氷姫の旦那様

 それから一度、別室で着物の乱れを直し、髪を整えた。
 かんざしの代わりは、ギーの小刀だ。
 何かないかと周囲を探していたすみれに、ギーがシャツの内ポケットからすっと差し出してきた。太さは人差し指くらい。長さは三寸ほど。柔らかな黒革に包まれていて、見た目には単なる棒に見える。
 ギーの尻尾はぶんぶんと振れていた。「怪我をするかもしれないから使うな」と言いつつ、彼の物をすみれが持っている、というだけで嬉しいらしい。

 尻尾の誤解がとけて本当に良かった。
 真逆の意味でとらえていたなんて、失礼にもほどがある。
 もっと早くギーに確認していれば、無用なことで思い悩んだりしなくて済んだのに、とちょっとだけ悔しい。

 若紫色の風呂敷に包んだ二段の重箱をしっかりと持ち直し、すみれは「萱嶋」と表札のある家の玄関の戸を叩いた。
 外の世界はすでに夜の帳が下りている。
 見える範囲の家の明かりは消えていた。住人達が避難しているのは本当なのだろう。
 今なら、たとえ最悪の事態が起こっても大丈夫なのだろうか。

 震える心から目を逸らし、玄関の戸を叩く。
 平屋建てのこぢんまりとした家だ。見取り図では、畳敷きの部屋が三つに台所と便所があるだけだ。風呂は近くの銭湯を使うらしい。庭は猫の額ほどに狭く、隣に並ぶ家がすぐ目の前に見える。
「ごめんくださいませ」
 すみれからは見えないけれど、護警官達が隠れてついて来てくれている。
 三森が隙を見せれば、すぐに確保できるように。

 しばらくして、足音とともに現れたのは青ざめた顔の老婆だ。ほつれた白髪が額にかかり、皺だらけの顔には生気がない。
 その首には、玄関燈を反射して白く光る短刀が押し当てられていた。
 短刀を持つのは、人間の男。
 刈り込まれた短い髪。痩せた体。胸元まで大きく開いたちりめんの袷を着ている。顔つきはげっそりと削げた頬に不自然な笑みが浮かんでいて、ひどく不気味だ。

「本当に人間の女を探して来たのか。入れ」
 酒焼けしたような、ひび割れた声だ。
 三森が顎で家の方を指す。
 短刀が揺れ、老婆が「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
 がたがたと震える体は頼りなく、今にも倒れそうだ。

「その方と交代だと、聞いて来たのですが」
 すみれはとっさにそう言っていた。あまりにも老婆が気の毒で。
 笑みを浮かべる三森の右の眉毛が跳ね上がった。
 すみれは無言でその場から動かない。

 闇の中に佇む無表情の女に何を思ったのか、三森は唇を尖らせると、乱暴に老婆の背中を小突いた。
 たたらを踏んで三森の腕から逃れた老婆は、自分が解放されたことを知るや否や、叫び声を上げながら通りへと駆け出していった。

 それを見送っている暇はなかった。
「ついて来い」
 三森が乱暴にすみれの肩を押した。
 その瞬間、昼間、馬車に連れ込まれそうになった出来事が脳裏によみがえる。
 あまりに鮮やかなその記憶に、恐怖が背中を駆け上がった。

 すみれは反射的に体をよじって逃げようとした。
 しかし、逃げる隙は与えられなかった。
 その細い手首を、三森が掴んだからだ。

「大人しくしねえと、これが爆発するぜ」
 ねっとりとした笑顔に、何のことかと視線を下げて。
 すみれは悲鳴を飲み込んだ。

 三森のはだけた着物の中。
 爆弾の朱い筒がぐるりと彼の腹を囲っていたのだ。
 すみれの背後で、息を飲む音が聞こえた気がした。

「余所者からこの国を護る。その大義のためなら、俺はいつだって死んでいいんだからな」
 三森はすみれの背後を睨みつけた。
 隙を窺う護警官をけん制しているのだ。
 事実、この量の爆弾が爆発すれば、目の前の家だけではなく周囲の家々にも影響が及ぶだろう。
 なにより、すみれは絶対に無事には生きて帰れない。

 すみれの肩を乱暴に押して、三森は家の中に入った。
 玄関の引き戸が後ろ手にぴしゃりと閉められる。
 薄暗い家の中で、すみれは小突かれるまま、草履を脱ぎ散らかして三森の後に続いた。

 たどり着いたのは、台所のある板間だった。
 板間の中心にある囲炉裏には火がたかれており、部屋の中を煌々と照らしている。
 八畳ほどの板間を降りた土間にはかまどがあり、鍋が置かれていた。匂いがしないから料理は中に入っていないのだろう。
 ひんやりとした空間に、頭の中が幾分、冷静になる。

「それを置け」
 白く光る短刀で床を示され、すみれは重箱の包みをゆっくりと床に置く。
 三森が包みに飛びついた。
 風呂敷の結び目を解きながら、すみれを見上げた。
「お前、どこの誰だ」
「……明かしてはならないことになっています」
「護警官か」
「違います。あの、帰っても……?」
「駄目だ。このまま、ここにいろ」
 さすがに弁当を渡すだけでは許されなかったか。
 すみれは無駄な抵抗はせず、その場に正座する。
 表情も変えずに従った女を、三森がなめまわすようにじろじろと見た。

 やがて、すみれに反抗の意志がないことがわかったのか、三森はどかりと胡坐をかいた。
「漉防隊は危険思想だなんだと言われてるが、俺に言わせりゃ真っ当な組織だ。現人神が守るこの国に、獣人なんかを入れたのが間違いだったんだ。そのせいで、大陸からも他の国が開国しろとせっついてくる。我が国は完璧なんだ。余所者が入る余地などない」
「そうですか」
 両手を揃えて座るすみれは、静かに答える。

 人質のあまりにも落ち着いた様子に、更に演説に力を入れようとしていた三森は顔をしかめ、重箱の蓋を開けた。ちょうど腹が鳴ったから、ということもある。
 一段目はきんぴらや煮物などのおかず。二段目が大きな握り飯。漬物が添えられていて、囲炉裏の炎がちらちらとコメを輝かせている。

 三森の表情に喜色が浮かんだ。
 しかしすぐにそれを誤魔化すように、咳払いをしてすみれを見る。

「ちっとも怖がらねえな。胆が据わった女だ」
 背筋を伸ばし、黙って座るすみれは一幅の絵のようだ。
 静かなその瞳には感情などいっさいなく、ただ黙って睫毛を伏せている。
 三森は胡坐をかき、重箱に手を伸ばした。
 しかし、すぐにその手はぴたりと止まる。

 三森は思案するように、浮き出た無精ひげを撫でた。
 そして。
「おい、この重箱の中身、食べてみろ」
 下から覗き込むようにして、すみれに短刀を突きつける。