氷姫の旦那様

「旦那様は、わたくしをお金で買ったのではないのですか?」
 緊張をはらんだ声に、ギーは首を傾げた。
「さっきから君の言っている、それはどういうことだ。俺と義父上の間で金に関する取り決めなど一切ない」
 俯いているのですみれの表情は見えない。
 ただ、肩ががちがちに強張っている。

 ギーはすみれの体を軽く揺すって、言葉の続きを促した。
 すみれは細く息を吸う。
「……ですが、わたくしは見たのです。父と、旦那様が取り交わした一万円の領収書を」
「なんだ、それは」
 思わず声が一段、低くなった。
「誰からそれを見せられた」
「……ミレイ様が……」
 迷うように間を置いて、すみれがぽつりと呟いた。

 ギーは、はあ、とため息をつく。
「叔母上が」
 眉間の皺が深くなる。
 喉の奥が、ぐるる、と鳴った。

 だが、今は目の前のすみれの方が大事だ。
 彼女の不安を取り除いてやらねばならない。

「誓って言うが、その領収書は偽物だ。俺が一万円を誰かに支払ったという事実はない。お義父上も否定なさるだろう」
「……」
 すみれの黒髪が揺れ、俯いていた顔が少しだけ上がる。
 ギーはまだ先にしようと思っていた打ち明け話を、正直に話すことにした。
「近々、すみれさんと今の屋敷を出るつもりだった。俺一人のときはこだわりがなかったから言われるがまま住み続けていたが、あの屋敷は使わない部屋が多すぎる。もっとすみれさんの居心地のいい屋敷がいい。劇場で会った新山出納官。あの人に、新居の世話を頼んでいた」
 新たな屋敷が決まってから紹介しようと思っていたから、すみれとの挨拶は省かせてもらった。彼女は覚えていないかもしれない。
 しかし、すみれが「ああ、あの……」と吐息のようにぽつりと呟いた。

 ギーは続ける。
「今までは、仕事が忙しくて金の管理や屋敷のことを叔母上にすべて任せていた。だが、すみれさんが来てくれた。これからはすみれさんに家のことは任せたいと思っている」
 それは通常、嫁いだ者に任されること。
 今まで、何もさせてもらえなかったことの方がおかしかったのだ。
「でも」
 すみれはギーと視線を合わせようとして、睫毛を伏せた。

「でも?」
「旦那様は、わたくしを警戒していらっしゃるのでしょう」
「警戒? なぜ」
「わたくしと話しているとき、尻尾がよく揺れています。噂では、獣人の方が尻尾を揺らすのは、相手を警戒しているからだって」
 この際、胸の澱を全て吐き出そうとするかのように、すみれが小さな声で抱いていた疑問を教えてくれる。

 ギーは肺の底から深く、ため息をついた。
 人間と獣人は、これほどまでに互いを知らないのかと、初めて知った。

「俺の、というより、獣人の尻尾が揺れるのは、上機嫌の証拠だ。俺達は尻尾がある限り、感情を隠せない生き物だ」
 ギーの尻尾が地面を掃いている。紅葉の木にぶつかりながら、不器用に。
「今は、すみれさんがここにいるのが嬉しくて、尻尾が勝手に動いてしまう」
「でも、噂では」
「噂と目の前の獣人と、どちらを信じる」
 すみれの顎を指でぐいと上げさせる。
 黒曜石のような瞳と、ギーの琥珀色の瞳がぶつかる。
 
 いつもは凛として佇むすみれが、子供のように頬を赤くし、目を潤ませていた。
 それだけで、ギーの心臓は誰かに鷲掴みにされたように、きゅっと音を立てる。

 すみれが赤い唇を開いた。
「で、ではなぜ、結婚式にご親族の出席がなかったのですか。人間であるわたくしのことを、受け入れてもらえてないのでは」
 ここにも誤解が、とギーは自分の説明不足を恥じる。
「俺が招待したいと思うのは両親のみだが、両親は既に死んでいる。結婚式には俺一人いればいいと思っていたんだが、義父上からそれでは格好がつかないと言われてな。ならばなるべくすみれさん達人間が驚かないような、体の小さな部下を招いた。それだけだ」

 ごそり、と腕の中のすみれの体が動いた。
 体を支えてやると、ごそごそと動き、体の向きを変える。
 小動物の動きのようで、くすぐったい。

 すみれがギーを見上げた。
 切れ長の瞳が、真剣な顔でじっとギーの顔を覗き込む。
「……旦那様は、人間より獣人の方と一緒になられた方が、幸せではないですか?」
「さっきの話を聞いていたか? 俺はすみれさんがいい」
 きっぱりと言い切ると、すみれははく、と口を開いて、でも、結局は何も言えずに口を閉じた。

 彼女の言葉はすべて掬って聞きたいが、今はそれより先に言うことがある。
「叔母上が何故、偽の領収書を君に見せたのか、調べてみよう。偽の領収書であるからには、すみれさんは金を稼ぐ必要はないし、もちろん金で買われた妻でもない。俺が望んで来てくれた、大切な妻だ」
 両腕を回してもなお余る細い体を、ぐっと抱きしめる。
 すみれの強張っていた体から、力が抜けるのが分かった。

「……わたくし、あのお屋敷にいてもよろしいのでしょうか」
「当たり前だ」
「旦那様は、帰ってこられますか」
「君が、俺のことを見たくもないと思わないのであれば」
「思いません。決して」
 声は湿り気を帯びていて、それが可哀想でそっとその背を優しく撫でる。

 すみれがギーの厚い肩に顔を埋めた。
「お怪我は、なかったですか」
 くぐもった声に、何の、と聞こうとして、あの日、あの劇場での捕り物騒ぎの日のことかと気づく。
「ああ、無傷だ」
「よかったです……」
 すみれの肩から、ほっと力が抜けた。

 もしかしてずっと、気にしてくれていたのだろうか。
 そう思うと、その健気さにすみれを抱く腕にいっそう力が籠る。
 同時にその気遣いを放置して屋敷に帰らなかった自分は、とんでもない愚か者だと痛感する。
「不安な思いをさせて悪かった」
 謝ることしかできない。
 彼女が思い出すたびに、何度だって謝ろう。

「旦那様はいつ、わたくしのことを知ったのですか」
 ふと、小さな声が聞こえた。
 見ると、すみれがギーを覗きこんでいる。
 表情こそいつも通りだが、どことなく楽しそうだ。
 心の憂いは晴れただろうか。
 さっきまでの悲壮感はなく、悲しみに浮かべた涙を流すこともない。

 そのことにほっとして、ギーは肩をすくめた。
「思い出さなくていい。情けない、若い頃の話だ」
 いじめられていた話など、好きな子相手に話すのは格好悪い。
 格好いい自分だけを見ていてほしいと思うのは、恋する者の我儘だ。
 すみれは目を数度瞬かせると、「では」と続けた。

「旦那様、我儘を言っていいですか」
「何なりと」
「もう一度、言ってください」
「もう一度?」
 首を傾げると、すみれが恥ずかしそうに俯いた。
「わたくしのことを、その、単なる人間の貴族の娘だから妻に迎えたわけではないと、教えてくれたときに……」
 顎の下の豊かなふわふわした毛をいじりながら、そう呟くすみれが愛しい。
 それくらいのことなら、お安い御用だ。

「すみれさんが好きだ。君が嫁に来てくれて、声を聞いて、仕草を見て、もっと好きになった。俺はこのとおりでかくて暑苦しいが、俺を傍に置いてくれると嬉しい」
 抱きしめた体を軽く揺すってやると、くすりと笑う気配がした。
「わたくしも、これからご一緒する覚悟です」
 ギーの顔を覗き込んだすみれはもう、笑っていなかったけれど、柔らかな雰囲気は感じ取れる。
 すでに日が落ち、夜の闇に包まれているけれど、狼の目なら彼女の様子を手に取るように見て取れる。

 尻尾が揺れる。
 紅葉の木が背後になければきっと、もっと高速で左右に揺れていただろう。
 大人になれば感情の制御が上手くなるはずだが、すみれを前にするとちっとも思うとおりにならない。

「俺からも一つだけ、頼みごとをしていいだろうか」
「何でしょう」
 すみれがいつもの切れ長の瞳でギーを見上げる。
 その目には、怯えた色はもう見えない。
 やっと、心が通じ合った。
 喜びが胸の中を駆け巡っている。

「俺のことは、ギーと呼んで欲しい。親しい者は皆、そう呼ぶ」
 自分でも声が甘いのがわかる。
 でも、愛しい者を胸に抱いて甘くならずにいられようか。

 すみれは戸惑ったように息を吸った。そして、
「ぎ……義一郎、様」
 絞り出した小さな声は、希望とは違うもので。
「ギー」
 低く囁くと、おろおろと視線を彷徨わせた後、すみれはぎゅっと目を閉じた。
「今はまだ、義一郎様と呼ばせてください」
 頬が赤い。耳も。
 照れているのだ。
 ただ伴侶の名前を呼ぶだけなのに。

 ギーは思わず声を上げて笑ってしまった。
「君だけの呼び名か。ははっ。可愛いな」
 笑う獣人に、すみれが驚いたように目を見開いた。
 しかし、すぐに口元に手を当てて笑い始める。
 困ったような、それでいて幸せそうな笑みは、今までに見た中で最も美しく、可憐だった。ギーはどうしようもなく惹きつけられる。

 思わず髪を撫で、頬に触れた。すみれが笑うのをやめ、顔を上げる。
 そのときだった。
「筆頭、緊急事態です」
 小屋の入口から、ケイリュウの呼び声が聞こえてきた。