氷姫の旦那様

 すみれがようやく足を止めたのは、松本橋のたもとだった。
 息が続かない。教師時代は毎朝出勤のために歩いていたし、休憩時間には生徒とバスケットボールをしたこともある。
 しかし、結婚してからは屋敷にこもりきり。窓から脱出するのも勇気がいったし、全体的な体力も落ちている。
 暴れたせいで、一つにまとめていた髪がほどけてしまった。髪に差していた簪も、どこかへ落としてしまったようだ。

 何度も深呼吸を繰り返し、ようやく息が整う頃には頭の中も冷静になっていた。
「わたくし、何をしているの……」
 周囲を見回す余裕ができると、橋を渡る人々からの視線が痛いことにも気づく。
 それはそうだろう。
 乱れた着物。
 風になびく解かれた髪。
 汚れた草履。
 明らかに何かがあったと言わんばかりの女が一人、立っているのだ。

 すみれは無表情を貫き、ゆっくりと橋を渡り始めた。
 また、獣人達に襲われるかもしれない。
 彼らは誰かに命令されたと言っていた。
 それが誰かわからないうちは、身を隠した方がいい気がする。

 けれど、どこに逃げればいいのか。

 実家がある方角とは、逆方向に逃げてしまった。
 今さら、さっきの現場に戻り、通り過ぎようとは思えない。
 かといって、ギーの屋敷に戻るか。
 戻ってもいいのだろうか。
 金で買った妻のことなどギーは、本当は興味がないのかもしれないのに。
 その上、厄介ごとを持ち帰ったら更に屋敷に帰るのが億劫になってしまうのではないか。

 あの屋敷は、ギーの屋敷だ。
 日々激務の彼が、ゆっくりとくつろいで疲れを癒せる場所でなければならない。

 ミレイの言葉が脳裏に浮かぶ。
 ギーに相応しいのは獣人の娘。
 確かに、普通に考えたらそれが当然だ。
 見栄えからして、あの銀色の凛々しい狼の横に立つのに相応しいのは、不愛想で無表情なすみれではなく、使用人にもミレイにも好かれる優しく美しい獣人だ。

 すみれはこほりと咳をした。
 胸が苦しくて、仕方がない。
 教師の夢はついえた。
 松葉家の娘としても放り出された。
 山瀬の親族には認められておらず、金で買われた妻と皆がすみれを嘲笑っている。
 見ず知らずの獣人にどこかに連れ去られそうになるほど、誰かに恨まれている。
 どこにも、帰る場所がない。

 川面が太陽の光を反射して、宝石のように輝いている。
 橋の中央の欄干に手を置くと、もうこれ以上歩けない気がして足が止まる。
 視界の開けたこの場所なら、獣人が襲って来ても誰かの目に留まるだろう。
 馬車も止めておく場所がないから、連れ去られる心配はないはずだ。

 そう考えて、体が小刻みに震えているのに気づいた。
 上手く逃げられたと、ほっとしていたけれど。
 心は少しも大丈夫ではない。
 恐ろしくて、寂しくて、悲しくて、感情はマーブル模様の渦のようにぐちゃぐちゃだ。
「強くなりなさい、強く……」
 自分を鼓舞するように、何度も、何度も口の中で呟く。
 祖母の教えを守ることで、今まで自分を律してきた。だから今、この瞬間も、と。

 けれど、言葉は空しく宙に溶けて、少しもすみれの心を軽くしてくれなかった。
 この世でたった一人だという事実が、体中を押し潰す。
 欄干に置いた手に力が籠り、視界が潤む。
 堰き止めていた荒れ狂う波が、暴走して流れ出してしまいそう。
 もう、嫌だ。
 そう思った。

 そのときだった。
「君、身投げなどするものではない」
「え?」
 不意に肩を掴まれ、後ろに引かれた。

 とっさに拒否反応が出て、その手を振り払ってしまった自分に驚く。
 視界の端に、紺色の制服を着た獣人の護警官の姿が映る。
 獣人。
 それだけで、体の震えが止まらなくなる。

「すみれさん?」
 思わずその身を守るようにしゃがみ込んだすみれの頭上から、訝しげな声が降ってくる。
 はっとした。
 顔を上げずとも、わかる。
「……旦那様」
 頭から血の気が引く。
 今はまだ、心の整理が出来ていない。
 まだ、会いたくはなかった。

 けれど、当然ギーはすみれの心境など気づくはずもなく、地面に膝をついた。
「どうしたんだ、その格好は」
「み、見苦しいところをお見せして……」
「そんなことを聞いているのではない。何があった」
 伸ばされた指に、びくりと体が震える。

 黒い毛皮の獣人にどうやっても敵わなかった力の強さを思い出す。
 逆らっても無意味だと思い知らせるような、圧倒的な腕力。
 それはきっと、ギーも他の護警官達も、一般的な獣人だって同じだ。
 すみれの力など、風に吹かれて落ち葉ほどの強さもない。

「その腕……」
 ギーが呆然と呟いた。
 はっと気づいて、すみれは急いで襟で手首を隠す。
 強い力で掴まれ、引きずられた左手首には、赤黒いあざができていた。

「あ、いえ。あの、大丈夫です」
「大丈夫ではないだろう!」
 声が、空気を震わせた。
 橋を渡る人々がぎょっとしてこちらを振り返るのが分かる。

 すみれの頭の中は、初めて聞く己に対するギーの大声に対するショックと、さっきまでの騒動でぐちゃぐちゃだった。
 何から考えればいいのか、わからない。
 焦点の合わない視線がうろうろと彷徨う。
 そうと知らずに、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
 長い黒髪が幾筋も頬にかかり、長い睫毛が蝶の羽ばたきのように震えている。
 それはあまりに哀れで、壮絶な美しさを持つ姿だった。

「っ……すまない、驚かせた」
 ギーが口を覆い、俯いた。
 伸ばされた手がすみれに触れるのを躊躇い、宙に浮く。

「筆頭、時間が」
 後ろから、誰かの声が聞こえる。ギーの部下だろうか。
 宙に浮いたギーの手が、ぎゅっと握りしめられた。
「どこかへ行くところだったのか」
 囁くような、柔らかな声。
 気遣いを多分に含んだその声に、すみれは緩く首を振る。

「……いえ」
 むしろ、行く場所がなくて彷徨っていた、とは言えなくて。
 俯くすみれに何を思ったのか、ギーは少しの沈黙の後、やはり穏やかに語りかける。
「部下を付けて家まで送らせる。ちょっと待ってくれ」
 身を捻り、後ろを振り返りかけたギーに、すみれは「結構です」と呟いた。

 ギーに迷惑をかけたくない。ギーだけではない。誰にも。
 今はただ、一人になりたかった。
 一人で、今後の身の振り方を考えたかった。

「だが」
「結構です」
 強い口調になってしまった。
 顔を、上げることができない。
 恩知らずの女だと、思っただろうか。
 それでいい。そうしてすみれに愛想を尽かして、離縁してくれれば。ギーはもっと相応しい相手に巡り合える。
 方向性が定まれば、少しだけ頭が冷静になった。

「筆頭」
「わかっている」
 後ろから急かせる声に、ギーが苛立ったように応える声が聞こえる。
 すみれは着物の袖で涙を拭った。
 いつまでもめそめそしていては、ギーはここを離れられない。
 妻として、忙しい彼の仕事の邪魔だけはしたくない。

「お忙しいでしょう。わたくしのことなど放っておいてください。お仕事へどうぞ」
 地面に手をつき、立ち上がろうとしてふらりとよろけた。しかし。
「放っておけるか」
 強い口調が聞こえたかと思うと、ばさりと降ってきた何かにくるまれた。
 ふわりと香ったのは若竹の香り。
 くるまれたのは、ギーの護警官の制服だ。

「これを着ておけ。触るぞ」
「きゃっ」
 次の瞬間、問答無用で抱き上げられた。

 逞しいギーの腕は、すみれ一人などさほどの重さも感じていないようだ。
 鋼のように、びくともしない。
「このまま行く。案内を、急げ」
「はっ」
 頭を下げた部下が、先に立って歩き始める。
 ギーの大きな体が動く。
 風を切って歩くその速さに自分との違いをまざまざと見せつけられながら、すみれは震える体を抱きしめた。