氷姫の旦那様

「失礼します! 一之瀬隊長は、御在宅でしょうか」
 昼下がり。
 ちょうどエンヤもシュウレイも買い物に出ていて屋敷を不在にしていた。

 外から元気よく響いた声に、縁側で読書をしていたすみれは、本をぱたりと閉じて腰を上げた。
「一之瀬……?」
 玄関の引き戸をからりと開けて、そこに立つ相手を見上げる。
 
 それは若い獣人だった。
 ふわふわとした栗色の毛皮に、大きな黒い目が落ち着きなく周囲を見回している。
 紺色の護警官服は真新しく、着られている感が否めない。
 体格はいいが体は薄く、ギーの堂々とした体躯には及ばない。

 敬礼をしていた護警官は、引き戸が開くと同時にはきはきと答える。
「はいっ。本日、非番の隊長にお手紙を仰せつかってまいりました! って、あれ、人間?」
 途中で視線を下ろして、あんぐりと口を開ける様子はコミカルで面白いくらいだ。

「うちは、山瀬ですけど」
 戸惑いながらそう首を傾げると、途端に青年は一拍の間を置いた後、がくりと肩を落とした。
 ちらりと見えたその手に持つ手紙の表には「一之瀬基殿」と書いてある。山瀬義一郎ではない。
「やっぱり……」
 青年狼は喉の奥で唸るように呟いた。

「やっぱり?」
 どういうことかと見上げると、護警官は気まずそうに、くうんと鼻を鳴らした。
「門にある表札の文字がこの手紙の宛名の形と違っていたから、もしかしたら違うかもとは思っていたんです。でも、一つは同じ形だし、万が一の確率で読み方はあってるかもって思ってお声がけした次第で……」

 門を振り返りながら、しゅんと俯く獣人に、すみれは慎重に言葉を選ぶ。
「山瀬を、いちのせと読むと思ったということ、ですか」
 青年の耳がぴるぴると動いた。そして、
「俺、字が読めないんです。うち、すっごく貧乏で、小さい頃から工事現場で働いていたから学校に通ってなくて」
 何でもないことのように笑うその瞳には、わずかな恥ずかしさが浮かんでいる。
 きっと今まで、何度も同じ説明をしてきたのだろう。
 簡潔な言葉は、説明慣れをしている。
 望んで貧しく生まれてきたわけではないだろうに。

「あなたのお名前は?」
 すみれよりも頭一つ分、背が高い青年にそっと尋ねる。
 青年は叱られるのを待つ子供のように、耳をぺしょりと寝かせた。
「申し遅れました。俺、今年から護警官になった、ジンレイっていいます。曾祖父さんと同じ名前なんだって親は言ってたけど、どうせ俺は読み書きできないし、古臭くて格好良くない響きっていうか、あんまり好きじゃないんですよね」
 笑い話にしようとからからと笑う相手に、「そう。ちょっとここで待っていて」と言い置いて、すみれは屋敷の中へ戻る。

 そうしてしばらくして青年の前に戻って来たときには、手に一枚の紙を持っていた。桜の花の模様が散らされた、一筆便箋だ。
 そこには、黒々とした墨も美しく、流れるような筆致で「ジンレイ」「仁礼」と書いてある。
「これが、あなたの名前。漢字で書くと、仁礼かしら。思いやりに溢れて、感謝や敬意を抱く人になるようにという意味の字よ。とても良い名前だわ」
 すみれはそう言いながら、ジンレイに便箋を差し出した。
 花の香りがふわりと漂う。

 ジンレイは食い入るように己の名前を見つめた。
 その体は尻尾を振ることさえなく、完全に動きを停止している。
 沈黙に、失敗したかとすみれはひやりとする。
「もっと違う漢字を当てはめるのかもしれないけれど」
「ううん、俺、これがいいです」
 遠慮がちに呟いたすみれに、ジンレイは食い気味で首を振った。そして、
「これ、もらってもいいっすか」
 ジンレイはおそるおそる便箋に指を伸ばした。
 触れると消えてしまうのではないかと恐れるように。

 すみれはその手を取って、しっかりと便箋を握らせた。
「あなたの名前はあなただけのものよ。その名を磨くも汚すもあなた次第」
 ジンレイの目が大きく見開かれた。同時に、尻尾が大きく揺れる。
 しっかりと便箋を握りしめたジンレイは、すみれの言葉をかみしめるように何度か頷いた。

 そして、はっと顔を上げる。
「やませってことは、ここ、筆頭のお宅だったんですね」
 当初の目的を思い出したらしい。
 筆頭、とは、ギーのことだろうか。確か、護警官には隊長が数人いるという話を聞いたことがあるけれど。

「表札には、山瀬義一郎と書いてあるの。私は義一郎さんの妻のすみれです」
「あ、ども」
 今更ながらにジンレイがぺこりと頭を下げる。そして、勢いよく頭を上げて、にやりと笑った。
「筆頭、面食いだったんだなあ」
「え?」
「いえいえ、それじゃ行きます。もう一回、護警所に戻って場所を確認しなきゃ。おっかしいな。言われた通りに来たつもりだったんですけど」

 その元気のいい様子は、女学校の学生を思い出す。
 若々しく、溌剌と今を生きている。
 若い命は、可能性の塊だ。
 だからつい、助け舟を出したくなる。

「困ったら、いつでもおいでなさい」
「え……?」
「わたくしは非力ですけれど、文字を読んだり書いたりすることはできますから」
 いつもどおりの無表情で、淡々と。
 少しの笑みもなく言われて、驚いたのだろうか。
 ジンレイの鼻先が、ぴくぴくと動く。

「一之瀬様のお宅に、ちゃんとたどり着けるといいわね」
 すみれはジンレイを門の外まで送り、軽く手を振った。
「うす。お邪魔しました!」
 ジンレイは深く頭を下げると、元気よく走り去って行った。