氷姫の旦那様

 小屋の外では、人間の騒動など知らぬ虫達が軽やかに鳴いていた。
 陽が沈む。
 見上げれば東の空はすでに濃紺色に染められ、西の空にわずかに橙色を残すだけになっている。
 どこからともなく漂ってくる甘い匂いは、コデマリだろうか。

 ギーはすみれを抱え込んだまま、紅葉の木の根元に座った。土の地面はひんやりとするが、獣人たるものこれくらいは平気だ。
「寒いか」
「いえ……」
 応える声がか細くて、ギーはぐっと奥歯を噛む。

 すみれの体は本当に軽くて、頼りない。
 人間の女性がこれほどまでに小さく細い存在なのか、すみれだから特別なのかと、少しだけどうでもいいことを考える。
 その小さい頭をそっと自分の胸に当て、温める。
 少しでも、冷え切った心に熱が戻るように。

「怖い思いをさせて、すまなかった。周りは護警官だらけだから、屋敷に戻るより俺の傍にいた方が安全だと思った」
 訥々と、ギーは呟く。
 すみれからの返事はなかった。
 それでもいい。
 腕の中に、すみれがいてくれたらそれで。

「君を襲った奴らは必ず捕まえる。命令した輩もつきとめる。二度と手出しはさせない」
 すみれだけに聞こえるように、抑えた声で囁く。
 彼女が少しでも心穏やかに過ごせるのなら、何だってする。
 その、覚悟がある。

 少しの沈黙の後、すみれの薄い唇が動いた。
「……必ず、職を見つけて出て行きます。それまで、しばらくはお屋敷に置いてもらえませんか。情けなくも、すぐに留まれる場所がなくて」
「出て行く? なぜ」
 感情のこもらないその細い声に、ギーは眉間に皺を寄せた。

 すみれはギーの問いには答えず、淡々と続けた。
「女学校に行って、教師として復職しようと思っていました。でも、できませんでした。教師より割のいい仕事を見つけるには、わたくしは何も持っていなくて」
「教師役なら、若い護警官の面倒を見ているだろう。皆が喜んでいる」
「ですが、お金は稼げません」
「それは気が利かず、すまなかった。授業料を取ってくれ。そのくらい、奴らに給料は払っている」
「学ぶ気概のある子からお金など取れません」
 すみれがふるりと首を振る。
 薄闇の中、艶やかな黒髪がさらりと流れた。

 夜の気配に冷やされた風が、通り抜けていく。
 噛みあわない会話に、ギーは困惑してすみれの顔を覗き込んだ。
「すみれさんは、金に困っているのか」
 のぞきこむと視線は合わないが、黒々とした瞳が潤んでいるのがわかる。
 平坦な声とは裏腹に、思い詰めているのか、ギーの上着を握る細い手は白くなるほど握りしめられている。

 痛々しいその様子に、ギーは慎重に言葉を選んだ。
「支払わなければならないものがあれば、俺が払う。いくらほしい?」
 成金の発言のようで我ながら下品だと思ったけれど、すみれを引きとめることができるのならなんだってするつもりだ。
 これでも護警官筆頭隊長。金を積むなど、造作もない。

 すみれは俯いた。
 ギーは辛抱強く待った。
 彼女の中には言葉がある。
 待てばきっと、教えてくれる。

「皆さんは、知っているのですか」
 しばらくして、すみれがぽつりと呟いた。
 擦れた声だった。
「何を」
「わたくしが、お金と引き換えにあなたに嫁いだことを」
「は……?」

 予想もしなかった言葉に、ギーの反応が遅れた。
 すみれが勢いを得たように、声を震わせながら矢継ぎ早に言う。
「父の事業のことなんて、知りませんでした。失礼なことをして、大変申し訳ありません。できるだけ早く、お金はお返ししますので」
「ちょっと、待って」
「わたくしにできることなど限られておりますが、せめて旦那様の目障りにならないようにします。ですので、今しばらくはお屋敷においていただけたらと思います。新しい方が見つかれば、すぐに出て行きますので」
「すみれさん」
「父にも話をするつもりだったのですが、実家に行く前に襲われてしまって。我が家からも詫びの品を」
「すみれさん、待て!」
 ギーはすみれの肩を掴んだ。
 すみれの体が強張る。
 でも、そんなことに構っていられなかった。

「何か誤解があるようだ。ちゃんと話し合おう」
 意味が分からない。何がどうして、すみれがそう思うに至ったのか。
 ギーは喉の奥で低く唸った。
 しかしすぐ、すみれの密やかな声が聞こえた。
 それは鈴虫の羽の音よりも微かに、小さく。
「お話し合いもなにも」
 息を吸う音が、やけに大きく聞こえる。
「旦那様は、お屋敷に帰ってこられないではありませんか」

 ギーは息を飲んだ。
 平然を装った、その声の裏に響く悲痛。
 必死に取り繕うとして、それができずに、すみれの瞳から透明な雫がほろほろと零れ落ちる。
 慌てて拭おうとするその細い手を、ギーはとっさに大きな手で握った。

「すまない」
 剣だこのある固い自分の手とは違う、柔く白い手。
 触るのもためらわれるくらいに神聖で、大切な人。
 絶対に傷つけてはならない存在だと、心に誓っているのに。

「君に、心から謝罪する。傷つけて、申し訳なかった」
「傷ついてなんて」
 涙声の相手を深く懐に抱き込み、ギーは頭を下げる。
 今、正直にならずしていつ打ち明けるのだ。
 大切な人が悲しい思いをしているのにその憂いを晴らさずして、何が男だ。

「俺は、君に嫌われるのが怖かった。劇場で戦う姿を見てきっと、君は俺のことを恐ろしい獣だと思っただろう」
 すみれに声をかけたとき、彼女は怯えた目をして後退りをした。
 無理もない。
 護警官にとっては当たり前の日常であっても、善良に生きてきた人間には刺激の強すぎる光景だったに違いない。

 愛しい人の密やかな呼吸音に、全神経を集中させる。
 すみれが、絞り出すように囁いた。
「あのときは、ただ、びっくりして……でも、あなたは私達を守ってくれたこと、理解しています」
 その素直な言葉に、歓喜する自分がいる。
 震える体を、ギーはぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。情けないことに俺は……君から嫌悪の言葉を聞くのが嫌で、君の顔を見られなかった」
 自分で言っていて羞恥を覚える。
 初等学校の子供さえ、これほど情けないことを言わないだろう。
 好きな子から向けられるであろう拒絶を想像するだけで、屋敷に帰る勇気がなかった、なんて。護警官の筆頭隊長が、聞いて呆れる。

「あなたがお屋敷に帰ってこなかったのは、わたくしに拒否されるのが怖かった、から?」
 すみれの声はかすれて、聞き取りづらかった。
 しかし、ギーの獣の耳は聞き逃さない。
「……そうだ」
 素直に認めるのは、勇気がいる。
 情けないと、わかっているからなおのこと。

 でも。
 間違えてはいけないのだ。
 ギーの第一はすみれだ。
 すみれを安心させるためなら、いくらでも心を差し出して見せる。
 
「俺は、君に嫌われたくない」
 腕の中の温かな宝物に、希う。
「嫌いになんて」
 呆然としたすみれの呟きは、信じられない、と言外に言っている。
 絶対に、信じて欲しいと思う。

「ずっと、すみれさんが好きだった」
 ギーはすみれの心に届くように、正直に告白した。
「子供の頃、すみれさんに救われた。ひと目ぼれだった。獣人が人間になんて、バカなことだと思うだろうが、すみれさんは俺の憧れであり、どうしても一緒になりたかった」
 羞恥や照れを感じている場合ではない。
 ただでさえ、獣人と人間で身分が違う。
 この瞬間、共にあることさえ奇跡なのだから、少しでもすみれの心を軽くすることがギーにできる一番の優先事項だ。

「義父上に承諾を貰いに行ったとき、罵倒された。大切な娘が獣人に嫁ぐなど許さないと。でも、諦めたくなかった。仲介人を立てては誠意が伝わらないと思って、自分の足で何度も。ときに仕事場にも押しかけてしまった。迷惑だっただろう」
 すみれの父の渋面は、最後まで笑顔に変わることはなかった。
 それはそうだろう。人間と獣人。それも松葉家は貴族位を金で買うほどの商家だ。
 山瀬家は歴史ある獣人の家系で、ギーは護警官として獣人としては最高位の祥果大綬章を貰っているが、それだけだ。

「承諾が貰えたときは嬉しくて、部下全員に寿司を振る舞った。君が『仲良く』と言ってくれた日は、嬉しくて眠れなかった。笑ってくれ」
 自分が恥をさらしても、すみれの笑顔が見たかった。
 百合の花が綻ぶように、凛として、匂い立つように美しい笑顔が。
「待ってください」
 不意に、すみれが固い声を上げた。