五日後。
初めて訪れた鶴亀デパートの大きさに、すみれは圧倒されていた
ぴかぴかに磨かれたガラスのドア。臙脂色の制服を着たドアマンが出入りする客に一人一人頭を下げて、ドアを開けてくれる。
「どうした。入ろう」
横合いからかけられた声に振り仰ぐと、立派な鬣の狼がこちらを見下ろしていた。
今日のギーは護警官の制服姿ではなく、大陸の人のような洋装だ。
仕立ての良い、体にあった深い葡萄酒色の三つ揃いのスーツが嫌味でもなく似合っていて、豊かな顎の下の毛は丁寧に撫でつけられてふかふかだ。ネクタイこそしていないが、袖からちらりと見えるカフスボタンにはすみれの着物と同じ色をしたペリドットが嵌っていた。革のブーツも一見地味だが無駄な装飾のない使いやすそうな物で、ひと目で高級だということが分かる。
通りすがりの獣人の女性が、ギーに見惚れている。いや、獣人だけではない。デパートに入った途端、客も従業員もギーに目を奪われている。
ただそこに立っているだけで、ギーは目を引く狼なのだ。
すみれは背筋を伸ばした。
伴侶として、彼に恥をかかせてはならない。
今日は、撫子の花があしらわれた若草色の訪問着にクリーム色の帯を合わせた。髪はミレイに結ってもらって、ギーからの贈り物の一つである藤の意匠のかんざしを挿している。
凛として立つ風情は、まるで高貴な白百合の花のようだ。
「その、今日も、綺麗だ。だが、かんざしが少し地味ではないか。新しく買おうか」
低い声に耳元で囁かれて、すみれは小さく首を振る。
「わたくしにはこれで十分です」
「そうか」
ギーが頷き、前を向く。
まっすぐに「綺麗だ」と言われて、驚いた。
生まれてから二十四年、そんな言葉をかけられたことはない。
彼は疲れているのだろう、と受け流して、すみれは「参りましょう」とギーを促した。
デパートの中は、圧巻だった。
ロビーは二階まで吹き抜けで、内装は金と銀をふんだんに使った高級感あふれるものだった。シャンデリアは重さで天井が落ちてこないかを心配してしまうくらいに重厚で、煌びやかだ。
壁にはいくつもの鏡とランプがかけられ、店内を昼間のような明るさに保っている。
学校の体育館よりもずっと広い空間で、着飾った客達が買い物を楽しんでいる。客は人間が多いようだけれど、獣人の姿も少なくはない。
店にとっては金を払ってくれるのが良い客、ということだろう。
ふかふかの絨毯の上を草履で歩くのは、初めてだ。
すみれは貴族令嬢。とはいえ、教師として学校に入りびたりで、年頃の娘が好む買い物や観劇などとは無縁の生活をしてきた。
単純に、学校以外に興味がなかったのだ。
女の子が好む世界は、女学生の話を聞くだけでじゅうぶんだと思ってきたのだけれど。
まさか今、自分がこのような場所に立っているとは信じられない。
入口近くにある貴金属のショーケース前では、お仕着せの黒い服を着た店員が、客を相手に商品を並べていた。
「何か見たいものはあるか」
「特には……」
見る物すべてが珍しく、きょろきょろしないようにしようと思ってもつい目を動かしてしまう。
「では、こちらはどうだ」
手招きをされるままにギーの後をついていくと、ぴかぴかに磨かれたショーケースの中に梳き櫛や解かし櫛などがずらりと並んでいた。
金製、銀製、木製、それから宝石を削って造られた物など様々だ。
どれも細かな細工と色使いから、値打ち物だとひと目でわかる。
きっと、職人が作った一点ものだ。
値段がついていないから、相当に高額な物だろう。
その豪華な櫛の中で、すみれは片隅にある銀の櫛に目を留めた。
細長い柄に、梅の枝にとまった鶯が彫られている。
小さくて可愛らしいその鳥は、きっと毎朝の身支度を楽しいものにしてくれるだろう。
すみれの髪を丁寧に梳いてくれた、エンヤの指先を思い出す。
彼女の毛並はいつも艶々で、丁寧に撫で梳かしているのだろうとわかる。
「では、こちらを見せてください」
ケースの上から指差すと、店員がビロウドの敷かれた底浅の箱に丁寧に置く。
「櫛でいいのか。もっと、珍しい物は」
ギーがくんと鼻を鳴らした。
「普段使いするものですから、壊れにくい物の方が嬉しいでしょう」
「頑丈な物の方が好みなのか」
ギーが真剣な顔で頷いたのを不思議に思いながら、すみれは首を傾げる。
「ああ、確かに彼女達はイヤリングも腕輪も高級そうな物を身に着けていましたね。獣人の方は、普段からそういう風習なのでしょうか」
「?」
ギーの瞳が困惑に揺らいだ。
中途半端に宙に浮いた手が、うろうろと彷徨う。
噛みあってない会話に気づいたすみれは、慌てて言葉を付け足した。
「失礼しました。この櫛は、エンヤに買いたいのです。わたくしの髪を整えてくれているときに、自分の櫛の歯が一本欠けていると話してくれたものですから。同じ物を、シュウレイにも」
「そういうことか」
ほっとしたように息を吐いたギーが、胸元から黒革の財布を取り出した。
「いえ、わたくしが」
急いで手提げから自分の財布を取り出そうとしたすみれを制し、ギーは店員に櫛を二つ、包むように指示をする。
「使用人の管理は家主の務めだ。それに、妻に財布を出させるわけにはいかない。……ああ、いや、違う。ただ」
少しだけ言い淀んだギーは、小さな声で呟いた。
「俺が贈った物を見て、君が喜んでくれたらいいな、と思う」
見上げたギーのお日様色の瞳が、照れたようにきらきらと輝いている。
その顔はすぐに店員に向けられたけれど。
もしかして。
すみれは大きく目を見開いた。
贈り物の数々も、すみれに喜んで欲しかったから、なのか。
金があるから妻となった女にとりあえず贈ったのかと思っていた。
だって先日、露草色のショールを贈られたときにそう言っていたから。
とてもわかりにくい。
わかりにくいけれど、ギーはすみれを大切にしてくれている、ということは、わかる。
じっと自分を見つめるすみれに、ギーの尻尾がふさりと揺れる。喉の奥からうるる、と音がする。
店員がデパートの包装紙に包まれた櫛を持ってきた。
それを受け取ってすみれのハンドバックに収め、二人は順番に売り場を見て回る。
宝飾品売り場を通りすぎ、化粧品売り場を抜け、二階へ上がって着物や洋服売り場の前を通る。
ギーは目に留まった物を次々とすみれに贈ろうとする。
しかし、すみれはそれを一切断った。
遠慮もあったけれど、それだけではない。
彼が勧める物はすべからく、派手なのだ。
孔雀の羽がついた帽子、原色で染められた幾何学模様のハンカチ、華美な装飾の付いた大きな帯留め、極彩色の単衣……。
毎回断るのも申し訳ないが、身に着ける可能性が低い物を買ってもらうのも申し訳ない。
金銀を使った豪華な帯の前で足を止めたギーに、すみれは覚悟を決めて話しかけた。
「旦那様は、遠くから見てもわかる装いを好まれますか?」
「遠くから……? 目印になっていいということか?」
耳をぱたぱたと動かし、ギーがすみれを見下ろした。
その顔は、心底不思議そうだ。
すみれは覚悟を決めた。
「直接的表現で失礼しますが、派手な装いが好きですか。先ほどから、そのような物を選ぶことが多い気がします」
ここで愛想笑いのひとつでもできれば愛嬌のある女と言われるのだろうが、あいにく、すみれの表情筋はそう簡単に動かない。
ただ真面目な顔で、夫を見上げるのみだ。
はた、と目を瞬かせたギーは視線を彷徨わせた後、もごもごと呟いた。
「……獣人の女性は派手な装いを好む、のだが。毛皮に包まれた身で、いかに他人に自分を認めさせるかという獣人社会の上下関係で重要、とでも言おうか、その」
「獣人社会に習って、わたくしもそのようにした方がよければ派手目のものを身に着けますけれど……わたくし、あまりどぎつい色や、派手な物は好みません」
「どぎつい」
「はい」
はっきりと頷くと、近づいて様子を窺っていた帯屋の店員がぶふぉっと噴き出した。すぐに咳払いでごまかし、去っていったけれど。
「……もしかして俺は、君に好みではないものを贈っていたのか」
ギーの鋭い目がすみれを捉えた。
初めて訪れた鶴亀デパートの大きさに、すみれは圧倒されていた
ぴかぴかに磨かれたガラスのドア。臙脂色の制服を着たドアマンが出入りする客に一人一人頭を下げて、ドアを開けてくれる。
「どうした。入ろう」
横合いからかけられた声に振り仰ぐと、立派な鬣の狼がこちらを見下ろしていた。
今日のギーは護警官の制服姿ではなく、大陸の人のような洋装だ。
仕立ての良い、体にあった深い葡萄酒色の三つ揃いのスーツが嫌味でもなく似合っていて、豊かな顎の下の毛は丁寧に撫でつけられてふかふかだ。ネクタイこそしていないが、袖からちらりと見えるカフスボタンにはすみれの着物と同じ色をしたペリドットが嵌っていた。革のブーツも一見地味だが無駄な装飾のない使いやすそうな物で、ひと目で高級だということが分かる。
通りすがりの獣人の女性が、ギーに見惚れている。いや、獣人だけではない。デパートに入った途端、客も従業員もギーに目を奪われている。
ただそこに立っているだけで、ギーは目を引く狼なのだ。
すみれは背筋を伸ばした。
伴侶として、彼に恥をかかせてはならない。
今日は、撫子の花があしらわれた若草色の訪問着にクリーム色の帯を合わせた。髪はミレイに結ってもらって、ギーからの贈り物の一つである藤の意匠のかんざしを挿している。
凛として立つ風情は、まるで高貴な白百合の花のようだ。
「その、今日も、綺麗だ。だが、かんざしが少し地味ではないか。新しく買おうか」
低い声に耳元で囁かれて、すみれは小さく首を振る。
「わたくしにはこれで十分です」
「そうか」
ギーが頷き、前を向く。
まっすぐに「綺麗だ」と言われて、驚いた。
生まれてから二十四年、そんな言葉をかけられたことはない。
彼は疲れているのだろう、と受け流して、すみれは「参りましょう」とギーを促した。
デパートの中は、圧巻だった。
ロビーは二階まで吹き抜けで、内装は金と銀をふんだんに使った高級感あふれるものだった。シャンデリアは重さで天井が落ちてこないかを心配してしまうくらいに重厚で、煌びやかだ。
壁にはいくつもの鏡とランプがかけられ、店内を昼間のような明るさに保っている。
学校の体育館よりもずっと広い空間で、着飾った客達が買い物を楽しんでいる。客は人間が多いようだけれど、獣人の姿も少なくはない。
店にとっては金を払ってくれるのが良い客、ということだろう。
ふかふかの絨毯の上を草履で歩くのは、初めてだ。
すみれは貴族令嬢。とはいえ、教師として学校に入りびたりで、年頃の娘が好む買い物や観劇などとは無縁の生活をしてきた。
単純に、学校以外に興味がなかったのだ。
女の子が好む世界は、女学生の話を聞くだけでじゅうぶんだと思ってきたのだけれど。
まさか今、自分がこのような場所に立っているとは信じられない。
入口近くにある貴金属のショーケース前では、お仕着せの黒い服を着た店員が、客を相手に商品を並べていた。
「何か見たいものはあるか」
「特には……」
見る物すべてが珍しく、きょろきょろしないようにしようと思ってもつい目を動かしてしまう。
「では、こちらはどうだ」
手招きをされるままにギーの後をついていくと、ぴかぴかに磨かれたショーケースの中に梳き櫛や解かし櫛などがずらりと並んでいた。
金製、銀製、木製、それから宝石を削って造られた物など様々だ。
どれも細かな細工と色使いから、値打ち物だとひと目でわかる。
きっと、職人が作った一点ものだ。
値段がついていないから、相当に高額な物だろう。
その豪華な櫛の中で、すみれは片隅にある銀の櫛に目を留めた。
細長い柄に、梅の枝にとまった鶯が彫られている。
小さくて可愛らしいその鳥は、きっと毎朝の身支度を楽しいものにしてくれるだろう。
すみれの髪を丁寧に梳いてくれた、エンヤの指先を思い出す。
彼女の毛並はいつも艶々で、丁寧に撫で梳かしているのだろうとわかる。
「では、こちらを見せてください」
ケースの上から指差すと、店員がビロウドの敷かれた底浅の箱に丁寧に置く。
「櫛でいいのか。もっと、珍しい物は」
ギーがくんと鼻を鳴らした。
「普段使いするものですから、壊れにくい物の方が嬉しいでしょう」
「頑丈な物の方が好みなのか」
ギーが真剣な顔で頷いたのを不思議に思いながら、すみれは首を傾げる。
「ああ、確かに彼女達はイヤリングも腕輪も高級そうな物を身に着けていましたね。獣人の方は、普段からそういう風習なのでしょうか」
「?」
ギーの瞳が困惑に揺らいだ。
中途半端に宙に浮いた手が、うろうろと彷徨う。
噛みあってない会話に気づいたすみれは、慌てて言葉を付け足した。
「失礼しました。この櫛は、エンヤに買いたいのです。わたくしの髪を整えてくれているときに、自分の櫛の歯が一本欠けていると話してくれたものですから。同じ物を、シュウレイにも」
「そういうことか」
ほっとしたように息を吐いたギーが、胸元から黒革の財布を取り出した。
「いえ、わたくしが」
急いで手提げから自分の財布を取り出そうとしたすみれを制し、ギーは店員に櫛を二つ、包むように指示をする。
「使用人の管理は家主の務めだ。それに、妻に財布を出させるわけにはいかない。……ああ、いや、違う。ただ」
少しだけ言い淀んだギーは、小さな声で呟いた。
「俺が贈った物を見て、君が喜んでくれたらいいな、と思う」
見上げたギーのお日様色の瞳が、照れたようにきらきらと輝いている。
その顔はすぐに店員に向けられたけれど。
もしかして。
すみれは大きく目を見開いた。
贈り物の数々も、すみれに喜んで欲しかったから、なのか。
金があるから妻となった女にとりあえず贈ったのかと思っていた。
だって先日、露草色のショールを贈られたときにそう言っていたから。
とてもわかりにくい。
わかりにくいけれど、ギーはすみれを大切にしてくれている、ということは、わかる。
じっと自分を見つめるすみれに、ギーの尻尾がふさりと揺れる。喉の奥からうるる、と音がする。
店員がデパートの包装紙に包まれた櫛を持ってきた。
それを受け取ってすみれのハンドバックに収め、二人は順番に売り場を見て回る。
宝飾品売り場を通りすぎ、化粧品売り場を抜け、二階へ上がって着物や洋服売り場の前を通る。
ギーは目に留まった物を次々とすみれに贈ろうとする。
しかし、すみれはそれを一切断った。
遠慮もあったけれど、それだけではない。
彼が勧める物はすべからく、派手なのだ。
孔雀の羽がついた帽子、原色で染められた幾何学模様のハンカチ、華美な装飾の付いた大きな帯留め、極彩色の単衣……。
毎回断るのも申し訳ないが、身に着ける可能性が低い物を買ってもらうのも申し訳ない。
金銀を使った豪華な帯の前で足を止めたギーに、すみれは覚悟を決めて話しかけた。
「旦那様は、遠くから見てもわかる装いを好まれますか?」
「遠くから……? 目印になっていいということか?」
耳をぱたぱたと動かし、ギーがすみれを見下ろした。
その顔は、心底不思議そうだ。
すみれは覚悟を決めた。
「直接的表現で失礼しますが、派手な装いが好きですか。先ほどから、そのような物を選ぶことが多い気がします」
ここで愛想笑いのひとつでもできれば愛嬌のある女と言われるのだろうが、あいにく、すみれの表情筋はそう簡単に動かない。
ただ真面目な顔で、夫を見上げるのみだ。
はた、と目を瞬かせたギーは視線を彷徨わせた後、もごもごと呟いた。
「……獣人の女性は派手な装いを好む、のだが。毛皮に包まれた身で、いかに他人に自分を認めさせるかという獣人社会の上下関係で重要、とでも言おうか、その」
「獣人社会に習って、わたくしもそのようにした方がよければ派手目のものを身に着けますけれど……わたくし、あまりどぎつい色や、派手な物は好みません」
「どぎつい」
「はい」
はっきりと頷くと、近づいて様子を窺っていた帯屋の店員がぶふぉっと噴き出した。すぐに咳払いでごまかし、去っていったけれど。
「……もしかして俺は、君に好みではないものを贈っていたのか」
ギーの鋭い目がすみれを捉えた。
