氷姫の旦那様

「戸は最初から開いていた。断じて、覗き見などしていない」
 もごもごと言い訳を始めた立派な体躯の狼に、勢いよく立ち上がったエンヤとシュウレイが、音もなく駆け寄った。
「お出迎えもせず、申し訳ありません」
 深々と頭を下げる二人にならって、すみれも椅子から立ち上がり、その場で頭を下げる。

 午前中に分かれたときと同じ紺色の制服に身を包んだギーは、手にしていた濃緑色の風呂敷包みと笹の葉に包まれた物をエンヤに渡した。
「叔母上の家に行って、肉と荷物を貰って来た。処理を頼む」
「かしこまりました」
「それから、夕食はいらない。会議がある」
 荷物を受け取ったエンヤとシュウレイは、ギーに一礼、それからすみれを振り返って一礼すると、廊下の向こうへと消えて行った。
 その姿を見送って、ギーがゆっくりとすみれに近づいてくる。

 窓から差し込む光を浴び、その銀色の毛並がきらきらと白く光っている。まるでできたばかりの絹糸のように美しい。
 大きな体はそこにいるだけで迫力があるけれど、決してすみれを傷つけない。
 彼の瞳には、知性と品位がある。
 今まですみれが聞いたことのある、暴力を好み粗暴で短絡的性質をもつという獣人の姿とはまったく違う。

「着物の袖がほつれている。裾も、泥で汚れているようだが、どうした」
 穏やかで、でも最低音の警戒を込めた声で、ギーが問う。
 見下ろせば確かに、着物がところどころ汚れている。薄い色の着物だったから余計に、土の色は目立ってしまう。

 図書室の窓から飛び降りたときに汚れたのだろう。
 もしくは、庭から玄関までを歩いた間に、どこかにひっかけたのか。
 心当たりはあるけれど、正直に言うわけにはいかない。

「今日は天気が良いので、庭を歩きました。そのときのものでしょう」
 嘘は言っていない。
 けれど、ギーはため息をついた。
「誤魔化さなくていい。彼女達が君の世話を放置していたこと、気づかなくて申し訳ない。罰を与えるべきだと考えるが、君はどう思う」
 どこから話を聞いていたのだろう。
 ギーの金色の目は、憂慮を表して暗く陰っている。

 全部知っていて、すみれが口を開くかどうかを試したのか。
 動揺に、瞳が揺れる。
 でも。

 当主たる彼なら、誰の意見も聞かずに判断し、命令することができる。
 彼はそうせず、すみれの意志を尊重してくれる。
 獣人で、父と同じ男性なのに。
 そのことに気づいて、不思議と胸が温かくなる。

 すみれは首を振った。
「赤ん坊でもあるまいし、世話など焼いてもらわなくても生きられます。罰を与えるより、同じ屋根の下で暮らすもの同士、仲良くしたいですね」
 今日は少し、互いの距離を縮められたと思いたい。
 今まで彼女達が受けてきた人間からの仕打ちを、ほんの少し話をしただけで解消できるとは思っていない。それはこれから長い時間をかけて、信頼してもらうように努めなければならないことだ。

 すみれはギーを見上げた。
 言おうと思って、でも、反応が怖くて。
 一度口を開けて、閉じたすみれを、ギーは不思議そうに首を傾げて見下ろしている。
 ギーは獣人だけど、怖くない。
 暴力的で知能が低いというすみれの聞いた噂は全くの出鱈目で、この屋敷で出会った獣人は皆、人間と同じ言葉を使い、感情があり、対等に話ができる。
 だから、大丈夫。
 心の中で言い聞かせて、すみれはぐっと顎を上げた。

「もちろん、あなたとも仲良く」
 その声は少しかすれてしまったけれど。
「仲良く……?」
「そうです。仲良く」
 澄ました顔で、わざとらしく、さも当然であるかのように頷く。

 ギーが口元にこぶしを当てて、ふっと笑った。
 ふさふさした尻尾が、ぶんぶんと音を立てて振れている。
 警戒されている、のか。今の笑い声も、呑気なことを考える人間だと馬鹿にされたのかもしれない。
 すみれはがっかりしながら、それでもギーに感謝した。
 エンヤとシュウレイを罰しないでいてくれること。
 すみれの意志を尊重してくれたこと。
 新たな居場所はそれほど居心地が悪くないと、すみれはこの屋敷に来て初めて思った。


***

「嫁が可愛くて辛い」
 組んだ両手を額に当て、テーブルに肘をついて俯く。
 目の前には決裁待ちの書類が積み上がっている。
「仕事しろ」
 斜め前の執務机で黙々と書類に目を走らせていたケイリュウが、じろりと上官を睨んだ。

 時刻は夜の十時。
 薄墨色の石の壁には永崎県旗と歴代の筆頭隊長の勲章が飾られている。入口の横の壁にかけられた額縁入りの二十号の油絵は、稲佐山山頂から見た夜景が描かれていた。他に部屋にあるのは、手前に来客用の対のソファと低いテーブル、それから奥にコの字型に並んだ執務机。
 護警官の隊長室は四つあるが、その中でも筆頭の地位にある者の執務室は、他よりも更に広い。ただし、天井から下がった二つの中型のシャンデリアが唯一豪華といえるもので、最低限の物しかないそっけない部屋でもあった。

「仲良く。可愛い。仲良く、ふふ」
 思わず緩んでしまう口元に、ケイリュウがうんざりしたようにため息をついた。
「何回思い出し笑いをしているんだ。部下が不気味だと俺に書類を押し付けていくんだ。いい加減、色ボケから目を覚ませ」
「新婚だぞ。色ボケくらい許せ」
 顔を上げ、きりりと眼差しを鋭くすると、ケイリュウの冷たい視線が飛んできた。
「手も握っていないんだろう。新婚が聞いて呆れる」
「……」
「落ち込むな! ああもう、本当に面倒な奴だな」
 うなだれたギーに、ケイリュウは手にしていた万年筆を放り出す。

 ギーはぼそぼそと呟いた。
「今はまだ、獣人のことが怖いだろう。手を握るなど、まだ先のことだ」
「お前は体もでかいしなあ」
 頷く部下に、ギーの尻尾は力なく垂れた。
 獣人社会では体が厳ついことは強者の証として尊敬を集めるけれど、華奢な人間相手には通じないこともわかっている。

「それに、うちの使用人達が彼女に辛く当たっていた。俺が仕事で家にいない間、彼女は家でのびのびと過ごしているだろうと思っていた。それなのに」
「獣人は人間から嫌がらせを受けて人間嫌悪に走る者もいるが、お前のところの召使いも、人間嫌いだったのか……」
「エンヤとシュウレイが恵まれない環境で育ってきたとは聞いていた。だが、俺が理解していたのは表面だけだったようだ。まさか、職分を冒してまでとは思わなかった。俺の失態だ」
 椅子の背に身を預け、ギーは金縁の夜景の絵へと顔を向ける。

 無数に散らばる黄色い光は、紺色の夜の中で宝石のように美しい。
 しかし、昼間見たすみれの姿の方が百倍は美しいと思う。
 贈った物を身に着けてくれていたのを、初めて見た。
 露草色のショールは彼女の凛とした立ち姿に良く似合っていて、白梅の精かとついつい見惚れてしまった。
 そして、すみれの笑顔は何物にも代えがたいほど尊く、ずっと見ていたかった。

「それに……」
 盗み聞きをしたようで申し訳ないが、新たに知ったこともある。
 学校の教師をしていたことを聞いたが、円満に学校を退職してきたのだと思ってきた。
 まさか、強引に辞めさせられていたとは。

 彼女が自分のことについて話すのは、初めてだ。
 エンヤとシュウレイがきちんとすみれの朝食を作っているのかを確認するために、朝食だけはすみれと共にしてきたけれど、怯えさせないように会話は最低限だった。
 彼女達が話をし、互いの理解を深めるのを部屋の外で聞いていて、自分もそうすればよかったと後悔した。
 ただ同じ空間にいるだけでは、足りなかった。単なる自己満足ではなく、もっと、すみれのことを知る努力をしなければ。
 きっと彼女も、それを求めている。

「夜の街に出れば、虫を吸い寄せる食虫花のようだった男が。女一人にこれほど振り回されるとはな」
 真剣な顔で考え込むギーに、ケイリュウが肩をすくめた。
 ギーは耳をぱたぱたとさせ、ちらりと視線を上げる。
「お前にも大切な人ができればわかる」
「はいはい」
 適当に返事をしながらも、話を聞いてくれる相棒は本当に頼りになる奴だ。
 
 出会いは五歳の頃で、一時期はケイリュウの親の仕事の都合で離れたこともあったが、護警官として再会し、良い関係を築けている。
 成長して久しぶりに会う友はたいてい昔と性格が変わっているものだが、ケイリュウは昔と変わらず、強者となったギーに屈託なく接してくれた。
 大切な仲間だ。

 再び万年筆を手にしたケイリュウが、ふと尻尾を振る。
「それだけ立派なことが言える筆頭に、アドバイスなんて烏滸がましいが……嫁さん、寂しいんじゃないか?」
「寂しい?」
 首を傾げる上司に、ケイリュウは言葉を足す。
「今まで学校の先生でたくさんの生徒に囲まれてたんだろう。それが今や屋敷に一人だ。せめてお前は味方だと、言葉を尽くして伝えてやれよ」
「寂しい、か。でも、俺が頻繁に『可愛い』だとか『綺麗だ』とか言ったら、何言ってんだこの獣人は、とすみれさんが引かないだろうか」
「引かない、引かない」
 真剣な顔のギーにケイリュウが投げやりに返事をした、そのとき。

 ばたばたという足音が廊下から聞こえた。
 それは部屋の前でぴたりと止まり、勢いよくドアをノックする。
「入れ」
 ギーの鋭い声を待ち、ドアがさっと開いた。現れたのは、老護警官だ。
 白髪交じりの黒い毛皮を興奮に逆立てた護警官は、敬礼をしながら報告した。
「漉防隊のアジトが割れました!」

 ギーとケイリュウは同時に席を立った。