」
「何だ。言え」
 短刀を玩具のように弄びながら、三森が里芋を口に放り込む。

 すみれは姿勢よく座ったまま、表情を変えずに今日を思い返した。
「わたくし、自分の居場所がないことが怖いようです」
 学校にも、ギーの屋敷にも、実家にも、すみれの居場所はないとほんの数刻前まで絶望していた。

 生きていくにはどこかの拠点が必要で、なおかつ、自分に何ができるかを他人に示さなければならない。
 教師に戻って金を稼いでギーに貰った金を返す、と息巻いたはいいものの結局、領収書が嘘だったことにほっとする自分がいる。
 教師だった頃は、若い女性達を教え導く役目を負っているのだと自負していたけれど、その立場を失ってしまえばすみれに残されたものはない。
 何もない中で、これからどう生きていくのが正しいのか。
 まだ答えは見えないけれど、ギーがすみれを好きだと言ってくれたから。
 ギーに好かれる何かはあるのだと、少しだけ自分を許せる気がする。

 知らず、すみれは微笑みを浮かべていた。
「お前……」
 三森が目を見開いた。
 ぶらぶらと揺れていた短刀が、床を向いてぴたりと止まる。
 彼が何に動揺したのかわからぬまま、すみれは再び口を開く。
「やはり短刀を持ちましょう。食べるときは食べることに集中するものです」

 途端、三森がぷっと噴き出した。
「学校の先生みたいだな」
「え?」
「俺の初等学校の先生はすぐに殴る嫌な奴だったが、教卓前に立たされて掛け算ができなくても、笑わなかったな」
 懐かしげに目を細め、見るともなしに煤けた壁を見る。
 そこに映る記憶の風景を触れることはできない。
 一方で、彼らに殺された者は、過去を思い出すことすらできない。

「ほらよ」
 三森が短刀を差し出した。
 すみれは袖を押さえて生身のそれを受け取る。

 その瞬間だった。
 風の音がした。
 そう思ったときには、三森の首に太い毛むくじゃらの腕が巻き付いていた。

 銀色の狼。護警官筆頭隊長であり、すみれの夫。ギーだ。
 己が捕えられたと察した三森は速かった。
 体を捻って拘束から逃れ、炎がくすぶる囲炉裏へ身を投げようとした。
 彼の腹には爆薬が巻かれている。
 一つにでも火が付けば、この部屋どころか周囲一帯、焼け野原になってしまう。

 すみれは息を飲み、まるでスローモーションのような光景をじっと見ていることしかできなかった。
 三森が床を蹴って宙に浮く。
 その体を、ギーが片腕で引き倒す。
 周囲にはいつの間にか護警官達が集まり、三森に腕を伸ばしている。

 床に押さえつけられた三森が、もがきながら腹の爆弾を外して護警官の隙間から囲炉裏へ投げつけようとする。
「危ないっ」
 すみれの叫び声に反応した護警官達が、囲炉裏と三森の間に体ごと入り、爆薬が火にくべられるのを阻止した。

 ギーが三森の両腕を後ろ手に拘束し、護警官の一人が縄をかけた。
 あっという間に三森は床に転がされ、身動きが取れなくなった。
「くそっ! お前ら、獣のくせに俺に触るな!」
 引き立てられ、立たせようとしても三森はその場に座り込んで立とうとはしない。

「力ずくで運び出されたいのか」
 張り詰めた空気の中、ケイリュウが牙をむき出しにして唸る。
「俺は獣に屈しない!」
「人の命を奪っておいて、よく言う」
 ぼそりと誰かが呟き、三森が目を血走らせて叫ぶ。
「俺達の理想国家を作り上げるためには必要な犠牲だ! お前達、俺に触れるな、人間様だぞ! お前らとは違うんだ!」
 わめく三森に、護警官達が苛立ちを募らせる。
 肌がちりちりするような緊迫した空気に、すみれは息をするのが精一杯だ。

 無言のギーが、指で合図をして護警官達に三森を抱えあげて運ぶよう指示する。
「おい、女! その短刀で俺の縄を切れ! 俺達は人間だ、仲間だ! 獣人に好き勝手させるな!」
 体を宙に浮かせた三森が、首を捻ってすみれに怒鳴る。
 すみれは抜身の短刀を手にしたまま、護警官の邪魔にならないように部屋の隅に立っていた。
 護警官達がばらばらと視線をすみれに向け、異様な沈黙が部屋に満ちた。

 すみれは静かに、しかし強い光を宿した瞳を三森に向けた。
「あなたの選民思想には賛同しかねます。わたくしに勝手に期待しないでください」
 凛とした声は、狭い部屋の中の誰の耳にも届いた。
 獣人達の中には噴き出す者もいた。
 三森はかっと顔に朱を走らせる。

「なんだと、獣人に媚を売る気か、この売女!」
 唾を吐きながら怒鳴る三森に、すみれは目を細め、楚々と微笑んだ。
「わたくし、獣人の夫がとても大切なのです。あなたより、ずっと」
 その声は凛として、気高さに満ちていた。

 獣人達から驚きのため息が漏れる。
 不愛想だと思っていた女性が見せた、清涼な微笑み。
 まるで雲に隠れていた黄金の月が不意に現れたかのように、視線がひきつけられ、外せない。

 三森の目が見開かれる。
「なっ、獣人の夫だと、この、裏切り者……!」
 叫ぶ三森は止まることなく部屋から連れ出されていった。

 すみれは満足感に、深く息を吐く。
 犯罪者相手とは予想外だが、初めて、他人に伴侶が獣人であると伝えられた。
 堂々と、自分に正直に。
 誰の心を気遣うこともなく、宣言できた。
 ギーが、好きだと言ってくれたからだ。
 どんなすみれでも受け止めてくれるとわかったから、安心してどんなことだって言えてしまう。

 ふと、影が差した。
 視線を上げると、ギーがいる。
 琥珀色の瞳は柔らかく撓み、大きな手が優しくすみれの手から短刀を奪う。
 そのふさふさの尻尾は、ぶんぶんと勢いよく揺れていた。