氷姫の旦那様

 
 三日後。
 婚礼の儀に現れた相手は、獣人だった。

 同世代の娘よりも身長の高いすみれが見上げるほどに、大きく立派な銀色の狼。
 こちらを見下ろす琥珀色の瞳は獲物を狙うかのように鋭く、成獣らしく大きな口吻からのぞく大きな白い牙は、すみれの柔らかな皮膚など簡単に突き破れそうだ。
 差し出された手には磨かれた爪が生えていて、長い指は獣の毛でおおわれていた。

 紋付き袴を着ているけれど、大きく長い尻尾がぶんぶんと振れていた。
 以前、噂で聞いたことがある。獣人が尻尾を振るのは、警戒しているからだと。初対面ならば、警戒しても当然だろう。それが、獣人を差別してきた人間相手ならなおのこと。

 相手の屋敷の畳敷きの広間で、結婚式は厳かに行われた。
 庭は実家ほど広くはないが池のある日本庭園で、きちんと手入れがされている。
 使用人が二人いる以外に主人しかいないという屋敷は、独り身が住むには過分に広い邸宅だった。使用人によると、山瀬家の親族の持ち屋を借りて住んでいるらしい。
 
 すみれの母が用意した花嫁衣装は、町一番の呉服店で用意された黒引き振袖だった。
 金銀の刺繍がほどこされたそれは、いつか来るこの日のためにと数年前に頼んでおいたものらしい。
 着付けをする間、母の瞳はずっと潤んでいた。
 その涙の訳は、娘が巣立つからか。それとも、獣人との結婚を哀れに思うからか。
 真実を知るのが怖くて問うこともできず、花嫁衣装がいくら豪華で美しくとも、すみれの心はことりとも動かなかった。

 花婿の名前は、山瀬(やませ)義(ぎ)一郎(いちろう)といった。
 護警官として、特に永崎県令の近くで護衛にあたることが多いと使用人から聞いていたけれど、彼本人から具体的な仕事の話は出てこなかった。
 ただ。
「どうぞ、ギーと呼んでください」
 今まで聞いたこともないくらい、低く艶のある声の主が頭上からそう言った。
 かすかに、若竹に似た匂いがする。
 すみれは、氷のように心が冷えたまま、小さく頷いた。

 本能が、怯む。
 肉食獣の牙を前に、動きがぎこちなくなるのを自覚する。
 いきなり取って食われることはないはずだが、それでも今まで生きてきた中で、獣人を近くで見ることなどほとんどなかった。
 獣人の役目は県庁の役人の護衛。もしくは市中の治安維持。金持ちの家は特別に獣人を護衛役として雇っているとも聞く。
 家と学校の往復のみを生活としてきたすみれに、その存在が慣れたものでないのは当然だった。

 大きな体も、白い牙も、鋭い爪も、見定めるように向けられる琥珀色の瞳も、すべてが恐ろしい。
 貴族の娘の矜持として、平静を装うので精一杯だ。

 ギーの親族席に座るのは、彼の仕事の部下が数名。ギーよりは体が小さいけれど、紺の護警官の制服を着た獣人だ。
 皆、一様にきちんと正座し、背筋をぴんと伸ばしている。
 対してすみれの親族席には、酒を目当てにした親族が大勢押し寄せた。
 彼らはいちように、獣人と人間の結婚に笑っていた。微笑ましい、ではなく、嘲笑の部類だ。

 獣人にとって、純血種である人間との結婚は、憧れであり、己の地位向上の指針となる。
 人間と結婚したとなれば、組織内での憧憬を集め、職場によっては昇進する場合もあると噂に聞く。
 獣人にとっては人間との結婚は上昇婚だが、人間にとっての利はない。
 よって、まったくありえないとは言わないが、余程のことがない限り二つの種族が交わることはない。
 他人の娘ならば、面白いことこの上ないだろう。

「ちらりとも笑わない心が凍った氷姫も、ついに年貢の納め時だな」
「教師になるとは立派なものだと思ったが、結局は獣人の妻になるのなら、ねえ」
 親戚の陰口が聞こえてきて、すみれはぐっと息を飲み込んだ。
 事実ゆえに否定もできない。
 父と母は客をもてなすので忙しく、すみれと言葉を交わすこともない。
 
 つつがなく三三九度が終わり、披露宴へとそのまま移る。
 料理が次々に運ばれ、酒が皆に行き渡る。
 すみれの家から連れてきた使用人達が、客に不自由させまいと忙しく立ち働く。
 どんちゃん騒ぎの無礼講の中、上座に座ったすみれは身動きもせず、息を殺して隣に座る獣人の気配を感じていた。

 隣に座るギーは無言だ。無言で、料理を口にしている。
 気を利かせて何か喋りかけるべきなのかもしれないけれど、不本意な結婚に予想外の結婚相手という現実に、もはやどう動くのが正解なのかを考えることさえ億劫だ。
 目の前の料理に箸をつけることさえできない。

 主役のすみれの心などお構いなしに、宴はますます盛り上がる。
 酒がすすみ、余興と称して親族が歌いだし、手拍子が始まった。
 そのとき。
「隊長!」
 護警官の制服を着た一匹の若狼が、宴会場に飛び込んできた。