氷姫の旦那様

 波島実科高等女学校。
 石造りの門に堂々と掲げられた名前を、じっと見上げる。
 ほんのひと月前まで、毎日通っていた場所だ。
 部外者となった今、見慣れたはずの風景がどこか遠く感じて、前へ進む足が鈍る。

 視線を外せば、有名な建築家が手掛けた赤い屋根の木造校舎が見える。特に玄関は太い樫の木の幹を二本使っていて、神社のお社のような構えが学校の自慢だった。
 校舎の入口の前、馬車が通るためのロータリーの中心には、五葉松がどっしりと根を張り、悠々と枝を伸ばしている。第一校舎と第二校舎の間には、銀杏の木が並木道になるように植えられていて、今はきっと眩しいくらいの若葉が風に揺られているはずだ。

 遠くで笛の音が聞こえる。体育の授業を行っているクラスがあるのだろう。
 すみれは目を細め、息を深く吸った。
 校長先生はいるだろうか。
 大学教授からこちらの女学校の校長になった人物で、穏やかで思慮深い人だ。人脈もあり、だからこそすみれがいなくなってもすぐに新しい教師を手配できたのだろう。

 困らせるのは本意ではないけれど、これからの人生がかかっている。どうにか説得して、ここで働かせてもらえるようにしなければ。
 決意を込めて、すみれが腹に力を入れたとき。
 軽やかな鐘の音が響き渡り、授業の終わりを告げた。
 今のチャイムは四時間目の終わり。これから、お昼休憩だ。

 生徒達がぱらぱらと校舎から出てくる。
 その中に、見知った顔があった。
「松葉先生だ!」
 頭にえんじ色のリボンを付けた袴姿の女生徒が、すみれを見つけて駆け寄ってくる。
 校舎の中から顔をのぞかせた同級生も、飛び上がってその後に続いた。
「お久しぶりです、先生」
「氷姫がいなくなって、寂しいったらないです」
「急に学校を辞めちゃったので、驚きました。お元気でしたか?」
「先生の国語の授業、とてもわかりやすくて大好きでした」
 すみれの周りを囲んだ少女達が、元気よく囀る。

 懐かしい。
 教室では、よくこうして生徒達に囲まれたものだ。
 歳が近い教師は、彼女達にとってお姉さんのような存在でもある。
 すみれもまた、彼女達を妹のように大切に思っていた。

「皆さんが元気そうで、わたくしも嬉しいです。新しい先生はまだ学校に慣れてらっしゃらないでしょうから、よくよくお世話をしてあげてくださいね」
「はーい」
 声を揃える生徒達に、すみれは微笑した。
 きらきらと輝く彼女達が可愛らしくて。
 途端、ほうっと少女達からため息が漏れた。うっとりとすみれを見つめる視線には、熱がこもっている。
「氷が溶けた……素敵……」
 呟く声とともに、互いに肘でつつき合う様子に、どうかしただろうかとすみれは首を傾げた。

 それを誤魔化すように、赤いリボンを頭につけた少女が声を上げた。
「先生の旦那様は、どんな方ですか? 先生が急にお辞めになられたので、もしかして駆け落ちかしらって皆で噂してたんです」
「両親の反対を押し切って、本当の愛を見つけた氷姫。ああ、なんて運命的な響き! 歌劇みたい!」
 生徒達は夢見るように瞳を輝かせ、一斉にすみれを見つめる。

 すみれは、うっと詰まった。
 相手は獣人で、自分を金で買っていた、なんて言えない。

 彼女達は、親の決めた相手としか結婚できない。
 身近にいる結婚していった女性達が幸せであることは、自分の未来もきっと幸せだと信じたい彼女達にとって、大切なことだ。

 すみれは着物の袖で口元を隠し、目を細めた。少しでも、照れていると思って欲しくて。
「旦那様は紳士的で、とても優しい方よ。お屋敷も立派で、わたくしによく贈り物をくださるの」
「わあっ、先生から惚気が聞けるなんて!」
「素敵ねえ。先生の旦那様にお会いしてみたいわ!」
 盛り上がる生徒達に、すみれは「さあ」と声をかける。
「お昼休憩中でしょう。お弁当を食べなければ、時間が無くなってしまいますよ」
 途端、生徒達は「そうだった!」と背筋を伸ばした。

 そして、くるりと踵を返す……前にもう一度、すみれを振り返った。
「松葉先生の後任の後藤先生も、とても良い先生なんです。先日は大陸の物語を話してくださって、たいそう面白かったんですよ」
「校長先生の姪御様らしいです。まだ、先生になりたてのようですけれど、一生懸命、教えてくださいます」
「ちょっと天然ですけど、物知りでいらっしゃいます。だから先生は何も心配せず、旦那様と幸せにお過ごしください!」
「先生、それでは失礼します!」
「お元気で!」
「またお会いしましょうね!」
 口々にそう言って笑った少女達は、すみれに手を振って元気よく校舎へと駆け戻っていった。

 後に残されたすみれに、びゅうと音が吹きつけた。
 足を前に踏み出しかけて、それができずに立ち尽くす。

 学校を頼りにしようと思っていた。
 けれど、新しい先生は既にいて、学校に馴染もうと努力している。
 ここですみれが出て行って、生徒達とせっかくできた絆を壊してしまったら、若い教師の芽を摘むことになりはしないか。
 新たな先生に馴染もうとする生徒達の気持ちをくじくことになりはしないか。

 手を繋いだ親子が、わらべ歌を謳いながら通り過ぎていく。
 呑気なラッパを吹く豆腐売りが、リヤカーを押しながら近くの女性に話しかけた。
 着物姿にハンチング帽をかぶった青年が、道端に立つすみれを邪魔そうに見ながら駆け去って行った。

 そもそも校長は、すみれを新たに雇ってくれるだろうか。
 学校は慈善団体ではない。
 すみれの境遇を同情はしてくれるかもしれないが、では毎月の給与を払って雇おうとなるだろうか。
 否、ならないはずだ。
 なぜなら、教師の数は足りているから。

 すみれは自分の浅はかさを恥じた。
 ゆっくりと、足が女学校から遠のいていく。
 ぼんやりと空を見上げると、相変わらずの重苦しい空が広がっていた。
 馬車がすぐそばを通り、土埃を巻き上げた。
 乾いた土の匂いに、すみれは思わずくしゃみをする。

 次に向かうべきは、実家だろうか。
 でも、それには心の準備が欲しい。
 今まで商船の経営を生業としていることくらいしか、家業のことは知らなかった。
 経営が順調だとか、不振だとか、家族の間の会話に昇ることは一切なかった。
 あの独裁的な父が、仕事のことを家族に話すはずがないのだ。

 でも、この結婚のことを知ってしまった以上、すみれは当事者だ。
 知る権利があるはずだ。
 そう思いつつ、白い郵便局のすぐ横にある脇道に入った。
 細く暗い道だけど学校から家までの近道で、女学校までの通勤によく使っていたのだ。
 しかし。

「大人しくしろ」
 不意に、横合いから伸びてきた手に体を掴まれ、強引に口をふさがれた。
 大きな手。腕には毛が生えていて、獣人の男だとわかる。

 何事かと体を固くしたすみれは、とっさにその手に噛みついた。
 動揺した男がすみれから手を離した。
 すみれは振り返る間もなく、その場から路地の奥へと走り出した。
 が。
「鬼ごっこしてる暇はねえんだよ」
 細い路地の向かい側から、別の獣人の男が現れた。

 獣人達はすみれを強引に、近くに止めてあった馬車に連れて行こうとした。
 薄汚れたシャツとカーキ色のズボンを履いた二人組は、その大きな体ですみれの存在を隠すように両側をがっちりと固めていた。

 獣人の爪の生えた手が、すみれの左手首に痛いほど食い込む。
 必死に足を踏ん張ろうとするけれど、獣人の力の強さが何倍も強く、草履がずるりと滑ってしまう。

「あなた方は、誰ですか」
 獣人の知り合いなど、ギーと護警官の関係者しかいない。
 だが、彼らの風貌は危険を取り締まる護警官というよりむしろ、危険を冒す側の者に見える。
 問答無用ですみれをどこかへ連れ去ろうとしているから、なおのこと。

 体を引きずられながら、すみれは必死に男達を見上げた。
「わたくしをどこに連れていくつもりですか」
 すみれの手首を掴む黒い毛並みの獣人が、ぼそりと答えた。
「あんたに恨みはないが、命令だ。大人しくついてくれば怪我はさせない」
「どなたの命令ですか」
「言うと思うか」
 感情のこもらない声は、問いかけても無駄だと言っている。

 すみれは焦った。
 馬車の中に閉じ込められてしまえば、逃げられなくなってしまう。
 馬車が走り出した後、幸運にも馬車から飛び降りることができたとしても、五体満足でいられる保証はない。
 連れて行かれた先が、家に帰ることができる距離かどうかもわからない。

「ほら、乗りな」
 ばたん、と木製のドアを開けた栗色の獣人が、すみれの肩を小突いた。
 馬車の中は、ドアもない真っ暗な空間だった。すみれはとっさに空いている手で胸元を探り、懐紙を丸めて馬車の中に放り込む。
 黒い毛皮の獣人が、すみれを馬車の中へ押し込もうと、腕から手を離した。

 チャンスだ。
 すみれは駆け出そうと、地面を蹴った。
 しかしすぐに襟首を掴まれ、問答無用で引き戻される。

 その力の強さに、首が締まるのを感じながらすみれは必死に叫んだ。
「どなたか! 助けてください!」
「なっ」
 通りを行き交う人々の視線が、一斉にこちらに向けられる。
 すみれは咳き込みながら、なおも叫ぶ。
「ごほっ、襲われて……んん!」
 口をふさがれた。

 でも、腕を振り回し、彼らに捕まっているのは自分の意志でないことを強調する。
「君、大丈夫かい」
 近くにいた中折帽子の紳士が近づいてくる。獣人達は慌てたように「だ、大丈夫です」と手を振る。

「お前達には聞いていない。そのお嬢さんに聞いたんだ」
 ステッキを振り上げ、紳士が厳しい声を出した。
 ちらほらと野次馬達がこちらに近づいてくる。
 好奇心が八割、獣人に対する厳しい視線が二割といったところだ。

 思わぬ注目を浴び、獣人達が焦るのが分かった。
 その隙に。
 すみれは「ありがとうございます!」と頭を下げ、人垣の中を突っ切った。
「あっ、この!」
 獣人達が腕を伸ばすけれど、その手は人間の壁に阻まれる。
 すみれは襟を押さえながら必死にその場を逃げ出した。