ミレイが屋敷を訪ねて来たのは、ギーと顔を合わせなくなって十二日目のことだった。
ギーの叔母であり、この屋敷の管理人であるミレイは、金の房飾りのついたオレンジ色のドレスに身を包んでいた。劇場で見た貴婦人の誰よりも派手だ。
「今日も陰気くさい顔ね。見てるだけで気が滅入るわ」
顔をしかめながら、紅茶を啜る。
ミレイが人払いをしたので、客間にはミレイとすみれの二人きりだ。
すみれは静かに対面のソファに座り、何と応えたものかと思案した。
正直、口での攻撃は怖くない。先日の狼達の暴力的な戦いの方がよほど怖い。
しかし、すみれが口を開くより先に、ミレイが険しい顔で吐き捨てる。
「あなたの口はお飾りなの? 何とか言いなさいよ」
「いえ、でも」
「正直に言いなさい。そうでないと、その目をくりぬくわよ」
狼の目で睨みつけられ、すみれは少しの間を置いて口を開いた。
何故かはわからないが、ミレイには最初から嫌われているのだ。
今さら正直に本音を話したところで、評価が更に下がるとも思えない。
「気が滅入るのなら見なければいいのに、と思います。わたくしのことはお構いなく」
「なっ」
軽く頭を下げると、ミレイの目が大きく見開かれた。
もしかしたらギーへ何事かを進言されるかもしれないが、当のギーとまともに話もできない現状でそれはむしろ、歓迎すべきことだと思った。
何を考えているのか、わからないギーが悪い。
もちろん、仕事が忙しいだろう。漉防隊と名乗ったあの日本刀を携えて突撃してきた男達が、簡単に消滅するわけがない。
護警官の役目は、県令の身を守ることと、市民の命を守ること。
立派な仕事だと思う、けれど。
もう二週間近く経つ。二週間も、会っていない。
どういうつもりかと腹立たしい気持ちと。
もう、あのデパートに連れて行ってくれたときのような、二人が寄り添い合う日は来ないのかという不安が日々、大きくなっていく。
わなわなと震えていたミレイが、勢いよく立ち上がった。
「本当に失礼な娘! これだから人間は嫌なのよ、非常識で、年上を年上とも思わない! 私はギーの叔母なのよ! もっと敬いなさいよ!」
鋭い犬歯をむき出しにし、今にも噛みつかんばかりに吠える。
扇子を突きつけ、怒鳴る獣人は女性とはいえ迫力がある。
獣人の存在には、エンヤやシュウレイ、ジンレイ達の存在で随分と慣れたつもりだ。
それでも、怒鳴られれば怖い。
牙が、爪が、襲いかかってくれば、すみれに避ける力はない。
思わずびくりと肩が動いたすみれに、ミレイは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
そして、気を取り直したように咳払いをする。
「そうそう、今日はね、これを持ってきたの」
すとん、とソファに座りなおしたミレイが、ハンドバッグの中をごそごそと漁った。
そして、半切れの紙をすみれに差し出す。
受け取ってみると、それは蔦の模様が印刷された厚紙で、「領収書」と書かれていた。
金額は一万円。
支払者は、山瀬義一郎。
受取人は、松葉平蔵。すみれの父だ。
どちらも違う筆跡で、万年筆でサインがされている。
一万円といえば、ひと月分の生活費が三十円ほどの時代に、家が建てられる金額だ。
ギーが、すみれの父に大きな金を支払っている。
なんのために?
意味が分からず手元の紙をじっと見つめるすみれに、ミレイが囁いた。
「それを手に入れるのには苦労したのよ。人間の小さな住処なんかに行きたくなかったんだけど、あなたのお父さんを説得するために、ね」
「どういうこと、ですか」
貴族の娘は表情を表に出してはならない。
そう教えられて育ってきたから表情筋を動かすことはしないけれど、心の中は疑問符だらけだ。
ミレイは笑った。
「それはね、ギーがあなたを買ったお金なの」
愉悦を含んだ、耳に触る声。
すみれがその言葉を理解する前に、ミレイは続ける。
「あなたのお父さんが山瀬家に縁談の話を持って来たとき、ギーは渋ったそうよ。そりゃそうよね、ギーは女なら選び放題の将来有望な雄狼ですもの」
「……」
「あなたのお父さんはね、娘と引き換えにお金を要求したの。商売で作った多額の借金を返さなきゃいけいから、ですって。人間様が、獣人に頭を下げていたのよ。優しいギーは断りきれなかったらしいわ」
「借金……?」
「まあ、知らないの? 親の事業が傾いているかぐらい、家族なら知ってるでしょ」
すみれは一つ、まばたきをした。
初めて聞く話に頭の中が真っ白で、ただただじっと、領収書の文字を見つめるしかない。
すみれを気遣うように、上目づかいでミレイが囁く。
視界の端で、真っ赤な口が愉悦に歪む。
「なぜ、お父さんが人間ではなく獣人に話を持ってきたかって? それはね、氷姫なんて呼ばれる愛想なしの下級貴族の娘なんて、引き取りたいと思う人間が誰もいなかったからよ。おまけに、金をせびられるんでしょ。無理無理」
すみれは、微動だにせずミレイの言葉を聞いていた。
ミレイは扇子を口元に当てて、くすくすと笑った。
「ま、ギーも人間と結婚することで仕事上の利点があったのが決断理由らしいわ。何せ、うちのギーは山瀬家の次期御当主様で、お金ならたくさん持ってるもの」
胸を張るミレイは、誇らしげに鼻を鳴らした。
窓から吹きこむ風が、白いカーテンをふわりと膨らませた。
外は、どんよりとした曇り空だ。
涼しくていい天気ね、と呑気に空を見上げていた朝の自分が、今のこの状況を見たらどう思うだろうか。
すみれは自分が今、どんな顔をしているのかわからなかった。
ミレイの言うことが本当かどうか、わからない。
わからないけれど、彼女の言うことは一理ある気がして完全に否定もできなかった。
ミレイは鼻を鳴らした。
「でもね、ギーにはやっぱり、獣人のお嫁さんが良いと思うの。あなたみたいな生意気な無表情女より、毛並が艶やかで爪のお手入れも完璧な良家のお嬢さんの方が、ギーの隣に立つには相応しいわ。私とも仲良くできるだろうし」
しんとした客間に、ミレイのねっとりとした声だけが響く。
すみれはギーを思い浮かべる。
あの大きな体の隣に並ぶと、すみれは確かに細く、頼りない。
もし、ギーが腕に力を込めればすみれの腕など簡単に、折れてしまうだろう。
第一、彼には金で買った女を丁寧に扱う義理はない。
実家が傾いていたことなど知らなかったが、この結婚を成功させることを父が望んでいたことは知っている。
裏にそんな事情があったのなら、早く打ち明けて欲しかった。
そうすれば。
ギーの帰りがなく、心が落ち着かない日々を過ごすこともなかったのに。
一緒に出掛けたあの日、ギーを可愛いと思うこともなかったのに。
「ねえ、すみれさん。あなた、このままでいいと思っているの?」
「え?」
心の中は嵐のようで、一瞬、反応が遅れた。
それをうっとりとした表情で眺めたミレイは、親切ごかした口調で囁いた。
「お情けで妻の座を手に入れておいて、あなた、まだ偉そうにこの家で女主人を続けるつもりかしら」
扇子を口に当て、目を眇めるミレイから、すみれは視線を外した。
ギーの意志を確認しようにも、ギーはすみれの前に姿を現さない。
それが何よりの答えな気がして、だんだんと、すみれの体から力が抜けていく。
ミレイはぱちん、と扇子を閉じた。そして、
「まあ、しっかり考えることね。ギーは優しいけれど、山瀬の家はあなたを歓迎していない。結婚式にだって親族は来なかったでしょ。それが答えよ」
その言葉は、すみれの心をぐさりと貫いた。
ミレイはそう言い置くと、すみれの手から領収書をひったくって、足取りも軽く部屋を出て行った。
ギーの叔母であり、この屋敷の管理人であるミレイは、金の房飾りのついたオレンジ色のドレスに身を包んでいた。劇場で見た貴婦人の誰よりも派手だ。
「今日も陰気くさい顔ね。見てるだけで気が滅入るわ」
顔をしかめながら、紅茶を啜る。
ミレイが人払いをしたので、客間にはミレイとすみれの二人きりだ。
すみれは静かに対面のソファに座り、何と応えたものかと思案した。
正直、口での攻撃は怖くない。先日の狼達の暴力的な戦いの方がよほど怖い。
しかし、すみれが口を開くより先に、ミレイが険しい顔で吐き捨てる。
「あなたの口はお飾りなの? 何とか言いなさいよ」
「いえ、でも」
「正直に言いなさい。そうでないと、その目をくりぬくわよ」
狼の目で睨みつけられ、すみれは少しの間を置いて口を開いた。
何故かはわからないが、ミレイには最初から嫌われているのだ。
今さら正直に本音を話したところで、評価が更に下がるとも思えない。
「気が滅入るのなら見なければいいのに、と思います。わたくしのことはお構いなく」
「なっ」
軽く頭を下げると、ミレイの目が大きく見開かれた。
もしかしたらギーへ何事かを進言されるかもしれないが、当のギーとまともに話もできない現状でそれはむしろ、歓迎すべきことだと思った。
何を考えているのか、わからないギーが悪い。
もちろん、仕事が忙しいだろう。漉防隊と名乗ったあの日本刀を携えて突撃してきた男達が、簡単に消滅するわけがない。
護警官の役目は、県令の身を守ることと、市民の命を守ること。
立派な仕事だと思う、けれど。
もう二週間近く経つ。二週間も、会っていない。
どういうつもりかと腹立たしい気持ちと。
もう、あのデパートに連れて行ってくれたときのような、二人が寄り添い合う日は来ないのかという不安が日々、大きくなっていく。
わなわなと震えていたミレイが、勢いよく立ち上がった。
「本当に失礼な娘! これだから人間は嫌なのよ、非常識で、年上を年上とも思わない! 私はギーの叔母なのよ! もっと敬いなさいよ!」
鋭い犬歯をむき出しにし、今にも噛みつかんばかりに吠える。
扇子を突きつけ、怒鳴る獣人は女性とはいえ迫力がある。
獣人の存在には、エンヤやシュウレイ、ジンレイ達の存在で随分と慣れたつもりだ。
それでも、怒鳴られれば怖い。
牙が、爪が、襲いかかってくれば、すみれに避ける力はない。
思わずびくりと肩が動いたすみれに、ミレイは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
そして、気を取り直したように咳払いをする。
「そうそう、今日はね、これを持ってきたの」
すとん、とソファに座りなおしたミレイが、ハンドバッグの中をごそごそと漁った。
そして、半切れの紙をすみれに差し出す。
受け取ってみると、それは蔦の模様が印刷された厚紙で、「領収書」と書かれていた。
金額は一万円。
支払者は、山瀬義一郎。
受取人は、松葉平蔵。すみれの父だ。
どちらも違う筆跡で、万年筆でサインがされている。
一万円といえば、ひと月分の生活費が三十円ほどの時代に、家が建てられる金額だ。
ギーが、すみれの父に大きな金を支払っている。
なんのために?
意味が分からず手元の紙をじっと見つめるすみれに、ミレイが囁いた。
「それを手に入れるのには苦労したのよ。人間の小さな住処なんかに行きたくなかったんだけど、あなたのお父さんを説得するために、ね」
「どういうこと、ですか」
貴族の娘は表情を表に出してはならない。
そう教えられて育ってきたから表情筋を動かすことはしないけれど、心の中は疑問符だらけだ。
ミレイは笑った。
「それはね、ギーがあなたを買ったお金なの」
愉悦を含んだ、耳に触る声。
すみれがその言葉を理解する前に、ミレイは続ける。
「あなたのお父さんが山瀬家に縁談の話を持って来たとき、ギーは渋ったそうよ。そりゃそうよね、ギーは女なら選び放題の将来有望な雄狼ですもの」
「……」
「あなたのお父さんはね、娘と引き換えにお金を要求したの。商売で作った多額の借金を返さなきゃいけいから、ですって。人間様が、獣人に頭を下げていたのよ。優しいギーは断りきれなかったらしいわ」
「借金……?」
「まあ、知らないの? 親の事業が傾いているかぐらい、家族なら知ってるでしょ」
すみれは一つ、まばたきをした。
初めて聞く話に頭の中が真っ白で、ただただじっと、領収書の文字を見つめるしかない。
すみれを気遣うように、上目づかいでミレイが囁く。
視界の端で、真っ赤な口が愉悦に歪む。
「なぜ、お父さんが人間ではなく獣人に話を持ってきたかって? それはね、氷姫なんて呼ばれる愛想なしの下級貴族の娘なんて、引き取りたいと思う人間が誰もいなかったからよ。おまけに、金をせびられるんでしょ。無理無理」
すみれは、微動だにせずミレイの言葉を聞いていた。
ミレイは扇子を口元に当てて、くすくすと笑った。
「ま、ギーも人間と結婚することで仕事上の利点があったのが決断理由らしいわ。何せ、うちのギーは山瀬家の次期御当主様で、お金ならたくさん持ってるもの」
胸を張るミレイは、誇らしげに鼻を鳴らした。
窓から吹きこむ風が、白いカーテンをふわりと膨らませた。
外は、どんよりとした曇り空だ。
涼しくていい天気ね、と呑気に空を見上げていた朝の自分が、今のこの状況を見たらどう思うだろうか。
すみれは自分が今、どんな顔をしているのかわからなかった。
ミレイの言うことが本当かどうか、わからない。
わからないけれど、彼女の言うことは一理ある気がして完全に否定もできなかった。
ミレイは鼻を鳴らした。
「でもね、ギーにはやっぱり、獣人のお嫁さんが良いと思うの。あなたみたいな生意気な無表情女より、毛並が艶やかで爪のお手入れも完璧な良家のお嬢さんの方が、ギーの隣に立つには相応しいわ。私とも仲良くできるだろうし」
しんとした客間に、ミレイのねっとりとした声だけが響く。
すみれはギーを思い浮かべる。
あの大きな体の隣に並ぶと、すみれは確かに細く、頼りない。
もし、ギーが腕に力を込めればすみれの腕など簡単に、折れてしまうだろう。
第一、彼には金で買った女を丁寧に扱う義理はない。
実家が傾いていたことなど知らなかったが、この結婚を成功させることを父が望んでいたことは知っている。
裏にそんな事情があったのなら、早く打ち明けて欲しかった。
そうすれば。
ギーの帰りがなく、心が落ち着かない日々を過ごすこともなかったのに。
一緒に出掛けたあの日、ギーを可愛いと思うこともなかったのに。
「ねえ、すみれさん。あなた、このままでいいと思っているの?」
「え?」
心の中は嵐のようで、一瞬、反応が遅れた。
それをうっとりとした表情で眺めたミレイは、親切ごかした口調で囁いた。
「お情けで妻の座を手に入れておいて、あなた、まだ偉そうにこの家で女主人を続けるつもりかしら」
扇子を口に当て、目を眇めるミレイから、すみれは視線を外した。
ギーの意志を確認しようにも、ギーはすみれの前に姿を現さない。
それが何よりの答えな気がして、だんだんと、すみれの体から力が抜けていく。
ミレイはぱちん、と扇子を閉じた。そして、
「まあ、しっかり考えることね。ギーは優しいけれど、山瀬の家はあなたを歓迎していない。結婚式にだって親族は来なかったでしょ。それが答えよ」
その言葉は、すみれの心をぐさりと貫いた。
ミレイはそう言い置くと、すみれの手から領収書をひったくって、足取りも軽く部屋を出て行った。
