氷姫の旦那様

 後に残されたすみれは、呆然とへたりこんだ。
 確かに、不思議だった。
 結婚式には護警官の部下だけが現れ、ギーの親族を名乗る獣人には一人も会わなかった。
 自分の境遇の大転換に、現実を受け止めるだけで精一杯だったけれど、親族が生きているのに結婚式に誰も出席しないだなんておかしい。
 ギーの両親は亡くなっているとミレイに聞いていたけれど、ならばまだ生きている当主たる祖父が、ミレイが、出席しなかったのはなぜだろう。

 それはきっと……すみれが親族から厭われていたからだ。

 すみれは体を丸めて、両手で顔を覆った。

 あの場で、金で買われた花嫁と、どれだけの人が知っていたのだろう。
 いや、結婚式の場だけではない。
 エンヤとシュウレイも、人間が嫌いと言うのは建前で、金と引き換えに山瀬家に嫁いだ事実を知っていたからすみれに対して当たりが強かったのではないか。
 屋敷を訪れる青年護警官達も、実はすみれのことを知っていて。
 知っていて皆、黙ってすみれが先生の役目をしていることを嗤っていたのだろうか。

 ギーは。
 ギーはどんなつもりで。

 嫌な想像は、灰色の雷雲のように急速に広がっていく。

 目の前のテーブルにある紅茶が、波打った気がした。
 いつもは品の良いと思う部屋が、とたんに空々しく感じる。
 客間の革張りのソファは、程よい弾力があり座りやすい。
 ここに座るのは、本来、すみれではなく別の人だったのかもしれない。
 すみれに、座る価値なんてないのかもしれない。

 手が震えた。
 指先が冷たくなり、苦しくなって、自分が息を止めていたことを知る。
「はっ、はっ、はっ」
 胸に手を当て、何度も繰り返し息を吐き出しながら、すみれは潤む視界の中、必死に考えた。

 ギーは金を払ってまで人間と結婚したかったのだろうか。
 獣人にとって、それほどに人間との結婚はメリットのあること……?

 ジンレイ達の話から、ギーは護警官の隊長の中でも最も位の高い地位にいるということは聞いた。
 貴族の人間と結婚すれば、その配偶者として、人間しか出入りの許されていない貴族の社交場に混じることができる。それはおそらく獣人社会ではめったにないことで、そこから開ける好機は計り知れない。
 男なら、地位が高くなれば更に上の地位を目指したくなるはずだと、ジンレイ達は言っていた。部下思いのギーが上の立場になることを、明らかに歓迎していた。

 獣人と結婚する人間など、ほとんど聞いたことがない。
 禁忌とは言わないが、獣人は獣人と、人間は人間と結婚するのが普通だ。
 そこには、純血を求める人間の差別意識がある。
 でも獣人側からすれば、それは金で解決できることなのかもしれない。
 特に、獣人側が出世を望むのなら。

 ああ、そうだ。
 ギーの尻尾はいつでも揺れて、すみれに対して常に警戒していた。
 それは間違いようのない事実だ。

 二人で一緒に出掛けた日、きっとギーはすみれに幻滅したのだろう。
 あれくらいの荒事で怯えるなんて、獣人の妻ならば決してそんなことはないのに、と。
 人間の伴侶なんて迎えなければよかったと後悔したに違いない。
 だから、この屋敷から足が遠のいているのではないだろうか。

 ギーの優しさを感じた瞬間はたくさんあった。
 エンヤとシュウレイの嫌がらせを止めてくれた。
 贈り物も、好みは違えどその気持ちは嬉しかった。
 でもそれも全部、貴族の社交場へ参加するために、すみれの機嫌を取るための偽装だったのか。
 考えれば考えるほど、思考は悪い方へと流れていく。

 すみれは何も持たない。
 獣人のように、体は逞しくないし、美しい毛並みもない。よく聞こえる耳もないし、爪も牙も、暗闇でもよく光る眼さえ持っていない。
 おまけに不愛想で、気の利いたお世辞を言うことも、愛想笑いの一つもできない。
 ギーが好ましく思うところなんて、きっと一つも持っていない。
 
 すみれはよろりと立ち上がった。
 この屋敷にはいられない。
 商売が傾いているという父はきっと、ギーにこれからも金の支払いを求めるだろう。
 これ以上、あの可愛い狼に迷惑をかけるわけにはいかない。
 まずは父に説明を求め、最終的にギーに離縁してもらわなければ。
 すみれに利用価値があるとはいえ、ミレイが言うように、彼にはもっと相応しい相手がいるはずだ。

 余程、ひどい顔をしていたのだろうか。
 ミレイを見送って戻ってきたエンヤとシュウレイに、何を話していたのかと聞かれた。
 すみれは緩く首を振った。そして、できるだけいつも通りを装って口を開く。
「疲れたので自室で休みます。わたくしのことは気にせず、屋敷のことをお願いね」
 女主人にそう言われたら、二人は黙って退きさがるしかない。

 二人が広い屋敷の掃除に戻ったのを見計らって、自室で少しの荷物をまとめたすみれは、静かに玄関の戸を開けた。


***

 雨が降るほどではないが、空は鉛色の雲に覆われていた。
 頬を撫でる風は、湿り気を含んで冷ややかだ。
 住宅街なのでそれほど人通りがない、とはいえ、御用聞きや馬車は通る。
 正門から出てすぐ目の前を通り過ぎようとした一人掛け用の人力車を止め、すみれはさっと乗り込んだ。

 まず、元の勤め先である女学校へ行くことを決めた。
 一度断られたけれどもう一度、働かせてもらいたいと頼みに行くことが目的だ。

 金で買われた妻、と呼ばれることは、どうしても受け入れがたい。
 教師として給料をもらって、一人で生きて行こう。そしてその給料の中から、ギーが松葉家に支払ったお金を、少しずつでも返していこうと思う。
 教師の給料は月に約二十円。一万円なんて大金を返すのに何年かかるかわからないけれど、護警官の職にあるギーに人身売買のようなことはさせられない。

 いつもより高くなった視界は、世界をより遠くまで見渡せる。
 顔に当たる冷たい春の風が、しゃんとしろと語りかけてくるようだ。
 人波を避ける人力車の車輪の音と振動に、無意識に背筋が伸びる。
 流れる風景を見るともなしに眺めていると、ギーに手を取られ、寄り添いながら歩いたデパートの前を通り過ぎた。

 あの日は、夢の中にいるかのようだった。
 楽しくて、嬉しくて、もっと大げさに感情表現が出来たら、ギーは喜んでくれただろうかと一人、屋敷の中にいて何度も思った。

 今はただ、一人で生きていくことを考える。
 誰にも迷惑をかけずに、誰かの思惑に惑わされることなく、淡々と、孤独に生きて孤独に死にたい。
「……強くなりなさい。強く。誰にも、侮られないように」
 口の中で呟いた言葉を、人力車の車夫が「なんですって?」とぶっきらぼうに聞き返した。