石造りの保護所に、固いブーツの音が響く。
罪人たちを刑務所に移送するまでの一時待機所、とはいえ、罪がほぼ確定した輩を閉じ込めておくための檻だ。
六つある部屋の換気のための窓は一つしかなく、水の腐臭と、カビの臭い、それから垢と汚物の臭いが沈殿している。
罪人を精神的に追い詰めることもまた、この檻の役割なので、この保護所が綺麗に磨かれることはない。
ばらばらと響く足音が、最奥の檻の前でぴたりと止まった。
「竹下、今日は良い情報が入った。聞かせてやろう」
ケイリュウが先頭に立ち、囚人に話しかける。
その後ろで部下に護られながら、ギーは地面に蹲る人間を睥睨した。
獣人達は皆、白い布で鼻を覆っている。
鼻の良い獣人にとって、この保護所の臭いは耐え難い苦痛だ。
「筆頭自ら? 三森の行方でもわかったか。俺は拷問されようが、三森の居場所は吐かないぞ」
漉防隊のナンバーツーである竹下が、ギーを指差し、にやりと笑う。
潜伏先の漁師小屋から引きずり出されたとき、髭は伸び、髪はぼさぼさだった齢三十の男は今、ハンガーストライキを決行している。
骨と皮になっているその体は今や仙人のような容貌になっているけれど、本人の鋭い眼光は力を失わずにぎらぎらと光っている。
思想家は厄介だ。
頭の中を開いてその暴力的思考を取り出し、矯正すことができないから。
ギーはケイリュウの肩を押して前に出た。ケイリュウは何も言わずに、頭を下げて後ろに下がる。
白い布の下から、ギーは低い声で囚人に話しかける。
「先日の歌劇場への襲撃でおおかたの兵士は捕縛した。頭を失った組織は腕力に頼るしかなくなるのが辛いところだな。計画性も、実行力も未熟で話にならない」
畳三畳しかない狭い保護所の入口には、獣人の体は入らない。
だからこそ格子越しで決して危害を加えられないとわかっている竹下が、獣人達をバカにするように鼻で笑った。
「岩永さん(リーダー)がいなくても、漉防隊は不滅だ。その志を継ぎ、必ずやこの国を矯正する」
しわがれた声には、妙に迫力がある。
背水の陣に生きる者の覚悟を感じさせる声だ。
ギーはつまらなさそうに鼻を鳴らした。そして。
「お前には妹がいるな。お前が親代わりになって、幼い頃から育てた妹が」
その声は不気味なくらい低く、静かだった。
竹下がはっと息を飲む音が、石造りの狭い空間に響いた。
「磐手(いわて)の山奥に嫁いだそうだな。夫の名は、浅岡英輔。戸籍を誤魔化したのはお前だろう。追うのに苦労した」
竹下がギーを睨みつける。その目は、射殺せるものならそうしているといわんばかりだ。
「イヌコロが……美代に、なにをした」
ギーはそれには答えなかった。代わりに、冷えた眼差しを向ける。
「この浅岡という男、すこぶる評判が悪いそうでな。先祖から受け継いだ農地を売り払って金に換え、博打と酒代にすべてつぎこんでいるらしい」
「そんなはずはない。英輔は、俺の大学時代の友人で」
「人間、環境が変われば人格も変わる。お前もそうだろう」
淡々としたギーの口調に、竹下が怒鳴り声を上げようとした。
しかしそれより先に、ギーは続けた。
「美代さんは苦労しているらしい。幼い子供二人を抱えて、夫から暴力を受けながら、安い日雇いの仕事を掛け持ちしているという。夫の両親も嫁の収入に頼りきりで、ろくに働かない。浅岡家は腐っても先祖代々続く名家らしいな。集落の人間は皆、美代さんの窮状を見て見ぬふりをしている」
牢のどこかで、ぴちょん、と水が跳ねる音がした。
「あれはまあ、まず間違いなく心と体を壊すだろう。時間の問題だ」
「……何が、言いたい」
竹下が獣のように唸った。
床を掴む手には血管が浮き、激情を押さえ込んでいるのが分かる。
今までの取り調べでは飄々として、護警官をバカにさえしていた男とは思えない。
ギーはちらりとも表情を変えず、琥珀色の瞳で囚人を見下ろした。
「取引をしないか。三森の居場所を吐けば、美代さんを保護する。浅岡と離縁させ、永崎に連れてくる」
「イヌコロが偉そうに……人間に取引を持ちかけるか」
憎々しげに睨みつけてくる竹下に、ギーは平坦な声で応えた。
「少なくとも、牢の中で餓死を選ぶよりはマシな結果になると思うが。何の非もない一般市民を無差別に殺したお前とは違い、我々には困窮の中にある女性を一人、救う力がある」
「俺達の、崇高な使命に、肉親の情など……」
竹下の視線が初めて揺らいだ。
ギーの後ろに並んだ三人の護警官は、後ろで手を組み微動だにしない。
呼吸の音さえ聞こえる沈黙が落ちた後、ギーは踵を返した。
「お前が美代さんを選ばなくとも問題はない。こちらの選択肢はそれ一つではない」
冷え冷えとした声は愉悦を含み、保護所の石の壁に染みこんだ。
ギーの体から発せられる威圧感に、後ろで待機する護警官達さえごくりと喉を鳴らす。
保護所を出て、部下には各自の仕事に戻るよう指示した。うち一人は保護所の門番だ。
外に出て白布を取り、新鮮な空気を肺一杯に吸い込む。体の中までしみこんでいた淀んだ空気が、一掃される気がする。
いつ、漉防隊の残党が幹部である竹下を取り返しに来るかわからない。リーダーの岩永は既に刑務所に移送してある。鉄壁の守りを誇る刑務所には、そう簡単に手出しできない。
護警所の廊下を歩くギーの後ろにつくのは、副官のケイリュウだけだ。
窓から差し込む夕日が眩しい。
四月も半ばになり、日が長くなった。
芽吹きの季節、県庁の庭にも花が咲き乱れる季節だというのに、漉防隊が次々と事件を起こすせいで、それらを愛でる暇もない。
「筆頭」
「なんだ」
ふと、後ろからケイリュウの声がした。
「最近、やけに遅くまで残っている気がしていたが、守衛のミサギがここ数日、筆頭が家に帰ってないんじゃないかと心配していた。確かに漉防隊関連で余計な仕事が増えてやることは山積みだが…少しは体を労れ」
西日に目を細めていたギーの広い背中が、ぴくりと動いた。
「確かに俺達は体が丈夫だが慢心はいかん。特に、上に立つ者の健康管理は仕事のうちだぞ」
偉そうに説教できるのは、ケイリュウがギーの友人だからだ。
普通の獣人なら、ギーの恐ろしさをしっているぶん軽口を叩いたりはしない。
「……嫌われた」
隊長室へと向かう階段を昇りながら、ぼそりとギーが呟いた。
一瞬、何のことかわからずケイリュウがぽかんと口を開けた。
「竹下に?」
「すみれさんに、だ」
間髪入れずに返すと、呆れたため息が返ってきた。
「お前、まだそんなこと言ってるのか。まさか、さっきもずっとそんなことを考えながら尋問してたのか」
呆れた声が後ろから聞こえて、ギーは俯いた。
「すみれさんを怯えさせてしまった。あんな、戦いの後で血を浴びていて、普通の人間なら怯えて当然なのに、考えが至らなかった……」
「俺はその話をすでに百回は聞いているが、あれから何日経ったと思っている。十日だぞ。岩永や竹下のことでこちらも忙しかったが、いい加減、ぐちぐちしてみっともない」
呆れた声が隣に並ぶ。
すれ違った部下が頭を下げ、二人が通り過ぎるのを待つ。
それに手を上げて応え、ケイリュウは隣を歩く上司の肩をたたいた。
「おい、何とか言えよ」
「……俺は、すみれさんに相応しくない男だ」
ぼそぼそと返ってきた声に、ケイリュウはがしがしと頭をかいた。
さっき、保護所で凶悪犯を前にしていた筆頭隊長とは思えない。皆、固唾を飲んで御警所筆頭隊長の背中を見つめていたというのに。
「お前、恋をするとこんなに拗らせる男だったんだな……長い付き合いだが、こんなになったギーは初めて見た」
「笑いたいなら笑え」
「笑わないよ」
胡乱な眼差しを向けるギーの耳が、珍しくぺしょりと寝ている。
大人になってからは感情の制御ばかりが上手くなって、耳も尻尾も言うことを聞かないということは一切なかったのに。
「ただ、奥さんの気持ちも考えてやれ。十日も放置されて、暇を持て余してるんじゃないか」
「そのためにジンレイを動かした。今では読み書き教室が開かれている。若狼がつめかけて、屋敷はずいぶんと賑やかだそうだ。良い暇つぶしになっている、と思う。……すみれさんが教師役だなんて、羨ましい……」
ぎゅっと握った拳には血管が浮いている。林檎を持っていたら軽く握りつぶしてジュースにできそうだ。
ケイリュウの鼻筋に皺が寄った。
「逐一報告させてるのか、お前……若狼とはいえ、亭主の留守中に男が上がりこんでよく嫉妬しなかったな」
「屋敷にはエンヤとシュウレイがいる。彼女達は男顔負けの武術の使い手だから、あいつらなぞ十秒で拘束できる」
「そ、そうか。万全の体制なんだな」
ぼそぼそと物騒なことを呟く親友に、ケイリュウは頭の後ろの毛が逆立つ気がした。
元来、ギーは完璧主義者だ。
己に課せられた使命は完璧以上にこなし、部下の能力が不足していたらそれをカバーできる力がある。
調査し、計画し、下準備をし、実行に移す。その繰り返しである護警官の中でも常に冷静沈着で、確実に成果を出す狼は、約三千人いる護警官にもそう多くはない。
ケイリュウには、ギーはいつか護警官の頂点に昇りつめるだろうと確信している。
そのギーが。長年の恋を実らせ結婚し、さぞ幸せの絶頂にいるだろうと思っていたら、情緒不安定になってばかりいる。初めて見る親友の姿に、ケイリュウは若干引いていた。
「それでも、奥さんとの距離が遠くなって良いことはないだろう。ギーは奥さんに会いたくないのか?」
「会いたいに決まっている!」
途端、帰ってきた大声に目を丸くする。
ギーは憂える眼差しで窓の外を見た。
「化け物を見る目で人間に見られるのは慣れている。しかし、すみれさんだけは怯えさせたくないんだ。彼女だけは、幸せに笑っていてほしい」
一転して静かな口調は、それだけ彼が真剣だということ。
気に入った物を懐に囲い込む癖がある友人が、今回だけは違う行動をしている。
それほどに、すみれが大事な存在なのだろう。
ケイリュウは笑えてきた。
恋愛如きに、これほどまでに真剣に悩める親友が微笑ましくて。
悲惨な現場に否が応でも駆り出される護警官として、それとは別の世界に想いを馳せられるのはある意味、とても羨ましい。
「こじらせてるねえ」
ケイリュウは隣にある肩を、ぽんぽんと叩いた。
罪人たちを刑務所に移送するまでの一時待機所、とはいえ、罪がほぼ確定した輩を閉じ込めておくための檻だ。
六つある部屋の換気のための窓は一つしかなく、水の腐臭と、カビの臭い、それから垢と汚物の臭いが沈殿している。
罪人を精神的に追い詰めることもまた、この檻の役割なので、この保護所が綺麗に磨かれることはない。
ばらばらと響く足音が、最奥の檻の前でぴたりと止まった。
「竹下、今日は良い情報が入った。聞かせてやろう」
ケイリュウが先頭に立ち、囚人に話しかける。
その後ろで部下に護られながら、ギーは地面に蹲る人間を睥睨した。
獣人達は皆、白い布で鼻を覆っている。
鼻の良い獣人にとって、この保護所の臭いは耐え難い苦痛だ。
「筆頭自ら? 三森の行方でもわかったか。俺は拷問されようが、三森の居場所は吐かないぞ」
漉防隊のナンバーツーである竹下が、ギーを指差し、にやりと笑う。
潜伏先の漁師小屋から引きずり出されたとき、髭は伸び、髪はぼさぼさだった齢三十の男は今、ハンガーストライキを決行している。
骨と皮になっているその体は今や仙人のような容貌になっているけれど、本人の鋭い眼光は力を失わずにぎらぎらと光っている。
思想家は厄介だ。
頭の中を開いてその暴力的思考を取り出し、矯正すことができないから。
ギーはケイリュウの肩を押して前に出た。ケイリュウは何も言わずに、頭を下げて後ろに下がる。
白い布の下から、ギーは低い声で囚人に話しかける。
「先日の歌劇場への襲撃でおおかたの兵士は捕縛した。頭を失った組織は腕力に頼るしかなくなるのが辛いところだな。計画性も、実行力も未熟で話にならない」
畳三畳しかない狭い保護所の入口には、獣人の体は入らない。
だからこそ格子越しで決して危害を加えられないとわかっている竹下が、獣人達をバカにするように鼻で笑った。
「岩永さん(リーダー)がいなくても、漉防隊は不滅だ。その志を継ぎ、必ずやこの国を矯正する」
しわがれた声には、妙に迫力がある。
背水の陣に生きる者の覚悟を感じさせる声だ。
ギーはつまらなさそうに鼻を鳴らした。そして。
「お前には妹がいるな。お前が親代わりになって、幼い頃から育てた妹が」
その声は不気味なくらい低く、静かだった。
竹下がはっと息を飲む音が、石造りの狭い空間に響いた。
「磐手(いわて)の山奥に嫁いだそうだな。夫の名は、浅岡英輔。戸籍を誤魔化したのはお前だろう。追うのに苦労した」
竹下がギーを睨みつける。その目は、射殺せるものならそうしているといわんばかりだ。
「イヌコロが……美代に、なにをした」
ギーはそれには答えなかった。代わりに、冷えた眼差しを向ける。
「この浅岡という男、すこぶる評判が悪いそうでな。先祖から受け継いだ農地を売り払って金に換え、博打と酒代にすべてつぎこんでいるらしい」
「そんなはずはない。英輔は、俺の大学時代の友人で」
「人間、環境が変われば人格も変わる。お前もそうだろう」
淡々としたギーの口調に、竹下が怒鳴り声を上げようとした。
しかしそれより先に、ギーは続けた。
「美代さんは苦労しているらしい。幼い子供二人を抱えて、夫から暴力を受けながら、安い日雇いの仕事を掛け持ちしているという。夫の両親も嫁の収入に頼りきりで、ろくに働かない。浅岡家は腐っても先祖代々続く名家らしいな。集落の人間は皆、美代さんの窮状を見て見ぬふりをしている」
牢のどこかで、ぴちょん、と水が跳ねる音がした。
「あれはまあ、まず間違いなく心と体を壊すだろう。時間の問題だ」
「……何が、言いたい」
竹下が獣のように唸った。
床を掴む手には血管が浮き、激情を押さえ込んでいるのが分かる。
今までの取り調べでは飄々として、護警官をバカにさえしていた男とは思えない。
ギーはちらりとも表情を変えず、琥珀色の瞳で囚人を見下ろした。
「取引をしないか。三森の居場所を吐けば、美代さんを保護する。浅岡と離縁させ、永崎に連れてくる」
「イヌコロが偉そうに……人間に取引を持ちかけるか」
憎々しげに睨みつけてくる竹下に、ギーは平坦な声で応えた。
「少なくとも、牢の中で餓死を選ぶよりはマシな結果になると思うが。何の非もない一般市民を無差別に殺したお前とは違い、我々には困窮の中にある女性を一人、救う力がある」
「俺達の、崇高な使命に、肉親の情など……」
竹下の視線が初めて揺らいだ。
ギーの後ろに並んだ三人の護警官は、後ろで手を組み微動だにしない。
呼吸の音さえ聞こえる沈黙が落ちた後、ギーは踵を返した。
「お前が美代さんを選ばなくとも問題はない。こちらの選択肢はそれ一つではない」
冷え冷えとした声は愉悦を含み、保護所の石の壁に染みこんだ。
ギーの体から発せられる威圧感に、後ろで待機する護警官達さえごくりと喉を鳴らす。
保護所を出て、部下には各自の仕事に戻るよう指示した。うち一人は保護所の門番だ。
外に出て白布を取り、新鮮な空気を肺一杯に吸い込む。体の中までしみこんでいた淀んだ空気が、一掃される気がする。
いつ、漉防隊の残党が幹部である竹下を取り返しに来るかわからない。リーダーの岩永は既に刑務所に移送してある。鉄壁の守りを誇る刑務所には、そう簡単に手出しできない。
護警所の廊下を歩くギーの後ろにつくのは、副官のケイリュウだけだ。
窓から差し込む夕日が眩しい。
四月も半ばになり、日が長くなった。
芽吹きの季節、県庁の庭にも花が咲き乱れる季節だというのに、漉防隊が次々と事件を起こすせいで、それらを愛でる暇もない。
「筆頭」
「なんだ」
ふと、後ろからケイリュウの声がした。
「最近、やけに遅くまで残っている気がしていたが、守衛のミサギがここ数日、筆頭が家に帰ってないんじゃないかと心配していた。確かに漉防隊関連で余計な仕事が増えてやることは山積みだが…少しは体を労れ」
西日に目を細めていたギーの広い背中が、ぴくりと動いた。
「確かに俺達は体が丈夫だが慢心はいかん。特に、上に立つ者の健康管理は仕事のうちだぞ」
偉そうに説教できるのは、ケイリュウがギーの友人だからだ。
普通の獣人なら、ギーの恐ろしさをしっているぶん軽口を叩いたりはしない。
「……嫌われた」
隊長室へと向かう階段を昇りながら、ぼそりとギーが呟いた。
一瞬、何のことかわからずケイリュウがぽかんと口を開けた。
「竹下に?」
「すみれさんに、だ」
間髪入れずに返すと、呆れたため息が返ってきた。
「お前、まだそんなこと言ってるのか。まさか、さっきもずっとそんなことを考えながら尋問してたのか」
呆れた声が後ろから聞こえて、ギーは俯いた。
「すみれさんを怯えさせてしまった。あんな、戦いの後で血を浴びていて、普通の人間なら怯えて当然なのに、考えが至らなかった……」
「俺はその話をすでに百回は聞いているが、あれから何日経ったと思っている。十日だぞ。岩永や竹下のことでこちらも忙しかったが、いい加減、ぐちぐちしてみっともない」
呆れた声が隣に並ぶ。
すれ違った部下が頭を下げ、二人が通り過ぎるのを待つ。
それに手を上げて応え、ケイリュウは隣を歩く上司の肩をたたいた。
「おい、何とか言えよ」
「……俺は、すみれさんに相応しくない男だ」
ぼそぼそと返ってきた声に、ケイリュウはがしがしと頭をかいた。
さっき、保護所で凶悪犯を前にしていた筆頭隊長とは思えない。皆、固唾を飲んで御警所筆頭隊長の背中を見つめていたというのに。
「お前、恋をするとこんなに拗らせる男だったんだな……長い付き合いだが、こんなになったギーは初めて見た」
「笑いたいなら笑え」
「笑わないよ」
胡乱な眼差しを向けるギーの耳が、珍しくぺしょりと寝ている。
大人になってからは感情の制御ばかりが上手くなって、耳も尻尾も言うことを聞かないということは一切なかったのに。
「ただ、奥さんの気持ちも考えてやれ。十日も放置されて、暇を持て余してるんじゃないか」
「そのためにジンレイを動かした。今では読み書き教室が開かれている。若狼がつめかけて、屋敷はずいぶんと賑やかだそうだ。良い暇つぶしになっている、と思う。……すみれさんが教師役だなんて、羨ましい……」
ぎゅっと握った拳には血管が浮いている。林檎を持っていたら軽く握りつぶしてジュースにできそうだ。
ケイリュウの鼻筋に皺が寄った。
「逐一報告させてるのか、お前……若狼とはいえ、亭主の留守中に男が上がりこんでよく嫉妬しなかったな」
「屋敷にはエンヤとシュウレイがいる。彼女達は男顔負けの武術の使い手だから、あいつらなぞ十秒で拘束できる」
「そ、そうか。万全の体制なんだな」
ぼそぼそと物騒なことを呟く親友に、ケイリュウは頭の後ろの毛が逆立つ気がした。
元来、ギーは完璧主義者だ。
己に課せられた使命は完璧以上にこなし、部下の能力が不足していたらそれをカバーできる力がある。
調査し、計画し、下準備をし、実行に移す。その繰り返しである護警官の中でも常に冷静沈着で、確実に成果を出す狼は、約三千人いる護警官にもそう多くはない。
ケイリュウには、ギーはいつか護警官の頂点に昇りつめるだろうと確信している。
そのギーが。長年の恋を実らせ結婚し、さぞ幸せの絶頂にいるだろうと思っていたら、情緒不安定になってばかりいる。初めて見る親友の姿に、ケイリュウは若干引いていた。
「それでも、奥さんとの距離が遠くなって良いことはないだろう。ギーは奥さんに会いたくないのか?」
「会いたいに決まっている!」
途端、帰ってきた大声に目を丸くする。
ギーは憂える眼差しで窓の外を見た。
「化け物を見る目で人間に見られるのは慣れている。しかし、すみれさんだけは怯えさせたくないんだ。彼女だけは、幸せに笑っていてほしい」
一転して静かな口調は、それだけ彼が真剣だということ。
気に入った物を懐に囲い込む癖がある友人が、今回だけは違う行動をしている。
それほどに、すみれが大事な存在なのだろう。
ケイリュウは笑えてきた。
恋愛如きに、これほどまでに真剣に悩める親友が微笑ましくて。
悲惨な現場に否が応でも駆り出される護警官として、それとは別の世界に想いを馳せられるのはある意味、とても羨ましい。
「こじらせてるねえ」
ケイリュウは隣にある肩を、ぽんぽんと叩いた。
