料理はとても美味しかった。
シェフは有名ホテルで修業して実家を継いだ人間の青年で、昔ながらの趣の店に、見た目も美しい洋食が並ぶのは心が弾む。
多様なお客様を迎えるホテルにいただけあって、獣人も人間も差別なく、時に軽口をたたきながら接客してくれるのが好感触だった。
「隊長、どえらい美人さんを連れてるが、どこかのお屋敷から攫って来たのかい」
「バカを言うな。俺の、つ、妻だ」
「へえ! こんな別嬪さんが奥様。楚々として、大輪の百合の花みたいに目を引く、綺麗な人だね。どうだい奥様、うちの呼びこみとしてひとつ……痛っ」
「絶対に許さん」
「何も足を蹴らなくても……絶対に奥様目当てで客が入るのに」
「呼び込みがなくとも、お前は勝負できる腕を持っているだろう。お前の食事は美味い。県令もそう言っていた」
ギーにそう言われた青年は、頬を赤くして「うす」と厨房に戻って行った。
気安い男同士のやり取りに、すみれは目を白黒させるしかない。けれど、初めて見るギーのぶっきらぼうな様子は新鮮で、もっと見ていたい気がした。
ギーは恥ずかしそうに、咳払いをしていたけれど。
食後は、観劇に誘われた。
チケットは手配済みらしく、『雷鳴とダイヤモンド』という演目が披露されるということだった。
貧しい子供の立身出世の物語。大陸で好評だったものを、大和国仕様に替えて上演されるらしい。
劇場はデパートとはまた趣の違う、素晴らしい空間だった。
天井から下がるシャンデリアの豪華さも、光り輝く大理石の壁も、壁を飾るステンドグラスも、見渡す限り非日常で美しかった。
人間も獣人もそれぞれに着飾り、誰もが楽しげな雰囲気を纏っている。
少なくとも、獣人だ、人間だと差別するような視線は感じない。
すみれはできるだけギーに恥をかかせないようにと、心を張り詰めさせていた。
ギーはこのような場に慣れているようだが、すみれは違う。
今までの自分の人生経験が通用しない。
開演時間までの空いた時間を、どう潰せばいいかもわからない。
「山瀬筆頭隊長、ちょうどいいところで会った。例の屋敷の件だが」
ロビーに入るなり、横合いから白いスーツ姿の初老の紳士が、にこやかに話しかけてきた。人間だ。それも、かなり親しげな様子。
途端にギーは姿勢をただし、機敏に頭を下げる。
「新山出納官。すみれさん、すまない。少し外す」
顔を上げるなり、すみれを振り返ったギーが片手を上げてそう言った。
「あ、はい。どうぞ」
すみれは小さく頭を下げた。
ギーは新山と呼ばれた紳士と、ロビーの端に寄って何事かを話し始めた。きっと、仕事のことだろう。新山の方は笑顔だが、ギーは真剣な表情をしている。
すみれはロビーの右端にある、豪華な生花が活けられた人の背丈ほどもある花瓶の横で、大人しく待つことにした。
目の前を通り過ぎる人々の姿をぼんやりと眺める。
幾人かの人間の女性が獣人の女性と同じように、イブニングドレスを着ている。最近、女性も洋装が流行っているのだと教えてくれたのはどの生徒だっただろうか。赤、黄色、青に紫。ひらひらと歩くたびに動く裾は、まるで華麗に泳ぐ金魚のようだ。
女性に寄り添う紳士は着物やスーツをスマートに着こなし、その背後にある財力を思わせる。
獣人の姿もちらほらとある。お洒落な格好から、護衛としてではなく客としてこの場にいるのだと思われる。
観劇といえば女学生が人気の役者のことで、きゃあきゃあ騒いでいるのを聞いたことがあるけれど、今日のこの劇場は大人の社交場という雰囲気だ。
街の中にはいくつか劇場があるという。きっと彼女達が通った場所はまた別なのだろう。
恥ずかしながら、人生経験が学生にも満たないと思い知って、少しだけ肩身が狭い。
ふと、足元に小さな影が落ちた。何気なく視線を向けると、初等学校低学年くらいの少年が大きな瞳でこちらを見上げていた。
「どうしたの」
蝶ネクタイに白色のジャケットを着た小さな紳士は、丸い頬に真剣な表情を浮かべて、
「お母様は、あっち。僕、たいくつなんだ」
指差す先を見るけれど、人ごみが邪魔をしてどの人がこの子の母親かはわからない。
一方で、声をかけられた理由はわかった。
すみれが壁際で一人ぽつんと立っていたから、自分と同じ人待ちだと思ったのだろう。そしてそれは間違いではない。
「そう。わたくしも、退屈」
頷くと、ぱっと少年の顔が輝いた。
少年は笑みを堪えるように顔に手を当て、片眉を上げてすみれを見上げた。
「たいくつなら、遊んであげても、いいけど」
ちらちらと窺うような視線を向ける、その声はどうしようもなく弾んでいる。
どうやらこの少年は、すみれを退屈しのぎの相手に決めたようだ。
すみれはちらりとギーを見た。まだ、話しこんでいる。
ならばと、しゃがんで少年の目線と同じになった。
「何をしましょうか」
「ボール遊び!」
少年の瞳がきらきらと輝いた。
すみれは頬に手を当て、「うーん」と唸った。
「この場所では、不適切ね」
「ふてき……?」
「今はボールがないし、もしボールでガラスを割ってしまったら大変なことになるわ」
淡々とした正論に、少年は目を見開いて棒立ちになり、絶句してしまった。
この少年はもしかして、自分の意見に反対されたことのない、余程いいところの坊ちゃんなのだろうか。
すみれは手提げ袋の中から懐紙と鉛筆を取り出した。
「そうね、では、漢字当てなぞなぞをしましょうか」
もじもじと俯いた少年に、ね、とその顔を覗き込むと、途端にぱっと顔を明るくした。
「なぞなぞ? する!」
すみれは伽羅の香りをしみこませた懐紙に、鉛筆でさらさらと文字を書きつける。
「では、この漢字はなんと読むでしょう」
書いた文字は「牛」。初等学校でも習う漢字だ。
少年の顔が、得意げに輝いた。
「うし! もーもー鳴くやつ!」
「正解。わたくし、うし年生まれなの」
「僕はね、僕はね、いぬ年だよ」
「あら、きっと足が速くおなりね」
「犬みたいに?」
「ええ。耳も良く聞こえるかも」
「犬みたいに!」
ふふふ、と無邪気に笑う少年に頷きを返し、すみれは次の漢字を書く。
「では、次の問題よ」
次の漢字は「鯨」。
少年は懐紙をじっと覗きこみ、首を傾げる。
「魚がついているから、海の生き物だよね。でも、京って何?」
「考えて」
「わかんない」
「降参が早いわ」
「えー」
少年は甘えるようにすみれを見上げる。
大きな黒い目と丸みを帯びた頬が、子供らしく可愛らしい。
無表情で淡々としている女によく懐けるものだと感心しながら、今は授業ではないのだったと思い直す。
「正解は、くじら。海に棲む、世界最大の生き物よ。ご存じ?」
「くじら! 知ってる! 絵本で見た。こーんなに大きな魚でしょ」
少年は両手をいっぱい広げて、鯨の大きさを表した。綺麗に切りそろえられた黒髪が、さらさらと揺れ動く。
すみれは目を細めて頷いた。
「大陸では、大きな丘を表すのに「京」の字があてられていたの。大和国では、それに魚をつけて鯨という字を作ったのよ。勇ましい魚と書いて、勇魚とも呼ぶわね」
「へえ……お姉ちゃん、物知り!」
目を輝かせた少年に、自然と口角が上がるのが分かる。
少年の頬がぱっと赤くなる。潤んだ目は、食い入るようにすみれをじっと見つめていた。
その様子に、すみれは首を傾げる。そのとき。
「何をしているの?」
不意に横合いから声がかかった。
顔を上げると、着物姿の穏やかそうな女性がこちらを見下ろしていた。
「お母様! 漢字当てなぞなぞしてる!」
振り返って元気よく答えた少年が、女性に抱きつく。
女性は「あらまあ」と口元に手を当て、立ち上がったすみれに頭を下げた。
「すみません、息子がお世話をかけてしまって。私は月元(つきもと)滋(しげる)の妻の幹(みき)江(え)です。この子は秀隆」
すみれは目を見開いた。
月元滋。
永崎県民なら知らぬ者はおそらくいない。
県の代表として、政治を執り行う者の名だ。
「永崎県令の奥様……?」
「ええ」
にこやかな笑顔に、すみれは慌てて懐紙と鉛筆を手提げに直し、頭を下げる。
「利発なお坊ちゃんですね。わたくしは……」
自己紹介をしようとして、一瞬だけ躊躇する。
ギーは護警官として、永崎県令の近くで仕事をしているとエンヤから聞いたことがある。しかし、近くとはいったいどれくらいの距離なのかがわからない。
ギーは、獣人だ。
すみれは既に、獣人に対して恐ろしいと思う気持ちをなくしているけれど、他の人間はそうではない。
ギー達に会う前の自分が獣人に対してどんな印象を抱いていたかと覚えているからなおさら、永崎県令とその家族が獣人差別主義者だとしたらどうしよう、と思う。
差別的な言葉を投げかけられたとき、自分はちゃんと反論できるだろうか。
さっき、あれほど悔しい思いをしたのに、堂々と夫をかばえる妻でいられるだろうか。
不安がじわじわと胸の奥に広がっていく。
幹江夫人が首を傾げた。秀隆少年も、すみれの言葉を待っている。
自分の感情だけで、場を流すわけにはいかない。
すみれは覚悟を決めて、口を開いた。
「わたくしは、山瀬義一郎の妻のすみれです」
目を伏せたのは、攻撃的な視線が向けられるのを避けるためだ。
まだ、心が傷つかないという確証がなくて。
「山瀬様の。あらまあ」
しかし、返ってきたのは驚きと喜びに満ちた声だった。
「山瀬様は、うちの主人の命の恩人なんです。暴漢に襲われたところをその身を盾にして守ってくださって。とても強くて、頼りがいのある方に嫁がれましたね」
すみれは顔を上げ、目を瞬かせる。
幹江は両手を合わせて、にこにこと微笑んでいた。
そこには、純粋に喜ぶ色しか見えない。
「そうよ、そうそう。結婚したとつい先日、報告を受けたのだわ。ずっと前から、結婚するならぜひ式に呼んでねって言っておいたのに。主人は挨拶をするって張り切っていたから、結婚式に呼ばれなかったって文句を言っていたわ」
「いえ、そんな」
予想外の反応に、すみれは慌てて首を振る。
すみれの親族が騒々しく騒いでいたあの広間に、永崎県令を呼ぶだなんて申し訳なさすぎる。
ギーの心境はわからないけれど、事後報告にしたのにはきっと理由があるのだろう。
幹江はほほ、と朗らかに笑った。
「今は主人も議会があって忙しいから、それが終わったらのんびりお茶でもしましょうね。あなたとは、いろんなお話をしてみたいわ」
「僕も!」
「あら、秀隆も?」
元気よく手を上げた少年に、幹江が楽しそうに笑う。
すみれは胸がいっぱいになる。
獣人は人間から差別されている。
それを突きつけられる日々だったけれど、ギーという本人を見て、きちんと評価してくれる人もいるのだ。
すみれは自然に頭を下げていた。
シェフは有名ホテルで修業して実家を継いだ人間の青年で、昔ながらの趣の店に、見た目も美しい洋食が並ぶのは心が弾む。
多様なお客様を迎えるホテルにいただけあって、獣人も人間も差別なく、時に軽口をたたきながら接客してくれるのが好感触だった。
「隊長、どえらい美人さんを連れてるが、どこかのお屋敷から攫って来たのかい」
「バカを言うな。俺の、つ、妻だ」
「へえ! こんな別嬪さんが奥様。楚々として、大輪の百合の花みたいに目を引く、綺麗な人だね。どうだい奥様、うちの呼びこみとしてひとつ……痛っ」
「絶対に許さん」
「何も足を蹴らなくても……絶対に奥様目当てで客が入るのに」
「呼び込みがなくとも、お前は勝負できる腕を持っているだろう。お前の食事は美味い。県令もそう言っていた」
ギーにそう言われた青年は、頬を赤くして「うす」と厨房に戻って行った。
気安い男同士のやり取りに、すみれは目を白黒させるしかない。けれど、初めて見るギーのぶっきらぼうな様子は新鮮で、もっと見ていたい気がした。
ギーは恥ずかしそうに、咳払いをしていたけれど。
食後は、観劇に誘われた。
チケットは手配済みらしく、『雷鳴とダイヤモンド』という演目が披露されるということだった。
貧しい子供の立身出世の物語。大陸で好評だったものを、大和国仕様に替えて上演されるらしい。
劇場はデパートとはまた趣の違う、素晴らしい空間だった。
天井から下がるシャンデリアの豪華さも、光り輝く大理石の壁も、壁を飾るステンドグラスも、見渡す限り非日常で美しかった。
人間も獣人もそれぞれに着飾り、誰もが楽しげな雰囲気を纏っている。
少なくとも、獣人だ、人間だと差別するような視線は感じない。
すみれはできるだけギーに恥をかかせないようにと、心を張り詰めさせていた。
ギーはこのような場に慣れているようだが、すみれは違う。
今までの自分の人生経験が通用しない。
開演時間までの空いた時間を、どう潰せばいいかもわからない。
「山瀬筆頭隊長、ちょうどいいところで会った。例の屋敷の件だが」
ロビーに入るなり、横合いから白いスーツ姿の初老の紳士が、にこやかに話しかけてきた。人間だ。それも、かなり親しげな様子。
途端にギーは姿勢をただし、機敏に頭を下げる。
「新山出納官。すみれさん、すまない。少し外す」
顔を上げるなり、すみれを振り返ったギーが片手を上げてそう言った。
「あ、はい。どうぞ」
すみれは小さく頭を下げた。
ギーは新山と呼ばれた紳士と、ロビーの端に寄って何事かを話し始めた。きっと、仕事のことだろう。新山の方は笑顔だが、ギーは真剣な表情をしている。
すみれはロビーの右端にある、豪華な生花が活けられた人の背丈ほどもある花瓶の横で、大人しく待つことにした。
目の前を通り過ぎる人々の姿をぼんやりと眺める。
幾人かの人間の女性が獣人の女性と同じように、イブニングドレスを着ている。最近、女性も洋装が流行っているのだと教えてくれたのはどの生徒だっただろうか。赤、黄色、青に紫。ひらひらと歩くたびに動く裾は、まるで華麗に泳ぐ金魚のようだ。
女性に寄り添う紳士は着物やスーツをスマートに着こなし、その背後にある財力を思わせる。
獣人の姿もちらほらとある。お洒落な格好から、護衛としてではなく客としてこの場にいるのだと思われる。
観劇といえば女学生が人気の役者のことで、きゃあきゃあ騒いでいるのを聞いたことがあるけれど、今日のこの劇場は大人の社交場という雰囲気だ。
街の中にはいくつか劇場があるという。きっと彼女達が通った場所はまた別なのだろう。
恥ずかしながら、人生経験が学生にも満たないと思い知って、少しだけ肩身が狭い。
ふと、足元に小さな影が落ちた。何気なく視線を向けると、初等学校低学年くらいの少年が大きな瞳でこちらを見上げていた。
「どうしたの」
蝶ネクタイに白色のジャケットを着た小さな紳士は、丸い頬に真剣な表情を浮かべて、
「お母様は、あっち。僕、たいくつなんだ」
指差す先を見るけれど、人ごみが邪魔をしてどの人がこの子の母親かはわからない。
一方で、声をかけられた理由はわかった。
すみれが壁際で一人ぽつんと立っていたから、自分と同じ人待ちだと思ったのだろう。そしてそれは間違いではない。
「そう。わたくしも、退屈」
頷くと、ぱっと少年の顔が輝いた。
少年は笑みを堪えるように顔に手を当て、片眉を上げてすみれを見上げた。
「たいくつなら、遊んであげても、いいけど」
ちらちらと窺うような視線を向ける、その声はどうしようもなく弾んでいる。
どうやらこの少年は、すみれを退屈しのぎの相手に決めたようだ。
すみれはちらりとギーを見た。まだ、話しこんでいる。
ならばと、しゃがんで少年の目線と同じになった。
「何をしましょうか」
「ボール遊び!」
少年の瞳がきらきらと輝いた。
すみれは頬に手を当て、「うーん」と唸った。
「この場所では、不適切ね」
「ふてき……?」
「今はボールがないし、もしボールでガラスを割ってしまったら大変なことになるわ」
淡々とした正論に、少年は目を見開いて棒立ちになり、絶句してしまった。
この少年はもしかして、自分の意見に反対されたことのない、余程いいところの坊ちゃんなのだろうか。
すみれは手提げ袋の中から懐紙と鉛筆を取り出した。
「そうね、では、漢字当てなぞなぞをしましょうか」
もじもじと俯いた少年に、ね、とその顔を覗き込むと、途端にぱっと顔を明るくした。
「なぞなぞ? する!」
すみれは伽羅の香りをしみこませた懐紙に、鉛筆でさらさらと文字を書きつける。
「では、この漢字はなんと読むでしょう」
書いた文字は「牛」。初等学校でも習う漢字だ。
少年の顔が、得意げに輝いた。
「うし! もーもー鳴くやつ!」
「正解。わたくし、うし年生まれなの」
「僕はね、僕はね、いぬ年だよ」
「あら、きっと足が速くおなりね」
「犬みたいに?」
「ええ。耳も良く聞こえるかも」
「犬みたいに!」
ふふふ、と無邪気に笑う少年に頷きを返し、すみれは次の漢字を書く。
「では、次の問題よ」
次の漢字は「鯨」。
少年は懐紙をじっと覗きこみ、首を傾げる。
「魚がついているから、海の生き物だよね。でも、京って何?」
「考えて」
「わかんない」
「降参が早いわ」
「えー」
少年は甘えるようにすみれを見上げる。
大きな黒い目と丸みを帯びた頬が、子供らしく可愛らしい。
無表情で淡々としている女によく懐けるものだと感心しながら、今は授業ではないのだったと思い直す。
「正解は、くじら。海に棲む、世界最大の生き物よ。ご存じ?」
「くじら! 知ってる! 絵本で見た。こーんなに大きな魚でしょ」
少年は両手をいっぱい広げて、鯨の大きさを表した。綺麗に切りそろえられた黒髪が、さらさらと揺れ動く。
すみれは目を細めて頷いた。
「大陸では、大きな丘を表すのに「京」の字があてられていたの。大和国では、それに魚をつけて鯨という字を作ったのよ。勇ましい魚と書いて、勇魚とも呼ぶわね」
「へえ……お姉ちゃん、物知り!」
目を輝かせた少年に、自然と口角が上がるのが分かる。
少年の頬がぱっと赤くなる。潤んだ目は、食い入るようにすみれをじっと見つめていた。
その様子に、すみれは首を傾げる。そのとき。
「何をしているの?」
不意に横合いから声がかかった。
顔を上げると、着物姿の穏やかそうな女性がこちらを見下ろしていた。
「お母様! 漢字当てなぞなぞしてる!」
振り返って元気よく答えた少年が、女性に抱きつく。
女性は「あらまあ」と口元に手を当て、立ち上がったすみれに頭を下げた。
「すみません、息子がお世話をかけてしまって。私は月元(つきもと)滋(しげる)の妻の幹(みき)江(え)です。この子は秀隆」
すみれは目を見開いた。
月元滋。
永崎県民なら知らぬ者はおそらくいない。
県の代表として、政治を執り行う者の名だ。
「永崎県令の奥様……?」
「ええ」
にこやかな笑顔に、すみれは慌てて懐紙と鉛筆を手提げに直し、頭を下げる。
「利発なお坊ちゃんですね。わたくしは……」
自己紹介をしようとして、一瞬だけ躊躇する。
ギーは護警官として、永崎県令の近くで仕事をしているとエンヤから聞いたことがある。しかし、近くとはいったいどれくらいの距離なのかがわからない。
ギーは、獣人だ。
すみれは既に、獣人に対して恐ろしいと思う気持ちをなくしているけれど、他の人間はそうではない。
ギー達に会う前の自分が獣人に対してどんな印象を抱いていたかと覚えているからなおさら、永崎県令とその家族が獣人差別主義者だとしたらどうしよう、と思う。
差別的な言葉を投げかけられたとき、自分はちゃんと反論できるだろうか。
さっき、あれほど悔しい思いをしたのに、堂々と夫をかばえる妻でいられるだろうか。
不安がじわじわと胸の奥に広がっていく。
幹江夫人が首を傾げた。秀隆少年も、すみれの言葉を待っている。
自分の感情だけで、場を流すわけにはいかない。
すみれは覚悟を決めて、口を開いた。
「わたくしは、山瀬義一郎の妻のすみれです」
目を伏せたのは、攻撃的な視線が向けられるのを避けるためだ。
まだ、心が傷つかないという確証がなくて。
「山瀬様の。あらまあ」
しかし、返ってきたのは驚きと喜びに満ちた声だった。
「山瀬様は、うちの主人の命の恩人なんです。暴漢に襲われたところをその身を盾にして守ってくださって。とても強くて、頼りがいのある方に嫁がれましたね」
すみれは顔を上げ、目を瞬かせる。
幹江は両手を合わせて、にこにこと微笑んでいた。
そこには、純粋に喜ぶ色しか見えない。
「そうよ、そうそう。結婚したとつい先日、報告を受けたのだわ。ずっと前から、結婚するならぜひ式に呼んでねって言っておいたのに。主人は挨拶をするって張り切っていたから、結婚式に呼ばれなかったって文句を言っていたわ」
「いえ、そんな」
予想外の反応に、すみれは慌てて首を振る。
すみれの親族が騒々しく騒いでいたあの広間に、永崎県令を呼ぶだなんて申し訳なさすぎる。
ギーの心境はわからないけれど、事後報告にしたのにはきっと理由があるのだろう。
幹江はほほ、と朗らかに笑った。
「今は主人も議会があって忙しいから、それが終わったらのんびりお茶でもしましょうね。あなたとは、いろんなお話をしてみたいわ」
「僕も!」
「あら、秀隆も?」
元気よく手を上げた少年に、幹江が楽しそうに笑う。
すみれは胸がいっぱいになる。
獣人は人間から差別されている。
それを突きつけられる日々だったけれど、ギーという本人を見て、きちんと評価してくれる人もいるのだ。
すみれは自然に頭を下げていた。
