氷姫の旦那様


「お前の結婚が決まった。既に学校には退職願を提出して受理されている」
 父の声が、薄暗い書斎に重々しく響いた。

 三月最後の日曜日。
 窓の外は清々しいくらいに晴れているのに、分厚いカーテンを閉めたこの部屋には、淀んだ重い空気が停滞している。
 壁に並んだ重厚な本棚も、薔薇を模したシャンデリアも、幼い頃は憧れを込めて見上げたものだが、今は目に入らない。

「冗談でしょう」
 マホガニーの古い机を挟んで立つ松葉すみれは、薄い喉をこくりと鳴らした。
 白磁のようにとろりと滑らかな白い肌。奥二重のきりりとした瞳。すっと伸びた鼻筋に赤い唇。顔立ちははっとするほど整っていて、ぴんと背筋を伸ばして立つその姿は甘さより凛とした雰囲気を感じさせる。
 勿体ない、とよく言われる。
 もっと表情豊かに微笑めば、きっと誰の目をも惹きつけるのに、と。
 しかし、幼い頃からそうであった無表情を今さら変えることなどできない。

「くだらん冗談など言わん。ひと月前には提出しておいた。年度末に退職する、お前には絶対に言うなと言ってな。明日から出勤しなくてよい」
 銀鼠色の結城紬を着た父は、成功者らしく腕を組んで椅子にふんぞり返っていた。

 すみれの唇がわなないた。
「勝手なことを……。わたくしは師範学校を出てやっと教師になれたのです。やめたくありません」
 低く抑えた声は、怒りでわずかに震えていた。
 意地でも俯くものかと、ぐっと顎に力を入れる。

 春休み明けの明日の授業の支度をしていると、父に呼び出された。
 普段は商売にしか興味のない父からの呼び出しなど、めったにないかことだ。
 この部屋に入る前にいくつかの予想をしていたとはいえ、まさか職場に退職届が既に出されていて、三日後に結婚だとは想像もしていなかった。
 そして父の態度から、これが覆すことはできない決定事項だと知る。

 口ひげをいじりながら、父は無情にも首を振った。
「お前ももう二十四だ。今年でもう二十五になる。申し出があっただけでもありがたいと思え」
「ありがたいとは思えません。急にそんなことを言われるくらいなら、一人で生きていくほうを選びます。教師のお給料があれば、細々とでも暮らしていけますから」
 とっさに反論したすみれを、父は冷たい目で睨んだ。
「松葉子爵家の娘が、一人暮らし。そんなことは絶対に許さん。もしお前がこの家を私の許しなく出ようものなら、土蔵に繋ぐと思え」

 理不尽だ。あまりにも、理不尽すぎて、目の前が暗くなる。
 気絶できたらどれほど楽だろう。
 だが今は、気を失っている場合ではない。

「挨拶もなく学校を辞めたことがわかったら、生徒達にどう思われるか。他の先生方にも申し訳が立ちません。お願いいたします。わたくしはまだ、教壇に立ちたいのです」
「ならん。学校にはわしから多額の寄付をしておいたから問題ない」
「そういう話ではないでしょう。亘兄様も翔兄様も結婚はしていないではないですか。わたくしだけ話を進めるのは卑怯です」
「卑怯なものか。男と女では事情が違う。それに兄達には既に許嫁がいる。相手がおらんのはお前だけだ」
「ですが」
 焦り、身を乗り出したすみれに、眉間に皺を寄せた父は唇をぐっと曲げた。

「お前、自分が周りに何と呼ばれているか、知っているのか。氷(こおり)姫(ひめ)、だ。ちらとも笑わず、不愛想で、感情無しの冷血な娘。そんな娘の貰い手が現れたのだぞ。喜ぶ以外、ないではないか」

 父は一つ息を吐くと、机の上に転がっていた万年筆を手に取り、書き物を始めた。そして話は終わったと言いたげに紙の束をめくりながら、
「結婚式は三日後だ。相手方の屋敷で行う。母さんには万事滞りなく済むよう手配するように命じている。お前は身一つで嫁げばよい」
 すみれは震えることさえできなかった。
「……お相手は、どんな方ですか」
「会えば分る」
 父は蠅でも追い払うかのように手をひらひらと振った。出て行けという合図だ。

 だが、今までの会話で納得できるわけがない。
 すみれは冴え冴えとした表情のまま、父を睨みつけた。
 その姿は楚々として、けれど荒野に立つ一輪の花のごとく凛としていた。
「式が三日後とは、あまりにも性急というもの。相手の名前も、顔も、身分も知らずに結婚だなんて、まるで家畜のような扱いではありませんか」
 心は冷え切り、痛みさえ感じる。
 頭の芯がきんと張り詰め、自分が今、自分の足で体を支えていられるのが不思議なくらいだ。

 しかし。
 商船の経営者たる父は、すみれの怒りを正面から跳ねのけた。
「わきまえろ。早めに結婚の日取りを教えればお前は逃げていただろう。それは許さん」
 強い威嚇を含ませた声に、すみれはくっと顎を引いた。

 悔しかった。
 自分の身の振り方ひとつ、自分の意志で叶えられない現実が。
 絶対に感情を表すものかと握りしめた拳が震える。
 祖父の代に金で買った爵位とはいえ、貴族の末席に連なる家の娘が、感情のままに怒り狂うのはすみれの矜持が許さない。

 仕事が忙しくて家に帰らないこともある父は、彼なりに娘を大切に思ってくれているのだと信じていた。
 母から教え諭されそう育てられてきたからだ。
 その信頼は今、床に叩きつけたガラスのように粉々になって鋭い光を放っている。
 爪がてのひらに突き刺さって痛みを覚える。
 体中が熱くて、額にじわりと汗が浮かんだ。

「忙しい相手の都合に合わせたら今の時期が最適となった。学校も新学期となる。ちょうどいい区切りだ。お前は幸せ者だな」
 さらさらと書類に万年筆を走らせた父は、既にすみれのことなど見ていない。

 窓の外から豆腐屋の呑気なラッパの音が聞こえる。
 カーテンの隙間から差し込む光が角度を変え、本棚に置かれた青銅の文鎮を美しく照らしている。
 子供の頃から数えるほどしか入ることを許されなかったこの部屋は、童話で読んだ秘密の部屋のようだったけれど、もはや今、すべてが色あせて見える。

 すみれは踵を返した。
 これ以上、ここにいても得るものはない。
「己を殺して生きることの、何が幸せでしょうか」
 ドアを開け、それだけを背中で呟いた。
 そして廊下へと出た瞬間、部屋の中から怒鳴り声が聞こえた。
「他家の娘御は皆、年頃の娘らしく着飾って良家と縁を結んでいるというのに、お前は社交性の一つなく、地味で暗いまま子供の相手ばかりしている! いい加減に現実を見ろ!」

 すみれは、ぱたりとドアを閉めた。
 父は果たして、わたくしの名前を憶えているのだろうかと思いながら。