氷姫の旦那様

 一瞬だけ、悩んだ。
 正直に答えれば、贈ってやった物にケチをつける生意気な嫁だと思われるかもしれない。
 けれど、ずっと我慢して受け取り続けるのは違う気がする。
 このまま何も言わず、今までと同じことが続けば、すみれに喜んで欲しいと言ってくれたギーの気持ちをないがしろにしてしまうことになる。
 タンスの肥やしになる品物も、額の大小関係なく、勿体ない。

「お気持ちだけは、ありがたく」
 なるべくさりげなく。
 しかし激高された場合に備えて、すみれは体を固くした。
 俯いた視界の端で、ギーの長い腕が持ちあがった。
 とっさに殴られる、と目を閉じたすみれだった、が。

「すまない。俺の一人よがりだった」
 降ってきたのは、最大限に低い声で。
 衝撃はいつまでたっても襲ってはこず、おそるおそる目を開けると、額に手を当てたギーが情けない顔で俯いていた。
 耳はぺしょりとへたり、大きな口からは長いため息が漏れている。
 体は大きいのに、まるで叱られた子犬のようだ。

 すみれは慌てて手を伸ばし、ギーの腕に触れた。
「いえ、わたくしのことに心を砕いてくださるのは、本当に、嬉しくて、ありがたいことなのです」
 ギーの目が、すみれを捉える。
 その不安げな目に、なんだかおかしくなってきた。
 こんなに逞しくて、力が強くて、すみれなど一撃で倒してしまえる獣人が、すみれへの贈り物に頭を悩ませている、なんて。

 可愛い。
 そんな見た目ではないのに、とても可愛い。

「わたくしの好みは、わたくしが一番把握しています。何か贈っていただけるのなら、一言聞いてください」
 思わず笑みがこぼれたすみれに、ギーは眩しいものでも見たように目を細め、少しの間を置いた後「わかった」と頷いた。尻尾がぶんぶんと揺れている。
 そして、自分の腕に添えられたすみれの細く白い手を、ギーは物珍しげにじっと見下ろした。

「あ、ご不快でしたか」
 すみれは急いで手を引っ込めようとした。
 しかし、その手を大きな獣の手が掴む。
「いや、そのままで」
 すみれの手を包み込んだ温かく長い指は、その手を自分の腕に掴まらせる。
 ギーはそのまま歩き出した。
 二人の影がぴったりと寄り添う。

「では、君が欲しい物を教えてくれ。君について、俺は知らないことだらけだ」
 ゆっくりと、すみれの歩調に合わせて歩きながら、ギーが問う。
 すみれの心臓がきゅっと音を立てた。
 赤い絨毯に足を取られたせいではなく、足元がふわふわする。

「わたくしは……衣食住、じゅうぶんなものをいただいています。これ以上は特に」
「俺が、君に何かしたいんだ」
 絡ませた手を、安心させるようにぽんぽんと撫でられ、すみれの頬に朱が昇る。
 急に落ち着かない気持ちになって視線を巡らせた結果、ちょうどいいものを見つけた。
「それならば」

 帯売場の隣で、すみれは足を止めた。
 文房具を扱うお店らしい。
 白い壁紙の店内には、たくさんの木製の棚がずらりと並んでいる。
 筆の数は大小様々、筆の毛先も色々な種類の毛を取りそろえているようだ。別の棚には便せんや色紙、初めて見る飾り紙などもある。
 有名な書家が書いたらしい掛け軸や額縁も、売り物として壁に多くかけられていた。

「わたくし、これが欲しいです」
 その一画で、すみれはするりとギーから手を離し、商品を手に取った。
「懐紙? こんなものでいいのか」
「今あるものが少なくなってきたので、どこかで買わなければと思っていました。これはとても良い香りがします」
 箱入りの懐紙は、藤の模様が小さく入った上品なものだった。

 懐紙とは、口元を拭うハンカチの代わりになったり、メモ用紙や包み紙にもなる、懐に入れておける小さめの紙だ。
 普段使いのものは無地の紙でもいいが、外出するときには特別な懐紙を持ち歩いていた。
 流行に疎いすみれが唯一こだわってきた、自分なりのお洒落だ。

「そうだな」
 鼻をくん、とさせたギーが頷く。
 懐紙からは藤の花の甘い香りがした。
 偶然とはいえ、かんざしとお揃いなのが密かに嬉しい。

 箱入りの懐紙は小さな手提げ鞄には入らず、店員に屋敷まで配達してもらうことにする。
 ギーがその手続きをする間、すみれは店内を見て回ることにした。
 教師として紙には多く触れる機会があった方ではあると思うが、さすが高級デパート。様々な種類の和紙を取りそろえていて、見るだけで楽しい。特に美濃和紙は手に吸いつくようで、書きやすそうだ。

 これも、買ってもらうことができるかしらと思って、少しだけ苦笑する。
 今まで、自分の身近なものは自分の給料で買ってきた。
 誰かにねだることなど、両親にもこのところなかったことだ。
 赤の他人どころか獣人相手に、とは思うが、その獣人が旦那様なのだ。

 人生とはわからないもの。
 すみれがそう思ったとき、着物姿の二人連れの若い女性とすれ違った。
 友人同士だろうか。華やかな着物がその場をぱっと明るくしてくれる。

 しかし。

「野蛮な獣の番なんて、可哀想」
 聞こえてきた声に、和紙に伸ばしかけていた手が止まる。
「人間と獣人が番? 獣人なんて使用人の身分じゃない」
「人間を守るしか能のない獣を夫に持つって、どんな気持ちかしら。想像がつかないわ」
「私なら、絶望してる」
 くすくすと笑う声と共に、二人は向こうへ消えて行った。

 すみれはぎゅっとてのひらを握った。
 心が揺らぎそうになる自分が嫌だった。
 ギーとの結婚を恥とは思わない。最初は、いや、今もまだ戸惑う部分はあるけれど、ギーが誰彼かまわず襲いかかるような、野蛮な獣ではないということはよくわかっている。
 それどころか、県令や県民を守るために警護計画を練り、仕事仕事でなかなか屋敷にも帰ってこられないような生活を送っている。
 エンヤとシュウレイも、人間嫌いではあるけれど、家のことをきちんと整えてくれる、理性を持った獣人だ。
 それなのに、何も知らない人間が獣人を悪く言う。

 すみれも、そうと自覚したことはなかったけれど、この結婚を機に自分の中に差別の気持ちがあることを知った。
 今、それを認めて違う道へと歩き出そうとしているところなのに。
 すみれは冷えた指先を握りこんだ。

 あの二人に、反論すればよかった。
 まだ浅い知識しかないけれど、獣人はあなた達が思う野蛮な生き物ではないと。
 でも。
 とっさにそうできなくて、悔しい。
 「可哀想」と憐れまれた言葉を否定できなくて、もどかしい。

「すみれさん、待たせてすまない」
 後ろからギーの声がした。
 振り返ると、部屋の明かりを受けて白銀のたてがみも雄々しい狼が、足早にこちらに向かって来た。
 広い肩幅。長い足。仕立ての良いスーツにふさふさと揺れる尻尾。どこからみても立派な狼の雄だ。
 凛々しい、すみれの旦那様。

「いえ、大丈夫です」
 すみれは、ふるりと首を振る。
 ギーに訴えても仕方がないこと。
 これは、人間側の心の問題なのだから。

「お腹がすかないか」
 自然に手を取られ、ギーの腕に添えられる。当たり前のようなその仕草に、冷えた心が温かくなる。
「そうですね。少し」
「では、レストランに行こう。最近、県令が見つけた店がある。こぢんまりとしているが、味はなかなかだった」
「それは楽しみです」
 二人は歩調をそろえて歩き出した。