獣人との結婚にショックを受けている自分が、確かにいた。
そこに、人間側としての差別意識は確かにあった。
だが、それはまだ、彼らのことを知らなかったから。
彼らもご飯を食べて、寝て、仕事をして、生きているのだと知らなかったから。
「わたくしが獣人のことを何も知らずにいた頃は、そうだったかもしれない。でも、今はそうは思えない。憎むどころか、尊敬しているわ」
すみれの表情は変わらない。無表情だ。けれどその声は温かく、穏やかだった。
エンヤとシュウレイは顔を見合わせ、耳をふるりと震わせた。そして鼻筋に皺をよせ、怪訝な顔ですみれを見る。
「私達、ずいぶんと失礼なことを言っていると思っていますが」
「どうしてあなたは、怒らないのですか」
怪訝、を通り越してやや不気味にも思われている視線だ。
エンヤは右の耳に真珠のイヤリングを。シュウレイは左腕に金の腕輪を。
使用人には分不相応な装飾だけれど、ギーはそれを許している。
この家は、そういう家なのだ。
使用人が、自分の意志を表して、自由に生きていい家。
すみれは青磁の茶器を見つめ、目を細めた。
「障子の桟には埃一つなく、食器は丁寧に磨かれている。この広いお屋敷を二人で整えるのは毎日大変な作業でしょう。あかぎれを直す間もないほど良く働いてくださる人に、怒りなど沸かないわ」
二人は目を瞬いた。耳が忙しなくぱたぱたと動く。
「でも、それが使用人の仕事ですし……」
狼狽えるのは、今までそんなことで褒められたことがないからだ。
管理人としてたびたび屋敷に現れるミレイには、人以下の扱いしかされたことがない。
理不尽な怒りをぶつけられるのも、暴力だって当たり前のことだった。
だって、彼女は目上の者だから。
獣人社会にとって、序列が上の者に従うのは当たり前のことだ。
すみれは喉を潤すために、冷えた紅茶を飲む。
「あなた達は真面目な方々。それは人としてとても尊いことよ」
そして、そっとおろしたティーカップが、ソーサーに当たってかつんと音を響かせた。
「二人とも、このお屋敷にはなくてはならない。むしろ、わたくしの方が役に立たなくて……。ずっと教師として生きることばかり考えてきたので、今は毎日、何をすればこのお屋敷にいて不自然ではないだろうかと思うばかりなの」
伏せた睫毛が影を落とし、ほっそりとした体は今にも消えてなくなりそうに儚い。
ティーカップを抱くその細い手は、獣人の手よりずっと華奢だ。
初めて見せる弱音に、エンヤとシュウレイはそわそわと身を揺らす。
「教師……」
顔を見合わせるのは、教師に良い印象がないからだろうか。
すみれはこくりと頷いた。
「わたくし、学校の先生になるのが幼い頃からの夢だったの」
心を開いてもらうには、こちらも心を開く必要があるとは思わないけれど。
これから共に暮らしていく、世話になる二人には聞いてもらいたいと思った。
「家にいるより、学校にいる方が楽だったの。わたくしには二人のように強い絆で結ばれた大切な人はいなかったけれど、学校は新しいことを学べる知識の宝庫だったから」
家にいても、商売のことしか頭にない父と、父に追従し、息をひそめるように生きている母を見るのは好きではなかった。
兄が二人いるけれど、二人とも家より外を走り回っているような人々で、共に何かをしたという記憶はない。
家事を行う使用人はいたけれど皆、父の顔色を窺っていて、仲の良い者もいなかった。
幼い頃、学校はすみれにとっての砂漠の中の輝けるオアシスだった。
ほっと息をつける場所。
柔らかな空気が満ちた場所。
決してクラスの人気者だとか、大親友がいたとかいうわけではない。
ただ、家から逃れられる場所が学校しかなかった。
成長した今では、学校は、すみれが何をしていようとも強要せず、命令せず、ときに可愛い生徒達と頼もしい同僚に囲まれた大切な居場所だったのだ。
「まあ……」
シュウレイが口元に手を当てる。
すみれは俯いた。
「今回の縁談で、勤めていた学校に家の者が勝手に退職届を出していて……わたくし、その事実を知ってから慌てて校長に直談判しに行ったのだけど、既に別の教師を手配済みだと断られてしまったわ」
ひと気のない橋の下で、喉が枯れるほど声を上げて泣いた。
自分の中にこれほどの激情があったのかと、自分でも驚いたほど。
安全な居場所を失った。
教師になって、子供達と接して、子供達に必要とされて、自分が生きる場所はここだと毎日が幸せだったのに。
もう戻れない。
「嫁いだからには実家はもう頼れない。だからわたくしの居場所はもう、このお屋敷にしかないんです。あなた方から認められるよう、日々精進するつもりでいますので、どうぞよろしくお願いします」
「そ、そんな、あなたがお願いする立場じゃ、ないでしょうに……」
シュウレイが戸惑いを露わに、手を振る。エンヤの耳もぺしょりと寝ている。
すみれは首を振った。
「でも、このお屋敷ではわたくしは新参者でしょう。おまけに人間で、あなた方のことも、旦那様のことも、何も知らないわ。だから、色々なことを教えてほしい」
丁寧に、頭を下げる。
学校の教師に、生徒がそうしていたように。
目の前の獣人が、もはや怖くはなくなっていた。
彼女達は、女学校の生徒と同じ。
怒ることもあれば、喜ぶこともある。
年若く、幼い頃から二人で力を合わせて生きてきた、立派な淑女。
「人間に、お願いされた……」
エンヤの呆然とした呟きが聞こえた。
顔を上げると、気まずそうな、落ち着かない視線とぶつかった。
沈黙が落ちる。
白いカーテンがふわりと翻り、遠くで紙屑ひろいの呑気な掛け声が聞こえてきた。
二人はしばらく無言で互いの様子を窺っていた。
けれど。
やがて、同時に深く頭を下げた。
「ごめんなさい。旦那様の見初めた方が人間だからって、毛嫌いして」
「私も、意地悪をしてごめんなさい。図書室に鍵をかけて、困ればいいと思ってしまって」
緑の瞳も、栗色の瞳も、気まずげにちらちらとすみれを窺っては、俯くを繰り返す。
三角の耳がぺしょりと寝て、黒い鼻先がくんくんと鳴く。
エンヤがもごもごと呟く。
「人間は正直、まだあまり信用できないけど……奥様は普通の人間とは違う、かも」
すみれはほっと肩の力を抜いた。
初めて「奥様」と言ってくれた。
それだけで、一歩前に進めた気がする。
二人と距離が近くなった気がして、すみれの頬が緩んだ。
それは、とても些細な変化だったけれど。
エンヤとシュウレイは大きく目を見開いた。
「……奥様って」
「笑うとずいぶん印象が変わるんですね」
「え?」
急に身を乗り出し、テーブルに手をついた二人に、すみれは目を瞬かせる。
大きな獣人に間近でくいいるように見つめられ、少しだけ怖さが復活した。
「氷姫って呼ばれてるって、ミレイ様から聞きました」
しげしげと見つめるエンヤが、思わずと言ったように呟いた。
すみれは懐かしさに苦笑する。
「そんなの、生徒達が勝手につけた渾名よ。氷のように冷たい先生と思われていたのでしょうね」
「そうなのかしら……」
シュウレイが首を傾げ、ミレイと顔を見合わせた。
そのとき。
「ごほん」
不意に、入口から咳払いが聞こえた。
三人同時に勢いよく振り返ると、そこには気まずげな顔でこちらをのぞくギーの姿があった。
「旦那様!」
そこに、人間側としての差別意識は確かにあった。
だが、それはまだ、彼らのことを知らなかったから。
彼らもご飯を食べて、寝て、仕事をして、生きているのだと知らなかったから。
「わたくしが獣人のことを何も知らずにいた頃は、そうだったかもしれない。でも、今はそうは思えない。憎むどころか、尊敬しているわ」
すみれの表情は変わらない。無表情だ。けれどその声は温かく、穏やかだった。
エンヤとシュウレイは顔を見合わせ、耳をふるりと震わせた。そして鼻筋に皺をよせ、怪訝な顔ですみれを見る。
「私達、ずいぶんと失礼なことを言っていると思っていますが」
「どうしてあなたは、怒らないのですか」
怪訝、を通り越してやや不気味にも思われている視線だ。
エンヤは右の耳に真珠のイヤリングを。シュウレイは左腕に金の腕輪を。
使用人には分不相応な装飾だけれど、ギーはそれを許している。
この家は、そういう家なのだ。
使用人が、自分の意志を表して、自由に生きていい家。
すみれは青磁の茶器を見つめ、目を細めた。
「障子の桟には埃一つなく、食器は丁寧に磨かれている。この広いお屋敷を二人で整えるのは毎日大変な作業でしょう。あかぎれを直す間もないほど良く働いてくださる人に、怒りなど沸かないわ」
二人は目を瞬いた。耳が忙しなくぱたぱたと動く。
「でも、それが使用人の仕事ですし……」
狼狽えるのは、今までそんなことで褒められたことがないからだ。
管理人としてたびたび屋敷に現れるミレイには、人以下の扱いしかされたことがない。
理不尽な怒りをぶつけられるのも、暴力だって当たり前のことだった。
だって、彼女は目上の者だから。
獣人社会にとって、序列が上の者に従うのは当たり前のことだ。
すみれは喉を潤すために、冷えた紅茶を飲む。
「あなた達は真面目な方々。それは人としてとても尊いことよ」
そして、そっとおろしたティーカップが、ソーサーに当たってかつんと音を響かせた。
「二人とも、このお屋敷にはなくてはならない。むしろ、わたくしの方が役に立たなくて……。ずっと教師として生きることばかり考えてきたので、今は毎日、何をすればこのお屋敷にいて不自然ではないだろうかと思うばかりなの」
伏せた睫毛が影を落とし、ほっそりとした体は今にも消えてなくなりそうに儚い。
ティーカップを抱くその細い手は、獣人の手よりずっと華奢だ。
初めて見せる弱音に、エンヤとシュウレイはそわそわと身を揺らす。
「教師……」
顔を見合わせるのは、教師に良い印象がないからだろうか。
すみれはこくりと頷いた。
「わたくし、学校の先生になるのが幼い頃からの夢だったの」
心を開いてもらうには、こちらも心を開く必要があるとは思わないけれど。
これから共に暮らしていく、世話になる二人には聞いてもらいたいと思った。
「家にいるより、学校にいる方が楽だったの。わたくしには二人のように強い絆で結ばれた大切な人はいなかったけれど、学校は新しいことを学べる知識の宝庫だったから」
家にいても、商売のことしか頭にない父と、父に追従し、息をひそめるように生きている母を見るのは好きではなかった。
兄が二人いるけれど、二人とも家より外を走り回っているような人々で、共に何かをしたという記憶はない。
家事を行う使用人はいたけれど皆、父の顔色を窺っていて、仲の良い者もいなかった。
幼い頃、学校はすみれにとっての砂漠の中の輝けるオアシスだった。
ほっと息をつける場所。
柔らかな空気が満ちた場所。
決してクラスの人気者だとか、大親友がいたとかいうわけではない。
ただ、家から逃れられる場所が学校しかなかった。
成長した今では、学校は、すみれが何をしていようとも強要せず、命令せず、ときに可愛い生徒達と頼もしい同僚に囲まれた大切な居場所だったのだ。
「まあ……」
シュウレイが口元に手を当てる。
すみれは俯いた。
「今回の縁談で、勤めていた学校に家の者が勝手に退職届を出していて……わたくし、その事実を知ってから慌てて校長に直談判しに行ったのだけど、既に別の教師を手配済みだと断られてしまったわ」
ひと気のない橋の下で、喉が枯れるほど声を上げて泣いた。
自分の中にこれほどの激情があったのかと、自分でも驚いたほど。
安全な居場所を失った。
教師になって、子供達と接して、子供達に必要とされて、自分が生きる場所はここだと毎日が幸せだったのに。
もう戻れない。
「嫁いだからには実家はもう頼れない。だからわたくしの居場所はもう、このお屋敷にしかないんです。あなた方から認められるよう、日々精進するつもりでいますので、どうぞよろしくお願いします」
「そ、そんな、あなたがお願いする立場じゃ、ないでしょうに……」
シュウレイが戸惑いを露わに、手を振る。エンヤの耳もぺしょりと寝ている。
すみれは首を振った。
「でも、このお屋敷ではわたくしは新参者でしょう。おまけに人間で、あなた方のことも、旦那様のことも、何も知らないわ。だから、色々なことを教えてほしい」
丁寧に、頭を下げる。
学校の教師に、生徒がそうしていたように。
目の前の獣人が、もはや怖くはなくなっていた。
彼女達は、女学校の生徒と同じ。
怒ることもあれば、喜ぶこともある。
年若く、幼い頃から二人で力を合わせて生きてきた、立派な淑女。
「人間に、お願いされた……」
エンヤの呆然とした呟きが聞こえた。
顔を上げると、気まずそうな、落ち着かない視線とぶつかった。
沈黙が落ちる。
白いカーテンがふわりと翻り、遠くで紙屑ひろいの呑気な掛け声が聞こえてきた。
二人はしばらく無言で互いの様子を窺っていた。
けれど。
やがて、同時に深く頭を下げた。
「ごめんなさい。旦那様の見初めた方が人間だからって、毛嫌いして」
「私も、意地悪をしてごめんなさい。図書室に鍵をかけて、困ればいいと思ってしまって」
緑の瞳も、栗色の瞳も、気まずげにちらちらとすみれを窺っては、俯くを繰り返す。
三角の耳がぺしょりと寝て、黒い鼻先がくんくんと鳴く。
エンヤがもごもごと呟く。
「人間は正直、まだあまり信用できないけど……奥様は普通の人間とは違う、かも」
すみれはほっと肩の力を抜いた。
初めて「奥様」と言ってくれた。
それだけで、一歩前に進めた気がする。
二人と距離が近くなった気がして、すみれの頬が緩んだ。
それは、とても些細な変化だったけれど。
エンヤとシュウレイは大きく目を見開いた。
「……奥様って」
「笑うとずいぶん印象が変わるんですね」
「え?」
急に身を乗り出し、テーブルに手をついた二人に、すみれは目を瞬かせる。
大きな獣人に間近でくいいるように見つめられ、少しだけ怖さが復活した。
「氷姫って呼ばれてるって、ミレイ様から聞きました」
しげしげと見つめるエンヤが、思わずと言ったように呟いた。
すみれは懐かしさに苦笑する。
「そんなの、生徒達が勝手につけた渾名よ。氷のように冷たい先生と思われていたのでしょうね」
「そうなのかしら……」
シュウレイが首を傾げ、ミレイと顔を見合わせた。
そのとき。
「ごほん」
不意に、入口から咳払いが聞こえた。
三人同時に勢いよく振り返ると、そこには気まずげな顔でこちらをのぞくギーの姿があった。
「旦那様!」
