「それでさ、筆頭が現れた途端に礼儀正しくなって、靴まで舐めそうな勢いだった」
「わかる、あいつ、そういうところあるよなー」
「あいつさ、一之瀬隊長が最近、どこからか連れてきた人間の刀の研ぎ師に威嚇の唸り声を上げてた。格好悪いったらないの」
「最低。自分で研ぎなんかできないくせに」
賑やかなお喋りは止まらない。
「皆さん、手が止まっていますよ」
「はーい」
返事が良いのはいつものことだ。
今、山瀬邸の庭を見渡せる広い和室に、足の低い机を並べて五人の若い狼達がいる。
見慣れた紺色の制服を着ている彼らは、五人とも護警所の護警官だ。
最初は、ジンレイだけだったのだ。
護警所で配布された指示書を今までは先輩護警官に読んでもらっていたのだが、必ず先輩にバカにされてしまう。先輩が忙しいときに手を煩わせるのも申し訳ない。
それならばと、すみれの「困ったら、いつでもおいでなさい」という言葉を頼りに、こっそり山瀬邸を訪れるようになった。
突然、指示書を読み取れるようになったジンレイを不審に思ったのは、同じく文字の読めない同僚達だ。
彼らはジンレイに強引に口を割らせ、山瀬邸へ押しかけた。
そして、我も我もと、すみれに指示書や読めない本を読んでもらうようになったのだ。
最初は、すみれも腰が引けていた。
一人ならまだいい。エンヤとシュウレイにも慣れた。
だが、獣人にこんなに取り囲まれることなど、今までに一度もなかった。
ギーほどではないとはいえ、彼らも十分人間に比べて体が大きい、狼の雄だ。
すみれの細い首など、彼らの手なら一ひねりで折れるだろうし、その牙で噛みつかれれば、肉は食いちぎられてしまうだろう。
今年護警官になったばかりだという彼らは、そんなすみれの怯えを的確に把握し、すみれに無理のない範囲で、すみれに負担がかからないようできるだけ距離を取って、互いに互いを見張った。
何より、彼らは人懐っこかった。
学校に通える余裕がなかった、と語る口に、悲壮感はない。
恵まれない環境で育ったことを恨まず、ただありのままに受け入れ、今、護警官として働く場所があることに感謝している。
すみれが怯んでも決して腐らず、おおらかに笑って冗談にかえる。
すみれが無表情でも構わず、文字を読み上げるたびに尊敬のまなざしを向けてくれる。
次第に、すみれも彼らの存在に慣れていった。
そのうち、その中の一人が言ったのだ。
『文字を、教えてください』
正座をし、床に手をつき、大きな体を縮ませてすみれに希った。
他の青年達もそれに倣い、すみれは屋敷で彼らに文字を教えるようになった。
断れなかったわけではない。
ただ、彼らの熱心に学ぶ姿勢に、教師時代を思い出したのだ。
本当ならこの屋敷の当主であり、彼らの上司でもあるギーに裁可を仰ぐべきだとわかっている。
けれど、そのギーと意思の疎通ができないのだ。
ギーはすみれが起きている間に帰ってこない。
あの日。デパートに行って、観劇をした日以来、十日以上になる。
確かに、すみれは戦闘後のギーに怯えてしまった。
けれどそれだけだ。
もしかしたら、他に不興を買うことがあったのかもしれないと思う。
観劇後に夢中で話しかけたのが気に障ったのだろうか?
それとも、人間と共に歩くのはやはり合わないと思われたのだろうか。
いくら考えても結局、ギーの答えは得られない。
でも。
離れに住むエンヤやシュウレイとは、深夜に帰ってきて会っているようなのだ。
食事や洗濯物があるから必要があって、とのこととはわかるけれども。
深夜に帰って早朝に出て行く生活は、絶対に体に良くないのに。
こんなにも避けられることって、ある?
黙って帰りを待ち続ける日々を送っていたすみれだったが、次第に腹が立ってきた。
すみれには屋敷から出るなと言っておいて、自分は話し合うこともしようとしないなんて。
もう、知らない。
ギーが若い護警官達のことを了承していなかろうが、関係ない。
彼自身が「自由に」と言った。
ならばすみれは、自由にさせてもらうだけだ。
「先生って、どうして人間なのに僕達のことを差別しないんですか」
長机の前に胡坐をかいた青年が、お手本の紙に「月曜日」と書いていたすみれにふと問いかけた。
「バカ、お前、いきなり」
ジンレイが青年の頭を叩くけれど、皆、窺うようにすみれの答えを待っている。
すみれはかちゃりと筆を置いて、孔雀の形をした真鍮製の文鎮を紙から外した。
この畳の部屋は、ギーとの結婚式を行った広間だ。
二つの部屋の仕切りを外して、一つの大きな部屋にしている。
青々としたイグサの匂いと、丁寧にすられた墨の匂いは心を穏やかにしてくれる。
春の日差しは暖かで、開け放った縁側から見える立派な日本庭園が目に眩しい。
「差別とは、相手を知らない恐れからくるもの。わたくしも最初はあなた方のことが怖かったけれど……今はその牙も、爪も、力の強さも、わたくしに害をなさないと知っていますから」
静かな答えに、青年達は大きく頷いた。
「もちろんです! 先生を傷つける奴がいたら、俺が守ります!」
身を乗り出した青年達が、鼻息も荒く胸に手を当て恭順の姿勢を示す。
一人が正座を崩し、がははと笑う。
「俺も、先生のことを知らなかったときは、常に無表情だから怒ってるのかと思ってたけど。案外そうでもなくて、ほっとしました」
「物静かだから、時々息してるのかなって心配になります」
「僕達、存在自体が賑やかだって上官に怒られるもんなー。足音とか普通に立てちゃうし」
「足音を忍ばせる訓練もするけど、中等学校に行ってる奴らの方が上手いんだよな。学校では静かにしてたからって言ってたけど」
顔を見合わせ、笑い合う獣人達は人間と何も変わりない。
いつの間にか、彼らからは「先生」と呼ばれるようになっていた。
青年達の前に置かれた長机の上の半紙や新聞の裏紙は、ミミズののたくったような字が何度も書かれて真っ黒になっている。
いろはにほへと、から始めた文字の書き取りは、簡単な漢字にまで進んでいる。
彼らには学習意欲がある。
学ぶ機会さえあれば、貪欲に知識を吸収する頭脳はあるのだ。
ジンレイの冗談に、青年達が腹を抱えて笑っている。
その賑やかな様子に、すみれは凛とした声を出した。
「集中しないようなら、今日は終わりにしますか」
自分の書いた紙を彼らの前に置いて、すみれは姿勢を正す。途端。
「いえっ、すみません!」
皆、鞭を当てられた馬のように、一斉に机に向かって書き取りを始める。
すみれは懐かしさに目を細めた。
女学校の教師として教壇に立っていたときと、見渡す風景は全然違うのに。
先生と呼び、慕ってくれる生徒がいる。
居場所を求めて彷徨う心が、久々にほっと息をつく。
しばらくして、エンヤとシュウレイが廊下からぴょこんと顔をのぞかせた。
視線に気づき、すみれはやれやれと頷いて見せる。
二人の顔がぱっと輝いた。
「皆さん、おやつの時間ですよ」
「やった!」
湯気を立てる焼き菓子の登場に、青年達は諸手を上げた。
どうやらエンヤもシュウレイも、同族の若者が屋敷にいるのが嬉しいらしい。
彼らがすみれに会いに来たときは、そわそわしながらこの部屋に案内して、タイミングを見計らっておやつを用意するのだ。
いつも空腹で飢えている彼らにとって、山瀬邸でのおやつは極上のご褒美だった。
若者達の楽しげな空気に、すみれは苦笑して休憩を許す。
途端、その場にいた全員の視線が集中する。
「何か、ありましたか」
正座したまま、すみれは怪訝な顔で皆を見回す。
「いや……先生、笑うと特別に、もご」
「なんでもないです!」
身を乗り出した青年が、隣に座る青年に口吻を掴まれ、目を白黒させている。
不思議に思いながらも、追及はしない。
大きく腕を伸ばした松の木で、小鳥が元気よく囀った。
「わかる、あいつ、そういうところあるよなー」
「あいつさ、一之瀬隊長が最近、どこからか連れてきた人間の刀の研ぎ師に威嚇の唸り声を上げてた。格好悪いったらないの」
「最低。自分で研ぎなんかできないくせに」
賑やかなお喋りは止まらない。
「皆さん、手が止まっていますよ」
「はーい」
返事が良いのはいつものことだ。
今、山瀬邸の庭を見渡せる広い和室に、足の低い机を並べて五人の若い狼達がいる。
見慣れた紺色の制服を着ている彼らは、五人とも護警所の護警官だ。
最初は、ジンレイだけだったのだ。
護警所で配布された指示書を今までは先輩護警官に読んでもらっていたのだが、必ず先輩にバカにされてしまう。先輩が忙しいときに手を煩わせるのも申し訳ない。
それならばと、すみれの「困ったら、いつでもおいでなさい」という言葉を頼りに、こっそり山瀬邸を訪れるようになった。
突然、指示書を読み取れるようになったジンレイを不審に思ったのは、同じく文字の読めない同僚達だ。
彼らはジンレイに強引に口を割らせ、山瀬邸へ押しかけた。
そして、我も我もと、すみれに指示書や読めない本を読んでもらうようになったのだ。
最初は、すみれも腰が引けていた。
一人ならまだいい。エンヤとシュウレイにも慣れた。
だが、獣人にこんなに取り囲まれることなど、今までに一度もなかった。
ギーほどではないとはいえ、彼らも十分人間に比べて体が大きい、狼の雄だ。
すみれの細い首など、彼らの手なら一ひねりで折れるだろうし、その牙で噛みつかれれば、肉は食いちぎられてしまうだろう。
今年護警官になったばかりだという彼らは、そんなすみれの怯えを的確に把握し、すみれに無理のない範囲で、すみれに負担がかからないようできるだけ距離を取って、互いに互いを見張った。
何より、彼らは人懐っこかった。
学校に通える余裕がなかった、と語る口に、悲壮感はない。
恵まれない環境で育ったことを恨まず、ただありのままに受け入れ、今、護警官として働く場所があることに感謝している。
すみれが怯んでも決して腐らず、おおらかに笑って冗談にかえる。
すみれが無表情でも構わず、文字を読み上げるたびに尊敬のまなざしを向けてくれる。
次第に、すみれも彼らの存在に慣れていった。
そのうち、その中の一人が言ったのだ。
『文字を、教えてください』
正座をし、床に手をつき、大きな体を縮ませてすみれに希った。
他の青年達もそれに倣い、すみれは屋敷で彼らに文字を教えるようになった。
断れなかったわけではない。
ただ、彼らの熱心に学ぶ姿勢に、教師時代を思い出したのだ。
本当ならこの屋敷の当主であり、彼らの上司でもあるギーに裁可を仰ぐべきだとわかっている。
けれど、そのギーと意思の疎通ができないのだ。
ギーはすみれが起きている間に帰ってこない。
あの日。デパートに行って、観劇をした日以来、十日以上になる。
確かに、すみれは戦闘後のギーに怯えてしまった。
けれどそれだけだ。
もしかしたら、他に不興を買うことがあったのかもしれないと思う。
観劇後に夢中で話しかけたのが気に障ったのだろうか?
それとも、人間と共に歩くのはやはり合わないと思われたのだろうか。
いくら考えても結局、ギーの答えは得られない。
でも。
離れに住むエンヤやシュウレイとは、深夜に帰ってきて会っているようなのだ。
食事や洗濯物があるから必要があって、とのこととはわかるけれども。
深夜に帰って早朝に出て行く生活は、絶対に体に良くないのに。
こんなにも避けられることって、ある?
黙って帰りを待ち続ける日々を送っていたすみれだったが、次第に腹が立ってきた。
すみれには屋敷から出るなと言っておいて、自分は話し合うこともしようとしないなんて。
もう、知らない。
ギーが若い護警官達のことを了承していなかろうが、関係ない。
彼自身が「自由に」と言った。
ならばすみれは、自由にさせてもらうだけだ。
「先生って、どうして人間なのに僕達のことを差別しないんですか」
長机の前に胡坐をかいた青年が、お手本の紙に「月曜日」と書いていたすみれにふと問いかけた。
「バカ、お前、いきなり」
ジンレイが青年の頭を叩くけれど、皆、窺うようにすみれの答えを待っている。
すみれはかちゃりと筆を置いて、孔雀の形をした真鍮製の文鎮を紙から外した。
この畳の部屋は、ギーとの結婚式を行った広間だ。
二つの部屋の仕切りを外して、一つの大きな部屋にしている。
青々としたイグサの匂いと、丁寧にすられた墨の匂いは心を穏やかにしてくれる。
春の日差しは暖かで、開け放った縁側から見える立派な日本庭園が目に眩しい。
「差別とは、相手を知らない恐れからくるもの。わたくしも最初はあなた方のことが怖かったけれど……今はその牙も、爪も、力の強さも、わたくしに害をなさないと知っていますから」
静かな答えに、青年達は大きく頷いた。
「もちろんです! 先生を傷つける奴がいたら、俺が守ります!」
身を乗り出した青年達が、鼻息も荒く胸に手を当て恭順の姿勢を示す。
一人が正座を崩し、がははと笑う。
「俺も、先生のことを知らなかったときは、常に無表情だから怒ってるのかと思ってたけど。案外そうでもなくて、ほっとしました」
「物静かだから、時々息してるのかなって心配になります」
「僕達、存在自体が賑やかだって上官に怒られるもんなー。足音とか普通に立てちゃうし」
「足音を忍ばせる訓練もするけど、中等学校に行ってる奴らの方が上手いんだよな。学校では静かにしてたからって言ってたけど」
顔を見合わせ、笑い合う獣人達は人間と何も変わりない。
いつの間にか、彼らからは「先生」と呼ばれるようになっていた。
青年達の前に置かれた長机の上の半紙や新聞の裏紙は、ミミズののたくったような字が何度も書かれて真っ黒になっている。
いろはにほへと、から始めた文字の書き取りは、簡単な漢字にまで進んでいる。
彼らには学習意欲がある。
学ぶ機会さえあれば、貪欲に知識を吸収する頭脳はあるのだ。
ジンレイの冗談に、青年達が腹を抱えて笑っている。
その賑やかな様子に、すみれは凛とした声を出した。
「集中しないようなら、今日は終わりにしますか」
自分の書いた紙を彼らの前に置いて、すみれは姿勢を正す。途端。
「いえっ、すみません!」
皆、鞭を当てられた馬のように、一斉に机に向かって書き取りを始める。
すみれは懐かしさに目を細めた。
女学校の教師として教壇に立っていたときと、見渡す風景は全然違うのに。
先生と呼び、慕ってくれる生徒がいる。
居場所を求めて彷徨う心が、久々にほっと息をつく。
しばらくして、エンヤとシュウレイが廊下からぴょこんと顔をのぞかせた。
視線に気づき、すみれはやれやれと頷いて見せる。
二人の顔がぱっと輝いた。
「皆さん、おやつの時間ですよ」
「やった!」
湯気を立てる焼き菓子の登場に、青年達は諸手を上げた。
どうやらエンヤもシュウレイも、同族の若者が屋敷にいるのが嬉しいらしい。
彼らがすみれに会いに来たときは、そわそわしながらこの部屋に案内して、タイミングを見計らっておやつを用意するのだ。
いつも空腹で飢えている彼らにとって、山瀬邸でのおやつは極上のご褒美だった。
若者達の楽しげな空気に、すみれは苦笑して休憩を許す。
途端、その場にいた全員の視線が集中する。
「何か、ありましたか」
正座したまま、すみれは怪訝な顔で皆を見回す。
「いや……先生、笑うと特別に、もご」
「なんでもないです!」
身を乗り出した青年が、隣に座る青年に口吻を掴まれ、目を白黒させている。
不思議に思いながらも、追及はしない。
大きく腕を伸ばした松の木で、小鳥が元気よく囀った。
