氷姫の旦那様

『雷鳴とダイヤモンド』は素晴らしい歌劇だった。
 声高らかに女性が歌ったかと思えば、雷鳴の轟きにも似た重低音の歌声がそれに応える。限られた舞台が広大な大地に見える瞬間もあれば、地下牢の陰鬱な場所にも見える。
 大勢の演者が魂を込めて一つの劇を完成へと導く様子は、まさに動く芸術だった。

「佐藤大佐が主人公をかばって撃たれたときには、息を飲みました。彼が実の父親だと知らないまま生きていくなんて、脚本家はひどいです。ああ、でも、貿易商との賭けに勝ったときは爽快でした。あんな極悪非道な輩がまんまと逃げおおせたのは、正直悔しいですけれど」
 今見たばかりの光景に、未だ心が囚われている。
 すみれは頬を紅潮させ、思いつくまま言葉を吐き出す。こんなことは初めてだ。

 劇場のエントランスは、帰りの客でごった返していた。
 皆、幸せな結末を迎えた主人公に安堵し、笑顔を浮かべている。
 ざわめきは、劇が始まる前よりもずっと大きかった。

 その中を、人にぶつからないようにギーに守られて歩く。
 いや、守られているということに気づかないくらい、すみれは劇を振り返るのに夢中だった。
 だって、今まで歌劇があんなに素晴らしいものだなんて知らなかったのだ。
「工場長にやりかえした場面は秀逸でした。そう思いませんか」
 勢いよく顔を上げると、面白そうに細められた視線にぶつかる。
「そうだな」
「本当に、そう思いましたか?」
 短い返事を不満に思い、ついじっとりとした目で見上げてしまう。

 ギーは喉の奥で低く笑った。
「楽しめたようで、よかった」
 その声が、あまりにも優しくて。
 すみれは、はっと我に返る。

 冷静ではなかった自分を今更ながらに自覚した。
 貴族令嬢たるもの、感情を表に出してはいけない。
 既に令嬢ではないが、そう教えられて育ってきたのに、今のは完全に駄目だろう。

 乱れてもいない髪を触り、さっと表情を取り繕ったすみれに、ギーは慌てた。
「ああ、いや、からかったわけではない。その、とても、活き活きして、か、可愛らしかった、ので」
 もごもごと呟かれた言葉と、最大限に照れた様子で額を押さえたギーに、すみれは目を開いた。

 そのときだった。

 激しくガラスが割れる音と共に、唯一の出入り口から全身に黒を纏った着物の集団がなだれ込んできた。
「静かにしろ! 漉防隊だ、逆らう奴は殺す!」
 シャンデリアの光を受け、ぎらりと光る日本刀を見せつけながら、男が周囲を威嚇する。

 エントランスにいた女性達が悲鳴を上げ、逃げ惑った。
 漉防隊と名乗った男の一人が、近くにいたイブニングドレス姿の女性の腕を掴み、その首に刀を当てた。
「今すぐ県令を呼べ! 我々の崇高な大和国に外国勢力を入れんとする逆賊を成敗してくれる!」
 男達の数は十四。それぞれの手に日本刀を持ち、人質を囲むように周囲に向かって刃を向けている。

 ギーは混乱する客に乗じて、この劇場に来たときと同じく壁際の花瓶の陰に隠れる場所にすみれを連れて行った。そして、
「待っていてくれ。ここから動かぬように」
 脱いだジャケットをすみれに預け、袖捲りをしながら踵を返す。

 すみれはギーの匂いのするジャケットを胸に抱きながら、とっさにギーの腕に触れた。
 ギーは丸腰だ。
 日本刀を持つ相手に、危険ではないのか。せめて、武器を調達してから立ち向かっていくべきではないのか。
 すみれの瞳に浮かぶ不安を掬い取ったギーが、そっとその滑らかな頬を撫でた。

 その闘志を宿した瞳を前に、すみれにできることなどない。
 彼は県令だけではなく、人々を守る護警官だ。
 人々の先頭に立ち、人々を危険から遠ざけるために大陸から来た傭兵の子孫。
 彼はただ、仕事を全うするだけ。
「どうか、ご無事で」
 すみれはそっと手を離した。
 ギーは一つ頷くと、さっと身を翻した。

 あらかじめ待機していたのかもしれない。
 私服姿の獣人が複数、機敏な動きでその場の征圧を始めた。
 客達は自分達に被害が及ばないように劇場の中へと逃げ、それでも捕り物騒ぎを見逃さないよう顔だけ出して、この騒動を眺めている。

 漉防隊の数に対して、相対する獣人の数は七。半分だ。
 おまけに、刀を持つ敵に対して護警官は素手。
 圧倒的に不利なのは獣人達の方だ。
 しかし、彼らの動きは人間のそれではなかった。

 毛むくじゃらの太い腕が、着物の襟を掴んで力技で地面にねじ伏せる。
 強く床を蹴って、漉防隊が刀を構える間もなくその体に体当たりを喰らわせ、体勢を崩させる。
 馬乗りになって殴られても、一瞬の隙をついて形勢逆転に持ち込む。
 振り下ろされる刀に斬られ、ぱっと血が散っても獣人達はいっさい怯まない。
 むしろ、その狼の目を炯々と光らせ、隙を見せれば喉笛に噛みつかんと牙をむき出しにする。

 その中でもギーはひときわ体が大きく、強かった。
 人質になった女性の背後から漉防隊に襲いかかり、刀を奪い、男の体を腕の一振りで弾き飛ばした。リーダー格と思われる男は、たったその一発で昏倒した。
 ギーが大きく口を開けて吠えると、他の獣人達も呼応して激しく吠えたてる。
 その迫力たるや、思わず足の力が抜けてしまうほどだ。

 現に、漉防隊のうちの若い衆は、怯んで刀を持つ手が下がっている。
 その一瞬の隙を突いて足払いをかけ、地面に押さえつけ、刀を奪う。一人ではなく、何人も。
 その素早さ、力の強さ、洞察力、すべてにおいてギーは他の狼よりも秀でていた。

 しかし。
 ギーが落ちた刀を遠くへ蹴り飛ばしたとき、その背後から忍び寄ってきた別の漉防隊が刀を振り下ろした。
 それはすみれの場所からはっきりと見えた。
 ギーの上着を持つ手に力が籠り、全身が総毛立つ。

 直後、ギーはそれを察していたかのように素早く振り向いて、がっちりとその白い牙で刀を噛む。
 ギーの鋭い瞳が男を睨みつけた。
 漉防隊の男が後退った。
 その一瞬の隙を見逃す獣人はいない。
 ギーは刀に噛みついたまま首を振って男の手から刀を奪い取ると、その太い腕で男の首裏に手刀を喰らわせ昏倒させた。
 そして、横合いから殴り掛かってきた別の漉防隊の男の着物の襟を爪で引っかけ、重力などないかのように投げ飛ばす。

 その鋭い瞳はぎらぎらと輝き、獲物を食い尽くそうとするかのようだ。
 長く太い牙がむき出しになり、赤い口が再び吠える。
 銀色の毛が逆立ち、闘志をむき出しにした体は普段の何倍も大きく見えた。

 制圧には、三十分もかからなかっただろう。
 激しい怒声と物音が止み、広いエントランスには静寂が戻った。
 黒着物の漉防隊は全員が床に伸び、手にしていた刀はすべて没収されていた。
 その場に立つ勝者は、血に濡れた獣人だけ。
 刀傷を受けた者も、相手の返り血を受けた者もいる。
 耳は警戒を怠らずにぴんと立ち、尻尾が揺れることはない。
 それでも彼らはそれが当然というように、後処理に走り回っていた。



「すみれさん」
 しばらくして戻ってきたギーに名を呼ばれ、思わず体が竦み、後ろに傾いだ体を白い壁が支えた。
 しまった、と思ったときには遅かったのだろう。
 伸ばされた手はすみれに触れることなく、ギーは静かに背を向けた。


***

 翌日から、ギーが屋敷に帰って来なくなった。
 帰ってきてもすみれが寝ている深夜で、顔を見ない日が続いた。

 戦う獣人の姿を、初めて目の前にした。
 見せつけるようにむき出しにされた大きな牙も。
 威嚇するために低く響く唸り声も。
 明るいシャンデリアの下でも稲妻のように光る金色の瞳も。
 成人男性を軽々と投げ捨てられる力の強さも。

 人間との違いをまざまざと見せつけられ、足が震えた。
 人同士の喧嘩さえ、見ることは稀だ。
 それなのに、獣人という人間とは別格の生き物の闘う姿は、荒事とは無縁の生活を送ってきたすみれに畏怖を抱かせるのには十分だった。
 とっさに体が逃げてしまったことは仕方がないことだったと思う。

 けれど。
 罪のない女性を人質にとり、刀で脅していたのは人間の方だった。
 自分の要望を通すために誰かを傷つけることを厭わないのは、人間の方だった。
 ギーは人々を守るために戦ってくれていたのに。

 だからこそ彼に、ねぎらいの言葉一つでもかけるべきだったと後悔した。
 深夜に帰ったギーの体には傷一つなかったと、エンヤから聞いていたけれど、それでも。
 無事を確認したかった。
 すみれはギーの妻だ。
 妻ならば、彼を心配する権利くらいあると思うのだ。

 それなのに、ギーに会えない。
 ギーは会おうとしない。
 もどかしく、寂しい。
 そんな日が続いた四日目。
 一人の若い護警官が屋敷を訪ねてきた。